■榛名防衛備忘録
日曜特集にて第7師団を紹介しました際に興味深うコメント投稿を頂きましてお返事を作成していましたが、長くなりましたので朝の話題として記事に仕上げてみました。
74式戦車の近代化改修について。74式戦車は4両のみ暗視装置を熱線暗視装置に切替えた改良型が開発された。このところ真剣に考えるのは1993年に完成した改良型試作ですが、評価試験が完了したのは1995年、この時点で戦車1200両体制から900両体制へ転換が決定していた為に、90式戦車の製造を削って74式戦車の改修を行うという選択肢の場合は、“90式戦車の製造が年産20両を下回る状況”で両立しえなかったのでは、と。
陸上自衛隊は戦車国産基盤を維持する事を留意したからこそ、90式戦車の量産と両立しえないとして、74式戦車改修予算を断念せざるを得なかった、防衛費削減を覆すだけの政治力を背景に持てなかったのでは、と考えてしまいます。実際、74式戦車では三菱重工は“製造ライン”で生産していた、月産5両という規模でしたが、これが90式では難しくなった。これ以上削っては製造基盤が成立たなくなる、改造か新造を選ばねばならない状況を突き付けられたのではないか。
生産ライン、90式戦車は月産1両2両という状況ではラインを構成できず、工場の中央部に戦車を配置し適宜部品を一両の戦車に組み上げてゆくという、非効率な生産となっている状況なのですから、これ以上削れなかったのではないか、削るならば製造費の高騰に直面するのではないか、という印象を受けるのですね。それならば製造を加速した方が、と。当時の防衛庁と大蔵省のパワーゲームを理解するとこう帰結してしまいます。
74式戦車が、例えばイスラエルのM-48戦車に対して実施したマガフ改修のような徹底的なものであれば、90式戦車を量産せずとも74式戦車で第三世代戦車水準まで引き上げ得る、こう選択肢は生まれたかもしれません、ただ所謂G型改修では到底及ばず、砲塔の換装や懸架装置更新などが必要となり、90式戦車の量産を優先したという点は理解できるのです。
74式戦車G型改修は遅すぎたのではないか、わたしが近年考えさせられるのは、1995年に完了した改修で、そもそも生産開始から十年を経た1984年の時点でM-1戦車やレオパルド2戦車が数を揃えるようになっていましたから、そもそもレオパルド2の全体試作は1979年に完了しているのですが、1995年の改修そのものが遅すぎたのではないか、とも。
84式戦車、こう表現しますと映画“八岐大蛇の逆襲”(DAICONFILM/1984)に出てくる戦車の名前になってしまいますが、制式化から十年を経た1984年の段階で暗視装置や増加装甲を追加した改良型を開発する必要はあったと思う。勿論これはTK-X,90式戦車開発費を食い込む懸念はありますが、第三世代と第二世代の違いを説明してでも行うべきだった。
赤外線アクティヴ暗視装置についてですが、74式戦車の性能を大きく制約している最大の難点です。しかし、74式戦車改修そのものを見ますと、HEP弾からの切替、初速が遅く現場で“ひょろひょろ玉”とか“海に捨てて発破漁に”と現場で評判の悪かった粘着榴弾HEP弾がAPFDS弾とHEAT-MP弾対応に改修するなど、遣る事はやっている印象があります。
暗視装置、ただやれる事を全部やったのかと問われれば疑問にも思う、特に、考えてみれば61式戦車などは運用終了前には赤外線アクティヴ照準器を追加していました、61式戦車は開発当時に夜間戦闘能力はありませんでしたが、一応最後の段階で一部だけとはいえ第二世代戦車相当に能力向上していましたので、61式戦車に出来た暗視装置の換装、61の場合は追加ですが、これを何故74式に出来なかったか、と。
RWS遠隔操作銃搭を追加搭載し、FC系とRWSの暗視装置を連接させる応急改修と、AAV-7に採用されているEAAK追加装甲の装着や一部車両に偵察警戒車の様に85式地上レーダ装置搭載など、やってみるべきだったとも思っています。なにしろ戦車です、防衛出動の際には相手が99G式戦車が相手でもT-90戦車が相手でも向かわねばならないのですから、ね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
日曜特集にて第7師団を紹介しました際に興味深うコメント投稿を頂きましてお返事を作成していましたが、長くなりましたので朝の話題として記事に仕上げてみました。
74式戦車の近代化改修について。74式戦車は4両のみ暗視装置を熱線暗視装置に切替えた改良型が開発された。このところ真剣に考えるのは1993年に完成した改良型試作ですが、評価試験が完了したのは1995年、この時点で戦車1200両体制から900両体制へ転換が決定していた為に、90式戦車の製造を削って74式戦車の改修を行うという選択肢の場合は、“90式戦車の製造が年産20両を下回る状況”で両立しえなかったのでは、と。
