安倍晋三は仲井真前知事が認めた沖縄振興予算と基地移設のヒモ付きの関係を無視する翁長新知事が許せない

2015-01-11 10:21:04 | 政治


 仲井真弘和は沖縄世論が辺野古移設反対で沸騰していた中で移設容認から移設反対に公約の色を塗り替えて2010年11月の沖縄県知事選に2期目再選を目指して立候補、見事当選を果たした。

 そして自民党が政権を握って2012年12月26日に第2次安倍政権が発足してから、仲井真弘和と安倍晋三の間にいつの頃かに密約を交わしていたのではないだろうか。

 仲井真の方から、「色を塗り替えた公約の色を元に戻すには目に見える形での基地負担の軽減と沖縄振興予算のはっきりと目に焼き付けることのできる増額がなければ、我が沖縄県民は納得しないだろうから、私自身にしても公約の色を元に戻すことはできない」と。

 そして安倍晋三はその提案に応じた。

 なぜなら、安倍晋三の沖縄振興予算の付け方があまりにも気前良かったからだ。

 民主党政権時代の2011年度沖縄振興予算額2301億円、2012年度沖縄振興予算額2937億円と一括交付金を除いて3000億円を下回っていたが、安倍政権となって安倍晋三は2013年12月24日の閣議で、沖縄の振興予算を2021年度まで毎年3000億円台を確保する方針を表明、

 2013年度沖縄振興予算額は3001億円と1億円と僅かではあるが、3000億円台に乗った。但し初めてではない。2003年度は3002億円と3000億円を超え、2003年度を基点に遡るに連れて年々増えて、1998年年度は4713億円となっている。

 2013年度沖縄振興予算額が3001億円と决定した時点前後はまだ両者の密約は成立していなかったのではないのか。

 2013年12月末に2014年度予算案の編成を巡る閣僚折衝で沖縄振興予算は概算要求を上回る3460億円を計上、そのままの額で閣議決定されている。沖縄振興一括交付金も大幅に増額、対前年度比146億円(9.0%)増の1759億円となっている。

 この頃には既に仲井真知事の塗り替えた公約の色を元に戻していたと推測することができる。基地移設には県知事の約束が第一番に必要となる。約束の目鼻がつかなければ、沖縄に関わる予算を奮発するという形で安倍晋三がこんなに元気づくことはあるまい。

 そして安倍総理大臣と仲井真知事の両者は2013年12月25日午後、首相官邸で会談、安倍晋三はここで2013年12月24日の閣議で表明した沖縄の振興予算を2021年度まで毎年3000億円台を確保する方針と2014年度を3460億円計上することを伝えている。

 勿論、基地負担軽減策も約束している。

 仲井真知事「安倍総理大臣みずから驚くべき立派な内容を提示していただき、沖縄の140万人県民が心から感謝している。お礼を申し上げたい。

 安倍総理大臣の回答をきちっと胸の中に受け止め、普天間基地の代替施設の建設にかかる埋め立ての承認・不承認を2日後をメドに最終的に決めたいと思っている」

 内々の約束が何もなければ、「驚くべき立派な内容」など提示できもしないだろう。

 安倍晋三「安倍政権は引き続き沖縄振興と基地負担軽減の両面にわたり、沖縄の方々の気持ちに寄り添いながら、政府一丸となって全力で各種の施策に取り組んでいく」(NHK NEWS WEB

 安倍晋三は翌年2014年1月24日の施政方針演説でも、「沖縄の方々の気持ちに寄り添いながら」という同じ言葉を使っている。

 安倍晋三沖縄の方々の気持ちに寄り添いながら、『できることは全て行う』との姿勢で取り組んでまいります」――

 仲井真会談と施政演説の間の2013年12月27日に仲井真弘多知事は米軍普天間飛行場の移設に向けた名護市辺野古の埋め立て承認を表明している。

 埋め立て承認後の「沖縄の方々の気持ちに寄り添いながら」は理解できる。承認前に既に同じことを言っているのは、2014年度沖縄振興予算額3460億円計上の経緯と併せて考えると、承認に関わる前々からの裏付けがあったとしか思えない。

 要するに沖縄振興予算は埋め立て承認をヒモ付きとしていたということである。勿論、埋め立て承認をステップとした基地移設をも含んだヒモ付きとしていた。

 このことは2014年11月16日投開票の沖縄県知事選で3選を目指した仲井真知事が落選、辺野古移設反対の翁長雄志(おなが・たけし)氏が当選したことで、安倍内閣の県知事なる存在に対する態度がガラリと変わったことで十分に理解できる。

 安倍政権は翁長氏県知事当選後、12月に入って2015年度予算案での減額を視野に入れた沖縄政策を見直す検討に入った。

 このことは沖縄振興予算が辺野古移設とヒモ付きでなくなることは許さないということを意味している。

 勿論、表向きは否定している。2014年12月26日の閣議後記者会見。

 菅官房長官(沖縄振興予算について)「まさに調整中で削減の方針を固めたという事実はない。沖縄振興は特別措置法に基づいているわけで、アメリカ軍普天間基地の移設計画とリンクすることもない」(NHK NEWS WEB/

 だが、この言葉がウソであるのは次の言葉が証明する。

 菅官房長官(就任後初めて東京を訪れている沖縄県の翁長知事との面会について)「年内はお会いするつもりはない」(同NHK NEWS WEB/

 いくら年内の忙しい時期であったとしても、移設賛成の知事であったなら、会わないということがあるだろうか。2017年度政府予算編成関連で沖縄振興予算に関わる要請を上京の目的の一つとしていたのである。 

 さらに同じ12月26日、複数の政府関係者が安倍政権が2015年度の沖縄振興予算を概算要求(3794億円)から減額する方針を固めたことを明らかにしたと「47NEWS」記事が伝えていることも、菅官房長官発言の虚偽性の証明となる。

 第2次安倍政権下の仲井真知事時代は沖縄振興予算も一括交付金も年々増額していた。いわばヒモ付きの保証があったからこその年々の増額だった。

 その保証を無としたら、減額を辿るぞというサインである。沖縄県民の県内移設反対の民意が選択した翁長新知事でありながら、その民意を無味に二郎としているのだから、とてもとても、「沖縄の方々の気持ちに寄り添う」どころではない。

 この言葉自体も辺野古移設とヒモ付きの関係としていたことになる。

 2014年12月に東京を訪れていた翁長新知事は希望していた安倍晋三首相や菅義偉官房長官らとの面会ができなかったと、12月26日付「時事ドットコム」記事が伝えている。

 上記菅官房長官の「年内はお会いするつもりはない」の拒絶発言が翁長新知事の面会希望を潰えさせた意思表明となる。

 そして極わめつけは2015年度沖縄振興予算審査自民党会合に、2012年には仲井真知事を招いていながら、翁長新知事を招かなかったと「TOKYO Web」が伝えている。翁長氏が1月8日、都内で記者団に「例年(知事が党会合に出席)しているので、沖縄の実情を聞いて貰えればありがたい」と出席を希望しながらである。

 自民党沖縄県選挙区衆院議員「知事はまず党県連との関係を何とかしないといけない」

 政権幹部「立場を弁えろという話だ」(以上同TOKYO Web

 前者の発言は自民党沖縄県連との関係修復=移設容認を求めたもので、後者の発言は、私自身の解釈ではヒモ付きであるからこそ沖縄振興予算があるんだという意味であるはずだ。ヒモ付きであることを忘れたなら、希望通りの予算は獲得できないということを知事の立場として弁えろということであるはずだ。

 ヒモ付きとしているからこそ、沖縄振興予算を辺野古移設を認めさる圧力の対象とすることができる。その手段として面会を回避したり、会合への出席を断ったり露骨な手に出る。

 安倍晋三=安倍晋三の沖縄に対するこのような露骨な仕打ちは結婚もしくは同居女性の幼い連れ子に対する無抵抗・無防備をいいことに繰り広げる児童虐待を思わせる。 

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NHK籾井会長1月8日定例記者会見発言要旨情報隠蔽と会長の思想・言論の自由無視の時代遅れの差別と排除

2015-01-10 10:08:32 | 政治


 2014年1月25日のNHK会長就任記者会見で記者の質問に対して「従軍慰安婦の問題はどこの国にもあった」とか、竹島や尖閣の領土問題について、「日本の立場を国際放送で明確に発信していく、国際放送とはそういうもの。政府が『右』と言っているのに我々が『左』と言うわけにはいかない」と発言して一躍時の人となった籾井勝人がそれ以来何度目かを経て、今回再び時の人となっている。

 発端はお笑いコンビの爆笑問題が1月7日(2014年)未明放送のTBSラジオで、NHKのバラエティー番組に出演した際、用意していた政治家についてのネタをNHK側から却下されたことを明かしたことから始まっている。

 《NHK:お笑い番組で「政治ネタ却下」 爆笑問題明かす》毎日jp/2015年01月08日 01時34分)

 1月3日の放送前の打ち合わせで当日のネタのチェックがあり、「プロデューサーに却下され」

 田中裕二「政治家さんのネタがあったんだけど全部ダメって言われた。あれは腹立った」

 太田光「誤解しないでもらいたいんだけど、政治的圧力は一切かかってない。テレビ局側の自粛というのはあります」

 田中裕二「それは色濃くなっているのは肌で感じる」

 太田光代・爆笑問題所属事務所社長(毎日新聞の問合せに)「NHKとの話し合いで、時間調整のためにネタの一部を落としただけだ」(以上参考引用)

 NHK広報局「放送にあたって娯楽番組の通常の打ち合わせを出演者と行った。その中身については普段から答えていない」(コメント)

 太田光代とコンビ側の見解が異なっている。コンビ側が納得していない以上、時間調整が理由であるなら、他のネタを落としてもよかったはずだ。

 太田光が言っている「政治的圧力は一切かかってない」はNHK側から所属事務所に公の形で政治関連のネタは今後一切遠慮して貰いたいといった通知、もしくは要請はなかったという意味なのだろう。

 当然である。もしそんなことをして、事実と証明されたなら、NHKは放送免許取消しに発展しかねない問題を抱えることになる。もしNHK側が政治ネタで問題を起こしたくないという触らぬ神に祟りなしの状況に支配されて、自分たちでそういった放送は控えようという危機管理に囚われていたとしたら、公の形を取った政治的圧力が危険なのは百も承知していて、残された自粛という形で現場現場で個々の問題に対処する方法を選択、危険を嗅ぎ取った政治ネタを放送に乗らない前に芽の内に摘み取っていく手に出るはずだ。

