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【京都発幕間旅情】彦根城天守閣,大津城四重五階構造移設後の三重三階地下一階構造天守造営

2019-06-12 20:06:04 | 旅行記
■彦根城天守閣,国宝天守探訪記
 彦根城天守閣、滋賀県が世界に誇る城郭です。この天守閣は彦根城造営に際し大津城天守閣が移築されたと説明されますが、この視点を考えつつ散策してみました。

 近江の地、新快速にて名古屋方面へ向かう際に小高い山の頂上に美しい天守閣につい見蕩れますが、これが国宝四天守閣、最近五天守閣となりましたが、長くから親しまれている彦根城の天守閣です、ここを伊吹山の方へ抜ければ関ヶ原地峡、そして大垣と岐阜に至る。

 金亀城の別名と共に複合式望楼型 三重三階地下一階構造の天守閣、1604年に彦根藩の城郭として造営されました。彦根城の歴史、はこれまでにも紹介してきましたので、今回は天守閣、17世紀初頭からこの地に在り続けています機能美を備えた構造を中心に伝えたい。

 彦根城は中世日本城郭の集大成といえます、多くの城郭遺構を移設した為です。天守閣は大津城、佐和山城から佐和口多門櫓と太鼓櫓門、小谷城から西ノ丸三重櫓、観音寺城からや一説には和田山城から移設されたという太鼓門、天秤櫓は長浜城から移築したという。

 城郭が軍事拠点から行政拠点へと昇格したのは安土桃山時代末期から江戸初期にかけて、成程大津城や長浜城は湖上港湾要塞、小谷城や佐和山城は緊要地形防御の拠点要塞、対して広大な城下町と経済圏の中央に位置する彦根城、行政拠点城郭の典型例と云えましょう。

 佐和山城や小谷城から西ノ丸三重櫓と観音寺城に和田山城は今日、郭の跡などにその遺構を見いだせるのみ、長浜城は復元天守閣が湖北長浜駅前にありますが、当時の遺構は現存していない。なお、彦根城へ移設されました多門櫓については今日、現存していません。

 複合式望楼型という通し柱を用いない構造で、各階が分割して積層された天守閣構造は砲撃や破城槌のような打撃へ堅固という。牛蒡積石垣が基礎に配置されるとともに、下層が突上窓で中層は華頭窓、最上階は外廻縁と高欄とし、防御での銃眼と射界を確保している。

 大津城、彦根城の天守閣は此処からの移築と伝えられていまして大修理の際に資材が見つかった。大津城の方は現存していません、遺構はその周辺が全て京阪浜大津駅となっていまして、江戸時代には堀割も埋設されたといい、その全容を知る事は難しくなっています。

 井伊直継の彦根城、その天守閣を造営したのは1586年に浅野長政が豊臣秀吉の命を受けての事業でした。浅野長政、豊臣政権五奉行筆頭として知られ、関ヶ原の戦いでは徳川秀忠の徳川軍主力に加わった事が評価され、幕府開府後に隠居へ常陸国真壁を贈られた武将だ。

 浅野長政が造営しました移設前の大津城天守閣は望楼型の四重五階構造であったというのが昨今の有力な説という、しかし天守閣は前述の通り三重三階地下一階です。四重五階構造が三重三階地下一階となった背景、昔は素朴な疑問の一つだったのですが考えてみれば。

 大津城の戦い、慶長年間1600年10月13日から10月21日までの大津城主京極高次と西軍毛利元康と立花宗茂及び小早川秀包連合軍による攻城戦です。10月21日即ち旧暦9月21日に大津城は落城していますが、この当日に戦われたのが、天下分け目関ヶ原の合戦だ。

 京極高次の防御は、しかし激戦であったようで、落城したものの関ヶ原の戦いへ西軍の増援を阻止した功績が認められ、一時は落城の責任を執って出家するも、家康は若狭一国と近江国高島郡の9万2000石を贈ったといいます。この時点で、大津城は徹底破壊された。

 彦根城天守閣は大津城天守閣を移築した、と簡単に説明される事が多いのですが、四重五階構造が三重三階地下一階となったように、この時点で大津城天守閣は移築できる部分が大きく破壊されており、私たちが考えるような移築でなく部分利用だったといえましょう。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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