6月26日(2012年)午前、消費増税を柱とする税と社会保障の一体改革関連法案民主・自民・公明3党提出修正案が衆院特別委員会で3党と国民新党の賛成多数で可決された。
民主党から小沢元代表や鳩山元首相等、消費税増税法案に57人の反対、16人が欠席もしくは棄権の大量の造反者が出た。
その前日の6月25日の衆院一体改革特別委員会質疑。
石原伸晃自民党幹事長「(関連法案の)やるべきことをやり抜いたら、解散の判断をするのか」
野田首相「適切な時期に国民の信を問うのが基本線だ」(YOMIURI ONLINE)
自民党が、公明党も同じだが、解散を交換条件に修正協議に応じてきたことが分かる。但し質疑の内容から、野田首相は確約を与えていない。
と言っても、自公が修正協議に応じてきたについては野田首相側から何らかの匂わせはあったはずだ。ご馳走の匂いすら嗅がせられずにホイホイと修正協議に応じてきたとは考えにくいし、自公にしてもそれ程お人好しではあるまい。
法案可決の6月26日から6日後の7月2日、民主党の小沢一郎元代表が消費税増税法案可決に反対して、衆院40人、参院12人のグループ議員と共に民主党に離党届を提出。
7月11日、最終的には49人が参加して新党「国民の生活が第一」を結成。
1ヶ月近い8月7日、「国民の生活が第一」、みんなの党等野党6党が、「消費税増税は、民主党の政権公約に違反するもので、野田内閣は信任に値しない」(NHK NEWS WEB)とする提案理由――消費増税を柱とする税と社会保障の一体改革関連法案参院可決・成立阻止に向けて内閣不信任決議案を衆議院に、野田首相に対する問責決議案を参議院に共同提出。
その翌日の8月8日、野田首相・谷垣自民総裁・山口公明代表が会談。ここで例の有名となった、誰かが「近いうちに」と言うと、「近いうちとはいつのことだ」と混ぜっ返しを誘うこととなった、「近いうちに国民を信を問う」というセリフが野田首相の口から発せられた。
この曖昧な解散時期提示は「国民の生活が第一」以下の野党共同提出内閣不信任案と問責決議案に対する自公の同調、可決を避け、法案の参院可決・成立へと持っていくためのカードであるのは誰の目にも明らかである。
解散をエサに野党共同提出内閣不信任案の否決と法案成立を釣ろうとしたと言ってもいい。
会談後の野田首相
野田首相、「(解散時期明示という)そういうやり取りはしていない。総理大臣として、解散の時期を具体的に明示するということは控えなければならない。そういう立場について理解してもらった」(NHK NEWS WEB)
要するに「総理大臣として、解散の時期を具体的に明示するということは控えなければならない」という口実で、法案が成立した暁には「近いうちに」というギリギリの時期提示で勘弁して貰ったということなのだろう。「総理大臣として、これ以上のことは申し上げられません」とか何とか言って。
この「近いうちに」の切札が功を奏したの言うまでもない。
8月9日、内閣不信任案野党共同提出から2日後、衆議院本会議で採決が行われ、自民・公明両党の殆どの議員が欠席の中、民主党内で一部議員の造反があったが、民主党等の反対多数で否決。
自公議員の欠席は解散を求めていた手前、反対票を投じるわけにはいかなかったことなのは誰の目にも明らかである。
要するに野田首相は解散の切札を「近いうちに」とチラッと見せただけで解散を乗り切ったのである。
“見せただけ”というのは今以て解散カードを切っていないからだ。近いうちに切ると見せかけて、実際には切っていないのだから、なかなかの強か者である。
ここには綱渡りに似た賭けがあるだろうから、強かなギャンブラーと評することもできる。
逆に谷垣自民党総裁は野田首相から解散カードをチラッと見せられただけで「国民の生活が第一」以下の野党共同提出内閣不信任決議案採決に欠席、野田首相の首をつないでやって、自身は9月26日自民党総裁選への立候補断念に追い込まれて、つながっていた総裁の首を斬り落とされてしまったのだから、野田首相の強かさから見たら、甘かったと言わざるをえない。
自民党内の早期解散要求派は谷垣総裁の対応を野田政権の延命に手を貸したと批判。そのせいか、自民党は8月20日になって、29日にも参院に首相問責決議案を提出する方針を固めた。
この理由は谷垣総裁が野田首相の解散チラリズム「近いうちに」を9月7日の今国会閉会までと見做していて、〈8月末までに解散がない場合は問責可決によって国会審議をストップさせ、解散せざるを得ない局面に首相を追い込む狙いがある。〉(MSN産経)ということらしい。
党内の野田延命加担の批判も要因となっていたのかもしれないが、野田首相が8月1日に古賀連合会長と会談、来年度の予算編成に意欲を見せたことも背景にあったに違いない、「近いうちに」が果たして実際に「近いうちに」なのか、矛盾するが、遠い先の「近いうちに」なのか、疑心暗鬼に駆られたということもあったはずだ。
自民党の問責提出方針に公明党も同調、8月28日夕方、野田首相に対する問責決議案を参議院に共同で提出。
翌8月29日、自民・公明両党提出の問責決議案が反対多数で上程されなかったのに対して野党共同提出の問責が自民党も加わって賛成多数で本会議採決が確定、採決の結果、公明党は欠席したが、自民党が加わったことで賛成多数で可決。
消費増税を柱とする税と社会保障の一体改革関連法案成立に協力・賛成していながら、問責で野田首相を否定した自民党の対応は分かりにくいと批判されたが、谷垣自民党執行部の主目的は野田首相に解散の切札を切らせて政権に返り咲き、谷垣総理大臣として国政に君臨することだから、さして矛盾があるとは言えないが、肝心の野田首相がのらりくらりと切札を切ると見せて切らないものだから、焦りに駆られて、つい野党共同提出の問責に飛びついてしまったといったところに違いない。
但し自公は早期解散を求める立場から、問責決議案可決を理由として以後の政府提出法案の審議に応じない方針に出て、国会審議が民主党議員のみの出席による審議はあったが、実質的な審議はストップすることになった。
そして9月7日の今国会閉会。
9月21日民主党代表選で野田首相再選。9月26日自民党総裁選で安倍晋三国家主義者が返り咲き。
首をつなげたのは野田首相であった。解散の切札を切ると見せかけるチラリズムのみで実際には切らなかった強かさは谷垣総裁の比ではなかったということなのだろう。夢に見たに違いない総理大臣の夢は安倍晋三に譲ることになる情勢にある。
安倍晋三とて、野田首相に解散の切札を1日も早く切らせて、再度の自民党政権、再度の安倍晋三総理大臣を夢見ているはずである。
「近いうちに国民に信を問う」が2ヶ月も経過し、「近いうち」が効き目を失ってすっかり色褪せていた。言葉の色褪に反比例して、同じ政権の座を降りるにしても1日でも長く政権を手放すまい、総理大臣の椅子を1日でも長く維持したい執念は野田首相の中でねっとりと光り輝かせているに違いない。
一方野田首相の方は赤字国債発行法案を可決・成立させないことには予算執行が滞ることになり、解散切札のチラリズムの媚態で迫ることなく、これ以上迫ったなら、下手をすると押し倒されてしまうと危険を感じたのかもしれない、自公に可決・成立の協力を求めたが、対して自公は衆議院年内解散の確約がない限り協力できないとの姿勢を保持、平行線を辿ることになった。
10月19日、野田首相は安倍自民党総裁、山口公明党代表と会談。
会談は解散の切札を挟んで攻防したようだが、物別れに終わった。2人が1人にかかって解散の切札を切らせることができなかったのだから、相手は相当に切らせまい、切るまいと必死になっていたに違いない。
これまではチラリズムが効いてきたが、「オオカミ少年」と同じで、何度も同じ手の繰返しとなると、相手は反応しなくなる。だからと言って、チラリズムを超えて解散の切札をテーブルの上に見せてしまったなら、自分の方から政権と総理大臣の椅子を投げ出すようなことになる。
《党首会談物別れで攻防激化へ》(NHK NEWS WEB/2011年10月20日 7時0分)
会談後の記者会見。
野田総理大臣「『近いうちに国民に信を問う』と言った発言の重みは自覚している。だらだらと政権の延命を図るつもりはなく、条件が整えばきちんと判断したいとあえて申し上げたが、理解をいただけなかった」
「発言の重みは自覚している」だと。事実自覚していたなら、「近いうちに」の一般的な意味での常識の範囲を超えるはずはない。チラッと見せただけの解散の切札に過ぎなかったから、いくらでも「近いうちに」の常識の範囲を超えることができる。自公がうるさく催促しなかったなら、来年の衆院任期まで居座るはずだ。
「だらだらと政権の延命を図るつもりはな」いと言っているが、決して「だらだら」ではない。チラリズムを巧みに用いてきたところから見ると、「のらりくらり」である。「のらりくらりと延命を図ってきた」。ドジョウと言うよりもウナギに近い。
また、「条件が整えばきちんと判断したい」と尤もらしげにに抜けぬけと言っているが、何を以て「条件」とするかを提示しなかったからこそ、物別れに終わったはずだ。記事が伝えている山口代表の発言もこのことを証明している。
山口代表「『近いうちに』の約束をどうするのか明確にすべきなのに、何もないのは非常に国民をバカにした話だ」
何を以て「条件」とするかを提示しないままなら、「近いうちに」のチラリズムが全然当てにならなかったのである。「条件が整えばきちんと判断したい」だけでは、「近いうちに」よりも遥かに始末の悪い、掴みどころの全然ないカラ約束同然ということになる。
「まだ整っていない」と言えば、無期限とすることだってできる。
ドジョウと言うよりもウナギに近いと書いたが、最早人間を誑(たぶら)かす狸である。
自民党最後の首相となった麻生太郎がそうなりたくない執念から解散を先送りしたのと違って、次期総選挙でほぼ敗北の情勢にあることから、1日でも政権期間を先延ばしに先延ばししたい、首相在任期間を1日伸ばしにしたい執念から、いわば1日でも短くするわけにはいかない立場から、野田首相をして強かにし、解散要求をのらりくらりとかわすなかなかのギャンブラーにしているはずだ。
国民よりも最後は自分である。
タイトル「Unknown」 投稿者名「みいさん 」
2011年3月14日当ブログ記事――《救急ヘリコプターは1人吊りではなく、複数吊りできないものなのなのか、教えてもらいたい - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》に昨日、10月18日(2012年)、貴重なコメントを頂いた。参考のためにここに引用することにした。
◇初めまして。
語りだすと長くなりますので、事例のご紹介だけとさせてください。
アメリカなどではホイスト(筆者注:起重機の一種)つり上げの際にも、人間が乗り込める籠に要救助者を乗り込ませ吊り上げています。
「<ハリケーン>史上最大の救助活動@航空の現代」
また、開口部など設けずともヘリコプターは底面に荷吊用のフックを装備することができますから、それを利用して複数人を一気に吊り上げることは海外では普通に行われています。
スイス航空救助隊REGAによる、アイガー北壁からの救助活動です。
「Rega-Tour 2010: Longline-Einsatz am Eiger - Teil 2@youtube」
日本でもかつては行われていました。
「レスキュー 『篠原 秋彦の軌跡』4/6@youtube:http://www.youtube.com/watch?v=cj3WSg5kKSo&feature=relmfu」
の5:00以降をご覧ください。