 勿論、自粛するについては国家権力に対する忖度の意思を前提としていることになる。

 もしこういった経緯を取った爆笑問題の政治家ネタのボツであったとしたら、2013年10月のNHK経営委員国会同意人事で安倍晋三は与党多数の力を以って再任の1人を除き新任の4人全てを自身に近い人物を通して、この4人で安倍政権下で任命された経営委員は10人にのぼることから、4人が全て安倍晋三に近い人物ではなかったかという事実を以ってすると、10人全員が同じ類いだとすることが可能となって、そのことが功を奏した経営委員12人のうち9人同意を以てして選任した安倍晋三に近い籾井会長選任と言うことができるし、安倍晋三にとってこのことがなおさら幸いしたNHK放送現場での国家権力の意思忖度を通した自粛である可能性と言うこともできる。

 籾井勝人が今回時の人となったのは1月8日の会長定例記者会見での爆笑問題のラジオ発言に関した発言による。

 実際にどう発言したのか、詳しいことを知りたいと思ってNHKのサイトにアクセス、検索してみたら、見つけることができた。《1月会長定例記者会見要旨》NHK広報局/平成27年1月8日) 

 だが、マスコミが伝えている爆笑問題のラジオ発言もサザンオールスターズがNHK紅白で歌った「ピースとハイライト」の歌詞の政権風刺問題も、一切触れていない。

 記者の質問を並べてみる。

 Q.新年にあたって
 Q.8Kスーパーハイビジョン 今年の取り組みについて
 Q.年末年姑の主な番組について
 Q.全豪オープンテニスの放送について
 Q.第44回番組技術展について
  Q.現在のメディアのあり方について
 Q.国際放送の強化に対する理解について

 NHKの経営そのものに関係しない記者の質問だから省略したという理由も成り立つ。だが、厳密に言うと、NHK会長の主義主張、あるいは歴史認識は経営方針に影響しないとも限らないのだから、どんな発言も経営そのものに関係しないとすることはできない。

 大体が、《籾井勝人会長就任記者会見要旨》NHK広報局/平成26年1月26日)では、一見してNHKの経営そのものに関係しないよう見えても、慰安婦発言も竹島・尖閣の領土発言も記載している。 

 2014年1月26日の就任から2015年1月8日の記者会見までの間に安倍晋三と自民党側からの選挙に関わるマスコミ報道の側に対する政治的圧力が存在した経緯や世の中の右傾化などを考えると、NHKが国家権力の意思を忖度して、1月8日の記者会見要旨に爆笑問題の政治家ネタのボツやサザンオールスターズの政治風刺に関してこれ以上問題を大きくしたくないという自粛の力が働き、一切要旨に加えない情報隠蔽を謀ったと疑うこともできる。

 仕方がないから、マスコミ報道から籾井発言を見てみることにする。

 《爆笑問題の政治ネタ没でNHK籾井会長「個人に打撃、品性がない」》The Huffington Post/2015年01月08日 21時51分 JST)   

 籾井勝人(お笑いコンビ「爆笑問題」が政治家ネタをNHKのお笑い番組で没にされたとラジオ放送で明らかにした件について一般論として)公共放送で、視聴者もいろんな方もいる。お笑いの人のギャグで、ある個人に打撃を与えるのは品性がないと思う。やめた方がいい。

 (記者が政治風刺と表現の自由の問題について考えを問うと)ケース・バイ・ケースだ。

 (サザンオールスターズが紅白で歌った「ピースとハイライト」の歌詞を政権風刺と受け取る見方があることについて)初めて聞いた。歌詞の一つ一つまでは全然聴いておりません。歌合戦ですからね。そもそもサザンの歌って『わーわーわーわー』って歌じゃないですか。言葉よりも、リズムと激しい歌い方が持ち味ですから」(以上参考引用)

 相変わらず頭の悪い品位のない感覚を曝している。

 籾井勝人はNHK会長という公人の立場で記者会見に臨んでいるのであって、私人の立場で臨んでいるわけではない。にも関わらず、NHK会長という公人としての自身の立場を一切弁えずに個人の趣味が分かれるサザンの歌に関する好みを公人として発言する愚昧さを見せている。その頭の悪さ、品位のなさは底知れない。

 記者はサザンの歌詞を政権風刺と受け取る見方があることについて聞いたのである。自分は歌詞を聴いていなくても、政治風刺が風刺として効果を上げるかどうかは、政治家の得意のポーズを滑稽に真似る風刺もあるが、主として言葉に如何にワサビを利かすか、言葉の使い方にかかっている。

 当然、政治風刺として歓迎するサザンのファンは「わーわーわーわー」というだけの歌とは決して受け止めていない。歌う言葉を理解して、それに喝采しているのである。

 政治風刺のみならず、愛の歌であっても何であっても、サザンのファンの多くは言葉を問題にしている。言葉と歌う声の質のマッチに心地よさを感じる。 

 そういった諸々のことを理解できないなら、できないでいい。もし籾井勝人が政権風刺と受け取る見方があることを「初めて聞いた」ということなら、あるいは「歌詞の一つ一つまでは全然聴いておりません」ということなら、さらに「『わーわーわーわー』って歌」としか理解していないなら、「政権風刺かどうかについて答える材料を私は持っていません」と答えるのが公人としての務めであろう。

 そういった務めさえ見せることができない愚かさに取り憑かれている。

 爆笑問題の政治家ネタのボツの問題にしても、政権風刺は風刺の対象(者)に対して何らかの打撃を与えたいという意図の下に行う。例えばその政治家や政党の支持者を一人でも減らしたいとかの意図を込める。

 だが、意図に反して政権風刺を以てして打撃を与えたいと思う政治家程、安倍晋三のようにツラの皮が厚く仕上がっていて、なかなかどうして打撃を与えることができない。何だかんだと言い抜けて、効果を殺してしまう手管に長けている。

 だとしても、どのような政権風刺であっても、思想・言論の自由に基づいて発信される。

 勿論、何でも許されるというものではない。最低限の品位を保っていなければならない。

 逆説するなら、政権風刺が思想・言論の自由として許されている以上、最低限の品位を保っているかどうかを基準にその発信の妥当性は判断させるべきを、頭の賢い籾井勝人は個人としてもNHK会長としても何ら基準を設けず、何ら判断する頭を持たず、政権風刺一般を「品性がない」と決めつけ、排除している。

 この場合の排除は差別を意味する。

 籾井勝人の政治風刺なるものを思想・言論の自由の面から理解するまでに至っていないこの頭の悪さが見せることになっている排除と差別の心理は、ホステスという職業がまだ市民権を得ていない時代、その職業の女性たちを賤しい職業に従事していると蔑んで差別し排除した理由が、あるいは性同一性障害者が社会的認知を受けていない時代、彼ら・彼女たちを奇異な目で見て差別したり排除したりした理由が時代的に理解するまでの能力を持つに至っていなかったことが原因していたのと同じ経緯に基づいて成り立たせているはずだ。

 NHKの自粛と疑われる姿勢も問題だが、サザンの歌を「『わーわーわーわー』って歌じゃないですか」としか評価できない籾井勝人の感覚一つ見ても理解できることだが、こういった思想・言論の自由無視の時代遅れの人間がNHKの会長を務めている。

 
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橋下徹、北の湖相撲協会理事長、川勝静岡県知事の発言に日本の教育を見る

2015-01-09 09:49:05 | 教育
 


 日本人について言うと、上に立つ者は自らが位置する上の地位を権威として下を従わせ、下は上の権威に従う権威主義を思考傾向・行動傾向としている。勿論、すべての日本人がそうであるわけではない。

 この権威主義的思考傾向と行動傾向が日本の教育に於ける思考様式・行動様式に現れて、暗記教育を連動させている。教師を上の権威として、教師が発する情報・知識を下に位置する児童・生徒が自らの考えや主張を介在させずに、考えや主張を持たないからだが、そのまま丸呑みする形で頭に暗記させる形式の教育となっている。
 
 その結果、テストの成績は教師が伝えた知識・情報をそのままの形で如何に頭の中に暗記しているかによって決まることになる。

 何十回となくブログに書いてきたことだが、今の日本の教育は暗記教育を脱して、児童・生徒が自らが考える教育となっているという人もいる。

 だが、1月7日(2015年)のNHKニュース「おはよう日本」を視ていて、なかなかどうして暗記教育から脱しきれていない思いを強くした。ニュースで流していたことをNHKサイト、《NHK報道番組「特集まるごと」ポータルページ》でテキスト版として紹介している。  

 《“強い組織”作る秘けつは…》NHK NEWS WEB/2014年2015年1月7日)

 日本ラグビーチームを去年2014年にテストマッチ10試合で9勝に導き、11月の世界ランキングで過去最高の9位につけたエディー・ジョーンズヘッドコーチが日本人メンバーの特徴を発言している。

 母国オーストラリアをワールドカップ準優勝に導いた経験があると記事は紹介している。

 エディー・ジョーンズ「私が日本代表にまず伝えたことが、“日本人でも世界で成功できる”ということでした。

 そのためには“ビジョン”を持ち、すべての戦略をそのビジョンに向かわせる必要があります。つまり、組織が“団結”しなくてはならないのです」

 ここで言う組織の団結とは上が指示した考えに従って、いわば上が指示した考えを全員の考えとして、集団として一つの行動を取るということではなく、このような行動は戦前の国家権力と国民との関係に見られたものだが、メンバー一人ひとりが自分の考えを出し合って、チームとしての一つのビジョンに創り上げ、そのビジョンに向かって一致団結して力を合わせるという意味での組織の団結であるはずである。

 前者は上の言うことを聞いて、上が言っていることを成績の形で如何に実現するかにかかることになるから、行動や思考の忠実性のみを求められて、メンバーそれぞれの主体性・自律性の要素は必要とせず、後者は思考上も行動上も極めて主体的・自律的であることを求められる。

 上の指示から離れて、自分たちでチームを創り上げて、自分たち考えてプレーして、成績の形として残さなければならないからだ。

 エディー・ジョーンズ「私が一番苦労したのは、日本選手は練習熱心で規律正しい一方、“自主性”が欠けているため、すべての原動力をトップが与えなくてはならないことです。

 本当に強いチームは、トップからも現場からも原動力が生み出されます。選手がもう少し“自主的”になれば、日本は必ず強くなるんです」

 「すべての原動力をトップが与えなくてはならない」という言葉が日本人の行動的傾向・思考的傾向である権威主義を最もよく形容している。上が指示し、下がその指示に従うということであり、上が指示した考えを下が自分たちの考えとし、そのような上の考えを下の者が行動(=プレー)の原動力としているということである。

