■複合連結式望楼型天守閣
福知山城,城郭は青空と共に刻まれた複雑な幾何学模様の如き機能美が陰影を脈々と伝え映えるように思います。
福知山城は今日の姿こそ雄大です。しかし最盛期の姿は今よりも遥かに壮大で全体では東西600mに南北300mという。丹波一円を見渡しましてもこれほどの城郭の機能は随一の規模であり、丹波の中心となります、そしてこれは築城目的が大きく影響していました。
天正7年こと西暦1579年に明智光秀がおこなった丹波攻略は、畿内全体に織田信長の勢力が轟く事となりました。しかし丹波一国を防衛するだけの拠点ならば上記の壮大な城郭は必要ありません、そして城郭が大きくなければ城下町も小さく留まっていたことでしょう。
織田信長は畿内支配の態勢を確立すると共に豊臣秀吉と明智光秀に中国侵攻、中国攻めを命じまして、実はこの命令こそが福知山城が壮大な城郭となる事を意味していたのですね。何故か、それは城郭を防衛拠点ではなく兵站拠点としていた為で、中国攻めの物資を集積するためだ。
豊臣秀吉は山陽道を兵站線として姫路城等を兵站中継地として整備したのに対し、明智光秀は山陰道を兵站線として進むべく兵站中継点に福知山城を整備したのですから、姫路城は江戸時代に拡張され大きくなりましたが、当時は福知山城も同様に広かったわけでして。
明智秀満、明智光秀は娘婿を城主として配置しました。しかし、1582年本能寺の変の後に豊臣秀吉の所領となりまして、その後修築は行われたようですが兵站拠点としての用途は無くなり、城郭は江戸時代に入った後、有馬豊氏時代に完成したものと推定されている。
天守閣は複合連結式望楼型天守閣といい、元禄12年こと西暦1699年の造営、明智光秀が天王山の戦いで敗北し伏見で落ち武者狩りに打ち取られてから120年近く後のもの。しかしこれも明治時代に取り壊され1985年に再建されました、昭和末期、意外に新しいのだ。
四連郭式城郭、という、本丸を小山の最先端部の頂上、大手門跡から上る事標高にして25mに置き、城郭の縄張りはその西に二ノ丸とそしてその更に西へ伯耆丸郭を、加えて内記丸と続く、最盛期はこうした重厚なものとなっており、工兵の小規模な日本では難攻不落で。
福知山城の天守閣は四連郭式城郭、さて四連郭式城郭四連郭式城郭四連郭式城郭と早口言葉のように連呼したくなることろではありますが、これは多くの城郭において天守閣が文字通り落城直前までの最後の砦という最中にあって、独特の設計といえるかもしれません。
平面古図、江戸時代に記された天守閣に関する記録によりますと、天守は三重四階建ての大天守となっており、北側に二重二階階建の小天守、これらを一つに連接するべく南側に櫓門を連絡路として二重二階の菱櫓を連結した建物が造成されていたと記録されていて。
城郭の天守閣と櫓を離隔させず構造物を一体としていた、と記録されているのですね。その上で大天守には寝台と棚をしつらえた八畳の上段ノ間があり、水流しと厠、小天守にも寝台と棚を整備し居住を意識したものとなっていたようでして。更に連接部にも特色が。
大天守と小天守の連絡経路は縁側を配置し、一種の日本家屋座敷を意識した造営となっていたとのこと。姫路城等もそうですが城郭の天守閣は平時には急な階段などから単なる倉庫として用いられる事が多かった中で、籠城、というより指揮中枢を意識した福知山城だ。
明智光秀が縄張りを構築しつつ江戸時代の初期に漸く完成を見た福知山城、福知山線から望見しますと、なにか複雑な形状と云いますか、列車が進むと共に印象が映ろう不思議な城郭という印象でしたが、元々の福知山城にもこうした趣向があったのは、興味深いです。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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福知山城,城郭は青空と共に刻まれた複雑な幾何学模様の如き機能美が陰影を脈々と伝え映えるように思います。
福知山城は今日の姿こそ雄大です。しかし最盛期の姿は今よりも遥かに壮大で全体では東西600mに南北300mという。丹波一円を見渡しましてもこれほどの城郭の機能は随一の規模であり、丹波の中心となります、そしてこれは築城目的が大きく影響していました。
天正7年こと西暦1579年に明智光秀がおこなった丹波攻略は、畿内全体に織田信長の勢力が轟く事となりました。しかし丹波一国を防衛するだけの拠点ならば上記の壮大な城郭は必要ありません、そして城郭が大きくなければ城下町も小さく留まっていたことでしょう。
織田信長は畿内支配の態勢を確立すると共に豊臣秀吉と明智光秀に中国侵攻、中国攻めを命じまして、実はこの命令こそが福知山城が壮大な城郭となる事を意味していたのですね。何故か、それは城郭を防衛拠点ではなく兵站拠点としていた為で、中国攻めの物資を集積するためだ。
豊臣秀吉は山陽道を兵站線として姫路城等を兵站中継地として整備したのに対し、明智光秀は山陰道を兵站線として進むべく兵站中継点に福知山城を整備したのですから、姫路城は江戸時代に拡張され大きくなりましたが、当時は福知山城も同様に広かったわけでして。
明智秀満、明智光秀は娘婿を城主として配置しました。しかし、1582年本能寺の変の後に豊臣秀吉の所領となりまして、その後修築は行われたようですが兵站拠点としての用途は無くなり、城郭は江戸時代に入った後、有馬豊氏時代に完成したものと推定されている。
天守閣は複合連結式望楼型天守閣といい、元禄12年こと西暦1699年の造営、明智光秀が天王山の戦いで敗北し伏見で落ち武者狩りに打ち取られてから120年近く後のもの。しかしこれも明治時代に取り壊され1985年に再建されました、昭和末期、意外に新しいのだ。
四連郭式城郭、という、本丸を小山の最先端部の頂上、大手門跡から上る事標高にして25mに置き、城郭の縄張りはその西に二ノ丸とそしてその更に西へ伯耆丸郭を、加えて内記丸と続く、最盛期はこうした重厚なものとなっており、工兵の小規模な日本では難攻不落で。
福知山城の天守閣は四連郭式城郭、さて四連郭式城郭四連郭式城郭四連郭式城郭と早口言葉のように連呼したくなることろではありますが、これは多くの城郭において天守閣が文字通り落城直前までの最後の砦という最中にあって、独特の設計といえるかもしれません。
平面古図、江戸時代に記された天守閣に関する記録によりますと、天守は三重四階建ての大天守となっており、北側に二重二階階建の小天守、これらを一つに連接するべく南側に櫓門を連絡路として二重二階の菱櫓を連結した建物が造成されていたと記録されていて。
城郭の天守閣と櫓を離隔させず構造物を一体としていた、と記録されているのですね。その上で大天守には寝台と棚をしつらえた八畳の上段ノ間があり、水流しと厠、小天守にも寝台と棚を整備し居住を意識したものとなっていたようでして。更に連接部にも特色が。
大天守と小天守の連絡経路は縁側を配置し、一種の日本家屋座敷を意識した造営となっていたとのこと。姫路城等もそうですが城郭の天守閣は平時には急な階段などから単なる倉庫として用いられる事が多かった中で、籠城、というより指揮中枢を意識した福知山城だ。
明智光秀が縄張りを構築しつつ江戸時代の初期に漸く完成を見た福知山城、福知山線から望見しますと、なにか複雑な形状と云いますか、列車が進むと共に印象が映ろう不思議な城郭という印象でしたが、元々の福知山城にもこうした趣向があったのは、興味深いです。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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