日本でこの技術の第一人者であった、篠原秋彦氏の事故をきっかけとして、事実上の全面禁止となりました。
pdfです。「航空機事故調査報告書JA9826」
日本の航空局の見解では、「フックはあくまで「物資輸送用」であり、そこに人間を吊って飛ぶのは「用途外使用」である。」から認められないということです。 (以上)
「レスキュー 『篠原 秋彦の軌跡』」は、〈日本でこの技術の第一人者であった、篠原秋彦氏の事故をきっかけとして、事実上の全面禁止となりました。〉ということだが、自然災害多発時代を迎えた現在、より時間を短縮する人命救助方法を考案し、取り入れるべきだと思うのだが、救助隊員と救助した一人を途中で落下させないように厳重に括(くく)りつけてから、一緒に釣り上げるか、あるいは担架で吊り上げる場合でも、担架から落下しないように担架と救助した一人を厳重に括りつけてから救助隊員と共にヘリコプターに収納するという時間がかかる救助方法が主流となっている。
例え救助されたとしても、高齢者であった場合は救助までが手間取って寒い中に長時間待たされたり、空腹に耐えたりの非日常の突然の経験がショックを大きくし、後々の健康維持に影響を与えないとは限らない。震災関連死者の中にはそういった高齢者もかなりいるはずだ。
それと、他のブログで取り上げたが、中国では既に行なっている大型ヘリコプターで大型重機を釣り上げて、そのまま災害現場に急行させて復旧や人命救助を図る方法を既に確立したのだろうか。日本政府は2008年6月14日発生、岩手・宮城内陸地震で宮城県栗原市山間部の土石流倒壊「駒の湯温泉」(旅館)で初めてヘリに重機を吊り下げて運搬する方法を取り入れたが、大型重機ではなく、中型の4トン重機であった。
しかも旅館倒壊後直ちに重機を持ち込んだのではなく、10日以上経過した6月26日で、それまで自衛隊員や消防団員がスコップ等を使った人力で倒壊した建物の木材、土砂等を取り除く作業を行なっていた。生き埋めとなった宿の主人と宿泊客7人の内、救助されたのは宿の主人のみで、宿泊客7人は死亡している。
手際の良い効率的な救助の実施が遅くなれば、生きて助けることのできる人命も死なせてしまうことになる。救助方法に関しては常に先手を打つことが大事だが、果たして先手を打っているのだろうか。
話は変わるが、昨日10月18日、参議院決算委員会で東日本大震災復興予算の「流用」問題が審議された。そこでの最初の質問者として立った蓮舫民主党議員の発言の認識不足に主としてケチをつけ、記事が取り上げているから、ついでに枝野の詭弁にケチをつけてみる。
但し、当方のケチが正しいかどうかは人それぞれの解釈・判断による。
《“仕分けコンビ”、復興予算で開き直り連発 自公に責任転嫁》(MSN産経/2012.10.18 23:05)
“仕分けコンビ”とは、勿論のこと、かつて事業仕分けでコンビを組んだ蓮舫と詭弁家枝野を指す。
記事は突き放すように冷ややかに書いている。特に「MSN産経」記事だからかもしれない。
〈かつての「仕分けコンビ」が開き直りとも取れる発言を連発した。平成21年の政権交代直後の「事業仕分け」では、歯切れ良く予算のムダ削減を訴えていた枝野幸男経済産業相と蓮舫元行政刷新担当相。3年余りの与党暮らしの末、「言い訳」を余儀なくされる場面が目立った。〉・・・・・
森雅子自民党議員が地元・福島の企業向け立地補助金が不足していることに反して余分なところに出回っている流用問題を指摘した。
枝野経済産業相「あのー、ミソもクソも一緒にした議論はやめていただきたい」
山本順三委員長(自民)「言葉は慎重に選んでください」
枝野経済産業相「間違ったことを言っているとは思わない。被災地以外に予算が使われていることは、理由も原因も全然別の話だ」
(「ミソもクソも一緒に」の言葉遣いに関しては)あまり上品でなかったので、おわびして撤回する」
記事。〈復興予算に計上された立地補助金の大部分が被災地以外の企業を対象としているのは事実。激高したことで、かえって所管する「省益」を堅持しようという姿勢を印象づける結果となった。〉・・・・
別の「MSN産経」ではこの箇所の発言は次のようになっている。
森雅子議員「被災地で執行すべき予算が不足し、被災地以外で使われている」
枝野経済産業相「(「ミソもクソも」と言った後)地域の(復興)計画が立たないなどさまざまな事情から被災地で予算を執行できていないことと、被災地以外に予算が使われていることは、理由も原因も別の話だ」
ここで問題としていることは被災地の復興に直接的に関わる重要・肝心な復興事業や対策に必要想定額の予算が優先順位を持って付けられているかどうか、そのような構造で復興事業や復興対策が着実に進行しているのかどうかであって、計画遅れで「予算を執行できていない」ということを問題としているわけではないはずだ。
後者は予算の使い道の問題とは外れる。
予算の使い道を問題とすることの前提はあくまでも重要・肝心ではない、被災地復興とは直接関係のない事業や対策にまで予算が割り当てられていることの事実関係が背景にあるからである。
そういったことを無視して、計画遅れで予算が執行できないことと予算使途の問題を「ミソもクソも一緒にし」て答弁する。詭弁以外の何ものでもない。
さて、民主党麗しのマドンナ、蓮舫である。野党時代は若き女性政治家として輝いていたが、現在ではファッションだけが異様に輝いている。多分、ファッションで自らの才能を輝かせようとしているからではないだろうか。
記事は、〈民主党委員として質問の先陣を切った蓮舫氏は、より露骨な形で自公両党に流用問題の責任を転嫁した。〉と、発言が責任転嫁論となっていると先ず指摘している。
蓮舫「一言言わせていただきたい。もともと内閣が出した復興基本法案は対象を被災地に限定していたが、自民党さん、公明党さんからの建設的な意見も踏まえ、対象は日本全国になった。
(初の本格的復旧・復興予算となった23年度第3次補正予算の編成をめぐる自民党の行状を)さらに7・1兆円上積みしろといわれた。立地補助金が足りないから5千億円上乗せしろと指摘された」。
記事。〈などと“暴露”したが、逆に政権与党としての責任を棚上しようとする姿勢が浮き彫りに。
そこには、かつての「仕分けの女王」の面影はなかった。〉云々の冷ややかな解説。
自民党や公明党が参議院の数の優勢を武器に予算にどのように介入しようとも、その介入をどう受け入れるかの最終決定権者は野田政権であって、当然、最終責任者にしても野田政権である。
にも関わらず、最終決定権者としての責任、最終責任者としての責任を潔く認めるのではなく、自民党や野党のせいだと批判する。
まさに責任転嫁であり、責任の棚上げ以外の何ものでもない。
参議院野党の数の力に対して与党たる民主党が介入を拒絶できない政治構造を抱えているということであり、そのような政治構造は2010年7月参議院選挙で数の優勢を野党に手渡した時から始まった構造であって、その時点で既に与党としての主体性を失った状態に陥ったことを認識していなければならなかったはずだ。
いわば野党の参議院数の優勢獲得が招いた与党の主体性喪失に対して与党に代わる自民党や野党の主体性獲得であり、その主体性の前に許した介入だということである。
当然、主体性喪失のA級戦犯は参議院選敗北を演出した菅仮免となる。
もしこのことを蓮舫が認識し、民主党が主体性喪失の片肺飛行の政治を続けざるを得ない状況にあると自覚していたなら、野党に対して責任転嫁になど走らなかったろう。
非難すべきは与党主体性放棄の演出者菅仮免であり、菅の負の遺産として受け継いだ民主党政権の現在の体(てい)たらくであろう。
数の劣勢に勝る力があるとしたら、高い内閣支持率であり、高い政党支持率であろう。例え野党が参議院で数の力を握っていたとしても、国民の支持を高い数字で得ていたなら、野党も下手には反対できない。
だが、菅内閣にしても野田内閣にしても満足な支持率を国民から獲得することができなかった。その点、菅内閣と野田内閣で閣僚を務めていた蓮舫にも責任がある。
この点に関しても少しでも認識していたなら、野党を批判できる立場にはないことを自覚していたはずだ。
現在の「国民の生活が第一」の小沢一郎代表は数の力が持つ優越性を深く認識していた。2010年9月民主党代表選挙で菅の対立候補として立候補した小沢一郎氏が参議院敗北による数の劣勢が以後の政治を困難にすることを指摘すると、菅仮免は敗北を「熟議の民主主義」が期待できる「天の配剤」だとホザキ、その好例として1988年の、いわゆる「金融国会」で野党民主党案を参議院で過半数を割っていた与党自民党に数の優勢を背景に丸呑みさせた金融再生法を持ち出して国会乗り切り策としたが、数の劣勢が与党をして主体性喪失のどのような状況に立たしめるかも何ら認識することができなかった。
主体性発揮が数の力にかかっていることを痛感していなかった。
また野党案与党丸呑みの「金融再生法」を持ち出したということは、野党の立場で与党に丸呑みさせたのであり、今度は与党として野党から丸呑を迫られる立場に替わった、数の力の攻守交替であって、それが与党をしてどのような状況に追いつめるかも覚することができなかったことを示す。
あまりにも幼稚で無邪気で単純過ぎる菅の認識能力を菅内閣及び野田内閣で任命された閣僚の多くが受け継いでいる。
その結末としてある当然の状況なのだろう。国民は民主党政権退場の鐘を鳴らそうとしている。
せいぜい責任転嫁するがいい。
国家主義者・天皇主義者の安倍晋三自民党総裁が昨日の10月17日(2012年)、秋季例大祭が催されている靖国神社を参拝。自らの国家主義・天皇主義を靖国参拝で表現しようとしたに違いない。
《自民安倍総裁が靖国神社参拝 「公約」先取り実行》(MSN産経/2012.10.17 18:41)
午後5時2分、モーニング姿、党の公用車、記帳「自民党総裁 安倍晋三」。玉串料私費。
安倍晋三(参拝後記者団に)「国民のために命をささげた方々に自民党総裁として尊崇の念を表するため参拝した」
下線を引いておいたが、他の記事は「国のために」となっているのに対して、この記事は「国民のために」となっている。
単なる誤字だろうか。誤字ではないとしたら、「国民のために命をささげた」とすることで、侵略戦争という誤った「国のために命を捧げた」とする国家に対する追従性、もしくは共犯性を薄めると同時に大日本帝国軍人の「国民のために」という利他主義と連帯性を強調することで戦争を美しく正しいものとしようとする意図を感じざるを得ない。
安倍晋三は首相としては国民から「尊崇の念を表」されることはなかった。国民から「尊崇の念を表」されることはなかった元首相が戦死者を「尊崇の念を表するため参拝した」。果たして参拝される戦死者は安倍晋三に参拝する資格を認めるだろうか。
記事はこの参拝を、今年9月の党総裁選記者会見で、「首相在任中に参拝できなかったのは痛恨の極み」と発言していたことから、〈政権奪還前に“公約”を先取りして実行した形だ。〉と持ち上げている。
当然、万が一にも日本にとって不幸となる首相就任ということになった場合、参拝を勇躍強行することになる。勇躍強行しないとなったなら、「首相在任中に参拝できなかったのは痛恨の極み」の言葉に反することになる。
但し首相になった場合の参拝について。
安倍晋三「首相になったら参拝するしないは申し上げない方がいい」
「痛恨の極み」が些か怪しくなった。「痛恨の極み」とはそれ程にも弱々しい感情なのだろうか。悔しくて悔しくて仕方がないと責め苛まれる程の激しい後悔に襲われる強い感情を表す言葉のはずだが、安倍晋三に関してはそうではないらしい。
首相就任後の参拝の意向については《安倍総裁 靖国神社に参拝》(NHK NEWS WEB/2011年10月17日 19時6分)では次のように紹介されている。