 いわば自分たちの考え・ビジョンそのものを原動力(=行動原理)としていない。

 自主性(=主体性・自律性)の欠如そのものの具体的な指摘であり、だから、その欠如を直接的な言葉で二度も言及しなければならなかった。

 では、なぜ欠如しているのかというと、元々権威主義的傾向のあるところへもってきて学校教育で暗記教育という形で知識・情報を権威主義的な伝達方法で刷り込まれ、慣らされることになっているからだろう。

 ラクビーと学校教育とではそれぞれが関わることになる行動や思考の内容は違っていても、知識・情報を受入れる姿勢そのものは変わらない。もし変わっていたなら、エディー・ジョーンズヘッドコーチは自主性の欠如を指摘などしないだろう。学校授業での自主性の欠如を引き継いだプレー上の自主性の欠如としなければならない。

 このことは2006年8月から2007年11月まで日本サッカーチームの監督をしたイビチャ・オシム(ボスニア・ヘルツェゴビナ)も指摘している。2003年の言葉だというから、「ジェフユナイテッド市原」(新名称「ジェフユナイテッド千葉」)の監督時代の言葉なのだろう。

 オシム「日本人コーチに即興性、柔軟性、創造性が欠けているから、選手にもそれが欠ける。コーチが変わらないと選手は変わらない。そういう指導者からは、創造性に欠ける選手しか生まれない。

 文化、教育、世情、社会に左右されることはよくない。サッカーは普遍的なもの。そして常に変わっていくからコーチも常に変わっていく必要がある」――

 「即興性、柔軟性、創造性」とは極めて個性的な能力であって、当然、それぞれの主体性・自律性を要素として生まれる。主体性も自律性もない姿勢からは「即興性、柔軟性、創造性」は生れない。

 個性的とはそれぞれが独特だということであって、独特から離れて多くの人間が同じ「即興性、柔軟性、創造性」を持ったなら、それぞれの特性を失って、自己否定を為すのみである。

 また、「文化、教育、世情、社会に左右されることはよくない」との指摘で「即興性、柔軟性、創造性」の欠如が日本人全体の傾向としてあることを言っている。

 2003年にオシムによって「日本人コーチに即興性、柔軟性、創造性が欠けている」という言葉で日本人の主体性・自律性の欠如を言われながら、2015年の年頭早々にエディー・ジョーンズヘッドコーチに「自主性が欠けている」と、同じく主体性・自律性の欠如を言われる。

 日本の教育が暗記教育から脱していたなら、このような指摘は受けない。

 橋下徹も日本の暗記教育の悪影響を受けている。

 維新の党が2015年の年明けから、当選1回議員の選挙対策強化ために江田代表が支援者の発掘と組織作りなどを手ほどきする新人教育を始めると、「YOMIURI ONLINE」が伝えていた。

 テーマは「脱・風頼み」。衆院選の伸び悩みに危機感を覚えた橋下徹最高顧問(大阪市長)が、無所属での当選経験もある江田氏に指南役を要請したのだそうだ。

 橋下徹が衆院選中の「候補者の演説の下手さにあきれ」て、演説のモデル原稿を江田氏と共に作り、候補者に配っり、投開票日に江田氏に「新人教育をしてほしい」と依頼したのだという。

 国会議員を目指す者が共同代表に演説のモデル原稿を作って貰い、ほぼそのとおりに自分の主張として街頭で演説する。江田の演説を下敷きにした多少のアレンジはあるだろうが、元々の独創性はないことになる。

 何のことはない、学校教育に於ける教師から児童・生徒への知識・情報の伝達と、伝達された教師の知識・情報を児童・生徒の知識・情報とするのと同じ構造を取っているに過ぎない。

 なぜそれぞれの主体性・自律性に任せることができないのだろう。人の考えを自分の考えとさせるような訓練を行っていたなら、当然主体性・自律性は育たない。

 「国会議員になりたければ、国会議員としての義務と責任を満足に果たすことができるように自分で勉強しろ」と突き放した指示を出すことによってのみ、自らの思考・行動で主体性・自律性を獲得することができる。

 あるいは、「党の政策があり、それぞれが自分の言葉で表現して有権者に訴えて欲しい」と言うことで独自性が生れ、国会議員として、あるいは政治家として自律的・主体的存在足り得る。

 勿論、演説の文言もその中に入る。自分なりに独自の言葉を創造しなければならないだろう。

 確かに橋下徹は内容の当否は別にしてシャベリはうまい。その思考や行動は主体的であり、自律的であるかもしてないが、議員たちに主体性と自律性を求めることができない点は日本の暗記教育の欠点を受け継いでいるとしか見えない。

 昨年の暮の12月26日、東京・両国国技館の相撲教習所で横綱審議委員会による稽古総見が行われたという。11月場所で大鵬の優勝回数に並ぶ32回目の優勝を果たした白鵬がすり足やぶつかり稽古で胸を出しただけの練習で、相撲は一番も取らなかったという。

 北の湖理事長「もう少し(力を)長く維持したいのなら(稽古を)やれる時にやっておかないと駄目」(日刊スポーツ

 記事は、〈苦言を呈した。〉と解説している。

 32回も優勝した男に一切を任せることができない。自分の考えに合わないと、ついつい口を出してしまう。本人の主体性・自律性に恃むことができない。

 学校の先生が時間がないと言っていることは、児童・生徒を自律させることができず、その主体性に頼むことができないままにああしろ、こうしろと何から何まで手を掛けなければならないから、結果として時間を取られるということであるはずだ。

 北の湖理事長の言葉に学校教師の姿を見る思いがした。

 最後に川勝静岡県知事の仕事始め式の挨拶。

 川勝知事「今年の干支の羊は臆病な動物だが、皆さんにはじっくり考えつつも迷いを断ち、決断し、実行する人であってほしい」(NHK NEWS WEB

 川勝平太は国際日本文化研究センター客員教授、麗澤大学比較文明文化研究センター客員教授、早稲田大学政治経済学部教授、静岡文化芸術大学学長などを歴任している教育者でもある。

 「今年の干支の羊は臆病な動物だが、皆さんは仕事をするに当たって臆病なままの羊であってはならない。決断と実行の人であって欲しい」と言うなら分かるが、羊と職員を関連づける言葉を欠いたままつなげる、教育者にあるまじき言葉の使い方をしている。

 だが、何よりも問題なのは、大の大人を相手にして指示しなければならない立場にあり、職員側にしてもそのような指示を受けなければならない関係に立たされているのだろうか。

 両者の関係がそのようなものなら、言葉の裏をそのまま返した意味で、上が指示しなければ「決断し、実行できない人」たちばかりの状況になっているということになる。

 いわば主体性も自律性も持ち得ていない職員ばかりとなる。

 オシムの言葉を利用させて貰う。「コーチが変わらないと選手は変わらない」

 「県知事の意識が変わらないと、職員の意識は変わらない」

 一々上が指示を出さなくても、職員が主体的・自律的に思考・行動できなければ、決して仕事の生産性は向上しない。地方創生も覚束ない。

 上に立つ人間が暗記教育の弊害をいつまでも日本の文化としていたのでは、自律的行動も主体的行動も、さらには自律的思考も、主体的思考も期待できない。当然、下も変わらない。

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安倍晋三の念頭所感「アベノミクスをさらに進化させる」はカネがカネを生む構造を取った格差拡大策

2015-01-08 09:25:37 | 政治


 今年1月1日から相続税の基礎控除額が40%引き下げられて子ども2人相続の場合、遺産額7000万円までの非課税が4200万円で課税されるようになったと、「NHK NEWS WEB」記事が伝えている。

 最高税率もこれまでの50%から6億円を超える分が55%に引き上げられたという。

 数字だけ見ると、国家という名の追い剥ぎから相当なボッタクリに遭うようだが、国税庁によると、課税対象者の割合は約4%から6%に増える見込みのみだとしている。

 日本の人口約1億3千万のうちの6%と言うと、780万人。但し何事も対策という防御措置があるから、単純計算の6%であって、780万人が700万人を切らない保証はない。

 記事も節税対策として生前贈与や自宅の庭に賃貸住宅を併設した場合、相続税対象の土地評価額が割り引かれる制度を利用した節税方法を紹介、既に採用・実行している課税対象者をNHKのテレビニュースでは紹介していた。

 なかなか立派な賃貸住宅で、賃貸費もそれなりに取るだろうから、相続税対策でありながら、低所得層には逆立ちしてもマネができないカネがカネを生む構図まで新たに手に入れたことになる。

 所得格差と教育格差の関連性も親子二代に亘る、あるいは親子三代に亘るカネがカネを生む構造を取っている。親のカネ、あるいは祖父母のカネが子の高学歴獲得に寄与して、その高学歴を元手に将来的に高所得が見込まれる職業に就く。

 そして一方でこういった人生行路を取ることができない所得層の大多数が存在して、結果として所得格差が教育格差を生んで、それが新たな所得格差へと発展していくカネがカネを生む構造を連関させることになる。

 生前贈与を形とした相続税対策の広く知られている一つが次のものであろう。

 祖父母が子・孫名義の金融機関の口座等に教育資金を一括して拠出し、その資金を子・孫が利用して教育機関に教育関係費として支払った場合、子・孫ごとに1500万円までを非課税とし、学校等以外に支払われる教育資金については500万円を限度として、併せて2000万円までを非課税とする「教育資金の一括贈与に係る贈与税非課税措置」にしても、2013年25 年4月1日から今年2015年12月31日までの3年間措置ではあるが、初期的な目的は相続税対策ではあっても、カネがカネを生む構造を取ったカネの受け渡しであるはずだ。
 
 利用できる教育機関とは、認定こども園又は保育所など、学校教育法上の幼稚園、小・中学校、高等学校、中等教育学校、特別支援学校、高等専門学校、大学、大学院、専修学校、各種学校、さらにインターナショナルスクール(国際的な認証機関に認証されたもの)、外国人学校(文部科学大臣が高校相当として指定したもの)、外国大学の日本校、国際連合大学と続き、外国にあるその国の学校教育制度に位置づけられている小中高大学、同じく外国にある日本人学校、私立在外教育施設等と多岐に亘り、カネがカネを生む構造を水も漏らさない態勢でバックアップしている。

 利用できる使途は入学金、授業料、入園料、保育料、施設設備費又は入学(園)試験の検定料等学校機関に直接支払う必要経費と学用品費、修学旅行費、学校給食費等の教育機関での教育に伴って生じる必要経費。

