北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

F-35A三沢沖墜落事故と飛行再開目処【1】空間失調墜落の防衛省結論とAR-HMD暗視性能

2019-06-11 20:04:42 | 先端軍事テクノロジー
■F-35A墜落事故から二ヶ月
 F-35戦闘機、第302飛行隊所属の最新鋭第五世代戦闘機墜落事故が発生したのは4月9日、事故から二ヶ月と二日が経ちました。

 三沢沖F-35A墜落事故は、操縦士の空間失調による墜落、と防衛省が結論付けました。機体は回収されておらず、僚機等に残る部隊飛行データから推測した結果です。空間失調とは暗夜や雲中等での視程不良時に高度計や水平計等の計器飛行を行わず五感に依存し、水平飛行している感覚で実は高度を下げており、そのまま高度0となり墜落する事故です。

 航空自衛隊は二ヶ月間の捜索と事故原因調査を経て、空間失調を原因と判断した上で同型機での空間失調防止へ計器飛行等の訓練を徹底する事を条件に飛行訓練を再開する方針です。F-35Aは現在42機の導入が進められており、老朽化するむ1971年導入のF-4EJ戦闘機を置き換えると共に、更に102機の追加調達し1981年より導入のF-15J後継も担う。

 しかし、機体回収を優先し、事故原因を究明するべき、とも思う。機体そのものには欠陥は無い、との結論から操縦者の錯誤であろうとの結論です。機体そのものの欠陥が無い点は飛行前の点検や最終組立後の試験結果に基づくのですが、機体欠陥有無こそ機体そのものを検証するべきであり、要するに消去法で操縦錯誤としたようで違和感は禁じ得ません。

 一般論として、空間失調はベテランの航空機操縦士でも起こり得ます。地面を歩く我々では掴みにくいものですが、空間失調は過去にはKLMオランダ航空のボーイング747が墜落には至りませんでしたが、空間失調で水平飛行している感覚で宙返りしてしまい負傷者が出た事もあります。一般論で可能性は否定できないでしょう、海面が見えなければ、ね。

 一般論と強調したのは、F-35Aには見えなかったのか、という疑問符が残る為です。F-35Aの操縦士はAR-HMDというヘルメット表示型ディスプレイを装着し操縦します。これはヘルメットのバイザーに必要な情報と画像を表示するもので、前方赤外線監視装置FLIRが機体各所計六か所に装備されており、霧中や雲中に夜間でも全周の視界は得られるのです。

 AR-HMDは一個40万ドルといい、ヘルメットですが軽装甲機動車よりも高価です。第四世代戦闘機までは夜間の対地攻撃等に操縦士は暗視装置を装着しており、操縦席の計器も暗視装置に適合し灯火の輝度を落とす構造でした。F-35等第五世代戦闘機はいちいち暗視装置を装着しては効率が悪いとして、全てヘルメットに表示する方式を採用したのですね。

 統合打撃戦闘機JSF計画としてアメリカを中心に国際共同開発されたF-35は、航空自衛隊は主として航空優勢を確保する制空戦闘機として運用するようですが、その名の通り統合打撃戦闘機であり、夜間の航空阻止任務や近接航空支援に精密爆撃等を担う機体です。AR-HMDはそのために操縦士に高い視野を与えています。また六基のFLIRは連動する。

 FLIRは前方赤外線監視装置ですが、六基搭載しますと機体周囲上下左右前後360度を全周に渡り確認できます、つまり操縦席の裏側や機体後部の陰に潜む状況もAR-HMDに画像が表示され、透けて見えるのですね。これは対戦闘機戦闘や対地攻撃にて視覚外を無くす為のもので、AR-HMDで敵機を見つめますと、そのままロックオンし攻撃も可能というもの。

 航空機操縦士の方にAR-HMDの性能と特性を説明した上で、空間失調は夜間に起きうるのか、と問うてみますと、視界が得られるならば空間失調は起きえない、と答えを頂きました。機体に欠陥が無いとするならば、例えばAR-HMDを取り外し飛行する特殊な訓練を行っていたのでなければ、FLIRによる視界を供するAR-HMDを装着していた場合でも、空間失調は起こるのでしょうか、ね。