安倍晋三「今のような日中関係や日韓関係の状況のなかでは、総理大臣になったときに参拝するかしないかについては申し上げないほうがいい」
要するにその時の日中関係や日韓関係の状況次第の参拝ということになって、参拝しない場合も出てくる。
状況主義優先を貫くということであって、自己信念優先主義ではないということである。
だったら、「首相在任中に参拝できなかったのは痛恨の極み」などと言わなければよかったはずだ。日韓、日中関係の状況に応じて参拝できないことが生じた場合に備える自身の言葉に対する危機管理であろう。
それとも首相に就任したとしても中韓との外交状況から参拝できなかった場合、退陣後再び、「今回も首相在任中に参拝できなかったのは痛恨の極み」などと発言するのだろうか。
安倍晋三が「首相在任中に参拝できなかった」経緯を見てみる。
小泉内閣時代、自民党幹事長代理だった安倍晋三は2005年5月2日、ワシントンのシンクタンク「ブルッキングス研究所」で講演。
安倍晋三(中国が小泉首相の靖国神社参拝の中止を求めていることについて)「小泉首相の次の首相も靖国神社に参拝するべきだ。国のために戦った方に尊敬の念を表することはリーダーの責務だ。
靖国神社に参拝しても決して軍国主義になったわけでもなく、日本は戦後60年、平和な国としての道を歩んできた。中国は共産主義の国で、信教の自由がない。彼らがやっていることは内政干渉で、日中平和友好条約に違反している」(YOMIURI ONLINE)
当然、安倍晋三が首相になった場合、靖国参拝を「責務」とすると見られたはずだ。「責務」としてこそ、自身の言葉に対する危機管理を果たせたことになる。
小泉内閣は2001年4月26日から 2006年9月26日までの任期である。第3次小泉内閣発足の2005年9月21日に遡る約5ヶ月前の2005年4月27日、王毅駐日中国大使が自民党外交調査会で講演。靖国神社参拝に関する『紳士協定』が日中両政府間に存在していたと指摘。
《「靖国で紳士協定」 中国大使発言 首相強く否定》(朝日新聞/2005年4月28日夕刊)
そして中国政府関係者による話として、この「紳士協定」は首相、外相、官房長官の3人は参拝しないとする口頭の約束で、1985年の中曽根首相公式参拝後の1986年頃、中国側の求めに日本政府が応じたもので、「中国側としては約束はまだ生きている認識」だとしていると記事は紹介している。
町村外相(同4月27日、小泉首相に説明)「(協定は)一度として存在したことはない」
小泉首相(同4月27日夜、記者団に)「王毅大使がどういう趣旨で言ったから分からないが、紳士協定とかう靖国参拝に於いて密約とか、そういうことは全くない」
さらに記事は次のことを伝えている。中曽根公式参拝翌年の1986年。
後藤田官房長官談話「(靖国公式参拝は)戦争への反省と平和友好への決意に対する誤解と不信さえ生まれる恐れがある」
公式参拝を差し控える表明だとしている。そしてこの年、1986年から公式参拝を中止している。
果して「紳士協定」がなさしめた一定の結末なのかどうか分からないが、「紳士協定」が中国側がつくり出した虚偽であったとしても、他の閣僚、ヒラ議員は許せても、「首相、外相、官房長官の3人」の参拝は許容し難いというメッセージとはなり得ている。
安倍晋三は小泉首相の跡を継いで2006年9月26日に首相に就任。小泉首相の靖国参拝で極度に関係が悪化した中国を最初の訪問国に選び、2006年10月9日、中国を訪問して胡錦涛主席と会談している。
《日中、関係改善で一致》(朝日新聞/2006年10月9日朝刊)
胡錦涛主席(靖国問題について)「中国人民の感情を傷つけた。政治的障害を除去して欲しい」
安倍晋三「決して軍国主義を美化するものでも、A級戦犯を賛美するものではない。行くか行かないか、行ったか行かなかったかは言わない。
双方が政治的困難を克服し、両国の健全な発展を促進する観点から、適切に対処していきたい」
胡錦涛主席の靖国参拝という「政治的障害を除去して欲しい」とする要請に対して、安倍晋三は「小泉首相の次の首相も靖国神社に参拝するべきだ。国のために戦った方に尊敬の念を表することはリーダーの責務だ」と発言していながら、「適切に対処していきたい」と応じ、結果として次の首相である自身はその在任中、靖国参拝を行わなかった。
このことは単に日中関係は重要で、関係修復の観点からの選択なのか、その選択の中に中国側の「紳士協定」の基準に合わせた参拝自粛のハードルをクリアする意味も含まれた選択なのかは分からない。
どちらであったとしても、「政治的障害を除去して欲しい」とする要請に対して、安倍晋三が「次の首相も靖国神社参拝はリーダーの責務だ」とした自らの信念貫徹優先ではなく、状況次第で態度を変える状況主義優先を貫いたことになる。
「行くか行かないか、行ったか行かなかったかは言わない」と参拝を曖昧化したのは靖国参拝を「リーダーの責務だ」とした手前の表向きのせめてものプライド維持に過ぎないはずだ。
このような態度表明だけで中国側が納得するはずはないからだ。結果として参拝しなかったことを考えると、裏で中国側に何らかの確約があったとしても不思議はない。
いわば中国側は安倍晋三に対して参拝自粛の代償にそれくらいのプライドは許したといったところではないだろうか。
あるいは胡錦涛主席に向かって直接的にそのような発言はせず、マスコミを通した日本向けの発言の可能性を疑うこともできる。
そして今回の自民党総裁選で、「首相在任中に参拝できなかったのは痛恨の極み」と発言、首相となった場合の参拝信念貫徹を強く示唆。
さらに総裁に当選、総裁として17日に靖国参拝を実行。だが、首相になった場合の参拝については、自らの参拝信念貫徹意思表明に反して、「今のような日中関係や日韓関係の状況のなかでは、総理大臣になったときに参拝するかしないかについては申し上げないほうがいい」と状況次第で態度を変える状況主義優先に先祖帰りしている。
靖国参拝の是非は別にして、安倍晋三という政治家から信念というものを感じることができるだろうか。
10月24日(2012年)日曜日の各新聞社の昼前から午後のWeb記事が、同日午前中のフジテレビ番組で放送した東日本大震災の復興予算の流用指摘問題で、「復興予算は被災地以外は使わない」、あるいは「被災地事業に限定」、「復興に直結」といった表現で細野民主党政調会長の発言を伝えている。 細野豪志について、9月まで原発事故担当相、環境相のキャプチャー。
例えば「MSN産経」記事。
細野「おかしいものがかなりある。去年から今年にかけては日本経済が破綻しないよう(被災地以外にも)予算をつけていたが、状況が変わった。今後は被災地以外には使わないということを明確にすべきだ。
チェック機能を果たしきれず、おろそかになっていたのは反省すべきだ」
「毎日jp」記事。
細野「これからは被災地以外には予算を使わないという方向性を明確にすべきだ。
当初は被災地に限定する考えで(政府から)法律を出したが、自民党の意見で日本全体に(予算を)付けよう、と判断した。全体としては間違ってなかったと思う。被災地以外は落ち着きを取り戻しており、変えていい」
「日経電子版」
細野「これからは被災地以外には予算は使わないという判断をしてもいい。党がチェック機能を果たしきれなかった」
・・・・などである。
確かに結論は報道のとおりであるが、同日のフジテレビ「新報道2001」を見ていた者には結論に至る過程は自己正当化と責任逃れのためのウソとゴマカシと矛盾に満ちた詭弁そのもので、この男が将来の一国のリーダーと目されていると思うと、空恐ろしいと言うよりも情けない印象を受けた。
この程度の男がそのように評価されている、あるいは嘱望されているということの情けなさである。
Web記事が取り上げた発言部分を録画から文字化してみる。
テーマは「復興予算“流用”を検証」
細野豪志「去年はホントーに、あのー、日本経済ってものが破綻をするじゃないかという瀬戸際にあったんですね。ですから、人間で言うならば、えー、ホントーに死ぬか生きるかの生死の境を彷徨(さまよ)っていて、勿論、東北地方というですね、一番深刻な、あのー、ダメージを受けたところのケアをすべきだったんですが、やはり、あのー、それこそ、えー、全身をですね、何とか、これ、日本全国を経済的に破綻しないように、社会的にも破綻しないように予算を付けざるを得ない状況にあったわけですね。
それを、あの、被災地はまだ大変な状況ですけども、全国的には少しづつ落着いている中でですね、あの時死にかけていた、それこそ身体(からだ)に対してやろうとしていた医療が、まあ、過剰だったんじゃないか、ということを言われているわけですが、それはちょっとですね、去年の状況とは今とは違うと、言うことを分かっていただきたいと思います。
全国防災という形で被災地だけではなくて予算をつけるというのは、それは、あのー、当初政府が考えていたことではなかったんですが――」
須田哲夫アナ「違うんですか」
細野豪志「違います。当初は被災地に限定することを考えて法律を出したんです。ただ、自民党のみなさんからもご意見を頂いて、あのー、今日本全体がこういうことになっているので、付けようということで判断をしました。
私はですね、その判断は全体としては間違っていなかったと思っています。ですから、あのー、1年経って、あの、被災地以外は落着きを取り戻していますので、えー、そこは、あのー、これからの在り方については、えー、私は変えていいと思います。
ですから、若干党内でも議論が必要ですが、えー、これからはですね、復興予算の中からは、えー、被災地以外には、えー、予算を使わないと、あのー、状況は変わりましたので、そういう判断をしてもいいと、いうふうに思っています」
吉田恵アナ「被災地以外は使わないということですが、現状はそういうことになっています。(背後の大型のボードを手で示す)」
外務省――海外の学生との交流など 約92億円
(アジア太平洋地域及び北米地域との青少年交流)
農水省――反捕鯨団体の妨害対策 約23億円
(鯨類捕獲調査安定化推進対策)
財務省――税務署などの耐震改修工事 約12億円
(国税庁施設費(庁舎の耐震改修))
文科省――国立競技場の修復工事 約3億3000万円
(国立霞ヶ丘競技場災害復旧事業)
法務省――受刑者の職業訓練のための機械や教材整備 約2800万円
(被災地における再犯防止対策の充実・強化
細野豪志「ですから、まあ、そこのボードでご紹介頂いているんでしょうけれども、えー、19兆円の差があるんですね。で、私は、例えば環境大臣として、除染に1兆円以上の差をつけました。
で、これは被災地向けの予算ですけれども、一番初め、あの、環境省の役人が出してきたのはですね、100億円の予算のオーダーの除染でしたので、それで話にならないんで、ゼロが一つ、もしくは二つは違うって言ってつけて、まあ、正直言いますと、除染にですね、廃棄物にもかなり色んな、まあ、例えばもっと圧縮できたんじゃないかとか、ムダがあるんじゃないかというご意見があるんですが、それだけ大きな予算をつけて、業者にも大号令を出したからこそですね、除染が進んだという面があるんです。
ですから、去年の状況で付けた予算というものを今から見て、ここがムダなんじゃないかと一つ一つ取り上げて、やるというのは、ちょっと状況が変わっていますので、私は、あのー、ホントに、そこは全体としてどうかなという評価は是非して頂きたいと思います」
平井文夫フジテレビ解説副委員長「僕らは除染悪りきと言ってるんではないですね。(ボードに書いてある問題点の全体を示すように手に持ったボールペンをぐるっと大きく回す)これが問題だと言ってるんです」