 さらに自身の通う教育機関以外では、「社会通念上相当と認められるもの」という条件付きながら、「役務提供又は指導を行う者(学習塾や水泳教室など)に直接支払うカネ」として、学習塾やそろばん塾などの塾費用、水泳、サッカー、野球などの各クラブ費用、ピアノ教室、絵画教室等の文化芸術に関わる費用、そしてこれらの活動で使用する教材その他の物品購入費等々至れり尽くせりの節税対策となっている。

 そしてこういった各クラブや各教室から才能ある人材が輩出して、高額のカネを手に入れていく。

 このような仕組みを見ると、所得格差と教育格差の関連性ばかりか、カネがカネを生んでいく構造を信じない者はいまい。

 この「教育資金の一括贈与に係る贈与税非課税措置」は既に触れたように時限措置で、賞味期間は2015年12月31日までだが、大企業・富裕層味方の国家主義者安倍晋三である、2016年以降も継続しないとも限らない。

 この非課税措置とは別にその年の1月1日から12月31日までの間に生前贈与を受けた場合の基礎控除額に当たる合計額110万円までを非課税とする「暦年贈与」が存在する。これは被贈与者に関して年齢制限はないし、使途の限定もない。公職選挙法とは違って、SMバーの遊興費に使おうと、コスチュームを着て、肌も露わな若い女性にムチで叩かれて特別費用がかかろうと、騒がれることもないし、非難も受けることはない。

 「教育資金の一括贈与に係る贈与税非課税措置」の1500万円+500万円は教育関係費にタップリと使って、年々の110万円は酒と女と旅行の人生経験に有効活用したなら、知識・経験が豊富になって人間の幅を作ることもできるし、幅の広い多方面に亘った人脈作りにも役立って、そういった人生を経ていな他者を居ながらにして雰囲気だけで圧倒、その後の人生を勝ち馬方向に導いてくれるはずだ。

 そうなれば、所得格差と教育格差の生きたシンボルとなることができる。カネがカネを生んでいく構造の実践者として世に存在し得ることになる。

 父母や祖父母などの直系尊属限度の「住宅取得資金贈与」の、贈与を受けた年分の所得税の合計金額が2000万円以下といった条件があるものの、最大1000万円限度枠の非課税にしてもカネがカネを生んでいく構造を取ったカネの流れであるはずだ。

 そういった贈与に縁のない者で自分で土地と住宅を取得した場合、20年、30年とローンに苦しめられながら、稼いだカネからローン分に相当するカネを減らし続けていかなければならないから、カネがカネを生む構造とは逆の構造に囚われの身となる。

 これも時限立法で、平成26年12月31日までであるが、国交省は平成27年度の税制改正に向けて期限を平成29年12月31日にまで延長、非課税枠を3000万円まで拡充する方針だという。

 自民党税制調査会が来年度税制改正で創設を検討している、少子化対策の一環として親や祖父母が結婚や出産、子育ての費用を一括して援助した場合に子や孫1人当たり1000万円を上限に贈与税を非課税とする制度にしても、4年間の時限措置ではあるが、結婚や出産、子育ての費用を一括して援助できる層がどれ程存在しているのかを考えると、やはり余裕所得層に向けたカネがカネを生む構造の機会付与にしか見えない。

 厚労省が纏めた「ホワイトカラー・エグゼン プション」案は対象年収1075万円以上の専門職を週40時間を基本として、それ以上の時間を労働時間規制から外す内容だと言うが、時間外労働の対価としてのカネを労働者自身が手に入れるのではなく企業が手に入れるのだから、ある意味カネがカネを生む構造の制度と言うことができる。

 安倍政権は景気対策と言いながら、一般生活者には関わることができない場所で高額所得者のためにカネがカネを生む構造を用意してやっている。

 上がその構造に恵まれ、下に縁がないことが上下経済格差を生じている最大の原因であろう。そして教育格差もこの中に閉じ込めれている。

 安倍晋三が念頭所感で、「アベノミクスをさらに進化させる」と言っているが、経済格差を更に拡大させると言っているようにしか見えない。

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竹中平蔵の「正社員をなくしましょう」発言は正規賃金の非正規賃金化を狙った安倍晋三同様の国家主義

2015-01-07 09:09:48 | 政治
                    


 竹中平蔵が2015年1月1日テレビ朝日の「朝まで生テレビ!元旦スペシャル」で「正社員はなくしましょう」と発言したとかで、今ネット上で批判やら擁護論やらが飛び交っている。

 番組のテーマは「激論!戦後70年日本はどんな国を目指すのか!」だったそうだ。

 年々の非正規雇用増加に批判が集中している中でのこのような発言だから、当然と言えば当然だが、具体的にどう発言したのか、動画にはアクセスできたが、歳のせいで年々の非正規雇用増加とは逆に年々体力と根気が減退傾向にあって、文字起こしするだけの意欲が湧かず、横着してそのうち出てくるかもしれないと期待していたら、発言個所を文字起こししたネットに悪運強く巡り合うことができた。恐れ多くも天下の竹中平蔵を向こうに回して自分なりにその発言の正当性を解釈して見ることにした。図々しさだけは歳と共に肥大していくようだ。

 全文参考引用。

 《竹中平蔵氏の「正社員をなくしましょう」はどんな流れで発せられたか?(文字起こし)》弁護士ドットコムニュース/2015年01月06日 18時10分)  

「正社員をなくしましょう」――。慶應義塾大学教授で、人材派遣のパソナグループ取締役会長をつとめる竹中平蔵氏が、テレビの討論番組でこのように発言したと、ネットメディアが報じ、大きな反響を呼んでいる。

問題の発言は、1月1日未明に放送されたテレビ朝日「朝まで生テレビ」で、非正規社員の待遇がテーマになったときに飛び出したとされる。翌1月2日、ライブドアのトピックスニュースが、その模様を紹介する記事を掲載。<竹中平蔵氏が非正規雇用について熱弁「正社員をなくしましょう」>という見出しをつけた。さらに1月4日には、ハフィントンポストが<竹中平蔵氏の「正社員をなくせばいい」発言に賛否>と報じた。

●ニュース記事の見出しと「問題発言」は微妙に違っていた


そのようなニュース報道を受け、ネットでは「相変わらずぶっとんでるな」「ふざけるな!」「竹中さんだから叩かれるけど、言ってることは正論だよ」などと、賛否両論の意見が沸き起こった。ライブドアの記事は、はてなブックマーク数が180以上、ツイート数が4000近くにのぼるなど、反響が広がっている(6日午後6時現在)。

これだけ関心を集めた竹中氏の「正社員をなくしましょう」発言は、どのような文脈で発せられたのだろうか。そんな疑問から「朝生」の問題のシーンを録画で確認してみると・・・たしかに、竹中氏は「正社員をなくしましょう」という言葉を口にしているのだが、その前後の言葉も聞くと、ニュース記事の見出しから受ける印象とは、少しニュアンスが違っているようだった。

竹中氏の発言を正確に再現すると、次のようになる。

「同一労働・同一賃金と言うんだったら、『正社員をなくしましょう』って、やっぱり、あなた、言わなきゃいけない」

この「あなた」というのは、それまでの議論の流れやテレビに映ったアングルから見て、民主党の辻元清美衆院議員だと考えられる。つまり、竹中氏は、討論のなかで「同一労働・同一賃金」を求める意見を表明していた辻元議員らに対して、「同一労働・同一賃金」と言うのであれば「正社員をなくしましょう」と言わなければならないですよ、と問いかけていたのだ。

では、なぜ「同一労働・同一賃金」と言うと「正社員をなくしましょう」と言わなければいけなくなるのか。竹中氏のロジックはどのようなものなのか。それを理解するには、問題発言の前後をもっとくわしくみる必要があるだろう。

というわけで、問題のシーンの前後の発言を文字起こしして、以下に紹介する。

●「正社員をなくしましょう」前後の竹中氏の発言

竹中平蔵氏(以下、竹中):みんな多様な働き方をしたいんです。いろんなアンケート調査があって、アンケート調査にバラつきがあるんですけれども、たとえば協会がやったアンケート調査によると、派遣でやっている人の7割は「当面派遣でやりたい」と言っています。厚労省が派遣についてやった調査では、「正社員に変わりたい」という人と「今の非正規のままのほうがいい」という人を比べると、実は「非正規」と答える人が多いんです。数字はね。

多様な働き方があるから、派遣でいるのが「なんか悪い」とか「かわいそうだ」とか、その前提はやっぱり捨ててほしい。それはケース・バイ・ケースだということ。正社員で雇われたい人もいますよ。でも、そうじゃない人も多いんだということをまず大前提にしてほしい。そしてもう一つ・・・。

田原総一朗氏(ジャーナリスト:以下、田原):本当かなぁ、それ。

竹中:本当なんですよ。田原さん、もう一つ大事なことがある。どうして派遣が増えたかというと、簡単なんですよ。日本の正規労働は世界の中で見て、異常に保護されているからなんですよ。

森永卓郎氏(経済アナリスト:以下、森永):それは違います。

竹中:1979年の東京高裁の判例で解雇の4要件が示された。要するに、同一労働・同一賃金と言うんだったら、「正社員をなくしましょう」って、やっぱり、あなた、言わなきゃいけない(編集部注:このとき竹中氏は、辻元氏のほうを見ていた)。全員を正社員にしようとしたから、大変なことになったんですよ。

田原:竹中さんの言った4要件はこれですよ(注:フリップを取り出す)。4要件というのは、人員削減の必要性。解雇回避の努力。人選の合理性。解雇手続の妥当性。4つないといけない。

竹中:実はそれが判例なので、非常に不明確だというところに問題があるんです。だから、大企業のように、訴訟リスク・・・これやると訴訟をされると思うところは、なかなか解雇できない。

田原:そして本当に(訴訟に)負ける。

竹中:そうです。一方で、「うちなんかは訴訟されるわけがない」と思っている中小企業は、平気で正社員といえども解雇しているんですよ。だからそのルールをきちんと・・・。

森永:竹中さんの言っている事実認識がすごく違うのは、実はOECDが雇用者保護の厳格性を綿密に調査して比較しているんですよ。さっき竹中さんがオランダモデルにしろと言ったんですけど、正社員の雇用保護の厳格性は、日本よりもオランダのほうが圧倒的に高いんですよ。つまり、ものすごく厳しいんですよ。解雇には、地方労働委員会の許可が必要なのですよ。ほとんど認められない・・。