 飛行再開は妥当と考えます、ただ、飛行再開が原因究明終了と同義である必要はありません。例えば空間失調対策の訓練を徹底する事が飛行再開の条件としていますが、一般論として空間失調対策は計器飛行となります。しかし、F-35戦闘機の計器は多機能フラットディスプレイです、AR-HMDのFLIR画像よりも計器を重視するのは妥当なのでしょうか。

 繰り返しますが、飛行再開は原因究明完了と同義である必要はありません、例えば電源喪失等によるAR-HMDの機能喪失や、アメリカ国内での地上で発生したエンジン系統と燃料供給系統の事故の可能性は皆無なのか、操縦士が命を預け国家の安全保障を司る装備品です、暫定的に空間失調対策訓練を強化し飛行再開を行いつつ、機体回収と原因究明を行うべきだと、考えます。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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南シナ海は第二のオホーツク海となる【5】21世紀核軍拡と竹のカーテンを前に専守防衛再考

2019-06-10 20:12:12 | 国際・政治
■重要なのは既成事実化阻止
 専守防衛という施策からは南シナ海は遠い異世界の話なのかもしれませんが、抑制的な防衛政策が必ずしも憲法が定める平和的生存権に繋がるとは限りません。

 竹のカーテンが南シナ海に降ろされるのを回避するにはどうするべきか。南シナ海にヴェトナムやフィリピンから武力奪取した環礁の軍事施設化が資源獲得ではなく戦略ミサイル原潜聖域確保であったとするならば、既成事実を構築される前に、関与の姿勢と関心の誇示を続け、中国政府へ日本政府の厳しい姿勢を示唆し、次善策を求める他無いでしょう。

 日本側が示す関与の姿勢とは、例えばアメリカの航行の自由作戦に参加する必要はないが、宣言せずとも平時から公海としての扱いを重視する方策、また友愛ボートとして継続される自衛隊と非政府団体との協力による東南アジア地域での人道支援訓練や民生協力の拡大、国内で充分確保出来ない行進間戦車射撃場等の訓練移転の当該地域への借用等考えられる。

 専守防衛からの逸脱とならない範囲内で、しかし、専守防衛が本土決戦以外不可との防衛政策ではない点を再確認しつつ、抑制的な防衛政策に限定した上でも、南シナ海への中国海軍戦略ミサイル原潜聖域化を目的とした、南シナ海の閉塞化、恰も東西冷戦下でのソ連によるオホーツク海閉塞化に並ぶ施策の再来となった場合の影響は計算しておくべきです。

 シーレーン防衛という観点からは、勿論南シナ海地域での任務が求められる可能性はあります、例えば戦略ミサイル原潜防衛の為に、緊張が一定程度高まった際に商船等の航行が南シナ海全域で制限された場合には、南シナ海を唯一の海上航路とする諸国との交通が大きく途絶する事を意味します、その際に自衛隊へ海上警備行動命令が発令される可能性も。

 海上警備行動命令ですが、南シナ海の様な遠隔地域に発令されるのかと問われた場合、過去の実例としてソマリア沖海賊対処派遣任務について、遠く離れたアフリカ沖での任務ながら海賊対処特別措置法成立までの暫定措置として、自衛隊法に基づく海上警備行動命令が発令された実例があります。また更に厳しい情勢では防衛出動命令の可能性もあります。

 原潜聖域を突破する、重要な視点は中国軍が戦略ミサイル原潜の聖域を構築し、その上で戦略ミサイル原潜を使用する瀬戸際という緊張状態まで待って、その上で商船の航行が阻害された為に海上警備行動を発令するまで、待ちの姿勢であっては、状況を悪化させる可能性があるという点で、これは攻められるまで待つ従来の防衛戦略の転換を迫られる事に。

 予防外交、抑止戦略、我が国が戦後堅持した専守防衛政策は、地域紛争が小火の内に安定化するという施策を自制してしまい、取り返しのつかない状況まで防衛力を用いられないという建前が、最高法規である憲法に明示している為、必ずしも平和維持と平和構築を求めず、手段が平和、結果は平和の保証なし、という状況で推移した歴史が戦後ありました。