細野豪志「えー、ですから全体として、予算は19兆円ですから、もう既に17兆円ぐらい支出していますけれどね、それだけ膨大な予算を付けましたので、日本経済全体が破綻しないように付けたという意味で付けたというのは私は間違っていないと思っています。
ただ、個別に言えば、あの、これはおかしいという予算がありますねえ。恐らく、ここで(ボードで)出して頂いた予算なんかは、そういう面があると思います。
ですから、そこは徹底的にチェックして、そして、もうこれはおかしいということで、来年はもう、付けないということは当然やるべきだと思います」
猪瀬直樹東京都副知事が民主党のどの機関が予算をチェックするのか、予算のチェック方法について尋ねる。
細野豪志「民主党にも、それぞれ部会もありますし、行革の調査会もありますんで、その予算をチェックするという仕組みというのはしっかりと整っております。
ただ、去年の補正予算から、えー、まあ、ホントに極めて短期間の中で、膨大な予算を付けました。その中で、党側としてもチェックを仕切れなかったところがあったと、いうふうに思うんですね」
最初の発言から矛盾だらけとなっている。「日本経済ってものが破綻をするじゃないかという瀬戸際にあった」、「日本全国を経済的に破綻しないように、社会的にも破綻しないように予算を付けざるを得ない状況にあった」――
被災地の経済的壊滅が(細野は「死にかけていた」と表現している。)日本全国に波及して、ただでさえ悪化し、低迷している日本経済そのものに打撃を与え、日本の脆弱化している経済全体そのものが破綻する恐れがあった。経済的にも社会的にもそうならないように19兆円という膨大は復興予算を付けた。
だったら、波及という点で、波及阻止のために波及元の被災地復興に特化した予算付けを最優先させる必要があったはずだ。
だが、厳密には特化していなかった。
日本の全体的経済の悪化が被災地の「死にかけていた」経済を巻き込んで、それこそ息の根を止めてしまう恐れがあったという波及の方向を取っているとしているわけではない。
そのような方向を取っているとするなら、被災地復興と同時にではあるが、被災地よりも日本経済回復を優先させた、被災地復興予算を遥かに凌ぐ膨大な予算付けを行って、そのことに特化した政策の必要が出てくる。
当然、被災地復興と関連する部分も出てくるだろうが、日本経済回復をより優先させた、被災地復興とは別立ての政策となるはずだ。
だが、現実には細野が言うとおりに被災地から日本全体への方向を取っていた。野田首相は機会あるごとに「福島の再生なくして日本の再生はない」と言っていたが、実際は「被災地の再生なくして日本の再生はない」という状況にあったのであり、被災地から日本全体に対する波及の弁となっていることでも証明できる。
細野の発言は出だしから矛盾だらけのメチャクチャな発言となっている。
また、「日本全国を経済的に破綻しないように、社会的にも破綻しないように」つけた「予算」のうちにボードで示した外務省の「海外の学生との交流など約92億円」であったり、農水省の「反捕鯨団体の妨害対策約23億円」であったり、財務省の「税務署などの耐震改修工事約12億円」であったり、文科省の「国立競技場の修復工事約3億3000万円」であったり、法務省の「受刑者の職業訓練のための機械や教材整備約2800万円」であったりの予算を入れて、言っていることの正当性を得ると思っているのだろうか。
とても破綻阻止に有効性を持つ予算付けに当たるとは思えないし、それ程大事(おおごと)の対策には思えない。思う人間がいるだろうか
発言にこのような矛盾がありながら、細野は「当初は被災地に限定することを考えて法律を出した」が、自民党の意見を聞いて、日本全体の経済の状況を考え、復興予算のうちのいくらかを被災地限定から外した。外した予算が上に挙げた対策費や工事費というわけである。
矛盾の屋上屋を架す発言でしかない。勿論、この矛盾は自己正当化のためであり、矛盾した論理で自己正当化を図るということは責任逃れの意識を背景としているからに他ならない。
自己正当化は、このような被災地外の予算使途の「判断は全体としては間違っていなかった」という発言に凝縮されている。
ウソや矛盾や詭弁を用いて平気な政治家に対して将来の一国のリーダーとして目されているという評価は倒錯そのものである。
Web記事が取り上げている結論は1年経過して、被災地以外の日本の経済は落着きを取り戻しているから、今後は復興予算は被災地以外には使わない、被災地限定とするという、ウソと矛盾と卑劣な自己正当化と責任逃れの発言を経過させた挙句の薄汚い結論でしかない。
さらに細野は予算の被災地外使途とは無関係の除染の予算を持ち出して、他の予算と比較して「除染に1兆円以上の差」を付けたことを自らの手柄とし、その手柄で以って被災地外の予算使途の正当化を謀るゴマカシにまで出た。
細野豪志「環境省の役人が出してきたのはですね、100億円の予算のオーダーの除染でしたので、それで話にならないんで、ゼロが一つ、もしくは二つは違うって言ってつけて」云々。
予算とはそういう付け方をするものだろうか。ドンブリ勘定そのものではないか。除染のモデル事業を行なっているのである。そのモデル事業でいくらの経費を必要としたかで、全体の除染事業の経費を計算して算出する方法を採るはずであり、そういった方法をとって初めて予算額は正当性を得るはずである。
しかも、「それだけ大きな予算をつけて、業者にも大号令を出したからこそですね、除染が進んだという面があるんです」と、被災地外使途をさらに正当化しているが、野田首相は10月7日に福島第1原発視察視察後に福島県楢葉町の除染作業現場を視察して次のように発言している。
野田首相「福島の復興・再生の基盤になる除染をスピードアップしなければならず、先程長浜環境相に指示した」(毎日jp)
これは除染が遅れていることからの指示であって、順調に進んでいたなら出すはずはない指示であろう。
進んでもいない除染を進んでいると見せかけて、その一事で以って、「去年の状況で付けた予算というものを今から見て、ここがムダなんじゃないかと一つ一つ取り上げて、やるというのは、ちょっと状況が変わっていますので、私は、あのー、ホントに、そこは全体としてどうかなという評価は是非して頂きたいと思います」 と、自分の発言が矛盾だらけであることに気づかない将来のトップリーダーと目されている政治家の頭の程度だからだろう、さらに自己正当化の邁進に心がけている。
猪瀬東京都副知事の質問に答えて、「去年の補正予算から、えー、まあ、ホントに極めて短期間の中で、膨大な予算を付けました。その中で、党側としてもチェックを仕切れなかったところがあったと、いうふうに思うんですね」と言っているが、チェックは党側だけの問題ではないはずだ。各省庁の大臣、副大臣、政務官の政務三役が主として行うべき役割でもあり、政府側の問題でもあるはずである。
要するに党側も政府側もチェック仕切れなかった。
これは責任が関係してくる大問題である。
例えそれが「極めて短期間の中」での「膨大な予算」付けであったとしても、チェックは万全でなければならないはずだ。いい加減であっていいはずはない。だが、細野は「党側としてもチェックを仕切れなかったところがあったと、いうふうに思うんですね」と、チェックが万全でなかったことを自ら認めて、それだけで済ます無責任を示している。
もし被災地外の予算使途の「判断は全体としては間違っていなかった」と言うなら、「日本経済ってものが破綻をするじゃないかという瀬戸際にあった」とか、「ホントーに死ぬか生きるかの生死の境を彷徨(さまよ)っていて」とか、「去年の状況とは今とは違う」とか言わずに、被災地外の予算使途を一つ一つ取り上げて、日本の経済全体と被災地の復興にどう効果があったか、その費用対効果を具体的に証明すべきであろう。
証明できないからこその発言の矛盾であり、ウソであり、ゴマカシであり、詭弁であり、これらを使った自己正当化と責任逃れだろう。
飛んだ将来の一国のリーダーである。
《2012年度自衛隊観艦式 野田内閣総理大臣訓示》(2012年10月14日)
野田首相が一昨日2012年10月14日、神奈川県相模湾で行われた海上自衛隊観艦式で訓示を述べている。自衛隊の観艦式は昭和32年以降、ほぼ3年に1回行われ、今年で27回目だそうだ。
首相官邸HPから訓示内容を全文引用して、言わんとしていることの妥当性を見てみる。重要と思える言葉は文字を強調した。
昨年の航空観閲式に続き、本日の観艦式において、観閲官として多くの隊員諸君に直接訓示をする機会を得たことは、最高指揮官たる内閣総理大臣として、大いなる喜びとするところです。
本艦「くらま」を中心とする艦艇、航空機の威風堂々たる雄姿。統率の行き届いた一糸乱れぬ艦隊運動。そして士気旺盛な隊員諸君の規律正しく、真剣な眼差し。今日、私はこれらを目の当たりにして、この国に自衛隊があることの誇らしさを、改めて心に刻んでいます。
この観艦式が、諸君の日頃の訓練の成果を示し、諸君がその胸に秘めた使命感と覚悟を一人でも多くの国民に知っていただく重要な機会となることを信じて止みません。
海洋国家・日本の「礎」である海。我が国最大のフロンティアである海。我が国の海を守るという諸君の職責は、日本人の存在の基盤そのものを守ることに他なりません。
今年は海上自衛隊の前身である海上警備隊が発足してから、60年という節目を迎えました。我が国をめぐる安全保障環境は、かつてなく厳しさを増していることは、改めて諸君に申し上げるまでもありません。「人工衛星」と称するミサイルを発射し、核開発を行う隣国があります。領土や主権を巡る様々な出来事も生起しています。その一方で、自衛隊の活躍の場面は、我が国周辺のみならず、世界各地にまで拡がるようになりました。我が国の平和と独立を保ち、国民の安全を守るという自衛隊創設以来の使命の核心は不変ですが、新たな時代を迎え、その使命は少しずつ形を変え、重要性を増しています。
そのような中にあって、本日は諸君に3つのことを求めたいと思います。
まず、諸君に求めたいのは、部隊の力を磨きあげよ、ということであります。
新たな時代にあって、諸君は様々な新しい任務を与えられ、難しい任務を与えられ、厳しい場面に遭遇することも増えると思います。それを立派に果たし切る力を平素から養って下さい。「防衛大綱」に従って「動的防衛力」を構築し、磨きあげて下さい。いざという時、何が求められるのか、それぞれの部署で徹底的に検証し、訓練に励んで下さい。
諸君は、単に存在することだけで抑止力となるのではありません。鍛え抜かれ、磨き抜かれた諸君一人一人の日々の努力があってこそ、防衛力が具体的な裏付けを持っていくのであります。
2つ目に諸君に求めたいのは、果敢に行動する勇気であります。
かつてない状況のもとで、これまで経験したことのない局面、プレッシャーを感じる場面に向き合うこともあるでしょう。
しかし、皆さんは国家の安全を守る最後の拠り所です。国防に「想定外」という言葉はありません。困難に直面した時にこそ、日頃養った力を信じ、冷静沈着に国のために何をするべきかを考えた上で、状況に果敢に立ち向かって欲しいと思います。いつの時にでも局面を切り拓く力は、最後は諸君一人一人の勇気にかかってくることを忘れないで下さい。
そして、3つ目に諸君に求めたいのは、「信頼の絆」を広げていくことであります。
先の東日本大震災での災害派遣では、「すべては被災者のために」という思いで災害対応に当たった10万の隊員の真心が、国民に深い感動を与えました。被災地で、自らは数週間カンメシしかとらず、炊き出しのご飯や豚汁を被災者に提供し続けた隊員諸君の心は、被災者との心の絆を深めたに違いありません。
