北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都発幕間旅情】若宮八幡社,名古屋総鎮守神社本庁別表神社は栄町と電気街大須を見守る

2018-12-19 20:03:05 | 旅行記
■仁徳天皇祀る名古屋総鎮守
 名古屋、日本三大都市圏中京地区の中心、個性溢れる自動車と航空産業の先端工業都市、そんなハイカラ都市の総鎮守を探訪してみました。

 若宮八幡社、名古屋総鎮守と神社本庁別表神社として崇敬を集める名古屋市中心部中区栄の神社です。大宝年間年間の八世紀初頭、701年頃に仁徳天皇を祭神として創建され、名古屋城三ノ丸あたりに社殿を構えていました。一時荒廃し延喜年間の10世紀頃再建される。

 那古野神社という、この那古野が名古屋の地名となった由来があるのですが、若宮八幡社は創建当初と延喜年間の再建当初にこの那古野神社と隣接していた歴史があるといい、しかし那古野神社と共々に1532年、兵火の巻き添えを食う形で全て焼失してしまったという。

 仁徳天皇、応神天皇、武内宿禰命を祀るこの神社が再建されたのは焼失から80年程を隔てた天文年間の1540年に織田信秀、織田信長の父により再建されました。織田信秀とこの地は、葬儀がここから徒歩数分の萬松寺にて執り行われ、実は現在の社殿と所縁があります。

 織田信秀により再建された若宮八幡社は、豊臣秀吉治世下に200石の寄進を以て境内を広めました。ただ、1610年に清州城廃城に伴う名古屋城造営と共に城の縄張り予定地にあった若宮八幡社は遷座を余儀なくされ、名古屋総鎮守として現在地に社殿を築き今日に至る。

 二百歳の狐が住んだ地として、お稲荷様も祀られている。二百歳の狐とは富士裾野に住んだ雄狐が駿府の殿様が行った大規模な狩り、当時は軍事演習の意味ですがこの影響で富士の裾野から追いやられ、東海道旅していたところ豊川稲荷近く二川の雌狐と結ばれました。

 狐の夫婦は江戸時代に境内にあった芝居小屋の近くを犬が来ない好立地として住み着き、ある日に芝居小屋の主人にこの地へ永住したい故神主に掛け合ってほしいと頼み、これは吉兆として境内の楠林を供した事で永くこの地に安寧を齎したとの言い伝えがあります。

 尾張藩藩主徳川光友より社領100石を拝領したのと同時期、狐の夫婦の伝承は天保年間の話であり、二百歳の狐から遡ればその頃の駿府の殿様は大御所様では、と思うのですが、二つの出来事もあり、この地は大いに栄え、鉄砲町として製造業も盛んであったもよう。

 名古屋、いい意味で中途半端、悪い意味で新しい物好き、という印象があります、中途半端とは人口200万都市で大都市機能を集約しようとした為に深みが無く、新しいもの好きとは建て替えたがる。なんでも名古屋市の方が京都市よりも寺社仏閣数だけは多いという。

 寺社仏閣が多いという点を強調した背景には、昨年でしたか名古屋市の都市魅力度が候補市中最下位という実情を嘆いた地元民放テレビ局が名古屋の見どころを調査する一大特番を連日夕方に組み、その際に京都よりも多い点を大々的の報じたという話を知人伝手に聞いたためです。

 京都市よりも名古屋市が多くの寺社仏閣を集めるというものの、そうした印象が薄い背景に名ばかり寺社仏閣が多い実情がありまして、寺院と名を掲げつつ本堂が商業ビルとなっており、もしくは寺域をマンションに建て替え、一室を本堂としている事例もある程です。

 名古屋には前述の織田信秀所縁の萬松寺もマンション寺のように昨年建て替えられてしまいました。名古屋の新しいもの好き、とは古いものを評価せず建て替えたがるよう見えまして、名古屋城復興天守建て替えも同様に思える一方、若宮八幡社の佇まいは安心します。

 名古屋総鎮守の若宮八幡社は名古屋市東西の100m道路に面し、若宮大通として防災上の最大の防火帯として知られていますが、この若宮大通がここ若宮八幡社に由来するといいます。名古屋は東南海地震や東海地震へここを防火の切り札とし、総鎮守の前に100m道路を整備したのかもしれませんね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする