ツイッターの投稿で、石破茂が昨年2014年12月26日にBS日テレ「深層NEWS」に出演、「集団的自衛権行使」と言うところを「戦争をする」と言い間違えたことを知った。集団的自衛権を行使することは戦争をすることだと認識しているから、自然と「戦争」という言葉が出たのではないかといった批判がリツイートの形で呟かれていた。
具体的にどう発言したのかネット上を調べてみたら、文字起こしされていた。拝借――
《自民党石破「戦争をするにあたって、し、失礼。集団的自衛権を行使するにあたって」12/26深層ニュース(動画&文字起こし)》
自民党石破「戦争をするにあたって、し、失礼。集団的自衛権を行使するにあたって」12/26深層ニュース(動画&文字起こし)(みんな楽しくHappy♡がいい♪ /2014年12月27日)
集団的自衛権と日米同盟
金子勝:その情報が正しいか正しくないか?
戦争をしたければ証拠をでっち上げて、つまり、石破さんはしないかもしれないけど、将来にわたって誰かはするかもしれないということに対して、きちんとしたチェックの機能が特定秘密保護等ではできていないと思うんです。
石破茂「それはですから、国会の関与というのをきちんと入れたのはそういうことであって、国会がきちんと関与しなければ、情報の管理が政府の中で完結してしまったら、今御指摘のようなことになるわけですね。
ですから第三者の目でもきちんとやらなければいけないように」
金子勝「じゃ、まず最初に委員を決めるべきじゃないですか?」
石破茂「それ委員は、それは委員はこれから決めることでしょ。どうやって国会の中で決めていくからですから}
金子勝「同時じゃないとまずいですよ」
石破茂「ですから、これは国会においてどういう人を委員にするのかっていうことは決めていきます。話を戻すならね、そういうふうな戦争をするにあたって。し、失礼。
集団的自衛権を行使するにあたって、本当にそれがそういうものであるのかどうかということについて、きちんとした資料を出す責任は政府に課せられます」
集団的自衛権とは自国と密接な関係にある他国が受けた武力攻撃が自国の安全を危うくするものと認められる場合、必要かつ相当限度で反撃する権利を言う。
要するに武力攻撃を受けた自国と密接な関係にある他国と共に戦争を行うことを意味する。勿論、部分的戦闘行為で終わる場合もあるだろうが、戦線拡大化して、純然たる戦争状態に発展しない保証はないのだから、危機管理上最悪のケースを想定して戦争を前提に行使容認しなければならないはずだ。
一旦は戦争が終結したイラク、アフガンのその後の泥沼化を見れば、これ程の教訓はない。
この論理からすると、石破茂が集団的自衛権行使を「戦争をするにあたって」と言ったとしても、間違いではない。言い直したこと自体にゴマカシがあることになる。
「集団的自衛権行使によって戦争をするにあたって」と言うべきだったろう。
安倍晋三にしてもそうだが、集団的自衛権行使の話をするとき、どのような環境で行使できるかといった条件と条件に適合した場合の必要最小限度の実力行使のみを言って、敵対国側の反撃が何らないかのような物言いをする。
つまり戦闘や戦争を想定することから切り離した話し方をする。ゴマカシ以外の何ものでもない。
当然、自衛隊側からも死者が出るケースも生じる。大勢の死者が出ることも想定しなければならない。自衛隊員にしても同じ日本人であり、その生命の犠牲に対して憲法解釈による集団的自衛権行使容認を決めた一内閣が責任を取ることができるのか。憲法改正を以て行使容認へ持っていく過半数の国民の承認を必要とし、国民の責任に於いてその犠牲を受け止めることがより公平な方法であるはずである。
勿論、集団的自衛権行使のための憲法改正を容認するかどうかは国民の意思・選択にかかっている。