また、米軍と自衛隊が共同対処したトモダチ作戦の成功は、日米同盟に結ばれた日米両国の絆を固く結びつけました。これからの日米の動的防衛協力を深めていく大きな拠り所となっていくことでしょう。
さらに、諸君の同僚が、遠くソマリア沖・アデン湾において海上交通の安全確保の任に当たっていることは、我が国の海運に携わる人々との絆を強めるとともに、世界各国との絆も深め、日本という国全体への信頼を高めてくれています。
そして、厳しく危険な任務を遂行するに当たって、常に諸君を支えてくれる家族との絆への感謝の気持ちも常に抱き続けてほしい。そう願います。
最後に、海軍の伝統を伝える「五省」を改めて諸君に問いかけます。
至誠にもとるなかりしか。
言行に恥づるなかりしか。
気力に欠くるなかりしか。
努力にうらみなかりしか。
不精に亘るなかりしか。
諸君なら、この「五省」の問いかけを胸に、国を守るという崇高な使命を必ずや果たしてくれると信じます。常に国民に寄り添って、優しき勇者であり続けてくれると信じます。
今こそ、国民の高い期待と厚い信頼に応える自衛隊であるために、諸君が一層奮励努力されることを切に望み、私の訓示とします。
インターネットで調べたところ、「五省」とは旧海軍で将校生徒の教育を行っていた江田島海軍兵学校に於いて使用していたもので、五つの自省、自らを省みる「自戒の言葉」として求めたものであったという。
野田首相は色々と欲張って要求している。政治の、自衛隊という軍隊に対する要求である。
だが、政治が軍隊に要求する前に国民が政治に要求しなければならない資質の類でもあるはずである。
いわば政治が軍隊に要求する前に国民に対して政治が応えなければならない資質の類であろう。
政治がこれらの資質を国民に対して応えているなら問題はない。果たして応えていると言えるだろうか。
例えば「我が国の海を守るという諸君の職責は、日本人の存在の基盤そのものを守ることに他な」らなくても、このことを軍隊の職責とする前に政治が「日本人の存在の基盤そのものを守る」役目を職責としていなければならないはずだ。
また、「皆さんは国家の安全を守る最後の拠り所です」と言っているが、「国家を守る最初の拠り所」は政治が果たすべき役割であって、政治が機能しないことには軍隊が安全を守るべき国家の体をなさないことになるのは自明の理である。
いくら優秀な軍隊であっても、軍隊の機能は往々にして政治の機能の影響を受けて機能不全に陥ることになるからだ。
例えば政治が外交戦略やその他に於いて無能であったなら、軍隊はその無能の負担を負うことになって、軍隊の機能は阻害されることになる。
このことは軍隊に限ったことではない関係性であろう。
最近の例で言うと、尖閣諸島国有化に関わる対中領有権紛争で日本の政治が無能であるがゆえに中国の一連の反発に対してもまともに中国と向き合って解決する術を持てないまま、中国の対日経済圧力によって日本の経済に負担をかけ、その経済機能を阻害している面があるはずである。
戦前の戦争に於いては軍上層部の無能と政治の無能が勝ち目のない戦争を招いて各戦闘部隊の機能の発揮どころである戦術に負担をかけ、徒に人命と軍需物資を消耗させ、敗戦によって国土の破壊を導いた。
将棋の駒を生かすのも死なすのも指し手の戦略にかかっている。政治が機能し、軍上層部が機能して初めて兵士は機能する。あるいは戦闘は機能し、そのような政治の機能と相呼応した軍隊の機能が国家の安全を守ることができる。
何よりも最初に政治の機能を持ってこなければならないはずだ。
2010年11月4日の尖閣諸島沖中国船衝突事件でも対中外交に主導権を発揮できず、中国の顔色を窺う、恐る恐るの従属外交を展開するのみであったし、今年の4月13日の北朝鮮ミサイル発射でも情報把握に混乱をきたし、発射とその失敗の経緯を正確に把えることができなかったばかりか、発射を知らせる全国瞬時警報システム(Jアラート)にしても各地で障害を起こした。
このような政治の機能不全の前で軍隊が機能を求められたとしても、十全な力を発揮し得るだろうか。
国内政治に於いても満足に機能しない状態が続いている。このことは福島を含めた被災地の復興の遅れや経済の長い停滞となって現れている。
政治が機能しないのに対して軍隊のみが機能した場合、軍隊の発言力が強まり、時にはシビリアンコントロールを離れて暴走する危険性を抱えかねない。
政治が機能してこそ、シビリアンコントロールは機能する。
戦争にしろ、軍事介入にしろ、平和維持軍派遣にしろ、政治に決定権があるのであって、軍隊にあるのではない。軍隊は政治の決定権下にある。
このような政治が機能していない中での欲張った要求となっている海上自衛隊観艦式訓示である。
果たして野田首相は政治が機能していないことを認識していて、軍隊の望むべき機能を要求したのだろうか。
野田首相は海上自衛隊員に「海軍の伝統を伝える『五省』」を問いかけているが、軍兵士が体現する前に政治が体現しなければならない姿勢であるはずだ。
政治は軍隊に問いかける前に、国民が問いかけるまでもなく、政治が応えているだろうかと自省心を働かせて自戒としなければならない姿勢の数々であろう。
もし政治が自ら体現していない姿勢でありながら、軍兵士に問いかけたとしたら、偽りも甚だしい。
至誠にもとるなかりしか。
言行に恥づるなかりしか。
気力に欠くるなかりしか。
努力にうらみなかりしか。
不精に亘るなかりしか。
日本の政治は果たして大きな声で胸を張って、「このような姿勢を自らの姿勢とすることはなかったし、今後共姿勢とすることなない」と答えることができるのだろうか。
無意識のうちに政治の機能不全、政治の弱さの埋め合わせとして旧大日本帝国海軍を模範として頭に描いた強い軍隊、勇ましい軍隊、機能する軍隊を求めたとしたら、政治の軍隊への依存を内なる衝動としていると言えなくもない。
領土を守るのも主権を守るのも国民の生活を守るのも、日本の経済を守るのも先ずは政治の機能である。軍隊の機能を要求する前に政治の機能は常に先頭に立っていなければならない。
野田首相は政治の機能をすべての先頭に立たしめているのだろうかという自戒のもとに訓示に当たったのだろうか。
そういった自戒は一切無く、単純に観艦式だからと言って、自身が頭に描く理想的な軍隊の在り様をあれこれ要求したということなのだろうか。
どうも後者に思える。
だとしたら、最高指揮官としての資格のない首相が最高指揮官として訓示したという滑稽な倒錯図となる。
1カ月半前の古い発信だが、少々興味深い発言があって書き留めておいた記事をブログ記事にすることにした。
《原発事故調トップ3人が提言》(NHK NEWS WEB/2012年8月31日 21時14分)
この記事は東京電力福島第1原発電事故検証の政府、国会、民間の3委員会のトップが日本学術会議が事故の教訓を学ぼうと開いた催しで初めて公の場で一堂に会し、9月発足予定の国の原子力規制委員会の在り方について提言したという内容。
畑村洋太郎政府事故調査・検証委員会委員長、黒川清国会事故調委員長、北澤宏一民間事故調委員長3人。
畑村委員長(事故対応の失敗について)「『どうすればうまくいくか』ということばかり考えてきたが、事故に備えるには『どうするとまずいことになるのか』を突き詰める必要がある」
記事は、安全の考え方を抜本的に転換すべきだとの訴えだとしている。
「どうすればうまくいくか」を考えるには、考える過程で常に「どうするとまずいことになるのか」の試行錯誤を相互対照としているはずだ。
例えば、「どこまでやったなら、メリットとすることができるのか」と考える場合、「そこまでやらなかったときのデメリットは何か」の考えを常に相互対照しながら試行錯誤を進めていかなければ、危機管理とはならない。
いわば「どうすればうまくいくか」と「どうするとまずいことになるのか」をコインさながらに常に両面に置いて対策を施さなければならないということであろう。
だが、福島第1原発の場合、原子力安全委員会が1990年に策定した「発電用原子炉施設に関する安全設計審査指針」で、電力業者の意向を受けて全電源喪失に対する備えを必要ないとしたことから、その備えをしなかったことと、地震学者等が大地震と大津波の過去の歴史の指摘に対して指摘通りの対策を施さなかったことが事故発生の引き金となったことから見て取れることは、コスト意識を優先させて、「どこまでやったなら、メリットとすることができるのか」(=「どうすればうまくいくか」)ばかりを考えて、「そこまでやらなかったときのデメリット」(=「どうするとまずいことになるのか」)まで考えなかったことになる。
いわば前者と後者を相互対照させたコインの両面とする思考形態を危機管理としなかった。
興味を持った発言は次である。
北澤民間事故調委員長(事故の背景について)「組織の中で問題を指摘できないといった戦前の軍部と共通する問題があった。
(原子力規制委員会の在り方について)こうした日本人の特性を十分考慮してコントロールすることが必要だ」
「組織の中で問題を指摘できない」とは先ずは下の者が上の者に対する態度を言うはずである。上の者が下の者に対して「組織の中で問題を指摘できない」としたら、指揮・命令の資格を失う。
尤も上の者が下の者に対して「組織の中で問題を指摘でき」たとしても、すべての場合に於いて問題がないとすることはできない。
このことは後で述べる。
下の者が上の者に対してなぜ「組織の中で問題を指摘できない」のかと言うと、常々言っているように上の者が下の者を無条件に従わせ、下の者が上の者に無条件に従う権威主義の人間関係を行動様式としていて、そのような行動様式に支配されているからに他ならない。
この組織の中での上下の人間関係が国と地方の関係に移行させたのが中央が地方を従え、地方が中央に従う中央集権の上下関係となる。
この中央集権の上下関係は時代が遡るに連れてほぼ無条件の支配と従属の上下関係だったが、地方の時代と言われるようになってこの上下関係は緩んできたものの、それでも依然として上下の力学は色濃く残っている。
権威主義的な上下の人間関係力学から、下の者が上の者に対して「組織の中で問題を指摘できない」場合、下の者から上の者に対して伝えなければならない下からの知識・情報は、それが下の者の手柄となって組織全体の利益となるといったような場合は指摘の対象とはなり得て知識・情報の共有を図ることができるだろうが、逆に下の者の責任に深く関わって組織全体の不利益となるようなケースでは満足に伝えられなかったり、あるいは滞って時間を徒にかけたり、最悪、責任逃れの自己保身から隠蔽されたりして、組織内に知識・情報の滞りのない共有とは反対の知識・情報の断絶や停滞が発生することになる。
当然、上の者は組織内部の知識・情報を満足に共有しないまま、あるいは満足に把握しないまま組織を運営することなって、組織運営に阻害を来すことになる。一般の運転者と同様の車の運転の知識・情報を共有しないまま、あるいは把握しないままに車を運転するようなものである。
事故を起こさずに済んだとしたら、奇跡である。
後で述べるとした、上の者が下の者に対して「組織の中で問題を指摘でき」るケースに関してだが、それが滞りのない知識・情報の伝達であったとしても、その知識・情報が的確で正確な内容を備えているなら問題はないが、何しろ下の者が上の者に対して「組織の中で問題を指摘できない」権威主義的な上下の人間関係に災いされて正確な知識・情報の正確な共有を満足に期待できない事態を受けた上の者から下の者に対する“問題指摘”――知識・情報の伝達である。
