北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

憲法記念日、将来の世界を展望し現代の日本国憲法と日本国民の防衛安全保障を考える

2016-05-03 23:56:04 | 北大路機関特別企画
■憲法記念日
本日は憲法記念日です。安全保障を重要な論点として提示する際、意識しなければならないのは憲法の関係です、そこで本日はこの視点から少し考える事としましょう。

憲法記念日という事で、安易な憲法をこのまま維持するのか憲法を改正するのか、という視点が先行していますが、我が国の将来に大きくかかわる命題であるため、単純に改憲の是非として考える事を少し超えて討議する部分はあるのではないか、その為には知るべき知識と共有すべき論点がもっとあるのではないか、と。

憲法は英訳でConstitution、constitutionは構造を意味しますので、語源を遡れば酷夏の候像を示す基本法規、ということとなります。日本国憲法は103の条文で構成され、天皇、戦争放棄、国民の権利義務、国会、内閣、司法、財政、地方自治、改正、最高法規、補則、となっています。

日本国憲法は内容を見ますと法の下の平等として身分格差を禁じ、自由権として精神を挙げ国家による宗教支配からの自由を明記、更に世界の憲法では唯一の男女同権を明示しています。更に生存権として国家による積極的な社会保障を盛り込み、参政権を明文化し国民の支持を以て構成される国家として政治への参加権利を示しています。

憲法改正、これは憲法の日に護憲と改憲を巡り大きな議論となる一日でもあります。憲法改正において最も大きな視点は、日本国憲法九条の平和主義、この中で戦力の不保持を明記している部分です、即ち、戦力の不保持では独立国家として自衛権を維持し自分の国を自分で守る事が出来ない為改正すべきという視点と平和のために現在の自衛隊で我慢しよう、という視点です。

勿論この他に憲法には、環境権や孤立権に情報開示請求権等日本国憲法制定当時には概念として不明確であったものが反映されない等の分野はあり、プライバシーの権利や国からそっとしてもらう権利というもの、環境が良い環境で生きるための国家への積極的な関与を求めるという視点、こちらの改憲を求める声、こちらがある事も理解しておくべきでしょう。

アメリカにより押し付けられた憲法なので改正すべき、憲法改正を求める際に自主憲法制定、としましてこういう視点はありますが、これは半分間違っている視点と云わざるを得ません。ご存知の通り、日本国憲法は大日本帝国憲法から改正という形で帝国議会での議決を経て成立したものです。

大日本帝国憲法は国民の権利や信教の自由等の面で先進的な部分はありますが、第二次世界大戦の敗戦と共に占領統治下、新憲法案が日本案と連合国案を経て、占領軍による連合国案が強く推奨され、帝国議会において成立したものです。可能性としてですが、帝国議会において否決する制度上の手続きはあったわけです。

故に半分は押し付けられた形という理解も出来なくはありませんが、大日本帝国憲法下の帝国議会により改正されたという手続きがありました。強制力を背景とした改正だ、との批判がありますが、これを不当とするならば、韓国併合等日本の過去の手続きも不当という事となります、ですから、日本国憲法は日本国民の代表たる帝国議会での手続きを経て改正された、という点、忘れるべきではありません。

カントの永遠平和、若しくはHGウェルズの平和主義思想、というものが日本国憲法の憲法制定過程に影響を与えた、といわれるものですが、この背景には第二次世界大戦こそが最後の戦争であり、そののち国連を主軸とした世界連邦の形成が、理想とされていたものです。しかし、実際の世界史はそのようには進まず。

世界連邦の形成にはアーサーCクラークが“幼年期の終わり”に記したような外圧、若しくは次の世界大戦により、当時の対立軸であったイデオロギー対立を払拭する必要がありました。反面、核兵器の誕生により相互確証破壊という新しい不戦基盤が醸成され、これらは実現することなく今に至ります。

世界連邦が成立しないまま、一国平和主義は基本的に成り立ちませんが、建前と本音の文化、というべきでしょうか、軍隊ではない軍隊を組織し、集団安全保障機構へ流れで加盟を果たし、同盟国と国際関係の欠缺に経済大国としての位置づけを内包させることで、非常に危うい形ではありますが世界政治に対し確たる位置を確立させ、今日に至る事が出来ました。