竹中:日本の場合、中小企業にそれが適用されていないからなんですよ。だから、厳しいルールも必要なんです。ただ、今はルールが明確ではないということが重要なんです。それを明確化しようと言ったら、「解雇自由化」という議論に歪められるんですよ。

 先ず発言の順を追って、一つ一つ見てみるが、竹中平蔵の発言には情報隠蔽がある。

 「派遣でやっている人の7割は『当面派遣でやりたい』と言っています。厚労省が派遣についてやった調査では、『正社員に変わりたい』という人と『今の非正規のままのほうがいい』という人を比べると、実は『非正規』と答える人が多いんです。数字はね」の発言。

 《労働力調査(詳細集計)平成25年(2013年)平均(速報)結果の概要》(総務省統計局)には次のような記述がある。

 〈正規の職員・従業員は46万人減少,非正規の職員・従業員は93万人増加

 2013年平均の役員を除く雇用者は5201万人となり,前年に比べ47万人の増加となった。このうち正規の職員・従業員は3294万人と46万人の減少となった。一方,パート・アルバイト,派遣社員,契約社員などの非正規の職員・従業員は1906万人と93万人の増加となった。

 男女別にみると,男性は正規の職員・従業員が2267万人と33万人の減少,非正規の職員・従業員が610万人と44万人の増加となった。

 女性は正規の職員・従業員が1027万人と14万人の減少,非正規の職員・従業員が1296万人と49万人の増加となった。〉――

 では、非正規の職員・従業員が現職の雇用形態についた主な理由について。

●自分の都合のよい時間に働きたいから
  男性21.3%
  女性25.4%

●家計の補助・学費等を得たいから
  男性12.3%
  女性26.8%

●家事・育児・介護等と両立しやすいから
  男性0.7%
  女性15.9%
 
●通勤時間が短いから
  男性2.9%
  女性3.8%

●専門的な技能等をいかせるから
  男性11.9%
  女性5.6%

●正規の職員・従業員の仕事がないから
  男性30.6%
  女性14.1%

●その他
  男性20.3%
  女性8.4%  

 確かに男性の場合は「正規の職員・従業員の仕事がないから」と非正規の仕事に就いている割合は30.6%と最多であるが、全体としてみた場合、男女共に「派遣でやっている人の7割は『当面派遣でやりたい』」と竹中平蔵が言っていることはほぼ間違いない。

 だが、雇用形態に限っての統計を示したのみで、正規・非正規別賃金格差、男女別賃金格差、学歴別賃金格差についての情報は隠したままである。

 《平成25 年賃金構造基本統計調査(全国)の概況》(厚労省/平成26 年2月20 日)には次のような統計を示している。文飾は当方。   

 〈雇用形態別の賃金

 雇用形態別の賃金をみると、正社員・正職員314.7千円(年齢41.4歳、勤続12.9年)、正社員・正職員以外195.3千円(年齢45.5歳、勤続7.1年)となっている。

 男女別にみると、男性では、正社員・正職員340.4千円(前年比1.0%減)、正社員・正職員以外216.9千円(同0.7%減)、女性では、正社員・正職員251.8千円(同0.2%減)、正社員・正職員以外173.9千円(同0.5%減)となっている。
 
 年齢階級別にみると、正社員・正職員以外は、男女いずれも年齢階級が高くなっても賃金の上昇があまり見られない。

 正社員・正職員の賃金を100とすると、正社員・正職員以外の賃金は、男女計で62(前年62)、男性で64(同64)、女性で69(同69)となっている。


 なお、賃金格差が大きいのは、企業規模別では、大企業で55(同55)、主な産業別では、卸売業,小売業で58(同59)となっている。〉

 正規と非正規の生涯賃金格差は1億を超えるという統計もある。また非正規と未婚率の相関関係は低賃金が核となっている。学歴格差と経済格差の相関関係も統計上に現れている。

 こういった正規と非正規の生活環境格差の状況を考えると、「当面派遣でやりたい」という「7割」は仕事の内容との関係で低賃金、あるいは正規と非正規の賃金格差を良しとすることができる生活環境にあるか(例えば夫が正社員で、妻が非正規といった場合)、良しとすることはできないが、日本の雇用環境に於ける慣習として賃金格差を止むを得ず受け入れているか、そのどちらかといったところではないだろうか。

 そして後者の要請として同一労働・同一賃金が出てきた。この要請は「正規の職員・従業員の仕事がないから」の男性30.6%、女性14.1%だけではないはずだ。同一労働で男女遜色なく仕事を消化していながら、正規と非正規の賃金格差、男女賃金格差は厳然として存在するからだ。

 この同一労働・同一賃金の要請は非正規の正規化ではなく、非正規のままの正規との同一労働・同一賃金の形態を内容としている。

 だが、竹中平蔵は元々同一労働・同一賃金主張者であったらしく、「同一労働・同一賃金と言うんだったら、『正社員をなくしましょう』って、やっぱり、あなた、言わなきゃいけない。全員を正社員にしようとしたから、大変なことになったんですよ」と言っているところを見ると、自身の主張でもあり、正規の全員非正規化の形態を内容とすることになる。

 つまり正規賃金の非正規賃金化を内容とした同一労働・同一賃金を目指していることになる。

 もしこれが逆で。非正規賃金の正規賃金化を内容とした同一労働・同一賃金であったなら、雇用形態を非正規から全員正規に変えて、[全員正規にしましょう]と言ってもいいわけである。

 非正規の賃金レベルを伴わせた正規の非正規化となる。

 これ程の企業側に立った賃金抑制策はないだろう。国民の生活の豊かさよりも企業の力を豊かにして国力を増すことを狙った国家主義そのものの主張である。

 日本の労働者全員が経営に関係する人間を除いて非正規化させて非正規の賃金レベルで雇用することになったなら、結婚できない若者が急激に増え、人口減少と高齢化に拍車をかけない保証はない。

 経済力の低下が教育機会の減少を招いて学習能力の低下につながり、それがそのまま労働意欲の減退、労働力の低下となって現れて、労働生産性にマイナスの影響を与えないとも限らない。

 こういった金銭や精神状況下に置かれた全員非正規は国民の奴隷化とも形容できる。

 森永卓郎が「竹中さんがオランダモデルにしろと言った」と言っていることは、竹中平蔵がオランダ式の同一労働・同一賃金を目指すことを狙った「日本版オランダ革命"に取り組め」と題して講演している主張のことを指しているらしい。

 オランダでは全員が非正規なのか調べたところ、竹中平蔵と同じくオランダを参考に日本の労働者の正規雇用を非正規化することをテーマとした、《「全員非正規雇用」2012 黒田ゼミ 卒業論文全員非正規雇用》(山崎裕紀子/2012年1月13日)に、〈現状のオランダはパートタイマーと呼ばれる正規雇用待遇を受ける労働者層が半分を占める。〉との記述がある。  

 日本の40%近くから比べると、10%多く非正規化していることが分かる。但し「正規雇用待遇」となっている。

 具体的には、〈パートタイムは労働時間に関する以外はフルタイムと同等の働き方となった。オランダでは多くのパートタイム労働は期間の定めのない正規雇用であり、賃金、休暇、年金等において労働時間比に応じて均等な権利を持つ。

 つまり時間割単位で正規と同等の権利を得ている。

 果して竹中平蔵の「正社員をなくしましょう」の全員非正規化はオランダ式の非正規と同等の権利付与を狙った同一賃金・同一労働なのか、改めて見てみる。

 狙ったものかどうかはオランダの賃金が深く関わってくる。

 《最低賃金制をめぐる世界各国の動き》全労連/2008年7月)のページがオランダの最低賃金について記述している。   
 
 〈2.各国の最低賃金額の水準と引き上げの取り組みについて

 最低賃金の水準について、ILO報告の購買力平価の比較で見ると、発達した資本主義国のほとんどが1000ドル以上で、日本の倍近い。日本の最低賃金は月額換算(07年10月)12万円程度であるのに対し、ベルギー、フランス、オランダは20万円、イギリス、アイルランドは23万円、ルクセンブルグは25万円と、日本よりかなり高い。〉

 日本の最低賃金が2008年当時、全国平均時間単位687円、月額換算11万9309円であるのに対してオランダは21万1695円となっている。

 最低賃金が他の賃金の基準となる。ただでさえ賃金抑制経営のために非正規を年々増やし、人件費カットに動いている日本で、時間割で正規と同等の諸権利を与えるオランダ式導入は幻想に過ぎない

 オランダと日本のこの最低賃金格差からも、竹中平蔵の正規の非正規化が正規の賃金を伴った非正規化による同一労働・同一賃金ではなく、安倍晋三と同様により多く企業の利益を生もうとすることを狙った国家主義に立った正規の非正規賃金化であることを証明して余りある。

 つまり竹中平蔵は狡猾にも以上の情報を隠したまま、特に大企業の味方となったニセモノのオランダ式でしかない同一労働・同一賃金の「正社員をなくしましょう」を主張したに過ぎない。

 断るまでもなく、竹中平蔵は労働問題政策に関して安倍晋三のブレーンの一人となっている。

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安倍晋三が目指す「戦後70年安倍談話」の「先の大戦への反省」の正体によって決まる全体の正体

2015-01-06 09:01:34 | 政治


 昨日の当ブログ記事のトップページの画面が不具合を起こして、見づらいご迷惑をおかけしました。ご迷惑をお掛けした読者には謝罪します。すみませんでした。 

 このブログ記事は既に似たテーマで何度かエントリーしているが、安倍晋三の歴史認識に関係するゆえに、その内閣が継続している間は微力ながらその正体を広く知らしめ、その歴史認識を止めたい思いを込めて、改めて取り上げることにした。

 安倍晋三が1月5日(2015年)、伊勢神宮を参拝、高市や甘利、岸田等11人の閣僚を引き連れて大名参拝し、同日午後、現地で年頭記者会見を開いた。そこで記者の質問に答えて、戦後70年に当たる今年、戦後の各節目に出してきた歴代内閣の例に倣って、戦後70年談話を出す意向を伝えた。

 《平成27年1月5日安倍首相年頭記者会見》首相官邸/2014年1月5日)    

 小田中記者「毎日新聞の小田中です。よろしくお願いします。

 アジア外交についてお伺いします。

 戦後70年の今年、総理は未来志向の談話を出す意向を示してこられましたが、植民地支配と侵略に関する村山談話をどう継承するか、中国、韓国、両国からも注目されています。新たな談話で村山談話の表現を踏襲するなど、継続性を示すのか。また、有識者の意見を聞くなど、今後のスケジュール感について、どのようにお考えでしょうか。よろしくお願いします」

