■さくら咲く紫野の今宮神社
新しい年度の前後に咲きます桜並木、多少時間が無くともなんとかカメラを片手に散策へと繰り出したくなるものですね。
今宮神社。ここは京都市北区紫野今宮町、北大路通りを大徳寺の長い壁筋道を眺めつつ更に船岡山に至る道路をゆったりと登りまして、不思議な珈琲の香りのするあたりで北を眺めますと遠く朱色の楼門が望見できる、ここが千年以上の歴史を紡ぐ今宮の社殿です。
疫病、この歴史的に人類の版図を繰り返すように覆いつくし、時として人口に影響する程の猛威を振るう脅威は常に歴史や文学に戯曲に描かれていまして、しかし2020年初頭まで、実は今日の科学万能と信じられる時代に至っても例外であるのだ、と信じられていました。
科学と信仰は実は相反するものではなく、科学とは同一条件下で同一事象が生じる連関関係の分析です、故に科学は複雑事象には故に変数の要素が複雑化する事を織り込む故に定型と様式が確立している信仰や宗教とは、深い部分にて親和性があるように思うのですね。
御霊信仰、それは疫神や政争に失脚し亡くなった方々の霊などの残る思念が疫病や飢饉に渇水や地震などの事象と結びつけられよう考えられていまして、なにしろ当時は科学の水準は今に遠く及ばず、ただ祈るのみという時代が長く続いていました。そこに今宮の地が。
御霊会は、正暦5年こと西暦994年、繰り返された疫病がまたしても京都を暗く覆いまして、朝廷はこの疫病を鎮めるべく神輿2基を造るとともに船岡山に安置、音楽奉納を行ったといいます。この船岡山は今でこそ建勲神社が鎮座していますが、当時は風葬地でした。
船岡山に安置されました御輿は、長保3年こと西暦1001年に紫野の地へと遷されまして、その紫野の地というところが、他でもない今日に今宮神社が在りますその場所となっています。実のところ遡る1020年前とは、此処に神社の創建は意図されなかったとも、いう。
科学は、進歩してゆくものですが、やはりしんとなる何かの哲学が必要であるとは、産業革命を終えた後の欧州でさえも、キリスト教哲学という一本の理念を価値観で通す故には達する、とは明治維新以降の日本からの官費留学生が揶揄されたものですが、ここにも。
頼るものは必要である、この部分は科学と信仰が重なるものなのですね、そうでなければ群衆は群衆のままで社会を形成できません。すると、まあ、祈りたくなる時、というものは今日でも千年の昔でも重なるものでして、やはり暫定ではなく社殿として結ぶのですね。
紫野の地は平安遷都以前から疫神でもある素戔嗚を祀る社殿がありまして、これは今日にも摂社疫神社として祀られ続けているのですが、この所縁でしょうか。そして御輿の安置と御霊会の祭事は疫病の都度に執り行われていましたが、これを定期化し神社を創建した。
大己貴命、事代主命、奇稲田姫命、社殿に祀られる三柱は江戸時代に神社が大きく広められた際の壮大な社殿に祀られています。玉の輿、こういう言葉が在りますが、玉とは当地西陣八百屋の娘お玉さんが由来で、縁あって徳川3代将軍家光の側室となった女性のこと。
桂昌院、5代将軍綱吉の生母となりました御玉は桂昌院となりまして、西陣の生まれ故に元禄時代、御牛車や鉾を寄進し、御霊会の祭事復興に尽力した事で知られます。これは、紫野御霊会今宮祭、やすらい祭、とこう広がりまして今日の北大路西大路が整備されてゆく。
今宮神社は、こうした歴史を紡ぎ今日に在ります。思えば疫病退散は、しかし御霊会の当時には退散ではなく慰霊の意図が読み取れるものでして、こう、戦うのではなくウィズコロナとして、ワクチンを待ってしかし共存しようとする今日とも、不思議に重なります。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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新しい年度の前後に咲きます桜並木、多少時間が無くともなんとかカメラを片手に散策へと繰り出したくなるものですね。