自衛権、という視点ですが、自衛権については国際慣習法において、元々自衛権と正当防衛の英訳は同じものであり認められてきたものですが、成文国際法としても国連憲章51条により広く認められたもので、国連憲章は1989年に国際司法裁判所勧告的意見において強行規範、即ち国際公序として他の規範に先んじる優位性を持つ規範とされています。

ただ、自衛権を有する事は権利ではあるが義務ではない、という視点も踏まえつつ、実のところ主権国家が自衛権を保持し行使する事は国際法上認められた概念であり、併せて武力攻撃を他国に対しかける事は国連憲章二条四項において禁じられています、この点は何度か提示しました。

そしてこれらを履行するべく、国連は集団安全保障機関として機能しており、その上で国連加盟国は国連への支援義務が明記されていますので、日本国憲法を文字通り自衛権や戦力の不保持を教条的に適用すれば国連にさえ加盟する事は出来ません、すると、日本国憲法の戦力の不保持というものの基盤は元々国連加盟後、非常に流動的な位置にある事が理解できます。

憲法の形骸化、その波及と拡大という視点が、上記実情には危惧されています。こういいますのも、憲法は上記の通り健康快晴の種たる視点は戦力不保持という部分に挙げられるわけですが、一方で日本国憲法は非常に先進的な部分を含んでおり、戦力不保持には自衛権の明記若しくは全文の削除という。

このように改憲を求める声がある反面、男女同権や参政権の在り方へ反対する意見は少数派です、信教の自由を改める要求も少数派です。他方、現行憲法は自衛権の視点から、特に自衛隊を合憲とみなすかという視点、平和主義もその定義は突き詰めれば曖昧模糊としているものですが、手段としての平和主義をどのように位置づけるか。

平和主義を単純に考える場合、世界には世界史を以下に見回しても平和国家は多く歴史上に記録を見出すことは可能であり散見しますが、歴史上侵略国家や戦争国家を挙げた国はありません、すると、平和国家の定義とはどういったものであるのかは非常に難しくなります、戦争しない事を平和として掲げていたとして自国民を尊重しない国家は平和的とは解釈されません。

また、軍事力の対外投射を積極的に実施する諸国であっても、国際平和維持活動において積極的に軍事力を世界へ展開させ、国民皆兵制と重武装を国是とし、大量の兵器を海外へ輸出しているスウェーデン等は平和国家に定義されます。一方、制度上常備軍を持たない憲法を有するコスタリカは、安全保障を実質外注に出すことにより生じる人権問題等から平和国家とか必ずしも含まれないことも、あります。

手段か目的なのか、という議論とともに、明文化された九条の内容と我が国の自衛権に関する諸制度を考えた場合、この状況を放置する場合、憲法の形骸化を生むのではないか、という視点にも繋がり、一部憲法学者で保守派とされる方々の中には現状を違憲状態としたうえで積極的な改憲を模索すべき、という視点も、ある。

憲法改正について。上記の視点を踏まえますと、憲法を現実に即したものとする余地が見えてくるところです。ただ、憲法改正となりますと、新しい条文の明文、憲法制定という視点から再検討する場合、国民的な合意をどのように条文へ反映させるか、という視点は、憲法改正を正面から向き合う事を一種の禁忌としていたことから、充分討議されているとは言い切れません。

総論一致各論反対、の典型例となりそうですが、保守勢力や改憲派の中にも、憲法を改正するとしてどのように改正するかについては温度差があり、この点、国民的な議論が必要でしょう。更に、安易な改憲は革新勢力による一時的な政権交代となった場合、国家体制を含めた取り返しのつかない政策変更へ繋がる危険がある。

天皇、戦争放棄、国民の権利義務、国会、内閣、司法、財政、地方自治、改正、最高法規、補則、日本国家はこうした国であるとして、天皇陛下の日本国家統合の象徴としての地位から始まる日本国憲法は、相互に均衡を考え制定しているものであることは重要な点で、これら憲法の均衡については慎重を期すべきという見方も出来るでしょう。

その上で、やはり必要とする視点は、国民的な討議の基盤、政治参加への主権者としての権限の行使にあると考えます。実際のところ、社会生活において政治について討議し、主体的に参加する時間は驚くほど少なく、議論を深める余裕がありません、そもそも学生運動一つとっても左翼運動ばかりで保守的な学生運動が無い歪な国なのですから。

