■さくら色の犬山城を巡る旅
春を迎えますと一斉に桜の花々が咲き始める情景は日本の四季というものを強く印象付ける風物詩です。
犬山城の天守閣を満開の桜がつつむ。此処は愛知県犬山市、木曽川の清冽な流れが木曽山脈を出て広い濃尾平野に羽ばたく分岐点でもあります、そしてその分基点は同時に戦国時代、いやその前から尾張と美濃の国境の要衝でもありました。ここに勇壮天守閣は輝く。
複合式望楼型三層四階地下二階の天守閣は1620年改築のもの。犬山城、ここは岐阜基地撮影の際に間近までは歩み進めているものの、なにしろ2021年3月16日のファントム完全退役が間近である頃には、永劫の時を刻む天守閣よりはあとわずかの戦闘機が優先です。
森繁久彌の社長シリーズを久々に観る機会に恵まれまして、この際に名鉄犬山観光ホテルが描かれ、しかも岐阜基地撮影の際にここのランチは庭園一望で素晴らしいらしい、と情報を頂きました。ファントム引退、そこで勇躍送る会を企画しましたのはこの少し前です。
名鉄犬山観光ホテル、思い立ったら吉日と良く調べもせず進出しますと、なんと改築中、しかしその名鉄犬山観光ホテルがこの犬山城を見上げる木曽川河畔にありまして、美しい情景を撮影して後、鮨か鰻にしよう、と転進し、その後に犬山城散策へと転じました訳で。
白帝城の天守閣、ファントムが除籍された2021年の桜前線は例年よりも急ぎ旅で、桜の木々と共に構図に入れてみました。元々古来日本の花見とは貴族が冬の終りの暖かさに観梅を愉しむ風流であり、観桜の文化は、武家の時代に貴族趣味に距離を置いた故のはじまり。
応仁の乱その最中、さてこの犬山城の造営は室町時代に遡るものでして、岩倉織田氏当主の弟織田広近が砦を築いた事に始ります。応仁の乱はここまで及んでいました、遠江を攻めた西軍斯波義廉が凱旋の帰京に際し東軍の斯波義敏、清洲織田氏と対立した背景がある。
草創期の城郭は文字通り砦に他ならなかったのですが、美濃守護代の斎藤妙純が1497年に近江で討ち死にしますと、連座してその盟友岩倉織田氏の勢力は衰退する事となり、緊張状態の高まり、この1497年は犬山城が砦から城郭へ大きく拡張される転機となりました。
木ノ下城、当時織田氏の居城は清洲城に頭首織田信秀が、そしてその実弟織田信康の居城木ノ下城にありましたが、緊張の高まりを受け木ノ下城を破却し新たに犬山の当地に城郭を造営する事となります。今日の天守閣は二層部分までが、この際に造営されたようです。
尾張と美濃の緊張状態は高まり、1544年加納口の戦いにて織田信康が斎藤道三との戦い信康は討ち死にしました、実子織田信清は城主を継ぐと共に城郭を広げる事となりまして、今の犬山城の縄張りと城郭構造はこの頃に完成します、この際に城郭を白帝城と呼ぶ様に。
白帝城、これは木曽川河畔の丘上に鎮座する城郭の佇まいから、かの李白が歌に詠んだ長江流域は高台の城郭、白帝城を詠った故事に合せたもので、城下町は観光地化されていますが、その道々から見上げる城郭の気風は印象的で、不利い街並みに情感を醸しています。
成瀬氏の犬山城、江戸時代には尾張藩付家老平岩親吉が城主となり、ほどなくして成瀬正成が城主として入城します。こうして成瀬氏9代が明治維新まで城主として城郭を護り、明治維新以降は成瀬さんの犬山城として親しまれてまいりました、国宝天守閣の一つです。
天守閣に航空機が重なる、これは偶然の産物ではなく日常風景の一つです。犬山城は岐阜基地に程近く、いや実際には10kmほど隔ていますが、岐阜基地を発着する航空機と天守閣が重なる風景とも出会います。天守閣と桜の重なりを探し散策しますと春を感じました。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
