サザンオールスターズの桑田佳祐と所属事務所のアミューズが1月15日、大晦日の横浜市内開催サザンの年越しライブで見せたパフォーマンスの失礼をコメントでお詫びしたとマスコミが伝えている。
どんなパフォーマンスか、このことを書いているマスコミ記事を拾ってみると、214年11月30日に受賞した紫綬褒章をズボンのポケットから取り出して観客に披露し、オークションにかけるマネをした、曲と曲の間の観客席に向かったシャベリ(MC)では、紫綬褒章の伝達式での天皇の様子をマネした、「ピースとハイライト」歌唱中にステージ後方に「✕印」をつけた日本国旗や「中國領土 釣魚島」と書いた旗の映像を流した、年越しライブを中継する形で出演したンHK紅白歌合戦で演奏前にチョビ髭をつけて登場したといったところらしい。
こういったパフォーマンスがネット上で様々な憶測を呼び、それが拡散して、かなり大きな問題となったらしい。例えばチョビ髭は安倍晋三を独裁者ヒトラーに擬えたのではないかとか、天皇に対して失礼だとか、反日だとか、逆に痛快だとか、等々のコメントが飛び交ったらしい。
問題はこれだけではない。右翼団体「牢人新聞社」の人間が手に手に日の丸の小旗を掲げて所属事務所アミューズの前で抗議活動を行った。この右翼の活動を、《サザン桑田に右翼抗議 ライブでの不敬パフォーマンス問題に》(東京スポーツ/2015年01月14日 07時00分)が詳しく取り上げている。
「ライブでの不敬な言動!サザン桑田は猛省せよ!」と大書した横断幕を掲げて、拡声器で「サザン桑田は出てきて釈明しろ!」、「アミューズと桑田は国民に対して謝罪しろ!」と、約1時間に亘って声を張り上げ、多分その声に合わせてその他大勢が一斉にシュプレヒコールしたのだろう。
渡邊昇「牢人新聞社」主幹「我々は表現・言論の自由を潰そうとしているわけではない。ただ、日本人としてやっていいことと悪いことがある。今回の桑田のパフォーマンスは天皇陛下に対する侮辱、国家の尊厳を踏みにじる行為だ。日本固有の領土である尖閣諸島を『中国領土』とした映像は国益を無視するもので、断じて見過ごすことはできない」――
渡邊主幹は桑田佳祐が〈一連のパフォーマンスに至った経緯や事実関係の確認を求め、公開質問状をアミューズのポストに投函。5日以内に納得のいく回答がない場合は「再度、協議して今後の活動を決めていく」(渡邊氏)〉としたが、〈現時点で桑田やアミューズから明確なリアクションはない。〉と記事は解説している。
しかし横断幕の「不敬な言動」なる文言には恐れ入る。戦前の天皇に対する不敬罪の概念を戦後の民主国家日本に持ち出す。と言うことは、「牢人新聞社」なる右翼団体は戦前の思想を21世紀の現在も自分たちの血肉としていて、安倍晋三や高市早苗、稲田朋美といった連中と同類だということになる。
当然、「日本人としてやっていいことと悪いこと」とは、戦前の規範で個人の行動を律することを基準としていることになる。
一見、「我々は表現・言論の自由を潰そうとしているわけではない」と、さも戦後の規範で個人の行動を律しようとしているかのように見せかけているが、戦前の規範を掲げていることと矛盾する。戦前は満足な「表現・言論の自由」は存在しなかった。不敬罪自体が「表現・言論の自由」を否定する最も象徴的な国家規範であった。
いわば不敬罪の概念を持ち出して、「表現・言論の自由」を圧殺しようと意志していながら、一方で戦後の「表現・言論の自由」を掲げているに過ぎない。
例え戦前の規範でしかない不敬罪の概念を持ち出して個人の行動を律するにしても、個人や団体に所属していない第三者に対して戦前の規範に直接的に同調を迫るのは、あるいは直接的に不敬罪の概念に同調を迫るのは、しかも集団で声を張り上げるという威嚇行為を手段として迫るのは、自分たちこそが表現・言論の自由を侵す行動となるばかりか、戦後の裁判制度を否定する行動となる。
告訴するなりして、裁判で決めるべき事柄であろう。
桑田佳祐側はどうも右翼系団体の公開質問状に屈したようだ。
謝罪文全文を、《サザン桑田さんがお詫びと釈明 年越しライブ・紅白出演》(asahi.com/2015年1月16日02時06分)から見てみる。
〈サザンオールスターズ年越しライブ2014に関するお詫び
いつもサザンオールスターズを応援いただき、誠にありがとうございます。
この度、2014年12月に横浜アリーナにて行われた、サザンオールスターズ年越しライブ2014「ひつじだよ!全員集合!」の一部内容について、お詫びとご説明を申し上げます。