これは休日の不一致や住民生活と経済活動の地理的偏差、どうしても政治は国民の種観事項ではなく為政者の選挙民としての選出へ一部関与する点を例外として社会生活に追われている事が実情です。選挙権を投票として投じる時間さえも少なくない国民は持てず、という実情がある。

どうするべきか。市民活動として休日以外に集う市民は経済圧胴に参加していないといわざるを得ず、本当の意味で政治を参加する視点から討議する機会は驚くほど少ないことが実情です。政治問題は話題からさけるという視点がありますが、これは我が国政治参加と憲政以前の政治参加への社会的要求の歴史とは無関係ではないとも考えるのですが、兎に角少ない。

もちろん、ある種文化に近い側面、社会学的に政治と国民生活の接点の限界という環境に起因するものが多いのですが、改めて改憲を考える場合、政治へ参加するための休日を含め、時間はかかるが、国のconstitution、国の在り方についての共通理解を以て、その改正を考えなければ、隔靴掻痒の循環に陥りかねません。

ただし、現行憲法を仮に平和主義に限ったうえで見た場合、現状に甘んじて良いのかについては、討議の余地があります。こういいますのも、平和主義が目的ではなく手段として用いられている現状では、平和憲法を目的は無く手段とした場合、必ずしも平和的生存権と平和憲法は両立しえません。

平和憲法は自衛手段を制限しているだけですので、第一撃を受けての国土での専守防衛を念頭としており、これは国土が戦場となる事を意味します。しかし、先制攻撃を国土の外において受動的に防衛する選択肢、国際の平和と安全絵の価値観を共有する諸国との連携した防衛力の投射を選択肢から省いている現行憲法下の防衛政策を有事まで堅持する場合、どうか。

専守防衛を貫けば、国土戦となります、これは平和主義ではあっても平和的生存権が守られた状況なのか。すると、選挙民の意識として専守防衛とは国土での戦闘を念頭とした、いわば本土決戦主義という非常に危険な政策であることを認識しているのか、その是非も含め選挙民が共有しているかについては疑問符がどうしても残ります。

意見集約を行う上で、共通知識に立脚した有機的な討議を国民規模で行うには非常に時間を要します。例えば、海外では直接民主主義を制度の一部に含めているスイスなどは意見集約に時間をかけ過ぎ、慎重と云えばそれまでですがなかなか結論が出ません。スイスは参政権でも時間をかけて議論している為、例えば女性参政権の結論が出たのは1975年、というほど、議論に時間を掛ける国です。

スイス、21世紀の今日となっても例えば国連加盟や欧州連合へも住民集会や州議会など拒否と投票を通じ、意見集約に確たる意見を出すには時間が充分ではなく暫定議論の結論を見出す範囲に収まっています、日本でも時間がかかるが着実な議論、という選択肢を採った場合、情勢の変化に間に合わない可能性もありますが。

それでも安易に変えるべきではないものの改正するさいに後世憂いを残さぬよう、上記視点から個人的にその手間を惜しむべきではない、と考えるところです。こうした一方で、情勢変化に追い付かず不測の事態となった場合には、非常に懸念すべき状況を覚悟しなければなりません。

なのですが、幸い、付随的違憲審査権を採用する我が国では憲法判断は司法府が具体的事例を背景に判断するものであり、現在のところ、最高裁判所は安全保障問題について統治行為論を掲げ、要するに政治問題として内閣府に判断を委任しているため、合憲の判断はここになる、と。

政治問題として最高裁が行政府へ判断を委ねる、こうして現在の防衛政策は合憲の範囲内において、自衛隊として防衛力を整備し、国連への加盟と加盟国としての義務を履行、日米同盟を堅持し、豪州やインドとの包括安全保障協定を締結しています。包括安全保障協定は同盟条約を補完する新しい安全保障の協力関係という事は先日紹介しました。

その上で、この現状を一つの暫定案とするのか、永続的な憲法との国家国民の関係として視るのか、この部分は未だ不明確です。その為にも、国民的な議論として、安易な改憲の是非という論点の端緒を結論とするのではなく、という本質的な見極めが必要となります。

いわば、平和主義の目的と手段のはき違えに似た、改憲を手段ではなく目的に終わるとの短絡的な理解を戒め、出来る限り、価値観や憲法観の議論へ参画できるよう、多忙な日常生活の中から時間をねん出する努力を、先ず第一に行うことから始めるべきなのではないか、そんなことを考えてみました次第です。

北大路機関:はるな くらま
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コメント (2)
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