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【京都幕間旅情】二条城(元離宮二条城)桜咲く堀川通の堀川は江戸時代准総郭方式の城内の美

2021-04-22 20:01:21 | 写真
■二条城は桜並木に浮かぶ
 四月初旬までの桜の季節、歴史を感じるのにそれ程時間を掛けず出会いがあるという街角を散策してみました。

 元離宮二条城、ここは京都市中京区二条通堀川西入二条城町にあります堀川通り沿いの城郭です。京都を探訪し、気軽にその深い歴史の一端に浸りたいならば徳川家康将軍宣下の地であり、徳川慶喜大政奉還の地である二条城前を散策するのがいちばんと云える一つ。

 桜の名所というものは、京都に多い、平野神社の夜桜は観桜発祥の地と感慨深いですし、醍醐寺の桜並木は壮大に尽きる、仁和寺の遅咲きおむろ桜は可愛らしいですし、八坂神社の枝垂桜は情緒深く、清水寺の桜並木はこれぞ京都、と思う。しかし二条城もすばらしい。

 二条城は、なかなかに美しいと実感するのがこの桜の季節です。二条城城内には、戦後に進駐軍がテニスコートを設置した跡地に桜が植樹されていますが、建造物群周囲に桜は逆に僅かで、しかし堀川通りからは、こう、桜並木と調和する季節の情景は広がるのですね。

 徳川家康が慶長8年こと西暦1603年に造営した城郭はまさに江戸時代の訪れを意味する城郭であり、しかしこの周囲を巡らす掘割は元々京都に平安京造営の端緒となりました必要な水源の湧く立地であり、輪郭式平城の二条城はいわば京都の始まりの一つともいえます。

 京都は常に変化する街ですが、二条城は平安遷都に際し大内裏が造営された南東端と南の禁園である神泉苑跡の湿地帯を水源として広く造営された城郭です。織田信長と豊臣秀吉が城郭を造営した際の地とは若干離れた立地で、築城当時は人家若干疎らであったという。

 東大手門と東南隅櫓、堀川通りからは城郭の正面と象徴する櫓を望見する事が出来ます。そして桜満開の季節に散策しますと、こう城郭の構造物が花々に包まれるように浮かぶように春らしい情景が広がってゆく、花々を巡るミツバチの羽音とともに散策は趣き深い。

 天守閣は現存しません、いやもともとは複合式望楼型五重五階天守閣が1603年に造営されていまして、しかしこちらは落雷の火災であっさりと焼失します。更に続いて複合式層塔型五重五階の天守が1628年に再建されていますがこちらも焼失、天守閣は似合わないのか。

 東南隅櫓といった、小天守の風景を見ますと、なにしろ天守閣が中に無いものですからこれでよい、とも思えてくるものですね。もっとも元々京都は五重塔に七重塔が数多ある高層建造物の街でしたので、天守閣の凛とした情景も見てみたかった気がするのですけれど。

 堀川通りから眺める二条城、家康による築城当時の城郭は現在の東側半分にあたる二の丸のみであり、本丸のみで構成される単郭式城郭ですが、堀川通りも後に本丸四方を二の丸で取り囲む輪郭式城郭に発展した事で、かつてはこの地も城内であったといえるのですね。

 総郭、かの大坂城のような規模ではりませんが、大手門前に駐車場となっている広場と堀川通を隔ててここに小さな堀川が通っており、この堀川は城郭の一つの防御線として位置付けられており、一見城の外からの散策と見えますが、かつては列記とした城内でした。

 堀川、今でこそ少し幅広の水路に多少流れている情景ですが、ほんの十年前までは暗渠にそれこそ駐車場に在るような小さなU字溝が通るのみで、まさに豪雨への備えでした、が、暗渠という割には掘割の様な構造物もありまして、城郭の一部と云われれば納得したもの。

 江戸時代には西堀川通、即ち拡幅される前の堀川通はの南北に釘抜という小城門が配置され、大手門前は今のように自由に通行されることはできませんでした。こう歴史を振り返ってみますと、混雑する城内を探訪せずとも、なにかこう、感じ入るものがありますよね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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