このライブに関しましては、メンバー、スタッフ一同一丸となって、お客様に満足していただける最高のエンタテインメントを作り上げるべく、全力を尽くしてまいりました。そして、その中に、世の中に起きている様々な問題を憂慮し、平和を願う純粋な気持ちを込めました。また昨年秋、桑田佳祐が、紫綬褒章を賜るという栄誉に浴することができましたことから、ファンの方々に多数お集まりいただけるライブの場をお借りして、紫綬褒章をお披露目させていただき、いつも応援して下さっている皆様への感謝の気持ちをお伝えする場面も作らせていただきました。その際、感謝の表現方法に充分な配慮が足りず、ジョークを織り込み、紫綬褒章の取り扱いにも不備があった為、不快な思いをされた方もいらっしゃいました。深く反省すると共に、ここに謹んでお詫び申し上げます。
また、紅白歌合戦に出演させて頂いた折のつけ髭は、お客様に楽しんで頂ければという意図であり、他意は全くございません。
また、一昨年のライブで演出の為に使用されたデモなどのニュース映像の内容は、緊張が高まる世界の現状を憂い、平和を希望する意図で使用したものです。
以上、ライブの内容に関しまして、特定の団体や思想等に賛同、反対、あるいは貶めるなどといった意図は全くございません。
毎回、最高のライブを作るよう全力を尽くしておりますが、時として内容や運営に不備もあるかと思います。すべてのお客様にご満足いただき、楽しんでいただけるエンタテインメントを目指して、今後もメンバー、スタッフ一同、たゆまぬ努力をして参る所存です。今後ともサザンオールスターズを何卒よろしくお願い申し上げます。
株式会社アミューズ
桑田佳祐(サザンオールスターズ)〉(以上)――
「つけ髭は、お客様に楽しんで頂ければという意図であり、他意は全くございません」と言っているが、ただ単に楽しんで貰うだけなら、一般的なミュージシャンと何ら変わらない。何らかの特別な意味づけを行ってこそ、桑田佳祐の真価を発揮することになり、ファンもそれを望んでいるはずだ。
また、何らかの特別な意味づけがなければ、チョビ髭をパフォーマンスの小道具としないだろう。ヒトラーと安倍晋三の近似性が囁かれている昨今である。だから、多くが安倍晋三を批判するパフォーマンスだと受け取った。
それを「他意はない」とする。桑田佳祐の最たる特徴はパフォーマンスに政治的な毒があり、過激であることにあるはずだが、自分から毒を抜き、過激さを殺して人畜無害の存在となりますとする宣言に見える。桑田佳祐らしさの消滅である。
「以上、ライブの内容に関しまして、特定の団体や思想等に賛同、反対、あるいは貶めるなどといった意図は全くございません」
なぜ自分自身の表現・主張から出たパフォーマンスだと正直に言うことができなかったのだろう。誰のどんな表現・主張であっても毀誉褒貶はある。桑田佳祐の特に政治的に毒を含んだ過激なパフォーマンスに対する毀誉褒貶は両極端をいくはずだ。
褒め言葉は受け止めるが、悪口・批判はゴメンだとするのはご都合主義に過ぎるし、以後、褒め言葉の獲得だけを目的とする無難な場所に自分を置くことになる。
右翼団体の抗議活動と公開質問状にバンザイしたところを見ると、毀誉褒貶をまるごと受け止める覚悟ができたパフォーマンスではなかったようだ。
右翼団体「牢人新聞社」の右翼という名が持つ威嚇性を武器に集団で声を張り上げて抗議する、「表現・言論の自由」も何もない威嚇の上に威嚇の輪をかけた示威行動は武器を用いるかどうかの違いがあるだけで、フランスの週刊紙「シャルリーエブド」を襲撃したイスラム過激派の行動を思わせる。
威嚇を武器に「表現・言論の自由」を断つという点で共通している。
なぜ安倍晋三は桑田圭佑擁護に動かないのだろう。安倍晋三は常日頃から、「自由、民主主義、基本的人権、法の支配」等を普遍的価値として尊ぶことを常に口にしている。右翼が威嚇性を持たせた集団的な示威行動と公開質問状で「表現・言論の自由」を歪めようとするのは、「自由、民主主義、基本的人権、法の支配」に極めて関係する。
無視できない右翼の行動であるはずである。
その上、安倍晋三首相は12月28日夜、横浜市で開催のサザンオールスターズのコンサートを昭恵夫人と共に鑑賞する程に桑田ファンだという。であるなら、当然、この一連の動きに気づいているはずだ。
諺に「義を見てせざるは勇無きなり」と言う。「人として行うべき正義と知りながらそれをしないことは、勇気が無いのと同じことである」
なぜ安倍晋三は桑田擁護に動き出さなかったのだろう。現在のところ、その動きを見せていない。
まさか昨年の12月の総選挙前に自民党がテレビ番組でアベノミクスに否定的な声ばかりが紹介されるのを恐れて、「放送の公平・中立」を利用して、その声を抑えるべくテレビ局に政治的圧力をかけたように背後で動いたということはあるまい。
戦前の規範を戦後の日本社会の規範にしようとする企みに他ならない、前者で以って戦後日本の「表現・言論の自由」を圧殺しようとする試みは無視できない重大問題だが、右翼の威嚇的な示威行為に屈して、戦後日本の「表現・言論の自由」を放棄しようとする動きも無視できない恐ろしい動きである。
威す側の意思を忖度して、自身の表現・主張を抑制する。それが当たり前となったとき、戦前日本を戦後に受け継ぐ安倍一派や右翼たちの勝利の鐘が日本の社会に鳴り響くことになる。