 南シナ海は第二のオホーツク海となる、本特集ですが重要なのは、南シナ海は第二のオホーツク海となった、という主題ではないという点です。我が国シーレーン防衛を考えた場合、南シナ海が第二のオホーツク海となる以前に抑止する事が望ましい。これはオホーツク海がソ連核の聖域となった1950年代当時と違い、我が国には拒否する選択肢があります。

 核の海を拒否する選択肢、別に米中の軍事衝突や核戦争位は無視して日本は平和主義を貫けばよい、と反論があるでしょうが、中国は核拡散防止条約に加盟しており、2003年の加盟国会合において核拡散防止条約に明記された核兵器国の核軍縮義務を中国代表はNPOとの拡大会合議事において中国も義務を負っている、と発言し、記録されているのですね。

 南シナ海を核の海とし、これまで試験運用に留めていた戦略ミサイル原潜を量産する事は、広島長崎原爆投下から七十年以上経て、更に冷戦構造が終結した後の三十年を経て、米ロ両国が抜本的な核軍縮を進める中で、中国が新しい核軍拡を行う事は人類への背信としか言いようがありません。この正論だけでも国際公序として中国施策を拒否する権利がある。

 日本が採り得る具体策は何か。アメリカ海軍のように年に数回の頻度で航行の自由作戦を繰り返しても本質的な解決とはなりません。勿論中国大使館で平和を訴えるという事もあまり意味がありません。しかし、水陸機動団により中国人工島付近を遊弋させるとか、中国空母へ潜水艦隊が模擬襲撃運動を繰り返す、という施策でも、やや性急すぎるやもしれない。

 ただ、中国の核軍拡への反対と海洋自由原則に反する戦略ミサイル原潜聖域構築への反対姿勢は、国際公序に沿ったもので、世界の賛同と場合によっては参画も得られるものでしょう。その上で、竹のカーテンにより南シナ海閉塞が現実のものとなった後では手遅れであり、南シナ海を核の海とさせぬ為に可能な施策は何か、専守防衛の再論が必要でしょう。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【日曜特集】那覇基地航空祭-エアーフェスタ2011【5】ボーイング747(2011.12.11)

2019-06-09 20:02:08 | 航空自衛隊 装備名鑑
■全日空ジャンボジェット!
 那覇基地航空祭の主役が諸般の事情があるという航空祭にも楽しみは多種多様にあります、例えば数多運行される那覇空港の民間機もそうです。

 イーグルが飛行しないイーグルだけの基地の航空祭、しかしそこで主役が飛ばないのだから嘉手納に行こう、と成っては本末転倒です。実際に航空祭に展開するのですから悪天候で全く飛ばないことも想定しなければ成りませんし、また突然の天候急変もありえる。

 これを考えますとお天気が十分よいなかでの日曜日の航空祭、新しい被写体を考えなければ成りません。ボーイング747は個人的にこの日の航空祭の主役と位置づけた航空機です、ボーイング747は政府専用機にも採用されたジャンボジェットと愛称された巨大旅客機だ。

 民間航空会社には日本航空に全日空に広く採用された旅客機であるものの、都市間路線での利便性、特に一番の過密路線である羽田伊丹航路において伊丹空港の騒音防止の観点から四発機乗り入れ制限が決定します。なにしろ大阪市上空が着陸航路に入っていますから。

 大阪東京間の輸送需要は大きいのですが、那覇と違い大阪中心を飛ぶ、エンジンを四基搭載した巨大なボーイング747はその役割を終える事となった訳です。しかし、この2011年時点ではまだ全日空がボーイング747を運用しています、これは撮っておくべき、となる。

 ジャンボジェット、那覇空港は羽田から長距離路線にあたり、四発機乗り入れ制限もありません。那覇航路と千歳航路が日本のジャンボジェット最後の楽園であったのですが、そのなかでも千歳基地と那覇基地はともに航空自衛隊基地が置かれ、施設は隣接しています。

 千歳基地も那覇基地もF-15イーグルが配備されている一方、千歳基地は航空自衛隊基地が国際線側の旧施設に隣接しているため、航空祭では国内線の旅客機を戦闘機と並べて撮影することはできません。そこが那覇基地では誘導路滑走路に沿って展開している訳ですね。

