■いまはさくらが誇る
こころと信仰の解釈を巡る対立というものは今なお世界を巡りますが中世には日本でも例外ではなかった実情があります。
立本寺、このお寺の歴史を深く知るには日蓮宗の理解も開山となりました鎌倉時代の日像さんの歴史も一通り興味深い歴史を讃えているのですが、なにより洛中法華二十一寺と天文法華の乱という歴史を踏まえておきますと奥深さと難しい日本史の一端がみえる。
松本問答という、今でいえば問答という話し合い的な要素ではなくこれは暴行に入るのではないかなあ、論破しただけでさやに収めればよかったもの、ともいえる一つの事件を契機に天台宗と日蓮宗が全面対決となります、天台宗は日蓮宗の法華宗自称も反発していた。
天文5年こと1536年、天台宗からの報復を恐れた日蓮宗宗徒は相国寺を占領し陣地構築を開始、この陣地構築は塹壕を掘り櫓や障害物を増強、野戦築城というに相応しいもので、同時に天台宗もこの暴挙を含め室町幕府へ仲裁と武装解除を求めるも幕府は動きません。
山科本願寺の戦い、というこの遡ること五年前に勢力を伸ばしていました浄土宗の勢力が一向一揆に打って出た際、日蓮宗は幕府に呼号し、細川晴元や茨木長隆の軍勢とともに本願寺攻撃に参加しており、幕府としては天台宗の要請を受け入れられない事情があった。
幕府の係争に対する慎重姿勢は、熟考を重ねているうちに状況が悪化する危機管理上の禁忌でもあり、60年前に勃発した応仁の乱と似た構図とともに広がったものなのですが、この結果、日蓮宗の寺院は京都を追放、これが立本寺の形成させる背景となっています。
本願寺と興福寺及び三井寺と東寺はこの動きに対して中立を宣言、他者の介入がないことを確信するとともに比叡山は僧兵の動員を開始、この時の兵力は6万とも15万ともいわれます、これに対して日蓮宗は洛中法華二十一寺から兵力を動員し2万を集めていた、と。
陣地構築で先行した日蓮宗側は、遊里を活かすべく先制攻撃をかけたとされています。鹿苑日録記など当時の日記にしるされている一方、近江より六角定頼の軍勢3万が延暦寺に増援を出し、当時係争中であった三井寺も3千の増援を派遣し戦闘加入で兵力増強へ。
洛中法華二十一寺、陣地構築で先行していた分は有利であったのだけれども兵力差は如何ともし難く、開戦から五日を経て比叡山僧兵は六角氏とともに洛中まで到達、洛中法華二十一寺への攻撃に移りました。日蓮宗も激しく応じ、応仁の乱以来の市街戦となった。
四条口から洛中に進出した比叡山僧兵は洛中法華二十一寺を構成する本圀寺以外の20の寺院を焼き討ちし、戦闘七日目には本圀寺を包囲し焼き討ち、これにより日蓮宗側の戦死者は一万ともいわれます、しかしこの焼き討ちによる火は留まるところなく延焼してゆく。
応仁の乱では京都の寺社仏閣の大半が焼け落ち、と説明されますが当時動員された足軽は現地雇用の傭兵に近く多くが下町に住居を構えていました、この為に応仁の乱の主戦場に広大な下町は含まれず、現在の市域に置き換えればおおくが焼け残っていましたが。
天文法華の乱では焼き討ちされた洛中法華二十一寺は町衆の支持を集めたこともあり下町に隣接する寺院も多く、ここが焼き討ちされ大火を招いた。結果論ですが焼失面積は応仁の乱よりも広範な地域が焦土となり、幕府はこれをうけ日蓮宗の京都追放を決定します。
幕府の禁令は厳しく、日蓮宗からほかの宗派へ移籍することや還俗し一般に戻ることを禁止、京都とその周辺への立ち入り禁止、そして破壊された寺院の再建を禁じました。これは勅許により許されるまで六年間続き、日蓮宗ではこれを天文法難と呼ぶほどでした。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
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(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
