■桜並木と彦根城の掘割を巡る
彦根城へ、春の陽気と共に桜の季節と云う事で少しだけ遠出してみる事としました。
さくら、この季節というものは一年が長いようで短いとも言われるものですが、この一瞬の先始め満開を迎えて咲き乱れてから散ってしまうまでの時節を眺めてみますと、いやいや、季節を仕事単位やプロジェクト単位で視ているだけで、一年は長いものだ、と思う。
彦根城。滋賀県彦根市の、東海道本線からも一瞬見える山頂の城郭です。東海道本線彦根駅はすぐ近くにJR西日本とJR東海の分岐点と云うべき米原駅が程近く、一寸途中下車したくなるものですが、途中下車と云わず目的地として散策してみるのも、面白いですね。
城郭探訪、我が国における近世の城で天守が残っているのは、弘前城天守、松本城天守、犬山城天守、丸岡城天守、彦根城天守、姫路城天守、備中松山城天守、松江城天守、丸亀城天守、松山城天守、宇和島城天守、高知城天守の12城、現存天守閣は特別な重みがある。
国宝天守閣はこのうち、松本城天守、犬山城天守、彦根城天守、姫路城天守、松江城天守が指定されていまして、その城郭は天守閣に登らずとも周囲を散策してゆくだけで、何かこう興味深い情景と出会えるものです、特に桜の咲く春の季節には感じる重みもひとしお。
天守、附櫓及び多聞櫓は国宝に指定されていまして、別名“金亀城”、城構えは重厚となっています。彦根市の象徴的な史跡であり、明治時代には城が破却された際に解体の危機となりましたが、明治天皇へ請願はじめ尽力により破壊を免れ、市民に大切にされています。
連郭式平山城の彦根城、連郭式平山城とは本丸に二の丸と三の丸、そして北側に山崎曲輪が配置されている構造であり、その為に掘割は広く水を湛えています。掘割の周囲には桜並木がこう美しいのですが、ちょっと早咲きと聞いたもののこちらも先走り過ぎたかも。
複合式望楼型 三重三階地下一階天守閣は江戸初期の1604年築というもので、その屋根には切妻破風と入母屋破風に唐破風の様式が、中層に花頭窓と最上階に高欄付廻縁を巡らせる、角度によって印象が一新する不思議な天守閣となっています、築城主は井伊直継です。
西日本と東日本の中間点と云うべき彦根を護る井伊氏の拠点、ここは江戸時代にも中山道と北陸道の分岐点であり、陸路と琵琶湖の水路から京に至る文字通りの緊要地形であり、草創期の江戸幕府においてはいつ西国大名が蜂起するかという切実な問題がありました。
徳川四天王の一柱でありました井伊直政、この要衝を護るには戦国の世からの家臣しかいないと徳川家康は、1600年関ヶ原の戦い、その勲功により18万石にて近江国北東部を下賜しました。関ヶ原で重傷を負った井伊直政は簡単に群馬上野へ帰参出来ない事情もある。
彦根18万石に加え、築城には幕府より公儀御奉行3名が派遣され、尾張藩や越前藩など12大名が築城を支援する天下普請となり、御殿は二の丸に、本丸に天守、西の丸と山崎曲輪に三重櫓が建てられる極めて大きな城郭となります。そのすべてを掘割が囲み包んでいる。
掘割から見ます彦根城は内堀に中堀と外堀の3重の堀が城山を取り囲むとともに水源は琵琶湖、いまは干拓されていますが、掘割は築城当初更に広く、掘割の一部は伝染病対策により埋められていまして、そして周囲に兵站拠点となる城下町が広がってゆく構造でした。
彦根城の掘割を外周一周そのまま巡り廻りますと、総距離は無いのですが、立ち止まり天守閣を仰ぎ見て、しかしもう少しよく見える場所はどこだろう、と思想と探索とともに歩み進めていますと、存外時間は経って行くものでして、それはもう、楽しい時間です。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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彦根城へ、春の陽気と共に桜の季節と云う事で少しだけ遠出してみる事としました。
