■横田からは日米空挺合同演習
コロナ禍下で行事全面中止となると名神でMCVを見たとか名古屋港に北海道の師団がとか、舞鶴基地に護衛艦が居たとか情報を寄せてくれる友人が多く話題が愉しい。
東京の友人が横田基地が凄いと知らせてくれました、なんでも24日から第1空挺団参加の日米合同演習を実施しているとのことで、アメリカ空軍第374輸送飛行隊などが13機編隊のC-130にて東富士演習場に空輸、降下後は空挺隊員がバスで横田に戻り、また空輸、450名という空挺大隊340名丸ごとと特科中隊等支援部隊をC-130から降下させたもよう。
輸送機が今話題だ。アフガニスタンのカブール陥落、2021年8月の騒擾は今なお記憶に新しいものですが、アフガン脱出民を乗せた米軍C-17は、しがみついての出国を試みた若者たちをなぎ倒し振り落した衝撃的な報道映像が印象的でした。一方、2022年は1月のトンガ大規模噴火に際してオーストラリアや日本の輸送機救援物資輸送が希望を繋ぎました。
DC-3,戦術輸送機というものを辿ってゆきますと、様々な名機に珍機が並ぶのですが、たどり着くのは偉大なる凡庸というべきアメリカのダグラスDC-3が一つの分岐点となります。この原点は、1932年、世界恐慌の影響が残る当時にアメリカの国内航空大手TWA社が航空各社に要請した“全金属機で12名乗り航続距離1700km”の新型機開発がその始まり。
ジャックノースロップ、エドモンドアレン、ジェームズキンデルバーガー、アーサーレイモンド。当時ダグラス社には20世紀のアメリカ航空開発を牽引できる程の人材が揃っていまして、この要請に応える事となるのですが、なんと納期は五カ月後という、今では考えられない厳しい開発期間でした。しかし、そこは天才たち、ボーイング247が生まれた。
ボーイング247は三発機、これが後にDC-1輸送機と発展します。この改良型DC-2はアメリカ大陸横断用に翌年開発され、給油経由地を経て東回り12時間45分西回り15時間45分というダイヤグラムでの飛行が可能となりました。この機体の評判は良く、日本の中島飛行機も輸入し、AT-2輸送機など国産輸送機開発の参考となる程の完成度を誇りました。
DC-3は1935年にアメリカン航空がDC-2の胴体幅拡張型要請により開発されます。これは今のジェット旅客機よりも時間を要する当時の旅客機に、寝台旅客機というサービスを提供する新機軸を盛り込むために要請されたものですが、アメリカン航空のスミス社長がドナルドダグラス社長へ40機購入の直談判を行い、即決したというアメリカらしい逸話も。
DST,ダグラススリーパートランスポートと称された新型機は寝台上下16寝台と畳めば座席28席、大型化で旅客運賃を一席当たり35%から50%低減できたことで一挙にアメリカでは空の移動時代が組まれます。傑作機は量産され、アメリカの国内線シェア80%に達し、1941年9月、その性能に目を付けたアメリカ陸軍がC-47輸送機として制式化しました。
C-47は空挺部隊に重宝され、特に大型化に合せてエンジンを強化した為、グライダー曳航も兼用でき、1943年7月9日のシチリア島侵攻作戦では4400名を落下傘とグライダーにより空輸、欧州で空挺部隊と云えばクレタ島空挺強襲のドイツ軍、というお題目を一日にして奪った実力を発揮、1944年6月6日のノルマンディー上陸では二日で6万名を運ぶ。
第二次世界大戦に投入されたC-47/DC-3輸送機は戦後も4000機が生き残り、民間航空に払い下げられ、一機二万ドル、分りやすい定価で民間に払い下げられたDC-3は大量の操縦手と共に空の交通を世界中に開拓し、これは第二次世界大戦後の復興に寄与してゆきます。そしてベルリン封鎖のベルリン空輸など、戦術輸送機を空軍力に内部化してゆきました。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