 ジャンボジェットも進む誘導路、航空自衛隊基地が展開していますので、誘導路を進むボーイング747と地上展示のF-15を並べて撮影することができる。もともとジャンボは日本航空が100機以上を導入していた旅客機ですので、それほど珍しくはありませんでした。

 小松基地も小松空港と隣接していますが、この航空祭から数年前までは小松基地航空祭でも小松基地に着陸する様子を見ることができました。北陸新幹線金沢開業までは金沢から東京までは空路のみ、特急と上越新幹線乗継や京都駅新幹線乗継は僅かということでした。

 ボーイング747は並ぶ戦闘機よりも一際大きく、そういえばボーイング747は同時期のF-15戦闘機ライセンス生産費用の倍も要する高い航空機、という事を思い出しました。政府専用機はボーイング747からボーイング777へ移行しますが、やはり747は迫力が凄い。

 ジャンボを一例に挙げましたが、数年で見慣れた風景は無くなってしまう、まあ京都では清水寺や東寺に大徳寺や仁和寺と東福寺が東本願寺は不変ですが、F-4EJ戦闘機も74式戦車も203mm自走榴弾砲も護衛艦はつゆき型も、そう長く見られるものではありません。

 那覇空港滑走路隣接、という撮影環境はおもしろい。これは那覇空港の過密ぶりを示すものですので一概に高評かできるものではなく、現在進んでいる那覇空港第二滑走路完成が期待されるのですが、それでもこの自衛隊と旅客機の情景、重なりは眺めていると面白い。

 滑走路に進入する旅客機と並ぶ自衛隊機という情景、着陸へ飛行する旅客機と自衛隊機、誘導路で戦闘機の背景に並ぶ巨大な旅客機、という情景を見ますと、なにか非日常的な迫力がありますね。那覇基地はF-15の基地なのですが、同時に最寄りの基地が遠いのです。

 宮崎県の新田原基地が那覇基地最寄りの戦闘機部隊基地ですので、リモート飛行展示、つまりほかの基地から飛行展示に飛来して航過飛行をおこなってそのまま帰投、という飛行展示はできません。すると、築城基地のF-2機動飛行や芦屋基地T-4などもありません。

 そもそも那覇空港が過密空港ですので、滑走路付近での飛行展示をなかなか行えない、という実状もあります。するとF-15が飛行できない状態のまま、間が空いた航空祭飛行展示プログラムとなる訳でして、旅客機でも撮っておかないと撮るものがない、ということ。

 入間基地のようなものすごい混雑、といかずとも那覇基地航空祭は岐阜基地航空祭や小松基地航空祭と比較しても、いや余裕のあることで定評のある小牧基地航空祭と比べてみても最前列付近は余裕があります。即ちF-15と旅客機を追って自由に撮影位置を変更できる。

 もちろん全く人が以内、というわけではないのですが、ズームレンズで人垣の隙間から撮影しますと、どんなに混雑していても一瞬の凪はありますので、そこから撮影することはできるわけです。これは富士総合火力演習のシート席少し後ろの方での撮影でも似ている。

 ただ、これ後々考えてみますと琉球新報と沖縄タイムズに航空祭でF-15が飛行しない、と報じられていたからの混雑回避だったようです。実は初めての那覇基地航空祭、那覇基地は混雑しない、という認識が此処で定着してしまいましたので、空いていると安心ですね。

 この三年後の那覇基地航空祭にて意外な混雑に驚かされることになった。考えてみれば、それこそ旅客機で二時間かけて長躯那覇市内にホテル宿泊、となれば貧乏性といいますか、航空祭でF-15が飛ばないからといってしかし航空祭が行われる以上、どうするべきか。

 沖縄まで折角来たのですから、撮影しないという選択肢はないのですよね。しかし近所の方は違う、また来年、となるのでしょうか。まあ、当方の場合も近所の部隊行事で大幅中止となっていましたらば、来年でもいいだろう、と思ってしまうのと同じなのでしょう。

 那覇基地は余裕がある、那覇基地航空祭は正門付近に売店が並んでいますので、航空祭海上となるエプロン地区から売店は本来非常に遠いのですが、ここまで余裕がありますと、最小限の荷物を最前列に残して、ここで盗難に遭わないのは人間関係が大事になります。

