『生活の党と山本太郎となかまたち』PR
《1月27日小沢一郎、山本太郎両代表共同記者会見・質疑》
昨日1月30日の衆院予算委で維新の党の柿沢未途が「イスラム国」の呼称について言論への介入と見られなねない余計な質問を行った。
柿沢未途「『イスラム国』という呼称は恰も承認された国家と認めているかのようだ。狂信的暴力集団と一般のイスラム教徒が同一視されかねない。国民に大きな影響を与えるマスメディアの皆さんが様々な注釈をつけた上で、『イスラム国』という呼称を今も使い続けている。
政府が直接要請するということは余りいいことだと思わないけど、しかしこの場でISIL(アイシル)呼称で統一していくのが望ましいという意思表示はできると思う」
安倍晋三「委員がご指摘のように『イスラム国』と言えば、まるで国として存在しているかの如くの印象を与えるし、いわば国として国際社会から認められている、あるいはまた、イスラムという名前を使っておりますので、イスラムの代表であるが如き印象を与えて、イスラムの人々にとってはここは極めて不快な話になっているわけでございまして、政府としてはISIL(アイシル)という呼称を使っているところです。
マスメディアもそうした意味に於いては大変影響力があるでしょうから、只今柿沢委員がご指摘になって点も踏まえて、検討される可能性もあるのではないかと、このように思います」
二人の頭の中はどうなっているのだろう。「イスラム国」を「承認された国家と認めている」マスコミが存在するとでも考えているのだろうか。「まるで国として存在しているかの如くの印象を与える」報道が果たして存在するとでも言うのだろうか。
「狂信的暴力集団と一般のイスラム教徒が同一視されかねない」だと?「イスラムという名前を使っておりますので、イスラムの代表であるが如き印象を与えている」だと?
もし日本人の大多数が北朝鮮の金正恩独裁権力集団と一般朝鮮人国民を同一視しているようなら、そのような心配を大々的に始めろと言いたい。
マスメディアが発信する情報の受け手である一般国民にしても、彼らが起こしているテロ活動や今回の人質事件についても報道内容と共に頭に入れるはずだから、一般のイスラム教徒と誰が同一視すると言うのだろう。
勿論中には混同している者も存在するだろう。だが、それは勉強不足や解釈不足、あるいは解釈未消化、更には無関心から起きている、あくまでも情報の受け手の錯誤であって、情報の受け手の勉強不足か解釈不足の錯誤の代表例として柿沢未途と安倍晋三が言っていること自体の錯誤を一番に押すことができる。
安倍晋三の、多くの元従軍慰安婦が日本軍の強制連行を証言していながら、「吉田証言」に基づいた朝日新聞の誤報のみを以って強制連行の歴史的事実は存在しなかった、日本の恥じを世界に広めたと主張していることも、情報の受け手の錯誤の典型例として挙げることができる。
情報の受け手の錯誤は多くの報道に付き纏う。だが、それを殆どの情報の受け手の問題であるが如くに、「狂信的暴力集団と一般のイスラム教徒が同一視されかねない」と柿沢未途か言い、「イスラムという名前を使っておりますので、イスラムの代表であるが如き印象を与える」と安倍晋三が言うのは、逆に国民を愚弄していることになる。
安倍晋三がもし懸命な首相であったなら、「同一視したり誤解したりするのは、一部の勉強不足や解釈不足から起きていることではないでしょうか」と一蹴しなければならなかった。
なぜなら、マスコミが呼称を統一するよう、一国の首相にそう仕向ける意思表示を求め、それに対して一国の首相が検討する意思を示すことは大きな問題を含んでいるからだ。
団体や何かを主催する会の正式名称、あるいは法律の正式名称が長くて、それを略して伝える呼称が様々に存在して混乱しているから、それを統一しようというのは理解できる。どう呼び習わすかの単なる略称の問題に過ぎないからだ。
だが、略称に人それぞれの解釈が含まれていた場合、解釈は思想や主義・主張に関係する。そこまで変えろというのは言論に対する政治介入となる。
例えば従軍慰安婦をセックススレイブ、あるいは性奴隷と呼び習わすのは、そう呼称するにふさわしいとの思想、あるいは主義・主張を込めているからこその解釈であって、セックススレイブ、あるいは性奴隷と呼び習わすのは日本の名誉を傷つけるからといって、従軍慰安婦に呼び名を統一しようとすることは思想の変更、あるいは主義・主張の変更を迫ることになって、言論の自由を侵すことになる。
正式名称が長過ぎる法律の場合でも、それを悪法と見て、「××悪法」と呼び習わしたとしても、そう呼び習わす人の思想、あるいは主義・主張が関係していることで、悪法という言葉をつけることはふさわしくないと禁止することはできない。
日本のマスコミの多くが「イスラム国」と呼称しているのは評議会を設置し、支配地域を区分けして知事を任命したりして国家を擬し、自らを「イスラム国」と呼んでいることから、自分たちもその解釈に立って、国家そのものと区別してカギ括弧付き等で「イスラム国」と呼称しているはずだ。
もし日本のマスコミが国会でこのような質疑が行われたことを以って思想や主義・主張に関係する自分たちの解釈を捨てて政府が唱える呼称に統一したとしたら、国家権力の意思を忖度して自ら言論の自由の精神そのものを曲げることになる。
2001年に安倍晋三と中川昭一がNHKの番組に介入して内容を変更させたとする裁判で高裁は政治介入はなかったとしたものの、「NHK幹部が政治家の意図を忖度した」と判決を下し、最高裁はこの忖度について触れなかったのだから、“政治家の意図忖度”の判決は决定したことになる。
安倍晋三自身は政治的介入を否定しているが、安倍晋三や中川昭一側から何らかの働きかけがなければ、NHKは政治家の意図を忖度などしない。
昨年12月14日の総選挙前の211月20日、「自由民主党 筆頭副幹事長 萩生田光一/報道局長 福井 照」の差出し人名で在京テレビキー局の編成局長、報道局長宛てに、《選挙時期における報道の公平中立ならびに公正の確保についてのお願い》と題する文書を送付して、こうして欲しいという指示を事細かに出して選挙報道の公正中立求めたことに対して報道の現場が萎縮した雰囲気に支配されたとしていることも、“政治家の意図忖度”からの、少なくとも言論の自由を狭める自己規制の力が働いたということでなければならないはずだ。
もし自分たちが決めた「イスラム国」の呼称を自分たちの思想や主義・主張に関係する解釈として貫かずに、この質疑を機会に安倍晋三が言う呼称に自分たちから統一するようなことが生じたなら、政治家の意図を忖度して、自ら言論の自由の精神そのものを曲げることになる自己規制を発動させたことになる。
要するに政治家の意図を忖度するマスコミかどうかは呼称を変更するかどうかがリトマス試験紙となるということである