そのような知識・情報が何らかの歪みを生じていないと保証することは決してできない。
いわば上の者が下の者に対して発信する知識・情報がそもそもからして上下それぞれがそれぞれの力関係に無関係にスムーズな相互共有のプロセスを経ていたなら、誤っていたり欠けていたりする知識・情報の伝達であったとしても正す機会を持ち得るが、経ない場合、下の者から「組織の中で問題を指摘できない」待遇を再度受けることになって、誤った情報、欠けた情報が正す機会もなく上の者と下の者との間で循環することになりかねない。
北澤民間事故調委員長はこのような「組織の中で問題を指摘できない」という権威主義的な上下の人間関係・行動様式が「戦前の軍部と共通する問題」だとしている。
このことを裏返すと、日本人は権威主義的な上下の人間関係・行動様式を戦前の時代から現在の民主主義の時代に於いても引きずっていると翻訳可能な発言となる。
原発事故に於ける菅官邸の危機対応に関して言うと、菅が上に立つ者として責任を引き受ける姿勢を取らずに、逆に自身の責任となって進退問題に発展することを恐れたがために下の者の上の者に対する「組織の中で問題を指摘できない」権威主義的な上下の人間関係・行動様式をなお色濃く招き寄せて官邸内ばかりか、官邸とと他機関との間の知識・情報の共有に障害を来たしたことが復旧・復興の遅れの原因になったということなのだろう。
北澤委員長は結論を「日本人の特性を十分考慮してコントロールすることが必要だ」と発言しているが、「日本人の特性」としてある権威主義的な上下の人間関係・行動様式からの解き放ちこそが自由闊達な知識・情報の共有を図って、「組織の中で問題を指摘」可能となるという意味になるはずである。
だが、テレビでよく見かけるが、下の者が上の者に対して対面するとき、何度もペコペコと頭を下げる様子を見ると、非常に難しい課題の「コントロール」に思えて仕方がない。
記事は黒川国会事故調委員長の発言も取り上げているから、ついでに。
黒川委員長「日本では仕事の評価が所属する組織の中だけで行われている。原子力規制委員会では常に外からの目で評価を受けることが重要だ」
権威主義的な人間関係からの日本人の行動様式は上下の関係力学を主体としているから、あるいは上下の関係力学に縛られているために必然的に縦割りを組織構造とすることになる。縦割りは組織内のセクショナリズム(=縄張り構造)を生むと同時に組織全体でみた場合も他組織との間でセクショナリズム(=縄張り構造)を来すことになって、「仕事の評価が所属する組織の中だけで行われ」る組織内評価が勢い罷り通ることになり、時には独善に陥るということなのだろう。
北澤委員長の発言にしても、黒川委員長の発言にしても、日本人が人間関係を上下で縛る権威主義を行動様式としているのだから、一面的には当然の姿勢としなければならないはずだ。
口先番長前原国家戦略担当相が東日本大震災復興予算の関連性希薄事業への流用指摘に関して10月12日閣議後記者会見で発言している。
《国家戦略相 復興予算を厳しく精査し見直す考え》(NHK NEWS WEB/2011年10月12日 16時22分)
口先「被災地の人たちの心情を考えると、極めて不誠実な対応と映るし、実際にそうだ。厳しく精査し正さなければならない、ゆゆしきことだ。政府全体として、復興予算の使われ方をしっかり精査し、別の使われ方をしていたものは見直していくことが大事だ」
だから、“口先”と言われる。「精査」は予算案を決定する段階で行わなければならない、予算案国会提出の絶対前提条件とすべき政治主導の作業のはずである。
当然、「別の使われ方」をしているものはあってはならないという厳しい姿勢で、どういう使われ方をしようとしているかの精査を政治主導しなければならなかった。
だが、再度精査しなければならないということは最初の段階で政治主導の精査作業が行われなかったか、行ったとしても、厳格に行わなかったために漏れが生じたか、そのいずれかによって官僚主導の予算編成のまま、その通り抜けを許してしまったことから、被災地外の復興とは直接関係のない事業に予算を割くいびつな復興予算となったということになるはずだ。
いわば問題は予算自体の精査だけではなく、予算案決定の段階に於いて精査の政治主導が機能していたのかどうかの“精査”であって、それを行わなければ、喉元通れば暑さ忘れた頃、再び同じことを繰返すことになる。
被災地及び被災者に対する「極めて不誠実な対応」云々は、最初の精査を問題にして言うべき発言であって、そのことすら気づかない“口先”の態度こそ、被災地及び被災者に対して「極めて不誠実な対応」だと言わざるを得ない。
昨日(2012年10月12日)の当ブログ――《復興予算流用は復興予算だけのことなのか、一種の錬金術として慣用化していないか - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》に流用指摘に対する官僚側の正当性の弁をインターネット記事から取り上げたが、どの発言を見ても、官僚にたぶらかされたのかどうか分からないが、精査の政治主導を機能させることができないままに官僚主導が大手を振って罷り通った印象を拭うことができない。
参考のためにここに再度取り上げてみる。もし官僚にたぶらかされたとしたら、政治主導は有名無実化することになる。
「国税庁庁舎の耐震改修費」
国税庁担当者「税務署は一般の来庁者も多いので緊急性は高いと判断した。政府方針に沿っただけ」(毎日jp)
「アジア大洋州・北米諸国との青少年交流費」
〈海外から被災地などを訪ねてもらい、風評被害の防止につなげるのが狙い。〉(MSN産経)
「国内立地推進事業費補助金」の岐阜県のコンタクトレンズ工場への支援に関して。
経産省「工場が福島県や茨城県から原料を調達していることを重視した」(毎日jp)
「沖縄国道整備費計上」について。
内閣府担当者「国土の防災・減災を進める政府の基本方針に沿った。ほかの都道府県でも同じような防災事業を復興予算で計画している」
「受刑者の職業訓練費」
〈出所した受刑者の再犯防止のため、労働需要の高まっている被災地で働けるよう小型建設機械の運転資格を取らせることが目的。〉
法務省矯正局「被災地のがれき処理に小型油圧ショベルの運転手が集められていることで、他の地域で有資格者が足りなくなっていることも考えられる。その穴を埋めることも広い意味では復興支援だ」
法務省幹部「がれき処理という被災地の復興のニーズに応えられるだけでなく、被災地や周辺地域における再犯防止も期待できる。一石二鳥の意義ある事業だ」(以上毎日jp)――
「反捕鯨団体による調査捕鯨妨害対策費」
農水省「捕鯨基地がある宮城県石巻市の復興のためにも必要」(毎日jp)
水産庁「捕鯨基地がある宮城県石巻市の復興にはクジラの安定確保が欠かせない」(スポニチ)・・・・・
被災地の全体的復興は、全体的復興の各土台となるべき除染や瓦礫撤去、集団移転、漁業・農業の再生、中小産業の復活、雇用の回復等を最優先事項として初めて成り立たせることができる。
と言うことなら、復興予算と名付ける以上、全体的復興の各土台形成に直接役立つ事業の立案と立案した事業への集中的な予算投入が必須条件となる。
だが、実際はそうはなっていなかった。集中とは反対に拡散させていた。例え拡散させていた予算金額の割合が低くても、何とも思わずに拡散をつくり出していた意識こそが問題となる。
東大日本大震災からの復興に全力投入すべき予算集中への執着心の欠如を示すことになからだ。
この予算集中への執着心欠如意識は当然、復興そのものに向けた執着心欠如意識を相互反映することになるはずだ。
このような執着心欠如の相互的な意識が官僚たちだけものではなく、例え政治主導の精査を行なっていたとしても、官僚側の流用に関わる正当性を許容し、罷り通らせていたのだから、政治家たちにしても同じ穴のムジナとしなければならない。
そして復興の各場面で遅れを見せている以上、復興に向けた全力投入とは言えない執着心欠如の意識が各遅れにつながっていると批判されても、反論はできまい。
政治家たちの復興に向けた執着心欠如意識は10月11日に行われた野党からの復興予算の不適切使途問題審議の行政監視小委員会開催の呼びかけに民主党委員全員が欠席して定足数不足で流会させた、与党としての責任放棄にも現れている。
だが、マスコミが連日報道し、国民の声を無視できなくなったからだろう、政府内にも精査・検証の発言者が出たことと参院与野党逆転状況で野党が多数を占めている関係から、民主党委員全員欠席でも定足数を満たすこととが影響した否応もなしの状況を受けてのことなのだろう、参院側が参院決算委員会開催、復興予算使途問題検証で与野党一致。この一致を受けて、これも否応もなしの状況に立たされてのことなのだろう、民主党は衆院の質疑も受け入れる方針に転じたそうだ。
何と及び腰の与党及び政府の責任なのだろうか。このような姿勢からも政治主導を窺うことはできない。官僚主導を許す一因となっているに違いない。
このような及び腰の与党及び政府の責任は被災地及び被災者だけではなく、国民全体に対する「極めて不誠実な対応」であって、このような与党や政府の「極めて不誠実な対応」を国民は見逃すはずはなく、しっかりと見ていて、内閣支持率と政党支持率に影響していくはずだ。
党代表であり、内閣の最終責任者である野田首相の指導力欠如が政治主導の機能不全、官僚主導、与党及び政府としての及び腰の責任を招いていると見なければならない。
〈「5年で19兆円」と見積もった復興費のうち、1兆円程度を被災地以外でも使う方針が決まった。財源には、全国の自治体が集める住民税の増税分などがあてられる。〉(毎日jp) 《復興予算「流用」が指摘される主な事業》(時事ドットコム/2012/10/09-21:06)
復興予算の被災地外の他事業への流用が問題となっている。尤も政府や関係省庁は復興基本方針で被災地以外の全国各地の防災対策費の計上その他を、19兆円規模の復興費のうち1兆円程度は認められていることを理由に流用ではないと正当性を訴えている。
また、震災影響の製造業海外移転防止事業への計上も認められているという。
多分、国内に留めることによって国内産業の空洞化阻止、経済の悪化阻止の理由をつけているに違いない。
だが、この手のことは「復興」とは別の一般的な景気対策であるはずだ。
どのような“流用”が指摘されているのか、次の記事が伝えている。
一、国税庁庁舎の耐震改修費 12億円
一、アジア大洋州・北米諸国との青少年交流費 72億円
一、国内立地推進事業費補助金 2950億円
一、沖縄国道整備費 6000万円
一、受刑者の職業訓練費 2800万円
一、反捕鯨団体による調査捕鯨妨害対策費 23億円
※事業は2011年度第3次補正予算分
「毎日jp」記事によると、国税庁庁舎の耐震改修費のみならず、全国の官庁施設の耐震改修や津波対策にも計上されていると伝えている。要するに震災と関連付けた防災名目での計上なのだろう。
「国税庁庁舎の耐震改修費」
国税庁担当者「税務署は一般の来庁者も多いので緊急性は高いと判断した。政府方針に沿っただけ」(毎日jp)
「アジア大洋州・北米諸国との青少年交流費」
〈海外から被災地などを訪ねてもらい、風評被害の防止につなげるのが狙い。〉(MSN産経)
「国内立地推進事業費補助金」(は被災地と関係のない中部、近畿の会社などを補助対象とした予算計上だそうだ。
その内の一つである、岐阜県のコンタクトレンズ工場への支援に関して。
経産省「工場が福島県や茨城県から原料を調達していることを重視した」(毎日jp)
「沖縄国道整備費計上」について。