 最前列付近で交友関係を構築しまして、お互いに見ていてもらった上でカメラを筆頭に貴重品を持って移動するという行動となるのですが、まあ、一人旅でも荷物おいてそのまま売店へ行く、という行動も可能となるわけです。他の荷物はホテルにある事情もある。

 もっとも、本来F-15の飛行展示が行われるのならば、そんな時間的余裕はありませんので空腹のまま航空祭撮影決行、空腹はF-15飛行のアドレナリンと携行食糧でまかなう、という。携行食糧とはお弁当といいますか、まあ本来、航空祭はそれでも十分なのですが、ね。

 出来立て熱々のおいしい料理をいただけるということは、旅の思い出をよりよくしてくれます。それでも再武装展示や離陸しない模擬緊急発進などF-15は地上で可能な展示を精一杯行ってくれますので、折角の那覇だから撮影できる沖縄らしい情景を撮ってゆこう、と。

 イーグルが飛行しないイーグル主役の航空祭、しかし航空祭は行われているのですから、いろいろな角度で撮影してゆこうと考えてみますと、おいしいものをいただきつつ中々おもしろい趣向の航空祭を楽しむことができるのですね。そう、航空祭はお祭りなのだから。

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【土曜詳報】アメリカ空軍嘉手納基地(5)KC-130とKC-135,KC-10給油機(2011.12.12)

2019-06-08 20:07:06 | 在日米軍
■アメリカ軍空中給油機3機種
 嘉手納基地ではKC-135空中給油kにKC-10空中給油輸送機、そしてKC-130空中給油輸送機など給油機だけでも多種を見る事が出きます。

 普天間飛行場の嘉手納統合案、丁度この2011年に撮影した際、民主党時代の普天間基地名護市辺野古移設撤回再撤回と名護市建設再画定した翌年となっています。この嘉手納統合案、実現性はあったのでしょうか、調べてみますと橋本内閣時代に提案されていました。

 橋本内閣時代の嘉手納基地統合案、しかしこの当時、嘉手納基地は今よりも広く海兵航空部隊を収容できる余裕があったにもかかわらず、結局実現しませんでした、アメリカ空軍がその計画に反対した為です。嘉手納基地と同じように普天間基地も有事には増援が来る。

 海兵航空部隊、例えば台湾海峡有事など、海兵航空部隊を緊急に増強する必要が生じた際には、岩国の第1海兵航空団の他に米本土からの増援海兵航空部隊が展開しまして、普天間飛行場に平時常駐する海兵航空部隊は70機程度ですが、これも250機以上に膨れます。

 陸上自衛隊のヘリコプター数は世界各国の陸軍と比較し極めて上位に位置しますが、その陸上自衛隊と比較してもアメリカ海兵隊の航空部隊は多い。嘉手納基地へ統合しますと、海兵隊と空軍、有事の際の増援増強に対応できない可能性が生じてしまう、ということ。

 読谷補助飛行場、日米合意により現在は日本へ返還されました嘉手納基地の補助飛行場ですが、嘉手納統合案は読谷補助飛行場地区の返還前であれば、可能性として普天間を嘉手納基地読谷地区へ移駐させる事も出来たのでしょうが、これさえ当時の米軍は反対します。

 名護市辺野古へ移設が決定したのは稲峰県知事時代の1996年です。SACO合意により代替飛行場完成後に普天間飛行場を返還する事が画定、ただ、辺野古沖の地形調査などは時間を要しまして着工に至る前、当時の民主党政権が撤回する13年前の合意が覆されたかたち。

 CH-53重輸送ヘリコプター墜落事故が発生した普天間飛行場は海兵航空部隊の拠点であり、沖縄の第31海兵遠征群や第3海兵師団には不可欠の部隊です。陸路で続く場所を基本的に防衛する陸上自衛隊と異なり、海兵隊は水陸両用作戦を実施します、ここで航空機が要る。

 水陸両用作戦は海岸堡の迅速な確保と共に上陸作戦を揚陸作戦、海岸を確保するだけの部隊の橋頭堡へ内陸部に戦果拡張を行うために必要な重装備を揚陸させなければなりません、しかし戦車等重車輌の揚陸は時間を要します、この時点で敵の戦車等が来襲すると大変だ。