春を迎えますと一斉に桜の花々が咲き始める情景は日本の四季というものを強く印象付ける風物詩です。
犬山城の天守閣を満開の桜がつつむ。此処は愛知県犬山市、木曽川の清冽な流れが木曽山脈を出て広い濃尾平野に羽ばたく分岐点でもあります、そしてその分基点は同時に戦国時代、いやその前から尾張と美濃の国境の要衝でもありました。ここに勇壮天守閣は輝く。
複合式望楼型三層四階地下二階の天守閣は1620年改築のもの。犬山城、ここは岐阜基地撮影の際に間近までは歩み進めているものの、なにしろ2021年3月16日のファントム完全退役が間近である頃には、永劫の時を刻む天守閣よりはあとわずかの戦闘機が優先です。
森繁久彌の社長シリーズを久々に観る機会に恵まれまして、この際に名鉄犬山観光ホテルが描かれ、しかも岐阜基地撮影の際にここのランチは庭園一望で素晴らしいらしい、と情報を頂きました。ファントム引退、そこで勇躍送る会を企画しましたのはこの少し前です。
名鉄犬山観光ホテル、思い立ったら吉日と良く調べもせず進出しますと、なんと改築中、しかしその名鉄犬山観光ホテルがこの犬山城を見上げる木曽川河畔にありまして、美しい情景を撮影して後、鮨か鰻にしよう、と転進し、その後に犬山城散策へと転じました訳で。
白帝城の天守閣、ファントムが除籍された2021年の桜前線は例年よりも急ぎ旅で、桜の木々と共に構図に入れてみました。元々古来日本の花見とは貴族が冬の終りの暖かさに観梅を愉しむ風流であり、観桜の文化は、武家の時代に貴族趣味に距離を置いた故のはじまり。
応仁の乱その最中、さてこの犬山城の造営は室町時代に遡るものでして、岩倉織田氏当主の弟織田広近が砦を築いた事に始ります。応仁の乱はここまで及んでいました、遠江を攻めた西軍斯波義廉が凱旋の帰京に際し東軍の斯波義敏、清洲織田氏と対立した背景がある。
草創期の城郭は文字通り砦に他ならなかったのですが、美濃守護代の斎藤妙純が1497年に近江で討ち死にしますと、連座してその盟友岩倉織田氏の勢力は衰退する事となり、緊張状態の高まり、この1497年は犬山城が砦から城郭へ大きく拡張される転機となりました。
木ノ下城、当時織田氏の居城は清洲城に頭首織田信秀が、そしてその実弟織田信康の居城木ノ下城にありましたが、緊張の高まりを受け木ノ下城を破却し新たに犬山の当地に城郭を造営する事となります。今日の天守閣は二層部分までが、この際に造営されたようです。
尾張と美濃の緊張状態は高まり、1544年加納口の戦いにて織田信康が斎藤道三との戦い信康は討ち死にしました、実子織田信清は城主を継ぐと共に城郭を広げる事となりまして、今の犬山城の縄張りと城郭構造はこの頃に完成します、この際に城郭を白帝城と呼ぶ様に。
白帝城、これは木曽川河畔の丘上に鎮座する城郭の佇まいから、かの李白が歌に詠んだ長江流域は高台の城郭、白帝城を詠った故事に合せたもので、城下町は観光地化されていますが、その道々から見上げる城郭の気風は印象的で、不利い街並みに情感を醸しています。
成瀬氏の犬山城、江戸時代には尾張藩付家老平岩親吉が城主となり、ほどなくして成瀬正成が城主として入城します。こうして成瀬氏9代が明治維新まで城主として城郭を護り、明治維新以降は成瀬さんの犬山城として親しまれてまいりました、国宝天守閣の一つです。
天守閣に航空機が重なる、これは偶然の産物ではなく日常風景の一つです。犬山城は岐阜基地に程近く、いや実際には10kmほど隔ていますが、岐阜基地を発着する航空機と天守閣が重なる風景とも出会います。天守閣と桜の重なりを探し散策しますと春を感じました。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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