上記文字起こし記事を読んでいて、これまで気にかけていなかったが、石破茂の戦前の日本に関わる歴史認識がどんなものか興味を持った。早速ネット上を探すと、石破茂のオフィシャルブログにその歴史認識を示す記事があった。全文を引用してみる。文飾は当方。
《田母神・前空幕長の論文から思うこと》(石破茂オフィシャルブログ/2008年11月 5日 (水)
石破茂です。
田母神(前)航空幕僚長の論文についてあちこちからコメントを求められますが、正直、「文民統制の無理解によるものであり、解任は当然。しかし、このような論文を書いたことは極めて残念」の一言に尽きます。
同氏とは随分以前からのお付き合いで、明るい人柄と歯に衣着せぬ発言には好感を持っており、航空幕僚長として大臣の私をよくサポートしてくれていただけに、一層その感を深くします。
日中戦争から先の大戦、そして東京裁判へと続く歴史についての私なりの考えは、数年前から雑誌「論座」などにおいて公にしており、これは田母神氏の説とは真っ向から異なるもので、所謂「民族派」の方々からは強いご批判を頂いております(その典型は今回の論文の審査委員長でもあった渡部昇一上智大学名誉教授が雑誌「WILL」6月号に掲載された「石破防衛大臣の国賊行為を叱る」と題する論文です。それに対する私の反論は対談形式で「正論」9月号に、渡部先生の再反論は「正論」11月号に掲載されています。ご関心のある方はそちらをご覧下さい)。
田母神氏がそれを読んでいたかどうか、知る由もありませんが、「民族派」の特徴は彼らの立場とは異なるものをほとんど読まず、読んだとしても己の意に沿わないものを「勉強不足」「愛国心の欠如」「自虐史観」と単純に断罪し、彼らだけの自己陶酔の世界に浸るところにあるように思われます。
在野の思想家が何を言おうとご自由ですが、この「民族派」の主張は歯切れがよくて威勢がいいものだから、閉塞感のある時代においてはブームになる危険性を持ち、それに迎合する政治家が現れるのが恐いところです。
加えて、主張はそれなりに明快なのですが、それを実現させるための具体的・現実的な論考が全く無いのも特徴です。
「東京裁判は誤りだ!国際法でもそう認められている!」確かに事後法で裁くことは誤りですが、では今から「やりなおし」ができるのか。賠償も一からやり直すのか。
「日本は侵略国家ではない!」それは違うでしょう。西欧列強も侵略国家ではありましたが、だからといって日本は違う、との論拠にはなりません。「遅れて来た侵略国家」というべきでしょう。
「日本は嵌められた!」一部そのような面が無いとは断言できませんが、開戦前に何度もシミュレーションを行ない、「絶対に勝てない」との結論が政府部内では出ていたにもかかわらず、「ここまできたらやるしかない。戦うも亡国、戦わざるも亡国、戦わずして滅びるは日本人の魂まで滅ぼす真の亡国」などと言って開戦し、日本を滅亡の淵まで追いやった責任は一体どうなるのか。敗戦時に「一億総懺悔」などという愚かしい言葉が何故出るのか。何の責任も無い一般国民が何で懺悔しなければならないのか、私には全然理解が出来ません。
ここらが徹底的に検証されないまま、歴史教育を行ってきたツケは大きく、靖国問題の混乱も、根本はここにあるように思われます。
大日本帝国と兵士たちとの間の約束は「戦死者は誰でも靖国神社にお祀りされる」「天皇陛下がお参りしてくださる」の二つだったはずで、これを実現する環境を整えるのが政治家の務めなのだと考えています。総理が参拝する、とか国会議員が参拝する、などというのはことの本質ではありません。
「集団的自衛権を行使すべし!」現内閣でこの方針を具体化するスケジュールはありませんが、ではどうこれを実現するか。法体系も全面的に変わりますし、日米同盟も本質的に変化しますが、そのとき日本はどうなるのか。威勢のいいことばかり言っていても、物事は前には進みません。
この一件で「だから自衛官は駄目なのだ、制服と文官の混合組織を作り、自衛官を政策に関与させるなどという石破前大臣の防衛省改革案は誤りだ」との意見が高まることが予想されますが、それはむしろ逆なのだと思います。