 安倍晋三「従来から申し上げておりますように、安倍内閣としては、村山談話を含め、歴史認識に関する歴代内閣の立場を全体として引き継いでいます。そしてまた、引き継いでまいります。

 戦後70年の間に、日本は自由で、そして民主的で、人権を守り、法の支配を尊重する国を創り、平和国家としての歩みを進め、そしてアジア太平洋地域や世界の平和・発展・民主化などに大きな貢献をしてまいりました。

 戦後70年の節目を迎えるに当たりまして、安倍政権として、先の大戦への反省、そして戦後の平和国家としての歩み、そして今後、日本としてアジア太平洋地域や世界のために、さらにどのような貢献を果たしていくのか。世界に発信できるようなものを、英知を結集して考え、新たな談話に書き込んでいく考えであります」(以上)

 さすが積極的平和主義外交を進めているだけあって、素晴らしいことを言う。

 談話の構成は「先の大戦への反省」、そして「戦後の平和国家としての歩み」、最後に「未来に向けて世界に貢献していく平和国家としての日本の将来像」と言うことになるらしい。

 出発点は「先の大戦への反省」である。先の大戦にどう向き合い、どのような思いを心に刻んだ反省であり、総合としての歴史認識なのか、その内容次第で、日本の将来像に向けた言葉がその歴史認識と矛盾しない誠実な言及なのかどうかが分かれることになる。

 なぜなら、人間、本心を隠していくらでも言葉を美しく飾り立てることができ、飾り立てた言葉を以って本心だと偽ることができるからだ。

 では、どういった反省なのか、安倍晋三は「安倍内閣としては」という条件付きで、「村山談話を含め、歴史認識に関する歴代内閣の立場を全体として引き継いでいます」と言っている。

 ここで二つの問題点を指摘することができる。

 先ず一つは「安倍内閣としては」引き継いでいても、安倍晋三自身は果たして引き継いでいるのかという問題である。

 談話は安倍内閣として閣議決定して発表するという段取りを踏むが、内閣のトップである安倍晋三が主体となった談話であり、「安倍」の名前を冠する以上、安倍晋三個人として「村山談話」の反省をどう引き継いでいるのか、その歴史認識次第で、内閣としての「反省」に言葉ではそれらしく見せた偽りを忍び込ませた談話となる危険性は排除できない。

 もう一つは安倍晋三自身の先の大戦に対する歴史認識である。「先の大戦への反省」はその歴史認識に対応して、談話の肝心の出発点となるからなのは断るまでもない。

 先ず「村山談話」について安倍内閣として「全体として引き継いでいる」と言っている。と言うことは、個々の点では受け継いでいない点もあることを意味することになる。

 ではどの点を受け継いでいて、どの点を受け継いでいないか、見てみることにする。文飾は当方。

 2013年2月1日の「第183回国会参議院本会議」での福島みずほ当時社民党代表の質問に対する国会答弁。

 安倍晋三「村山談話及び河野談話についてのお尋ねがありました。

 いわゆる村山談話は戦後五十年を機に出されたものであり、また、戦後六十年に当たっては、当時の小泉内閣が談話を出しています。

 我が国はかつて、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。その認識においては安倍内閣は歴代の内閣の立場と同じであります。その上において、しかるべき時期に二十一世紀にふさわしい未来志向の談話を発表したいと考えており、そのタイミングと中身については、今後十分に考えていきたいと考えております」――

 「村山談話」から安倍晋三が発言している個所を見てみる。

 「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話)外務省/1995年8月15日)  

 「いま、戦後50周年の節目に当たり、われわれが銘記すべきことは、来し方を訪ねて歴史の教訓に学び、未来を望んで、人類社会の平和と繁栄への道を誤らないことであります。

 わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます」(以上関係個所抜粋)

 文飾を施した文字面が安倍晋三と「村山談話」双方の歴史認識が一致する個所であり、一致する個所の歴史認識を引き継ぐということになる。

 具体的には安倍晋三は「多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」とする歴史認識は引き継ぐが、損害と苦痛を与えた原因を「遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略」によるとする歴史認識は引き継がないということである。

 「村山談話」を一部分省略した答弁になったという言い訳は通用しない。1月4日のブログにも書いたが、日本の侵略について次のように発言、侵略に関わる歴史認識を明らかにしているからである。

 安倍晋三「特に侵略という定義については、これは学界的にも国際的にも定まっていないと言ってもいいんだろうと思うわけでございますし、それは国と国との関係において、どちら側から見るかということにおいて違うわけでございます」――

 要するに侵略の定義は決まっていないし、国と国との関係で侵略になったり侵略にならなかったりするという安倍晋三自らの侵略に関わる定義づけを通して、定義は決まっていないと言いながらl自分では定義付けする矛盾には気づかずに、そうである以上、日本の戦前の戦争を侵略と定義づけるのは歴史の過ちであると主張している。

 安倍晋三は日本の戦争を侵略戦争とする立場には立っていないということを示す。「村山談話」を一部分省略したわけでも何でもない。意識的に避けたのである。「村山談話」が認めている「植民地支配と侵略」という戦前の日本の戦争の性格に触れたなら、安倍晋三自身もそのことを認める歴史認識に立つことになるからなのは言を俟たない。
 
 このことの補強証拠に2013年4月22日の第183回国会参議院予算委員会の国会答弁を挙げることができる。

 安倍晋三「安倍内閣として、言わば村山談話をそのまま継承しているというわけではありません」

 継承している歴史認識と継承していない歴史認識があり、それが上記の「村山談話」が認めている歴史認識のうち、取り上げた個所と取り上げない個所が出た原因であり、答弁の時系列は逆になっているが、相互対応し合った歴史認識だということである。

 これが安倍晋三が言う「全体として受け継いでいる」の正体である。

 当然、安倍晋三個人の歴史認識、そしてその正体が強く反映した「全体」であり、その正体であるのは断るまでもない。

 要するに「安倍前後70年談話」は日本の戦前の戦争を誤った「国策」であり、「侵略戦争」であるとは認めない歴史認識に立って、「戦後の平和国家としての歩み」を俯瞰し、その上に「未来に向けて世界に貢献していく平和国家としての日本の将来像」を展望する内容となることになる。

 このような構成の談話を要約すると、日本の戦争を植民地支配とも侵略戦争とも認めない反省に立った平和志向ということになる。

 ここに矛盾や倒錯を認めない者がどれ程存在するだろうか。

 認めないで済ます程に無神経でいられる者がどれ程いるだろうか。

 勿論、戦前日本国家を肯定し、その国体を戦後に引き継ごうと策謀している安倍晋三とその一派は自分たちの歴史認識こそが正義だと信じている。矛盾も倒錯もなく、無神経とも思わずに。

 確実に言うことができることは「戦後70年安倍談話」が閣議決定されるや、歴史認識に関わる彼らの正義が公的な姿を取って世に流布するということである。

 例え世に流布したとしても、我々は歴史認識に無神経な存在とならないためにも、安倍晋三の談話の正体に常に敏感な身構えを心がけて、一人でも多くが口にし、その矛盾と倒錯を発信していかなければならない。

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世俗権力者たちは戦前天皇を国民に対して絶対的存在に創り上げて国民統治装置とし、政治に利用した

2015-01-05 08:17:00 | 政治



1月4日、今年早々のブログ、《天皇の年頭感想「戦争の歴史に学ぶべき」は安倍式歴史の学び、その歴史認識の否定に他ならない - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》に対して「森薫」氏から「歴史音痴極まれり」と題する以下のキツイお叱りのコメントを頂いた。

 「森薫」氏 「歴史音痴極まれり」

〈天皇陛下がいつ独裁権を行使した?

ポツダム宣言受諾を決めた御前会議で継戦を主張する軍部の意見を退けた以外絶えて知らないけど!

形式的な主権在君をもって、戦前の日本を非民主国家と決めつけるステレオタイプの発想、中韓の言いがかりと全く同じ。

天皇主権なんてのは、現代のアメリカ大統領が宣誓式にバイブルを用いたり、政策を語るのに神の意思に触れるようなもの。

それよりむしろ戦前の日本には不十分であったにしろ、明らかに民主主義の萌芽が見られた。それが、占領軍憲法により、国民が国家の主権者即ち責任と負担を担うものという根幹から目を背けさせる歪な民主主義を刷り込んでしまった。

それをまともにしようとしているのが分からないなんて、ほんとにあきれ返るばかり。〉――

 正月早々、「あきれ返」えらせて、済まないと思っている。

 確かに天皇は歴史的に見て、「形式的な主権在君」に過ぎなかった。にも関わらず、天皇を現人神とし、大日本帝国憲法は第1章天皇第1条で、「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」、第3条で「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラズ」、第11条で「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と、絶対権力者に位置づけていたのである

 但し特に戦前の昭和天皇は日本的神の化身としての現人神たる超絶的存在と大日本帝国憲法の規定に反して「形式的な主権在君」の地位と権力しか与えられていなかった。

 では、何のために権力の二重性が存在していたのかと言うと、既に多くの指摘があるように天皇に持たせた絶対性を政治権力や軍権力が集団で担うことで、「治安維持法」や「新聞紙条例」その後の「新聞紙法」、あるいは「出版法」といった国家権力側の権利・利益に立って制定した法律、あるいは「国体の本義」とか「教育勅語」等の思想教育を通して、国民の集会や結社の自由、思想・言論の自由、信教の自由等々の基本的人権に厳しい制限を課したり、天皇と国家への無償の奉仕を求めたりする国民統治装置としてその絶対性を利用し、独裁的な国家運営を行うことに便利不可欠としていたからだろう。

 要するに民主主義体制に関して欧米と比較して遅れた頭をしていた。

 天皇の絶対性を国民統治装置としていたことの最大の効果が国民の「天皇陛下のため、お国のため」の思い・声に象徴的に現れている。国民のこのような声・思いがなかったなら、国家権力はあれ程までに戦争を拡大することはできなかったし、人的犠牲をも含めて、あれ程までに甚大な損害を被ることはなかったろう。

 例え天皇の意思に反したものであっても、全て天皇の名に於いて行われたのだから、世俗権力者たちにとっては間接的な独裁権力行使であっても、国民にとっては天皇による直接的な独裁権力の行使となる。

 天皇のこの公的な存在としての絶対性と実際の権力者としての「形式的な主権在君」という権力の二重性は何も明治・大正・戦前昭和の時代に始まったわけではなく、歴史的な装いとしていた。