内閣府担当者「国土の防災・減災を進める政府の基本方針に沿った。ほかの都道府県でも同じような防災事業を復興予算で計画している」
他もやっているから、自分たちも許されるとする考えは他を基準として自らの行動を決定する非自律性の現れであると同時にみんなでやろうという馴れ合いの現れでもあろう。
「受刑者の職業訓練費」はなかなか興味深いことを次の記事が伝えている。《復興予算:法務省が受刑者訓練に2765万円》(毎日jp/2012年10月09日 21時28分)
記事は使途目的を、〈出所した受刑者の再犯防止のため、労働需要の高まっている被災地で働けるよう小型建設機械の運転資格を取らせることを目的としている。〉と書いている。
なかなか尤もらしい正当性の弁となっている。
但し記事は、〈ただ、被災地で働くかは出所者次第。期待通り復興に生かされるかは未知数だ。〉と疑問符をつけている。
田中慶秋法相(10月9日の政務三役会議で指示)「復興予算の流用ではないかとの指摘もある。説明がつくのか点検してほしい」
国会や記者会見で追及されたときの理論武装にしようということなのだろう。
被災地以外の刑務所で実施されている理由について――
法務省矯正局「既に小型建設機械の職業訓練をしていたり、スペースや指導者の確保が困難だったりするとの理由で、被災地内で希望する刑務所がなかった。このため、できるだけ被災地に近い地域の施設で実施することにした」
予算内訳は1台約500万円の小型油圧ショベル4台分の購入費や、訓練を受ける受刑者の受験手数料など。
実施場所は北海道月形町の月形刑務所と埼玉県川越市の川越少年刑務所。既に事業は開始しているという。
受刑者の職業訓練としての使途という点では何ら問題はないが、果たして復興予算の使途として問題ないとは言えないはずだ。このことは後で述べる。
受刑者が出所後、被災地でがれき処理に携わるかどうかは分からない点について。
法務省矯正局「被災地のがれき処理に小型油圧ショベルの運転手が集められていることで、他の地域で有資格者が足りなくなっていることも考えられる。その穴を埋めることも広い意味では復興支援だ」
確かに言っているとおりだが、なかなか巧妙な説明となっている。
法務省幹部「がれき処理という被災地の復興のニーズに応えられるだけでなく、被災地や周辺地域における再犯防止も期待できる。一石二鳥の意義ある事業だ」――
「反捕鯨団体による調査捕鯨妨害対策費」
農水省「捕鯨基地がある宮城県石巻市の復興のためにも必要」(毎日jp)
水産庁「捕鯨基地がある宮城県石巻市の復興にはクジラの安定確保が欠かせない」(スポニチ)
言っていることはやはり尤もらしい。但しである、「反捕鯨団体による調査捕鯨妨害対策費」計上が「クジラの安定確保」につながったとしても、そのことが「捕鯨基地がある宮城県石巻市復興」の主たる要因となるかである。
多分、一つ一つの積み重ねが全体の復興につながると反論するに違いない。
記事は法務省外局の公安調査庁の、復興予算からの車両購入についても伝えている。〈過激派や外国のスパイに目を光らせるため、無線配備の車両14台の購入費として2754万9000円を復興予算から計上し〉たと。
〈同庁によると、被災地で革マル派や中核派が、▽避難している被災者▽支援に訪れたボランティア▽反原発運動に携わる人たち――に対する勧誘を強めており、外国が原発などの重要情報を不正に入手しようとする動きもある。購入した車両は調査官が対象者を追跡するため導入するもので、宿泊施設を確保できない場合の宿代わりにも使用されている。〉云々。
公安調査庁幹部「過激派による被災地での活動実態が現実にあり、監視が必要だ。政府が原発などにおけるテロの未然防止対策として『テロ関連情報の収集や分析能力の強化』に努める必要があるとしており、これに基づいている」――
だが、このことが被災地復興に直接的にどうつながるのだろう。どう見てもドサクサ紛れの火事場泥棒のような、復興の名を騙った予算の流用に見えて仕方がない。
被災地の復興に何が肝心要なこととして最必要とされているかに何よりも重点を置かなければならないはずだ。この肝心要なことが全体的な復興の土台となる。
当然、最必要とされている全体的な復興の土台形成を肝心要な最優先事項とし、以下を優先順位付けしていくことになるはずだ。
果たして流用と指摘されている被災地外の事業は最必要とされている全体的な復興の土台形成に直接的につながる肝心要な最優先事項の事業と言えるのだろうか。
「毎日jp」記事に次のような記述がある。〈石巻魚市場によると、漁業、水産業の復旧は震災前の3割程度。震災で漁船を流された男性(61)は「原発事故の影響で満足に漁もできず、将来的な見通しも立たないのに国の対策は遅々として進まない。調査捕鯨も大切だが、税金の使い方を考えてほしい」と希望した。〉――
と言うことなら、調査捕鯨よりも、被災地漁民の出漁機会の回復、漁獲高の回復を全体的な復興の土台形成の最優先事項の一つとしなければならないはずだ。そのためには農産物も含めた放射能汚染に関わる風評被害の解消も最優先事項の一つとしなければならない。
全体的復興の土台形成とすべき最優先事項を満足に履行できてもいないのに「捕鯨基地がある宮城県石巻市の復興にはクジラの安定確保が欠かせない」などと土台部分とはならない部分的問題を重要視している。
この判断能力の非合理性は日本の官僚の基本的資質なのだろうか。
また「復興予算」と名付け、「復興債」と名付けた特別国債を発行して財源に充て、償還は所得税等の臨時増税を実施予定とし、住民税の増税分充てるとしている以上、被災地の復興に直接的に寄与する政策や事業の予算付けに限定すべきで、昨年7月策定の政府の復興基本方針で全国各地の防災対策費の計上などを認めたこと自体が既に「復興」の名に値しない方針策定であって、増税をもっけの幸いとしていくらかを利用しようと最初から企んでいた末の流用であろう。
政府財政の懐を痛めないで済むからだ。
被災地の全体的復興の土台形成に直接的に寄与するわけではない国税庁庁舎の耐震改修などは別予算で組むべきだったろう。
小型油圧ショベルの運転等の「受刑者の職業訓練費」にしても、瓦礫処理を通して被災地の復興のニーズに応えることができると同時に受刑者の職業を手にした社会復帰によって被災地や周辺地域における再犯防止に役立つとしても、復興予算からではなく、あくまでも受刑者の社会復帰を直接的に目的とした従来の予算の延長で行うべきだろう。
何しろ最優先事項としなければならない全体的復興の土台とすべき肝心要の政策や事業に集中させるべき復興予算執行を被災地以外の事業に名目を設けて拡散・流用する予定でいたために集中させることができない結果の、現在の復興の遅れに繋がっているということもあるはずだ。
あっちにも手を出し、こっちにも手を出して、予算総額を差引き計算して辻褄を合わせていたなら、結果の全体的平均化はそこそこ可能ではあっても、集中すべきことも集中できなくなる。
野田首相は「福島の再生なくして日本の再生なし」と機会あるごとに発言してきた。また10月月7日、福島第1原発と福島県楢葉町の除染作業現場を視察、「福島の復興、再生の基盤となるのは除染だ」と発言。「除染をよりスピードアップしなければいけない」と宣言した。
言っていることは、全体的復興の土台とすべき肝心要の最優先事項の主たる一つに「除染」を挙げたということであるはずだ。
だが、その肝心要の全体的復興の土台形成とし、そのことに集中すべき主たる最優先順位の「除染」が遅れているからこそ、「スピードアップ」という言葉を口にしなければならなかった。
野田政権の復興予算執行が満足に機能していなかったことの告白でもある。
予算流用とは集中的予算執行の拡散をも意味することになる。
果たして復興予算流用は復興予算だけのことなのだろうか。一種の錬金術として他予算でも慣用化していないだろうか。
被災地の多くの被災者を生活の困窮や将来の不安に陥れているのである。それを他処に全体的復興の土台形成に直接的に影響するとは思えない被災地外の事業に復興予算を流用しているのである。慣用化から来た流用の疑いは濃い。
昨日(2012年10月10日)のブログ記事――《「東京維新の会」の「日本国憲法無効・大日本帝国憲法現存」思想と橋下徹容認の国家主義的危険性 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》で2個所記載漏れがあったため、訂正します。
「東京維新の会」の日本国憲法を無効として、大日本帝国憲法を現存憲法とすることの認知を求める請願請求に関する橋下日本維新の会代表の発言を伝えていた新聞記事《橋下大阪市長ウォッチ 東京維新の会「帝国憲法復活を」 橋下氏「そんなんほっといたらいい」》の発信元を漏らしてしまいました。「J-CASTニュース」/2012年10月09日17時52分)です。
次に「東京維新の会」の上記請願行動に関して橋下徹日本維新の会代表の「地方議会は維新八策のうち地方に関係することは100%賛同してもらわないといけないが、そうでない部分は政治家の自由行動だ」と記者団に語った発言日の「10月9日」を記載漏れしてしまいました。
謝罪して訂正します。
橋下代表は次の日の10日になって発言を変えたため、その判断速度の遅さに感心して、ついでにブログ記事にして見ることにした。
《日本維新、東京維新との連携「保留」 請願賛成巡り》(asahi.com/2012年10月10日23時14分)から。
記事は最初に、〈東京都議会で「日本国憲法は無効で、大日本帝国憲法が現存する」との請願に賛成した会派「東京維新の会」〉に対する「日本維新の会」の昨日(10月10日)の意思表示を取り上げている
「日本維新の会」「連携を保留する」
「日本維新の会」幹部「(日本維新の会の傘下に今後入るなら)完全な政策一致が必要。考え方を改めてもらいたい」
記事は、〈東京維新の野田数(かずさ)代表からは10日に謝罪文が届いた〉と伝えている。
橋下徹維新の会代表(10月10日、市役所で報道陣に)「大日本帝国憲法復活はどう考えてもありえない。連携をやめるか維持するかは担当幹部に見極めてもらった上で判断する」
記事はこれだけのことを報道している。
橋下徹維新の会代表は昨日10月9日は維新八策の地方関係の政策以外は「政治家の自由行動だ」と言って、「東京維新の会」の「日本国憲法無効・大日本帝国憲法現存」の主張を容認した。
民主主義を政治行動の基本姿勢としているのか、国家主義、あるいは全体主義を政治行動の基本姿勢としているのか、民主主義の時代と民主主義の国家に於ける資格を問う極めて重要な問題でありながら、その資格を問題とせず、次の日には「大日本帝国憲法復活はどう考えてもありえない」と否定する、その判断決定の不的確さ、判断決定速度の遅さは果たして政党責任者に適格だと言えるだろうか。
橋下市長が大飯原発再稼働問題等で時折り判断のブレを見せるのは判断の質に問題があるからではないだろうか。
何事にも迅速で的確な判断が伴わなければ、強い指導力は発揮できない。
前日の記事で安倍晋三を国家主義者と書いたが、もう少し詳しく説明したいと思う。
以前にもブログに書いたことだが、安倍晋三は兼々天皇・皇室について次のように発言している。
安倍晋三「皇室の存在は日本の伝統と文化、そのものなんですよ。まあ、これは壮大な、ま、つづれ織、タペストリーだとするとですね、真ん中の糸は皇室だと思うんですね。
この糸が抜かれてしまったら、日本という国はバラバラになる」
このことを安倍晋三著の『美しい国へ』では次のように表現している。