 海兵航空部隊は、海岸堡への迅速な兵力展開は勿論、海岸線への接近経路、つまり敵が上陸地点に逆襲へ進出する為に絶対必要な道路や経路を通過できないよう、緊要地形を確保する任務があります。この為にも海兵隊は多数のヘリコプターを必要としている訳ですね。

 普天間飛行場の移設を現実的な範囲内で実現するには、アメリカ海兵隊が求めた条件として海兵地上戦闘部隊から航空機で30分以内、という条件でした。これ以上離れますと即応性が確保出来ないという。そこで2009年政権交代当時の民主党が示した県外移設が暗礁に。

 鹿児島県島嶼部ならば辛うじて県外となるのですが、奄美大島くらいしか適当な離島がありません。海兵航空部隊は大量の燃料と予備部品を要します、この為、飛行場だけを移設したのでは航空機を稼働させる事が出来ない、実際普天間も周りに支援部隊が多く居ます。

 宜野湾市中央に位置する普天間飛行場は借地料だけで防衛省の負担は年間58億円、CH-47輸送ヘリコプター1機分の費用を負担しています、完全返還されるならば負担は縮小しましょうが、嘉手納統合案とは有事の負担を考えれば、そうも簡単なものではないようですね。

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令和元年度六月期 陸海空自衛隊主要行事実施詳報(2019.06.08-06.09)

2019-06-07 20:06:21 | 北大路機関 広報
■自衛隊関連行事
 梅雨入りという季節と共に梅酒の仕込みで忙しい今日この頃ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか、今週末の自衛隊行事紹介です。

 第9師団創設記念青森駐屯地祭、東北北部を防衛警備管区とする第9師団の創設記念行事です。青函地区を防衛警備する為、本土師団では冷戦時代に北部方面隊師団に準じて誦装備の集中が行われた師団であり、冷戦後には近代化が後回しとされた事で十数年前までは高機動車も配備されてなかった、という師団です。74式戦車は見れるうちに見ておきたい。

 師団記念行事は8日土曜日の市街パレードと9日日曜日の駐屯地祭と執り行われまして、8日には青森市内新町通にて市街パレードが実施、1340時から1415時までが予定されていまして、第9師団隷下部隊と共に八戸航空基地よりP-3C哨戒機も祝賀飛行に参加します。市街パレードは市街地の信号機や看板と街並みという通常の観閲行進とは一風違いますね。

 第1施設団創設記念古河駐屯地祭、東部方面隊直轄施設部隊である第1施設団の創設記念行事です。第一線での戦闘工兵任務を主務とする師団旅団施設部隊に対し、戦闘工兵としての全般支援から建設工兵としての策源地造成や連絡線維持を任務とし、92式地雷原処理車や75式装甲ドーザ等の戦闘工兵装備から92式浮橋に重パネル橋等建設工兵装備も揃う。

 和歌山駐屯地祭、第4施設団第304水際障害中隊が駐屯しています。中隊には94式水際地雷敷設車が配備され、有事の際には敵上陸用舟艇や水陸両用車を一発で撃破する水際地雷原を構成します。例年は市街パレードと海上での体験試乗なども行われます。ただ、和歌山駐屯地とはなっていますが、駐屯地は和歌山市よりも遥か南の御坊市、ご留意ください。

 よこすかYYのりものフェスタ、8日土曜日と9日日曜日に開催され、横須賀地方隊が協力します。先週開催と掲載しましたが誤りでした。お詫びし、改めて行事を紹介します。JR横須賀駅と横須賀基地が会場となり、様々な乗り物が紹介、また横須賀基地も横須賀サマーフェスタ以外では貴重な一般公開となり、自衛隊艦艇や車両の一般公開も行われます。

 下甑島分屯基地祭、第9警戒隊のレーダーサイトです。春日基地の分屯基地で西部航空警戒管制団隷下部隊なのですが、鹿児島県薩摩川内市下甑町長浜に所在し、ここは九州島ではなく離島に所在し、自衛隊行事の中でも屈指の交通難所に位置しています。基地には通称ガメラレーダーという弾道ミサイル警戒用のFPS-5が配備、遠いのですが稀有な装備だ。