 ブログに何度か書いてきたが、改めて歴史を簡単に振返ると、大和 朝廷で重きをなしていた最初の豪族は軍事・警察・刑罰を司る物部氏であり、天皇に代わって実質的な権力を握っていた。

 それを滅ぼして取って代わったのが蘇我氏である。蘇我稲目は欽明天皇に二人のムスメを后として入れ、後に天皇となる用明・推古・崇峻の子を設けている。

 稲目の子である崇仏派の馬子は対立していた廃仏派の穴穂部皇子と物部守屋を攻め滅ぼし、自分の甥に当たる崇峻天皇を東漢駒(やまとのあやのこま)に殺させて、推古天皇を擁立し、厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子にしている。このような皇室に対する恣意的な人事権は実質的な権力者が天皇ではなかったことの証明であろう。

 親子である「蘇我蝦夷と蘇我入鹿は甘檮岡(あまかしのおか)に家を並べて建て、蝦夷の家を上の宮門(みかど)、入鹿の家を谷の宮門と称し、子を王子(みこ)と呼ばせた」と『日本史広辞典』に書かれているが、自らを天皇に擬すほどに権勢を誇れたのは、その権勢が天皇以上であったからこそであろう。

 聖徳太子妃も馬子のムスメで、山背大兄王(やましろのおおえのお)を設けている。だが、聖徳太子没後約20年の643年に蘇我入鹿の軍は斑鳩宮(いかるがのみや)を襲い、一族の血を受け継いでいる山背大兄王を妻子と共に自害に追い込んでいる。

 蘇我入鹿は大化の改新で後に天智天皇となる中大兄(なかのおおえ)皇子に誅刹されているが、後の藤原氏台頭の基礎を作った中臣鎌足(なかとみのかまたり)の助勢が可能とした権力奪回であるから、皇子への忠誠心から出た行為ではなく、いつかは天皇家に代って権力を握る深慮遠謀のもと、いわば蘇我氏に続く実質権力者を目指して加担したことは十分に考えられる。

 その根拠は鎌足の次男である藤原不比等(ふじわらのふひと)がムスメの一人を天武天皇の夫人とし、後の聖武天皇を設けさせ、もう一人のムスメを明らかに近親結婚となるにも関わらず、外孫である聖武天皇の皇后とし、後の孝謙天皇を設けさせるという、前任権力者の権力掌握の方法の踏襲を指摘するだけで十分であろう。

 藤原氏全盛期の道長(平安中期・966~1027)はムスメの一人を一条天皇の中宮(平安中期以降、皇后より後から入内〈じゅだい〉した、天皇の后。身分は皇后と同じ)とし、後一条天皇と後朱雀天皇となる二人の子を産んでいる。別の二人を三条天皇と外孫である後一条天皇の中宮として、「一家三皇后」という偉業(?)を成し遂げ、「この世をば我が世とぞ思ふ」と謳わせる程にも、その権勢を確かなものにしている。

 藤原氏の次に歴史の舞台に登場した平清盛は実質的に権力を握ると、同じ手を使って朝廷の自己権力化を謀る。ムスメを高倉天皇に入内(じゅだい)させ、一門で官職を独占する。その権力は79年に後白河天皇を幽閉し、その院政を停止させた程にも天皇家をないがしろにできる程のものであった。

 本格的な武家政権の時代となると、もはや多くの説明はいらない。それまでの天皇家の血に各時代の豪族の血を限りなく注いで、血族の立場から天皇家を支配する方法は廃れ、距離を置いた支配が主流となる。信長も秀吉も家康も京都所司代を通じて朝廷を監視し、まったく以って権力の埒外に置く。いわば天皇家は異なる形での名ばかりの存在と再び化すことになる。

 そのように抑圧された天皇家が再び歴史の表舞台に登場するのは、薩長・一部公家といった徳川幕府打倒勢力の政権獲得の大義名分に担ぎ出されたことによってである。明治維新2年前に死去した幕末期の孝明天皇(1832~1866)に関して、「当時公武合体思想を抱いていた孝明天皇を生かしておいたのでは倒幕が実現しないというので、これを毒殺したのは岩倉具視だという説もあるが、これには疑問の余地もあるとしても、数え年十六歳の明治天皇をロボットにして新政権を樹立しようとしたことは争えない」と『大宅壮一全集第二十三巻』(蒼洋社)に書いてある。

 天皇家と姻戚関係を結んで権力を確実なものとしていったかつての政治権力者は確実化の過程で不都合な天皇や皇太子を殺したり、幽閉したり、あるいは天皇の座から追い出したりして都合のよい天皇のみを頭に戴いて権力を握るという方法を採用している。そのような歴史を学習していたなら、再び天皇を頭に戴いて実質権力を握る方法を先祖返りさせて、倒幕派が天皇と言えども都合の悪い存在を排除するために「毒殺」という手段を選んだとしても、不思議はない。

 明治以降実質的に権力を握ったのは薩長・一部公家の連合勢力であり、明治天皇は大宅壮一が指摘したように彼らの「ロボット」に過ぎなかった。天皇を現人神という絶対的存在に祭り上げることで、自分たちの政治意志・権力意志をさも天皇の意志であるかのように国民に無条件・無批判に同調・服従させる支配構造を作り上げたのである。これは昭和天皇の代になっても引き継がれた。実質的な権力を握ったのは明治政府の流れを汲む軍部で、彼らの意志が天皇の意志を左右したのである。軍服を着せられた天皇の意志によって戦争は開始され、天皇の意志によって国民は戦場に動員され、天皇の意志によって無条件降伏を受入れさせられるという形を取った。

 森薫氏は天皇が独裁権力を行使したのは「ポツダム宣言受諾を決めた御前会議で継戦を主張する軍部の意見を退けた以外絶えて知らないけど!」と書いているが、では、なぜ発揮できる独裁権力を持っていたなら、対米開戦を反対していたのだから、開戦を決めた御前会議で自らの独裁権力を以てして反対しなかったのだろうか。

 『小倉庫次侍従日記』文藝春秋刊)には次のような記述がある。

 〈昭和16年9月6日(土)<翌日> 内大臣御召(9・40-9・55)。第6回御前会議(10・00-11・55 東一の間)。(後略)

 《半藤一利氏注〉「この日の御前会議でよく知られているように、近衛内閣は筋書きどおりに「戦争辞せざる決意のもとに」対米交渉を行い。10月上旬になっても交渉妥結の目途がつかぬ場合には「ただちに対米(英蘭)開戦を決意す」等国策を決定した。

 天皇は憲法に則り、『無言』を守ることになっている。しかし、このときにかぎりポケットから紙をとりだして、天皇は歌一首を読み上げた。

 『四方の海みなはらからと思ふ世に など波風のたちさわぐらむ』

 明治天皇の御製である。そして、『なお外交工作に全幅の努力するように』と言った。が、その願いは空しくなる」

 〈昭和16年12月1日(月)本日の御前会議は閣僚全部召され、陸海統帥部も合わせ開催せらる。対外関係重大案件、可決せらる。 
 
 《半藤一利氏注〉「開戦決定の御前会議の日である。

 『杉山メモ』に記されている天皇の言葉は、

 『此の様になることは已むを得ぬことだ。どうか陸海軍はよく強調してやれ』

 杉山総長の感想は「童顔いと麗しく拝し奉れり」である」(以上)――
 
 「御前会議」では「天皇は憲法に則り、『無言』を守ることになっている」としていることに反して、天皇は発言している。対米開戦に対して、「已むを得ぬ」と条件つきながら励ましの言葉を直接述べている。「立憲国の天皇は憲法に制約される」云々と昭和天皇自身が述べた政府の決定したことに従うとする規定からの発言だとしても、大日本帝国憲法が天皇に持たせた統治権も、神聖にして侵してはならない現人神としての存在性も統帥権も有名無実化させて、権力の二重性のみを露わにすることになる。

 要するに大日本帝国憲法自体が権力の二重性を謳っていたことになる。

 陸軍が戦争終結に反対して戦争継続を主張したのは大言壮語を吐いて戦争を主導したメンツから単に継続の拳を振り上げただけで、いくら陸軍が頭の悪い軍人の集団だったとしても、制空権・制海権共に米軍に握られていたのだから、既に日本が戦争継続能力を決定的に失っていたことは理解していたはずだ。

 勿論、本土決戦の徹底抗戦を選べば、米軍に相当な損害を与えることはできるが、それ以上の犠牲を国民や国土に与えることは明白であって、米軍の自軍の損害を最小限にとどめるための最終手段としての原発の3発目、4発目も覚悟しなければならなかったはずだ。

 つまり天皇は終戦決定に独裁権を行使したわけではない。陸軍のメンツが散々ゴネた末に天皇の裁可を必要とするプロセスを経ることで、それを大義名分に拳を振り降ろす口実にしたに過ぎない。天皇が戦争に反対し、内閣直属の総力戦研究所が対米開戦の総力戦机上演習をして日本必敗の結論を合理的根拠に基づいて導き出していながら、妄想と精神論でその結論を追い遣り、勝てない戦争に突き進んで敗退に敗退を重ねて絶壁に立たされながら、潔く負けを認めることができなかった程度の低い虚栄心を満足させるための口実としたのである。

 でなければ、天皇なる存在が歴史的にも担わされていた権力の二重性は説明できない。

 いずれにしても世俗権力が天皇に絶対的独裁権力を纏わせて、天皇の名に於いてその独裁権力を揮うことで実質的な国民統治装置としていたのだから、それが間接的なものであったとしても、天皇自身が国民にとって直接的な独裁権力行使者であったことに変わりはない。

 戦前、不敬罪を成り立たせていたことがその最たる根拠の一つとなり得る。国民は確実に大日本憲法の規定通りに天皇を「神聖にして侵すべから」の存在と把えていた。


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天皇の年頭感想「戦争の歴史に学ぶべき」は安倍式歴史の学び、その歴史認識の否定に他ならない

2015-01-04 08:34:38 | Weblog


 平成天皇が宮内庁を通じて年頭に当たっての感想を発表した。当然のことだが、今年が敗戦から70年に当たることに触れている。敗戦は日本という国にとって民主化に向かう節目――重要なターニングポイントであった。

 敗戦なくして日本の民主化はあり得なかったかもしれない。このことの証明は戦後の幣原内閣の日本国憲法改正案に於ける天皇の地位が大日本帝国憲法の「天皇は神聖にして侵すべからず」から「天皇は至尊にして侵すべからず」へと、天皇の絶対性を内容とした戦前国体護持の類似性にとどめようとしていたことに現れている。

