■新時代は全通飛行甲板型護衛艦
ヘリコプター搭載護衛艦の新時代は全通飛行甲板型時代となりました、そのはじまりが、ひゅうが、です。
ひゅうが横浜港開港150周年特別公開、ひゅうが型2隻、ひゅうが、いせ。いずも型二隻、いずも、かが。全通飛行甲板を備えた護衛艦は航空機運用という視点で多用途運用能力があり、日本の海上防衛力が独自防衛力で展開できる分野を一応は広めたといえます。
横浜港開港150周年、前回の特集では横浜港を幕末に開港した幕府の尽力、そして明治政府が軍事脅威へ対応しつつ近代日本の萌芽を確たる水準まで引き上げる際の生みの苦しみに横浜港拡張を挙げました。年々増大の貨物量、しかし港湾を拡張する予算はありません。
1886年に転機があります、アメリカがかつて日本が支払った賠償金78万8000ドルを返還することで日米合意に至ったという。賠償金というのは江戸時代に長州藩が行った下関事件、四カ国連合艦隊の反撃で長州藩が壊滅した際、幕府が支払った賠償金の返還です。
現首相の地元ですので叩くのは一考しましたが、あの頃の長州藩は無茶苦茶な危険分子でしてそういえば御所に銃弾を撃ち込んだ蛤御門も長州でした、そして賠償をになったのは幕府だったわけですね。幕府が日本の正統政府として賠償していなければ、どうなったか。
中国の上海租界のように山口市はなっていたのかもしれません。閑話休題、当時の78万8000ドルですので、それは大きな金額でした。賠償金というものは返還されるものなのかは少々おどろきですが、外交上独立国としての地位を固めた日本へのアメリカの期待か。
イギリスのパーマー技師、内務省嘱託の技師によりこの返還賠償金を元に全長457mという4000t級商船6隻の同時接岸が可能な容量を有する巨大な鉄製桟橋が横浜港に増築されることとなり、逐次増加に個別に対応させていた桟橋の荷役容量不足を一挙に解消します。
4000t級商船6隻の同時接岸が可能という新しい桟橋は、のちに大桟橋、現在の横浜大桟橋と呼ばれるようになりました。草創期からの突堤には鉄道線が開通、旅客船から新橋行へ乗換でき、陸蒸気と珍重されたのも昔の話で鉄道線として陸運の花形へ昇華した鉄道です。
しかし、横浜港には国際港湾として重要なものが欠けていました、それはドックです。横浜の近代化は、ホテルや商店が並び、各国料理や病院なども開設され、売弁と呼ばれる通訳や商業仲介人が上海租界や香港から日本に拠点を築き賑わうも、港にドックが無かった。
国際港湾としてドック、船渠、いろいろ言い方はありますが不可欠なものでした、何故ならば国際航路は長距離で現在の旅客機と異なり長期間の航海を行わなければならず、これは必然的に船体の損傷や老朽箇所補修を必要とするものです、国際港湾の必要条件の一つ。
国際港湾のドック、空港の整備施設というようなものでしょうか、これがなければ単なる発着場となってしまう。1891年に東京の実業家渋沢栄一が発起人となり、船渠造営における我が国第一人者である恒川柳作海軍造船官を招き、横浜船渠の建設が開始されました。
日本人の手で行われる船渠建設、これはパーマー技師が突如病没し、やらざるを得ない状況にあったというわけなのですが、建設開始、途中に1895年の日清戦争勃発などで戦費が嵩む事もありましたが先に1898年、二号ドックが完工、1899年に一号ドックが完成する。
横浜港から世界へ結ぶ航路は1896年に日本郵船が完成成った大桟橋から北米サンフランシスコ航路、豪州シドニー航路、欧州ロンドン航路を相次ぎ就航させ、横浜港は一挙に日本の船会社により世界とを結ぶ航路へ発展します。ここで、ひゅうが、一般公開されました。
その後、しかし1923年の関東大震災では大桟橋が崩落全壊するなど、試練の時を迎えますが、大桟橋は耐震構造の鉄筋コンクリート構造へ頑強に生まれ変わり、あの太平洋戦争さえも生き延びました。そして膨大な震災瓦礫は山下公園造成へ利用され、今日に至ります。
神戸港の発展、同時にこれは期せずしてのことですが、関東大震災の荒廃は代替港として神戸港を大きく発展させることとなります。無論横浜港の重要性は些かも代わらず、政府は震災翌月に早速横浜港の復興に着手しました、前述の耐震構造大桟橋へと続くのですね。
関東大震災は、しかし世界からの救援の窓口として機能したことも特筆しておきたく、世界へ開かれた横浜港には多数の各国商船が接岸中、アンドレルボン号やエンプレスオブオーストラリア号などの大型船が日本郵船などの日本船とともに被災者救出にあたりました。
昨今、日本の海の玄関口であった東京港晴海埠頭がレインボーブリッジ建設により60m規模の高さを有する大型客船が入港できなくなり、結果的に、行政の不作為というお粗末な事由ですけれども、10万トン級超大型クルーズ船の横浜入港の増大という僥倖を得ました。