 さて撮影の話題を。トートバックをカメラバックの他に一つあれば、非常に重宝します。今年初旬まで愛用していましたのはシン-ゴジラの巨災対トートバック、最近は戦艦榛名と戦艦日向のトートバックを愛用しているのですが、自衛隊行事の際にはカメラバックの中に在るか、ホテルフロントか駅のコインロッカーに預けてあります、自衛隊行事に不要な着換え等を入れて。

 カメラバックとは別にトートバックを携行する事はもう一つ、が否際に役立ちます、それは豪雨の場合に役立つ。豪雨となりますと、防滴器材や雨衣等は全て濡れます、それが役目なのですが、問題は帰路です。濡れた防滴器具をそのままカメラバックに収めては折角無事なカメラバックの中身が湿ってしまいます。そこでその収容にトートバックが役立つ。

 バックが増える事は、要するに管理物品が増大する事を意味しますので、亡失品発生等の懸念が当然大きくなるのですが、一つに纏めてしまいますと、逆に移動する場合にゼロサム状態、全部持って行くか全部置いて往くかという、逆に自由度が下がってしまいます。トートバックは畳んでしまえばコンパクトですので、一つ持って行くと、自由度が高まる。

■駐屯地祭・基地祭・航空祭


・6 月8日-9日:第9師団創設57周年記念青森駐屯地祭…https://www.mod.go.jp/gsdf/neae/9d/
・6月9日:第1施設団創設記念行事…https://www.mod.go.jp/gsdf/eae/ea/camp/ea_1eb_0.html
・6 月8日-9日:よこすかYYのりものフェスタ…https://www.mod.go.jp/msdf/yokosuka/
・6月8日:和歌山駐屯地創立記念行事…https://www.mod.go.jp/gsdf/mae/
・6月9日: 下甑島分屯基地祭…https://www.mod.go.jp/asdf/wadf/

■注意:本情報は私的に情報収集したものであり、北大路機関が実施を保証するものではなく、同時に全行事を網羅したものではない、更に実施や雨天中止情報などについては付記した各基地・駐屯地広報の方に自己責任において確認願いたい。情報には正確を期するが、以上に掲載された情報は天候、及び災害等各種情勢変化により変更される可能性がある。北大路機関
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南シナ海は第二のオホーツク海となる【4】TPP環太平洋包括連携協定と南シナ海閉鎖影響

2019-06-06 20:05:55 | 国際・政治
■二つの価値観の衝突
 シーレーンの維持は船団護衛能力の整備という些末な論理ではなく、広く開かれた海という一つの価値観に依拠するものです。

 南シナ海は第二のオホーツク海となる、我が国にとってはシーレーン防衛の問題があります。南シナ海は東南アジア諸国と日本とを結ぶ唯一のシーレーンです。マラッカ海峡等点が封鎖される状況とは異なり、南シナ海という面が封鎖された場合は南シナ海にしか沿岸を有さない諸国とは、黒海をロシア海軍に封鎖されたウクライナと似た状態となります。

 TPP環太平洋包括連携協定加盟国も南シナ海沿岸にはヴェトナムとシンガポールがあり、TPP加盟へはマレーシアとブルネイが加盟交渉中という現状です。この状況で南シナ海を封鎖されるようなことが有れば、TPP枠組そのものにも大きな脅威となりかねません。そして、中国人工島と戦略ミサイル原潜等という一連の施策が、懸念の可能性を示している。

 しかし、もう一つ、シーレーン途絶と共にそのシーレーン回復を求める場合、日本本土の自衛隊施設と在日米軍基地への軍事圧力が増大する可能性があります。軍事圧力というのは、2017年のように中国からの国籍不明機が異常増大し防衛負担が増大する可能性、若しくは東京湾口に中国001A型空母による示威的な航行が行われる可能性さえあるでしょう。

 留意事項は南シナ海封鎖の懸念を、中国が資源獲得のために封鎖するのか、戦略原潜の聖域確保のために封鎖するのか、ここで意味が異なります。資源獲得の為であれば資源の確保は代替手段があります、しかし、戦略原潜聖域確保が目的となりますと、戦略原潜の戦略核の用途がアメリカとの全面核戦争への保険でしか無く、米中対立が前提の施策となる。