 いわば敗戦を経ても、戦後の日本の指導者たちが日本という国家に持つ国体護持(天皇を中心に置いた国家秩序の維持)の体質は変わらなかった。

 当然、敗戦というプロセスを欠いていたなら、国体護持の思想は以後も頑固に生き続けて天皇独裁制を強固に固守することになって、外国の民主化要求に反発、北朝鮮化していた可能性は否定できない。 

 だが、GHQが敗戦を契機とした日本に対して戦前同様の国体護持を許さなかった。GHQが日本政府の自主的な憲法改正作業に見切りをつけ、日本人有識者構成による「憲法研究会」の民主的な憲法案を参考にして草案作成を経て日本国憲法成立の経緯を取ったことは多くの国民が知るところである。

 但し安倍晋三はこのGHQによる占領政策を日本の戦後の歴史として否定している。2012年4月28日、自民党が独自に決め、独自に主催した「主権回復の日」に一党員としてメッセージを寄せている。当時自民党総裁は谷垣禎一であった。

 安倍晋三「本来であれば、(2012年の)この日を以って日本は独立を回復したわけでありますから、占領時代に占領軍によって行われたこと、日本はどのように改造されたのか、日本人の精神にどのような影響を及ぼしたのか、もう一度検証して、そしてきっちりと区切りをつけて、日本は新しいスタートを切るべきでした」――

 占領軍が日本を改造し日本人の精神を改造したと言って、占領時代と占領軍の政策を否定している。

 このことは日本の戦後史の否定であり、と同時に日本国憲法の否定であって、当然、戦前日本国家の肯定となる。安倍晋三の日本国憲法改正の意思はこれらの地点をスタートラインとしている。

 そして安倍晋三は戦前日本国家肯定の儀式を靖国参拝を通して行っている。第2次安倍政権発足1年2013年12月26日の靖国参拝時の発言。

 安倍晋三「本日靖国神社に参拝を致しました。日本のために尊い命を犠牲にされたご英霊に対し、尊崇の念を表し、そしてみ霊安らかなれと手を合わせて参りました。

 そして同時に靖国神社の境内にあります鎮霊社にもお参りをして参りました。鎮霊社には靖国神社に祀られていない、すべての戦場に斃れた人々、日本人だけではなくて、諸外国の人々も含めて全ての戦場で斃れた人々の慰霊のためのお社であります。その鎮霊社にお参りを致しました。全ての戦争に於いて命を落とされた人々のために手を合わせ、ご冥福をお祈りをし、そして二度と再び戦争の惨禍によって人々の苦しむことの無い時代を創るとの決意を込めて不戦の誓いを致しました」――

 前段は安倍晋三やその一派の靖国参拝時の決まり文句となっているが、「日本のために尊い命を犠牲にされた」と愛国心の面から把えているが、戦死者が尊い命を愛国心から戦死という形で捧げた対象としての国家を肯定していることによって、この論理は成り立つ。ヤクザが親分のために戦って死んだ場合、親分のために尊い命を捧げたとすることができるのはヤクザの世界や組織を肯定している者のみであって、否定している者はこの論理に立つことはできない。

 戦前日本国家を否定している者は戦前の日本の国家権力によって尊い命を犠牲にさせられたと歴史認識するはずだ。

 安倍晋三が戦前日本国家を肯定している以上、「不戦の誓い」はマヤカシに過ぎない。「不戦の誓い」は過去の日本の戦争を歴史の過ちと位置づけてこそ、論理矛盾もなく整合性を得た誓いとすることができるからだ。

 だが、安倍晋三は歴史の過ちとは位置づけていない。周知の一例を国会答弁から取り出してみる。

 安倍晋三「特に侵略という定義については、これは学界的にも国際的にも定まっていないと言ってもいいんだろうと思うわけでございますし、それは国と国との関係において、どちら側から見るかということにおいて違うわけでございます」――

 安倍晋三が戦前の日本戦争を侵略戦争ではないと否定している以上、いわば戦前の戦争を肯定している以上、「不戦の誓い」は口を突い出て来ようがない。にも関わらず口にするということは靖国参拝を正当化するための方便に過ぎないからだろう。

 ブログに適宜書いてきたが、要するに安倍晋三とその一派にとっての靖国参拝とは神社の空間で戦死者を国策に殉じて国家のために尊い命を捧げたと顕彰することを通して戦前の大日本帝国を肯定し、そこに国家の理想を見、大日本帝国を体感する儀式に他ならない。

 今の安倍政権がこういった歴史の雰囲気を抱えている中での平成天皇の敗戦から70年に当たることに触れた年頭の感想である。

 《天皇陛下のご感想(新年に当たり)》宮内庁/平成27年1月1日)一部分抜粋。文飾は当方。
 
 平成天皇「昨年は大雪や大雨,さらに御嶽山の噴火による災害で多くの人命が失われ,家族や住む家をなくした人々の気持ちを察しています。
 また,東日本大震災からは4度目の冬になり,放射能汚染により,かつて住んだ土地に戻れずにいる人々や仮設住宅で厳しい冬を過ごす人々もいまだ多いことも案じられます。昨今の状況を思う時,それぞれの地域で人々が防災に関心を寄せ,地域を守っていくことが,いかに重要かということを感じています。

 本年は終戦から70年という節目の年に当たります。多くの人々が亡くなった戦争でした。各戦場で亡くなった人々,広島,長崎の原爆,東京を始めとする各都市の爆撃などにより亡くなった人々の数は誠に多いものでした。この機会に,満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び,今後の日本のあり方を考えていくことが,今,極めて大切なことだと思っています。

 この1年が,我が国の人々,そして世界の人々にとり,幸せな年となることを心より祈ります」(以上)

 日本国憲法は天皇の権能を次のように規定している。 

 第4条 天皇の機能
 (1)天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ国政に関する権能を有しない。

 天皇は「国政に関する権能を有しない」にも関わらず、「この機会に,満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び,今後の日本のあり方を考えていくことが,今,極めて大切なことだと思っています」は極めて政治的な発言である。なぜなら、この手の歴史認識は敏感な政治的な問題とされているからである。にも関わらず、日本国民は「戦争の歴史を十分に学び,今後の日本のあり方を考えよ」と歴史問題に触れた。

 もしこれが安倍晋三式の歴史の学びのススメなら、戦前の大日本帝国国家とその戦争を肯定していることになる。安倍晋三同様に戦後の米軍占領時代とその政策を否定していることになる。当然、日本国憲法も否定していることになるし、安倍晋三と同様に戦前の国体護持思想を戦後もなお天皇の血としていることになり、安倍晋三と同様の国家主義に立っていることになる。

 さらに言うなら、安倍晋三と同様に「河野談話」も「村山談話」も否定していることになる。

 もしこれが安倍晋三式の歴史の学びのススメなら、「戦争の歴史」に向き合うべく、日本国民それぞれの主体性及び自律性を期待することはあるまい。

 主体性及び自律性への期待とはそれぞれが自分で考えよということの期待であって、他者の考え、その歴史認識に従う従属性への期待ではない。

 だが、現在の日本で力を得ている歴史認識は政権を握っている有利性を生かして声高の効果を持たせることができている安倍晋三の歴史認識である。

 当然、天皇のこの前者後者の期待には安倍晋三式の歴史認識とは一歩距離を置くべきとする意思が既に込められていることになる。

 もし天皇が安倍晋三の歴史認識に同調する意思があったなら、戦争の歴史に関して黙して語らずの姿勢を取っただろう。社会の雰囲気の右傾化と相互関連し合って主流化しているかに見える安倍式の歴史認識への従属性を期待していれば、自分の望み通りの歴史認識に進むはずだからである。

 日本国民それぞれの主体性及び自律性への期待は「今後の日本のあり方を考えよ」とする言葉にも現れている。

 この言葉は安倍晋三が目指している戦後70年の談話を暗に指して、そう言った言葉であるはずである。安倍晋三が予定している戦後70年談話を念頭に置いて、他者の考え、その歴史認識に従う従属性を排して、「戦争の歴史を十分に学び,今後の日本のあり方を考えよ」と、過去の日本の姿に立って未来の日本の姿を考えて欲しいと、日本国民それぞれの主体性及び自律性を期待した。
 
 天皇は国政に関する権能を有しないにも関わらず安倍式歴史の学び、その歴史認識に危険な臭いを嗅ぎ取って、国民がその危険に考えがないまま従属一方で染まらぬよう、安倍晋三が目指している戦後70年談話に合わせて、敢えて政治的な問題となっている「戦争の歴史」に触れ、安倍式歴史認識とは逆の方向に国民を導こうとしたのである。

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ブログ休日のお知らせ

2015-01-01 02:50:36 | Weblog


 正月3日間はブログを休みます。

 2015年は《生活の党と山本太郎となかまたち》をよろしくお願いします。

 最近の記事紹介。

 2014年12月31日記事
 《安倍晋三の自衛隊海外派遣恒久法制定は戦争する国になることを前提とすることだと国民に説明する必要がある》 

 2014年12月30日記事
 《安倍晋三のその人気にあやかろうとして片思いに終わった、見え透いた桑田佳祐コンサート鑑賞》

 2014年12月29日記事
 《安倍晋三が地方創生5年間若者地方雇用30万人で隠している情報》
 

 2014年12月27日記事
 《江渡聡徳の防衛相交代は本人からの再任辞退ではなく、安倍晋三が不測の事態発生を恐れて因果を含めた更迭》

 2014年12月26日
 《アルピニスト野口健の日本と日本人を政治的判断基準に置いた視点からの右翼思想・左翼思想》

 2014年12月25日記事
 《安倍晋三の気の遠くなるような後手を踏みっ放しの拉致解決無能外交》

 2014年12月24日記事
 《昭和天皇の誕生日記者会見国民向けメッセージには安倍自民党圧勝に対する憂慮が裏に隠されている》

 2014年12月23日記事
 《稲田朋美の物的証拠がなくても、多数の証言を前に無罪宣告するに似た慰安婦事実の否定と対朝日名誉回復要求》

 2014年12月20日
 《安倍晋三がキレる原因、血を引く岸信介と佐藤栄作と同様の偉大な政治家であることを自己規定したことから》 

 2014年12月14日記事
 《格差は安倍式国家主義を母として生まれ、国家主義が成功すれば、一般国民は少しは豊かになれる》

 2014年12月13日記事
《安倍晋三とその一派は戦前の報道弾圧の血を引き、“忖度”の心理を利用して報道への政治介入を欲求している》 

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