こころと信仰の解釈を巡る対立というものは今なお世界を巡りますが中世には日本でも例外ではなかった実情があります。
立本寺、このお寺の歴史を深く知るには日蓮宗の理解も開山となりました鎌倉時代の日像さんの歴史も一通り興味深い歴史を讃えているのですが、なにより洛中法華二十一寺と天文法華の乱という歴史を踏まえておきますと奥深さと難しい日本史の一端がみえる。
松本問答という、今でいえば問答という話し合い的な要素ではなくこれは暴行に入るのではないかなあ、論破しただけでさやに収めればよかったもの、ともいえる一つの事件を契機に天台宗と日蓮宗が全面対決となります、天台宗は日蓮宗の法華宗自称も反発していた。
天文5年こと1536年、天台宗からの報復を恐れた日蓮宗宗徒は相国寺を占領し陣地構築を開始、この陣地構築は塹壕を掘り櫓や障害物を増強、野戦築城というに相応しいもので、同時に天台宗もこの暴挙を含め室町幕府へ仲裁と武装解除を求めるも幕府は動きません。
山科本願寺の戦い、というこの遡ること五年前に勢力を伸ばしていました浄土宗の勢力が一向一揆に打って出た際、日蓮宗は幕府に呼号し、細川晴元や茨木長隆の軍勢とともに本願寺攻撃に参加しており、幕府としては天台宗の要請を受け入れられない事情があった。
幕府の係争に対する慎重姿勢は、熟考を重ねているうちに状況が悪化する危機管理上の禁忌でもあり、60年前に勃発した応仁の乱と似た構図とともに広がったものなのですが、この結果、日蓮宗の寺院は京都を追放、これが立本寺の形成させる背景となっています。
本願寺と興福寺及び三井寺と東寺はこの動きに対して中立を宣言、他者の介入がないことを確信するとともに比叡山は僧兵の動員を開始、この時の兵力は6万とも15万ともいわれます、これに対して日蓮宗は洛中法華二十一寺から兵力を動員し2万を集めていた、と。
陣地構築で先行した日蓮宗側は、遊里を活かすべく先制攻撃をかけたとされています。鹿苑日録記など当時の日記にしるされている一方、近江より六角定頼の軍勢3万が延暦寺に増援を出し、当時係争中であった三井寺も3千の増援を派遣し戦闘加入で兵力増強へ。
洛中法華二十一寺、陣地構築で先行していた分は有利であったのだけれども兵力差は如何ともし難く、開戦から五日を経て比叡山僧兵は六角氏とともに洛中まで到達、洛中法華二十一寺への攻撃に移りました。日蓮宗も激しく応じ、応仁の乱以来の市街戦となった。
四条口から洛中に進出した比叡山僧兵は洛中法華二十一寺を構成する本圀寺以外の20の寺院を焼き討ちし、戦闘七日目には本圀寺を包囲し焼き討ち、これにより日蓮宗側の戦死者は一万ともいわれます、しかしこの焼き討ちによる火は留まるところなく延焼してゆく。
応仁の乱では京都の寺社仏閣の大半が焼け落ち、と説明されますが当時動員された足軽は現地雇用の傭兵に近く多くが下町に住居を構えていました、この為に応仁の乱の主戦場に広大な下町は含まれず、現在の市域に置き換えればおおくが焼け残っていましたが。
天文法華の乱では焼き討ちされた洛中法華二十一寺は町衆の支持を集めたこともあり下町に隣接する寺院も多く、ここが焼き討ちされ大火を招いた。結果論ですが焼失面積は応仁の乱よりも広範な地域が焦土となり、幕府はこれをうけ日蓮宗の京都追放を決定します。
幕府の禁令は厳しく、日蓮宗からほかの宗派へ移籍することや還俗し一般に戻ることを禁止、京都とその周辺への立ち入り禁止、そして破壊された寺院の再建を禁じました。これは勅許により許されるまで六年間続き、日蓮宗ではこれを天文法難と呼ぶほどでした。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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