陸上自衛隊は戦車国産基盤を維持する事を留意したからこそ、90式戦車の量産と両立しえないとして、74式戦車改修予算を断念せざるを得なかった、防衛費削減を覆すだけの政治力を背景に持てなかったのでは、と考えてしまいます。実際、74式戦車では三菱重工は“製造ライン”で生産していた、月産5両という規模でしたが、これが90式では難しくなった。これ以上削っては製造基盤が成立たなくなる、改造か新造を選ばねばならない状況を突き付けられたのではないか。
生産ライン、90式戦車は月産1両2両という状況ではラインを構成できず、工場の中央部に戦車を配置し適宜部品を一両の戦車に組み上げてゆくという、非効率な生産となっている状況なのですから、これ以上削れなかったのではないか、削るならば製造費の高騰に直面するのではないか、という印象を受けるのですね。それならば製造を加速した方が、と。当時の防衛庁と大蔵省のパワーゲームを理解するとこう帰結してしまいます。
74式戦車が、例えばイスラエルのM-48戦車に対して実施したマガフ改修のような徹底的なものであれば、90式戦車を量産せずとも74式戦車で第三世代戦車水準まで引き上げ得る、こう選択肢は生まれたかもしれません、ただ所謂G型改修では到底及ばず、砲塔の換装や懸架装置更新などが必要となり、90式戦車の量産を優先したという点は理解できるのです。
74式戦車G型改修は遅すぎたのではないか、わたしが近年考えさせられるのは、1995年に完了した改修で、そもそも生産開始から十年を経た1984年の時点でM-1戦車やレオパルド2戦車が数を揃えるようになっていましたから、そもそもレオパルド2の全体試作は1979年に完了しているのですが、1995年の改修そのものが遅すぎたのではないか、とも。
84式戦車、こう表現しますと映画“八岐大蛇の逆襲”(DAICONFILM/1984)に出てくる戦車の名前になってしまいますが、制式化から十年を経た1984年の段階で暗視装置や増加装甲を追加した改良型を開発する必要はあったと思う。勿論これはTK-X,90式戦車開発費を食い込む懸念はありますが、第三世代と第二世代の違いを説明してでも行うべきだった。
赤外線アクティヴ暗視装置についてですが、74式戦車の性能を大きく制約している最大の難点です。しかし、74式戦車改修そのものを見ますと、HEP弾からの切替、初速が遅く現場で“ひょろひょろ玉”とか“海に捨てて発破漁に”と現場で評判の悪かった粘着榴弾HEP弾がAPFDS弾とHEAT-MP弾対応に改修するなど、遣る事はやっている印象があります。
暗視装置、ただやれる事を全部やったのかと問われれば疑問にも思う、特に、考えてみれば61式戦車などは運用終了前には赤外線アクティヴ照準器を追加していました、61式戦車は開発当時に夜間戦闘能力はありませんでしたが、一応最後の段階で一部だけとはいえ第二世代戦車相当に能力向上していましたので、61式戦車に出来た暗視装置の換装、61の場合は追加ですが、これを何故74式に出来なかったか、と。
RWS遠隔操作銃搭を追加搭載し、FC系とRWSの暗視装置を連接させる応急改修と、AAV-7に採用されているEAAK追加装甲の装着や一部車両に偵察警戒車の様に85式地上レーダ装置搭載など、やってみるべきだったとも思っています。なにしろ戦車です、防衛出動の際には相手が99G式戦車が相手でもT-90戦車が相手でも向かわねばならないのですから、ね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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おっしゃるようないろいろな問題があったのでしょうね。で、私が言っているのは、「様々な問題」があるなかで、「第2世代戦車をパッシブ暗視装置なしで放置する(しかも1995年から数えても27年以上も使う)」、という問題の優先順位を、最終的に最も下に置いたことです。このことをもって、「実戦を考えていない」と感じたということです。
他国はレオパルトIの近代化や場合によっては全廃(あるいは予備役保管)とか、当然のようにやってましたからね。。。
ありがとうございました。
本州、九州を含む全国の主要部で50トン戦車の運用が可能になっていれば」それなりに上手く回っていたように思います
レオパルドの実例ですが、考えてみると斜め上の近代化改修も可能だったのかな、と。この辺りまた改めて備忘録を作成してみます
90TKの本土での運用ですが、50tは難しいと言われ続けていましたが、しかし鎮西演習では普通に九州の日出生台演習場に展開しているのですよね
駒門や富士から中央観閲式にも展開しています、正式化当時は確かに相模原から車体と砲塔を別々に輸送していましたが、本当に本州で、使えないのか、そもそも有事の際に本州にも展開するので本州戦車部隊を廃止するといういまの方針との整合性を考えると、ちょっと一人歩きした論理なのかな、とも考えてしまいます