今宮神社。ここは京都市北区紫野今宮町、北大路通りを大徳寺の長い壁筋道を眺めつつ更に船岡山に至る道路をゆったりと登りまして、不思議な珈琲の香りのするあたりで北を眺めますと遠く朱色の楼門が望見できる、ここが千年以上の歴史を紡ぐ今宮の社殿です。
疫病、この歴史的に人類の版図を繰り返すように覆いつくし、時として人口に影響する程の猛威を振るう脅威は常に歴史や文学に戯曲に描かれていまして、しかし2020年初頭まで、実は今日の科学万能と信じられる時代に至っても例外であるのだ、と信じられていました。
科学と信仰は実は相反するものではなく、科学とは同一条件下で同一事象が生じる連関関係の分析です、故に科学は複雑事象には故に変数の要素が複雑化する事を織り込む故に定型と様式が確立している信仰や宗教とは、深い部分にて親和性があるように思うのですね。
御霊信仰、それは疫神や政争に失脚し亡くなった方々の霊などの残る思念が疫病や飢饉に渇水や地震などの事象と結びつけられよう考えられていまして、なにしろ当時は科学の水準は今に遠く及ばず、ただ祈るのみという時代が長く続いていました。そこに今宮の地が。
御霊会は、正暦5年こと西暦994年、繰り返された疫病がまたしても京都を暗く覆いまして、朝廷はこの疫病を鎮めるべく神輿2基を造るとともに船岡山に安置、音楽奉納を行ったといいます。この船岡山は今でこそ建勲神社が鎮座していますが、当時は風葬地でした。
船岡山に安置されました御輿は、長保3年こと西暦1001年に紫野の地へと遷されまして、その紫野の地というところが、他でもない今日に今宮神社が在りますその場所となっています。実のところ遡る1020年前とは、此処に神社の創建は意図されなかったとも、いう。
科学は、進歩してゆくものですが、やはりしんとなる何かの哲学が必要であるとは、産業革命を終えた後の欧州でさえも、キリスト教哲学という一本の理念を価値観で通す故には達する、とは明治維新以降の日本からの官費留学生が揶揄されたものですが、ここにも。
頼るものは必要である、この部分は科学と信仰が重なるものなのですね、そうでなければ群衆は群衆のままで社会を形成できません。すると、まあ、祈りたくなる時、というものは今日でも千年の昔でも重なるものでして、やはり暫定ではなく社殿として結ぶのですね。
紫野の地は平安遷都以前から疫神でもある素戔嗚を祀る社殿がありまして、これは今日にも摂社疫神社として祀られ続けているのですが、この所縁でしょうか。そして御輿の安置と御霊会の祭事は疫病の都度に執り行われていましたが、これを定期化し神社を創建した。
大己貴命、事代主命、奇稲田姫命、社殿に祀られる三柱は江戸時代に神社が大きく広められた際の壮大な社殿に祀られています。玉の輿、こういう言葉が在りますが、玉とは当地西陣八百屋の娘お玉さんが由来で、縁あって徳川3代将軍家光の側室となった女性のこと。
桂昌院、5代将軍綱吉の生母となりました御玉は桂昌院となりまして、西陣の生まれ故に元禄時代、御牛車や鉾を寄進し、御霊会の祭事復興に尽力した事で知られます。これは、紫野御霊会今宮祭、やすらい祭、とこう広がりまして今日の北大路西大路が整備されてゆく。
今宮神社は、こうした歴史を紡ぎ今日に在ります。思えば疫病退散は、しかし御霊会の当時には退散ではなく慰霊の意図が読み取れるものでして、こう、戦うのではなくウィズコロナとして、ワクチンを待ってしかし共存しようとする今日とも、不思議に重なります。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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