コロナ禍下で行事全面中止となると名神でMCVを見たとか名古屋港に北海道の師団がとか、舞鶴基地に護衛艦が居たとか情報を寄せてくれる友人が多く話題が愉しい。
東京の友人が横田基地が凄いと知らせてくれました、なんでも24日から第1空挺団参加の日米合同演習を実施しているとのことで、アメリカ空軍第374輸送飛行隊などが13機編隊のC-130にて東富士演習場に空輸、降下後は空挺隊員がバスで横田に戻り、また空輸、450名という空挺大隊340名丸ごとと特科中隊等支援部隊をC-130から降下させたもよう。
輸送機が今話題だ。アフガニスタンのカブール陥落、2021年8月の騒擾は今なお記憶に新しいものですが、アフガン脱出民を乗せた米軍C-17は、しがみついての出国を試みた若者たちをなぎ倒し振り落した衝撃的な報道映像が印象的でした。一方、2022年は1月のトンガ大規模噴火に際してオーストラリアや日本の輸送機救援物資輸送が希望を繋ぎました。
DC-3,戦術輸送機というものを辿ってゆきますと、様々な名機に珍機が並ぶのですが、たどり着くのは偉大なる凡庸というべきアメリカのダグラスDC-3が一つの分岐点となります。この原点は、1932年、世界恐慌の影響が残る当時にアメリカの国内航空大手TWA社が航空各社に要請した“全金属機で12名乗り航続距離1700km”の新型機開発がその始まり。
ジャックノースロップ、エドモンドアレン、ジェームズキンデルバーガー、アーサーレイモンド。当時ダグラス社には20世紀のアメリカ航空開発を牽引できる程の人材が揃っていまして、この要請に応える事となるのですが、なんと納期は五カ月後という、今では考えられない厳しい開発期間でした。しかし、そこは天才たち、ボーイング247が生まれた。
ボーイング247は三発機、これが後にDC-1輸送機と発展します。この改良型DC-2はアメリカ大陸横断用に翌年開発され、給油経由地を経て東回り12時間45分西回り15時間45分というダイヤグラムでの飛行が可能となりました。この機体の評判は良く、日本の中島飛行機も輸入し、AT-2輸送機など国産輸送機開発の参考となる程の完成度を誇りました。
DC-3は1935年にアメリカン航空がDC-2の胴体幅拡張型要請により開発されます。これは今のジェット旅客機よりも時間を要する当時の旅客機に、寝台旅客機というサービスを提供する新機軸を盛り込むために要請されたものですが、アメリカン航空のスミス社長がドナルドダグラス社長へ40機購入の直談判を行い、即決したというアメリカらしい逸話も。
DST,ダグラススリーパートランスポートと称された新型機は寝台上下16寝台と畳めば座席28席、大型化で旅客運賃を一席当たり35%から50%低減できたことで一挙にアメリカでは空の移動時代が組まれます。傑作機は量産され、アメリカの国内線シェア80%に達し、1941年9月、その性能に目を付けたアメリカ陸軍がC-47輸送機として制式化しました。
C-47は空挺部隊に重宝され、特に大型化に合せてエンジンを強化した為、グライダー曳航も兼用でき、1943年7月9日のシチリア島侵攻作戦では4400名を落下傘とグライダーにより空輸、欧州で空挺部隊と云えばクレタ島空挺強襲のドイツ軍、というお題目を一日にして奪った実力を発揮、1944年6月6日のノルマンディー上陸では二日で6万名を運ぶ。
第二次世界大戦に投入されたC-47/DC-3輸送機は戦後も4000機が生き残り、民間航空に払い下げられ、一機二万ドル、分りやすい定価で民間に払い下げられたDC-3は大量の操縦手と共に空の交通を世界中に開拓し、これは第二次世界大戦後の復興に寄与してゆきます。そしてベルリン封鎖のベルリン空輸など、戦術輸送機を空軍力に内部化してゆきました。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)