横浜港の歴史は、しかし第二次世界大戦において突如米軍が瑞穂埠頭を無期限接収することとなり、しかも1956年まで商港として全面返還に至りませんでした。サンフランシスコ講和条約とともに港湾施設を部分的に使用することは出来るようになっていたのですが。
横浜港は、全面返還は日本が日ソ基本条約を締結し国連に加盟した1956年までまつ必要がありまして、実のところ横浜港とともに歴史を歩んだ横浜の戦後復興は大きく遅れることとなり、一方復興へ工業力を高めるには横浜港は不可欠、官民一体となり返還要求を行う。
占領下の横浜港ですが、全く港湾施設が使われなかったかと問われればそうではなく、軍需輸送に依存する状況が醸成されます。連合軍の、具体的には進駐軍と1950年からは朝鮮戦争にともなう軍需輸送の中継地として細々と復興の端緒を探るほか無かったわけですね。
しかし、返還後は国際航路へ運良く特務艦としての戦争を生き残ることが出来た太平洋航路用旅客船氷川丸と、そして各国から導入した船舶とともに自分で稼ぐ方式の正当な戦後復興を成し遂げ、横浜港一等地に米軍接収の瑞穂埠頭にかわる埠頭造成を大車輪で進めた。
今日の横浜港が再建されました。今日では旅客船はクルーズ船となり定期国際航路はなく、船員街というものは自動化されたコンテナ埠頭へ生まれ変わりました。湊町情緒、という、ものが失われた事に郷愁を覚える方も年々減り、なるほどそんな時代もあったのか、と。
港とは物流拠点として点と船を結ぶ点に過ぎないのか、それとも瀬人や人と人の交流の拠点ともなる複合的な拠点なのか、後者については懐古趣味的な思い出の価値観とは成りましたが、横浜は世界に冠たる300万都市として湊町から商都に発展し、今日に至ります。
大桟橋は2002年に増大する巨大クルーズ船へ対応するべく、高さを抑えた、しかし、クジラの背中ウッドデッキという優美なデザインを取り入れた美しい大桟橋へ生まれ変わりました。新しい大桟橋では明治時代から今日に至る大桟橋の模型なども展示されています。
ひゅうが一般公開はここ大桟橋で行われるとともに観艦式では護衛艦ひゅうが艦内、更に大型のヘリコプター搭載護衛艦いずも就役後は護衛艦いずも、艦内にて海洋安全保障シンポジウムを挙行することとなり、その際に改めて大桟橋の巨大さを体感する事が出来ます。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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ヘリコプター搭載護衛艦の新時代は全通飛行甲板型時代となりました、そのはじまりが、ひゅうが、です。
ひゅうが横浜港開港150周年特別公開、ひゅうが型2隻、ひゅうが、いせ。いずも型二隻、いずも、かが。全通飛行甲板を備えた護衛艦は航空機運用という視点で多用途運用能力があり、日本の海上防衛力が独自防衛力で展開できる分野を一応は広めたといえます。
横浜港開港150周年、前回の特集では横浜港を幕末に開港した幕府の尽力、そして明治政府が軍事脅威へ対応しつつ近代日本の萌芽を確たる水準まで引き上げる際の生みの苦しみに横浜港拡張を挙げました。年々増大の貨物量、しかし港湾を拡張する予算はありません。
1886年に転機があります、アメリカがかつて日本が支払った賠償金78万8000ドルを返還することで日米合意に至ったという。賠償金というのは江戸時代に長州藩が行った下関事件、四カ国連合艦隊の反撃で長州藩が壊滅した際、幕府が支払った賠償金の返還です。
現首相の地元ですので叩くのは一考しましたが、あの頃の長州藩は無茶苦茶な危険分子でしてそういえば御所に銃弾を撃ち込んだ蛤御門も長州でした、そして賠償をになったのは幕府だったわけですね。幕府が日本の正統政府として賠償していなければ、どうなったか。
中国の上海租界のように山口市はなっていたのかもしれません。閑話休題、当時の78万8000ドルですので、それは大きな金額でした。賠償金というものは返還されるものなのかは少々おどろきですが、外交上独立国としての地位を固めた日本へのアメリカの期待か。
イギリスのパーマー技師、内務省嘱託の技師によりこの返還賠償金を元に全長457mという4000t級商船6隻の同時接岸が可能な容量を有する巨大な鉄製桟橋が横浜港に増築されることとなり、逐次増加に個別に対応させていた桟橋の荷役容量不足を一挙に解消します。
4000t級商船6隻の同時接岸が可能という新しい桟橋は、のちに大桟橋、現在の横浜大桟橋と呼ばれるようになりました。草創期からの突堤には鉄道線が開通、旅客船から新橋行へ乗換でき、陸蒸気と珍重されたのも昔の話で鉄道線として陸運の花形へ昇華した鉄道です。
しかし、横浜港には国際港湾として重要なものが欠けていました、それはドックです。横浜の近代化は、ホテルや商店が並び、各国料理や病院なども開設され、売弁と呼ばれる通訳や商業仲介人が上海租界や香港から日本に拠点を築き賑わうも、港にドックが無かった。