さくら、この季節というものは一年が長いようで短いとも言われるものですが、この一瞬の先始め満開を迎えて咲き乱れてから散ってしまうまでの時節を眺めてみますと、いやいや、季節を仕事単位やプロジェクト単位で視ているだけで、一年は長いものだ、と思う。
彦根城。滋賀県彦根市の、東海道本線からも一瞬見える山頂の城郭です。東海道本線彦根駅はすぐ近くにJR西日本とJR東海の分岐点と云うべき米原駅が程近く、一寸途中下車したくなるものですが、途中下車と云わず目的地として散策してみるのも、面白いですね。
城郭探訪、我が国における近世の城で天守が残っているのは、弘前城天守、松本城天守、犬山城天守、丸岡城天守、彦根城天守、姫路城天守、備中松山城天守、松江城天守、丸亀城天守、松山城天守、宇和島城天守、高知城天守の12城、現存天守閣は特別な重みがある。
国宝天守閣はこのうち、松本城天守、犬山城天守、彦根城天守、姫路城天守、松江城天守が指定されていまして、その城郭は天守閣に登らずとも周囲を散策してゆくだけで、何かこう興味深い情景と出会えるものです、特に桜の咲く春の季節には感じる重みもひとしお。
天守、附櫓及び多聞櫓は国宝に指定されていまして、別名“金亀城”、城構えは重厚となっています。彦根市の象徴的な史跡であり、明治時代には城が破却された際に解体の危機となりましたが、明治天皇へ請願はじめ尽力により破壊を免れ、市民に大切にされています。
連郭式平山城の彦根城、連郭式平山城とは本丸に二の丸と三の丸、そして北側に山崎曲輪が配置されている構造であり、その為に掘割は広く水を湛えています。掘割の周囲には桜並木がこう美しいのですが、ちょっと早咲きと聞いたもののこちらも先走り過ぎたかも。
複合式望楼型 三重三階地下一階天守閣は江戸初期の1604年築というもので、その屋根には切妻破風と入母屋破風に唐破風の様式が、中層に花頭窓と最上階に高欄付廻縁を巡らせる、角度によって印象が一新する不思議な天守閣となっています、築城主は井伊直継です。
西日本と東日本の中間点と云うべき彦根を護る井伊氏の拠点、ここは江戸時代にも中山道と北陸道の分岐点であり、陸路と琵琶湖の水路から京に至る文字通りの緊要地形であり、草創期の江戸幕府においてはいつ西国大名が蜂起するかという切実な問題がありました。
徳川四天王の一柱でありました井伊直政、この要衝を護るには戦国の世からの家臣しかいないと徳川家康は、1600年関ヶ原の戦い、その勲功により18万石にて近江国北東部を下賜しました。関ヶ原で重傷を負った井伊直政は簡単に群馬上野へ帰参出来ない事情もある。
彦根18万石に加え、築城には幕府より公儀御奉行3名が派遣され、尾張藩や越前藩など12大名が築城を支援する天下普請となり、御殿は二の丸に、本丸に天守、西の丸と山崎曲輪に三重櫓が建てられる極めて大きな城郭となります。そのすべてを掘割が囲み包んでいる。
掘割から見ます彦根城は内堀に中堀と外堀の3重の堀が城山を取り囲むとともに水源は琵琶湖、いまは干拓されていますが、掘割は築城当初更に広く、掘割の一部は伝染病対策により埋められていまして、そして周囲に兵站拠点となる城下町が広がってゆく構造でした。
彦根城の掘割を外周一周そのまま巡り廻りますと、総距離は無いのですが、立ち止まり天守閣を仰ぎ見て、しかしもう少しよく見える場所はどこだろう、と思想と探索とともに歩み進めていますと、存外時間は経って行くものでして、それはもう、楽しい時間です。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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