押さえつけ、隔離すればするほど思想は内面化し、マグマのように溜まっていくでしょう。
「何にも知らない文官が」との思いが益々鬱積し、これに迎合する政治家が現れるでしょう。それこそ「いつか来た道」に他なりません。
制服組はもっと世間の風にあたり、国民やマスコミと正面から向き合うべきなのだ、それが実現してこそ、自衛隊は真に国民から信頼され、尊敬される存在になるものと信じているのです。
田母神の論文とはご存知のように2008年10月、「真の近現代史観」懸賞論文第一回最優秀藤誠志賞を受賞した論文、「日本は侵略国家であったのか」を指す。題名が示す通り、日本の戦争の侵略性を否定、人種平等の世界実現の世界史的役割を担った戦争だと位置づける歴史認識を示している。
当然日本軍の悪行とされる南京虐殺も否定、軍幹部と政府要人が裁判を受けることとなった東京裁判も否定している。
対して石破茂は日本の戦前の戦争が侵略戦争であることは認めている。「遅れて来た侵略国家」とは、列強の植民地主義の尻馬に乗ったことを意味する。当然、列強もしていたことだと相対化し、正当化することはできない。
安倍晋三も慰安婦問題でよくこの手を使う。
安倍晋三「筆舌に尽くし難い思いをされた慰安婦の方々のことを思うと、本当に胸が痛む思いだ。20世紀は女性を始め、多くの人権が侵害をされた世紀だった」
世界中至るところで女性の人権が侵害された世紀だったとすることで慰安婦の問題を相対化し、ある意味正当化している。
一国の軍隊が各外国占領地で未成年を含む若い女性を暴力的に拉致・誘拐して軍慰安所という檻に閉じ込め、自由を奪って強制的に売春に従事させたのは日本ぐらいのものだろう。日本軍はそういう組織となっていた。
日本軍が特殊な例であるにも関わらず、被害者の女性の側から、安倍晋三はそういう世紀だったと薄汚く誤魔化している。
石破茂は戦前の戦争が侵略戦争だと認めていながら、「大日本帝国と兵士たちとの間の約束は『戦死者は誰でも靖国神社にお祀りされる』『天皇陛下がお参りしてくださる』の二つだった」と言っている。
ここに石破茂の戦前の日本に関わる歴史認識が如実に現れている。
侵略戦争上の「大日本帝国」の約束でありながら、国の形が変わっても尚、その約束が戦後の日本に於いても生きているとしていることは大日本帝国の意思を戦後の日本にも存在させていることになる。靖国参拝で日本軍兵士の戦前の意思を、戦後国の形が変わっても尚、お国のために戦ったと戦後の日本に生かしているようにである。
尚且つ戦後の天皇を、その地位が徹頭徹尾変わったにも関わらず、戦前の天皇と同じ扱いにしていることになる。
例えその戦争を侵略戦争と否定していても、戦前の国家の形態自体は肯定している思想の持ち主ということになる。
と言うことは、石破茂は安倍晋三と同様に戦後の民主国家日本を天皇専制の大日本帝国国家と連続性を持たせていることになる。当然、憲法改正意思にしても、同じく安倍晋三と同様に大日本帝国国家との連続性を基準としていることになる。
勿論、戦後の民主主義に縛られて憲法の文言に露骨に連続性を持たせることはできないから、憲法の文言の裏に隠すことになる。自民党が改正を狙っている憲法はそういう憲法だと認識しなければならない。
これが石破しげるの戦前日本に関する歴史認識の正体であり、その歴史認識を現在の日本でも生かそうとしている。
一方で戦前の大日本帝国に於いては国家賠償法が存在しなかったからと、戦時中の国家権力の不法行為から生じた個人の損害について国は賠償責任を負わないと国家無答責の原則を当てはめて、中国人の強制連行労働等に関わる戦後の賠償請求訴訟を斥けていることは、戦前国家の約束違反に関しては法律を楯に戦後の日本に生かさない不公平を演じている。
「大日本帝国」の約束とは約束の対象者で使い分けるご都合主義で仕上がっているようだ。