「『君が代』が天皇制を連想させるという人がいるが、この『君』は、日本国の象徴としての天皇である。日本では、天皇を縦糸にして歴史という長大なタペストリーが織られてきたのは事実だ。ほんの一時期を言挙げして、どんな意味があるのか。素直に読んで、この歌詞のどこに軍国主義の思想が感じられるのか」
「日本の伝統と文化、そのもの」としての存在とは、あるいは日本は「天皇を縦糸にして歴史という長大なタペストリーが織られてきた」とは天皇を一種の創造主に置いていることを意味する。万世一系の代々の天皇が「日本の伝統と文化」を生み出し、「日本の伝統と文化、そのもの」の存在となっている、あるいは万世一系の代々の天皇が中心となって日本の歴史を織りなしてきたと言っている以上、一種の創造主でなくして、叶わない偉業である。
ここにある思想は断るまでもなく天皇を絶対的存在とした天皇中心主義である。だが、戦後日本に於いては天皇は絶対的存在としての中心から外されて創造主としての資格を剥奪され、単なる国民統合の象徴に格下げとなった。
当然、天皇が絶対的存在であった天皇中心主義の戦前日本に郷愁を抱くことになる。そこでは「天皇を縦糸にして歴史という長大なタペストリーが織られてきた」
天皇は「日本の伝統と文化、そのもの」の存在であった。
いわば郷愁が結びつけている、安倍晋三の天皇絶対主義、天皇中心主義の国家主義と戦前日本の天皇絶対主義、天皇中心主義の国家体制ということであって、両者が響き合って安倍晋三の中でハーモニーを奏でているということなのだろう。
その結果、「(国を)命を投げ打ってでも守ろうとする人がいない限り、国家は成り立ちません。その人の歩みを顕彰することを国家が放棄したら、誰が国のために汗や血を流すかということです」といった、戦前日本の天皇絶対・国家絶対の思想を戦後日本の時代に持ち出すことになる。
国を守るとは命を投げ打つことではなく、国民それぞれが自らが置かれた役割をそれぞれに十全に果たしていく努力をする、その総合的成果が結果として国を守っていくことにつながるはずだ。
特に国家の上層に位置して、国家を運営する立場の人間が自らに与えられた役割を果すことができなかったなら、国を守ることはできない。戦争に際しても兵士が戦争で命を投げ打つことよりも、国家や軍上層部の、国力や軍事力を勘案した開戦決定から戦争継続の各プロセスに於ける戦略や戦術に関わる役割の履行如何が国を守るか否かの命運を握るのであって、この要件に反して戦前の戦争では政治家も軍上層部もその役割を果すことができなかった。
そういった国家体制に郷愁を感じているのだから、安倍晋三の時代錯誤も甚だしい。
〈日本維新の会と連携する東京都議会の会派「東京維新の会」が9月定例会(都議会本会議10月4日)で「日本国憲法は無効で大日本帝国憲法が現存する」との請願に賛成した。〉《「大日本帝国憲法が現存」請願に賛成 東京維新の会》(asahi.com/2012年10月9日20時8分)
請願者は京都市の住民ら。
請願内容は「日本国憲法は占領憲法で国民主権という傲慢(ごうまん)な思想を直ちに放棄すべきだ」などと主張。
いわば天皇主権肯定・国民主権否定の主張ということになる。
「東京維新の会」の野田数(かずさ)代表が紹介議員の一人となっているという。
但し請願自体は民主党や自民党などの反対で不採択。
記事は橋下徹日本維新の会代表の発言を伝えている。
橋下徹日本維新の会代表「地方議会は維新八策のうち地方に関係することは100%賛同してもらわないといけないが、そうでない部分は政治家の自由行動だ」
維新八策の地方政策に関係しない「部分は政治家の自由行動だ」で果たして済むだろうか。民主主義の日本の時代と民主主義の日本の世界に民主主義を否定する国家主義を持ち込むべく衝動を抱えているのである。
国家主義を基本的な裸の思想としているからに他ならない。
【国家主義】「国家をすべてに優先する至高の存在あるいは目標と考え、個人の権利・自由をこれに従属させる思想」(『大辞林』三省堂)
日本に於いて国家を至高の存在としている根拠は万世一系の天皇にある。
大日本帝国憲法はまさに天皇を頂点とした国家主義によって書かれている。日本維新の会が傘下団体の東京維新の会の思想・信条に関係ないとすることはできないはずだ。
橋下代表の発言を次の記事が詳しく伝えている。《橋下大阪市長ウォッチ 東京維新の会「帝国憲法復活を」 橋下氏「そんなんほっといたらいい」》(J-CASTニュース/2012年10月09日17時52分)
請願書は、「東京維新の会」メンバーの紹介で、京都市在住の男性ら5034人が提出。
請願内容――「我々臣民としては、国民主権といふ傲慢な思想を直ちに放棄し、速やかに占領典範と占領憲法の無効確認を行つて正統典範と正統憲法の現存確認をして原状回復を成し遂げる必要があります」
記事。〈旧仮名遣いで独自の主張を展開。現行の皇室典範の破棄も求めている。〉
国民を「臣民」に位置づけている。まさに戦前日本の世界である。
橋下徹日本維新の会代表「(一連の経緯について)聞いてませんけど、うちは共産党とは違うんでね、分権型の政党を目指そうと言っている訳ですから、各地域の色んなグループが、自らの責任でもって活動することについて、ある意味、党本部の方で、あれやこれやとは言いませんよ。
地方議会に憲法を破棄する権限はない。そんなんほっといたらいいんですよ、何やろうが。実際に権限と決定権があるところで、どういう方針をなすのかというのが一番大きな政党の役割。
(「東京維新の会」の「憲法破棄」の考えについて)日本維新の会としての方針としては、憲法破棄という方針はとらない。あくまで改正手続きをとっていく。理論上は憲法破棄ということも成り立ちうるのかもしれないが、その後現実的に積み重ねられてきた事実をもとにすると、簡単に憲法について破棄、という方法はとれないのではないのか」――
やはり傘下団体がどういった思想・信条に基づいて政治行動しているかまで問題としない発言となっている。
東京都のHPにアクセス、請願の採択を探してみた。《総務委員会速記録第十一号》(2012年9月18日)として載っていた。
藤田総務部長「この請願は、京都府京都市の南出喜久治さん外5034人から提出されたものでございます。紹介議員は、土屋たかゆき議員、野田かずさ議員です。
その要旨は、憲法、典範、拉致、領土、教育、原発問題などの解決のために必要な国家再生の基軸は原状回復論でなければならないことを公務員全員が自覚すべきであるとする決議がなされること。占領憲法(日本国憲法)が憲法としては無効であることを確認し、大日本帝国憲法が現存するとする決議がなされること。
占領典範(皇室典範)の無効を確認し、明治典範その他の宮務法体系を復活させ、皇室に自治と自律を回復すべきであるとする決議がなされることの三点でございます」云々――
既に分かっていたことだが、大日本帝国憲法下の戦前日本への回帰となっている。この回帰は安倍晋三が兼々主張している「戦後レジームから脱却」に相通ずる。
安倍晋三は第165回臨時国会終了を受け他首相官邸記者会見で次のように発言している。
安倍晋三「この臨時国会におきましては、その改正教育基本法とともに、地方分権改革推進法等、政府が提出をいたしましたすべての法律が成立をいたしました。そしてまた、防衛庁の省昇格等、重要な法案もすべて成立をいたしたわけであります。
こうした法律は、私が所信表明で述べたように、戦後レジームから脱却をして、新たな国づくりを行っていくための基礎となる、礎となるものであります。その意味で、この国会においてこうした成立をみたことは、私は大きな第一歩を記すことになった、このように考えております。」
国家主義者安倍晋三は戦後民主主義国家日本はアメリカから押し付けられたものと考えて、そのような「戦後レジームから脱却をして、新たな国づくりを行っていく」、その国のモデルを少なくとも自らの郷愁を通した戦前日本に置いている。
大日本帝国憲法が国家を至高の存在とし、その国家に個人の権利・自由を従属させる国家主義に如何に彩られていたか見てみる。
大日本帝国憲法は先ず「第一章 天皇 第一条」で、「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」、「第三条」で、「天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」と天皇の絶対性=国家の絶対性を謳っている。
天皇の絶対性=国家の絶対性とは断るまでもなく、国民を天皇及び国家に従属させていることによって成り立つ。
このことの否定となる重大な人権の一つである「信教の自由」に関しては、「第28条」で、「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケズ及臣民タルノ義務ニ背カザル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」と規定しているが、明治政府は維新期に神社神道と皇室神道を結合させて国家神道を成立せしめ、国家神道の国教化を図るが失敗。1890年11月29日の大日本帝国憲法の発効によって上記のように信教の自由を保障するが、国家神道を他宗教の上位に置いて、すべての宗教に優越せるものと規定、天皇制イデオロギー及び国家主義思想の理念的拠り所として国民隷属の装置としてきたのだから、実質的な意味での信教の自由を保障していない、見せかけの人権規定に過ぎなかった。
このことは「第29条」の「日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ言論著作印行集會及結社ノ自由ヲ有ス」の言葉通りの規定に反して、憲法以外の一般法で“自由”に制限を加えていることと関連する。
条文の「印行」(いんこう)とは「印刷して発行する」ことで、出版を意味する。決して「淫行」(いんこう)の誤字ではない。お間違えないように。
例えば1880年公布の「不敬罪」は憲法に規定はないが、天皇絶対性のもと、他の法律に優先させ、皇室に対して不敬の罪(敬意を払わず、礼儀を失すること)を犯した者を罰する法律であって、国民の言論の自由に制限を加えていた。
また1893年(明治26)公布の「出版法」は内務大臣の発売・頒布禁止権限規定と、犯罪煽動と皇室尊厳の冒涜に対して取締規定が盛り込んであり、出版の制限を通して言論の自由を抑圧していた。
1901年(明治34年)3月公布の「治安警察法」は、「第29条」が「集會及結社ノ自由ヲ有ス」と保障している集会・結社、社会運動・労働運動を取り締まって、自由な政治活動を制限し、その制限は当然、言論の自由の抑圧へとつながっていく。
1909年(明治42)公布の「新聞紙法」は、内務大臣の行政権限による発売頒布禁止・差し押さえの規定があり、言論報道取締まりの役割を果たした。
時代が下るにつれて、憲法が保障していた個人の自由・基本的人権を有名無実化していったのである。
個人の自由・基本的人権の有名無実化とは天皇の絶対性・国家の絶対性の強化を裏返ししていることに他ならない。
表向き大日本帝国憲法では個人の権利・自由を謳っていたものの、他の法律で「国家をすべてに優先する至高の存在あるいは目標と考え、個人の権利・自由をこれに従属させる」国家主義思想を体現させ、その国家主義で以って国民を支配していたのである。
「憲法を破棄する権限」云々以前に、天皇と国家を上に置いて国民を下に置いた大日本帝国憲法下の戦前日本への回帰を衝動して、国民主権を傲慢な思想だと否定する国家主義を今の時代に主張する勢力が依然として存在し、傘下の組織がそのような危険思想を主張しても、上部組織の橋下代表が「政治家の自由行動だ」と容認する。
大手を振って国家主義の罷り通りを許したも同然である。