国際港湾としてドック、船渠、いろいろ言い方はありますが不可欠なものでした、何故ならば国際航路は長距離で現在の旅客機と異なり長期間の航海を行わなければならず、これは必然的に船体の損傷や老朽箇所補修を必要とするものです、国際港湾の必要条件の一つ。
国際港湾のドック、空港の整備施設というようなものでしょうか、これがなければ単なる発着場となってしまう。1891年に東京の実業家渋沢栄一が発起人となり、船渠造営における我が国第一人者である恒川柳作海軍造船官を招き、横浜船渠の建設が開始されました。
日本人の手で行われる船渠建設、これはパーマー技師が突如病没し、やらざるを得ない状況にあったというわけなのですが、建設開始、途中に1895年の日清戦争勃発などで戦費が嵩む事もありましたが先に1898年、二号ドックが完工、1899年に一号ドックが完成する。
横浜港から世界へ結ぶ航路は1896年に日本郵船が完成成った大桟橋から北米サンフランシスコ航路、豪州シドニー航路、欧州ロンドン航路を相次ぎ就航させ、横浜港は一挙に日本の船会社により世界とを結ぶ航路へ発展します。ここで、ひゅうが、一般公開されました。
その後、しかし1923年の関東大震災では大桟橋が崩落全壊するなど、試練の時を迎えますが、大桟橋は耐震構造の鉄筋コンクリート構造へ頑強に生まれ変わり、あの太平洋戦争さえも生き延びました。そして膨大な震災瓦礫は山下公園造成へ利用され、今日に至ります。
神戸港の発展、同時にこれは期せずしてのことですが、関東大震災の荒廃は代替港として神戸港を大きく発展させることとなります。無論横浜港の重要性は些かも代わらず、政府は震災翌月に早速横浜港の復興に着手しました、前述の耐震構造大桟橋へと続くのですね。
関東大震災は、しかし世界からの救援の窓口として機能したことも特筆しておきたく、世界へ開かれた横浜港には多数の各国商船が接岸中、アンドレルボン号やエンプレスオブオーストラリア号などの大型船が日本郵船などの日本船とともに被災者救出にあたりました。
昨今、日本の海の玄関口であった東京港晴海埠頭がレインボーブリッジ建設により60m規模の高さを有する大型客船が入港できなくなり、結果的に、行政の不作為というお粗末な事由ですけれども、10万トン級超大型クルーズ船の横浜入港の増大という僥倖を得ました。
横浜港の歴史は、しかし第二次世界大戦において突如米軍が瑞穂埠頭を無期限接収することとなり、しかも1956年まで商港として全面返還に至りませんでした。サンフランシスコ講和条約とともに港湾施設を部分的に使用することは出来るようになっていたのですが。
横浜港は、全面返還は日本が日ソ基本条約を締結し国連に加盟した1956年までまつ必要がありまして、実のところ横浜港とともに歴史を歩んだ横浜の戦後復興は大きく遅れることとなり、一方復興へ工業力を高めるには横浜港は不可欠、官民一体となり返還要求を行う。
占領下の横浜港ですが、全く港湾施設が使われなかったかと問われればそうではなく、軍需輸送に依存する状況が醸成されます。連合軍の、具体的には進駐軍と1950年からは朝鮮戦争にともなう軍需輸送の中継地として細々と復興の端緒を探るほか無かったわけですね。
しかし、返還後は国際航路へ運良く特務艦としての戦争を生き残ることが出来た太平洋航路用旅客船氷川丸と、そして各国から導入した船舶とともに自分で稼ぐ方式の正当な戦後復興を成し遂げ、横浜港一等地に米軍接収の瑞穂埠頭にかわる埠頭造成を大車輪で進めた。
今日の横浜港が再建されました。今日では旅客船はクルーズ船となり定期国際航路はなく、船員街というものは自動化されたコンテナ埠頭へ生まれ変わりました。湊町情緒、という、ものが失われた事に郷愁を覚える方も年々減り、なるほどそんな時代もあったのか、と。
港とは物流拠点として点と船を結ぶ点に過ぎないのか、それとも瀬人や人と人の交流の拠点ともなる複合的な拠点なのか、後者については懐古趣味的な思い出の価値観とは成りましたが、横浜は世界に冠たる300万都市として湊町から商都に発展し、今日に至ります。
大桟橋は2002年に増大する巨大クルーズ船へ対応するべく、高さを抑えた、しかし、クジラの背中ウッドデッキという優美なデザインを取り入れた美しい大桟橋へ生まれ変わりました。新しい大桟橋では明治時代から今日に至る大桟橋の模型なども展示されています。
ひゅうが一般公開はここ大桟橋で行われるとともに観艦式では護衛艦ひゅうが艦内、更に大型のヘリコプター搭載護衛艦いずも就役後は護衛艦いずも、艦内にて海洋安全保障シンポジウムを挙行することとなり、その際に改めて大桟橋の巨大さを体感する事が出来ます。
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