 南シナ海は第二のオホーツク海となる、その上でオホーツク海が核の海となった状況との相違点ですが、ソ連初の核実験が1949年8月29日に実施されていますのに対し、NATO発足は1949年4月4日であり、所謂冷戦構造が本格的な対立に至る前の抑止というものが成り立ちにくい構図がありました。そしてオホーツク海は当時すでにソ連影響下にあった。

 現状変更を海軍力で試みるのですから、その時点で深刻な対立が生じうるのですが、例えばアメリカ海軍は中国海軍の戦略ミサイル原潜聖域構築へ賭ける軍事的緊張度の許容度を甘く見た場合は、結果的に非常に大きな武力紛争へ発展する可能性があります。例えば、中国側が局地戦争の覚悟で横須賀基地や佐世保基地を一つの攻撃目標とする可能性、など。

 航行の自由作戦を展開するアメリカ海軍イージス艦に対し、中国海軍の大型駆逐艦が進路妨害を行い、船体接触による航路変更、かつて黒海へ展開したアメリカ海軍ミサイル運用艦に対しソ連海軍フリゲイトが試みたような強硬措置というものは考えられます。しかし、アメリカ海軍がこの現状変更を認めない場合、認めようがないのですが、次の段階は何か。

 H-6ミサイル爆撃機の編隊が紀伊半島沖まで飛来したのは2017年8月24日の事でした。航行の自由作戦としてアメリカ海軍による南シナ海閉塞阻止、現在は人工島既成事実化阻止が目的ですが、南シナ海閉塞阻止を展開する場合、西太平洋地域におけるアメリカ海軍の拠点は横須賀と佐世保、嘉手納と三沢、この在日米軍基地への圧力増大が考えられます。

 この場合、日米中、この北東アジア地域に重要な影響を及ぼす三カ国の認識と云いますか、価値観の相違を共有する事が出来なければ、非常に深刻な結果を結果として醸成する可能性があります。一つは、中国の戦略ミサイル原潜聖域構築への国家事業としての覚悟をアメリカが認識するか、一つはアメリカの中国軍事力軽視による行動、そしてもう一つ。

 日本の価値観として、第二次世界大戦を思い出しますと空襲と飢餓、というものがありました。特に海上自衛隊は潜水艦によるシーレーン遮断の経験から、冷戦時代、ソ連海軍の太平洋における主戦力が潜水艦であった事から、対潜戦闘を特に重視し防衛力を整備してきました。シーレーン途絶が飢餓の社会が共有する記憶を刺激する可能性があるという。

 国家が有する価値観、シーレーンに関する日本の価値観を以上の通り挙げましたが、これは同時に海洋安全保障に関する国際公序は、価値観としてグローバル化していない、という実情も併せて理解する必要があるでしょう。例えば伝統的ゲオポリティクス論理とシーパワー論理では海洋は自由か接近経路か、という部分でその理解が真逆となっています。

 シーパワーの論理では海は敵味方なく広く開かれるべき、というグローバルな視点に基づくものですが、ゲオポリティクス論理ではこの前提を踏まえつつ、ただし我が国周辺海域を除く、と部分的な海洋閉塞を置く。この価値観に齟齬が生じた状況を放置しますと、大きな摩擦と衝突に繋がりかねず、これが現在、南シナ海で置きつつあるのかもしれません。

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【京都幕間旅情】佛光寺(真宗佛光寺派本山)洛中へ山城国山科と比叡渋谷経て電気街に至る

2019-06-05 20:14:26 | 写真
■親鸞開祖か住房移築聖地か
 梅雨入りが近い中、僅かな時間を見つけ散策していますと、超常現象とは出会いませんが不思議な歴史とは出会う、京都とはそんな街だ。

 佛光寺、下京区の寺院です。寺町電気街という京都一の、とはいえ往時よりもその色彩は薄まった繁華街を京都駅の方へ街並みを眺めつつ散策していますと、広い白壁の続く情景に出会います。寺町通、確かに寺社仏閣は多いのですがその伽藍は凝縮され過ぎている。

 下京区高倉通仏光寺下ル新開町、寺町通を少し離れているのですが寺町通りは豊臣秀吉の京都改造に際し数多くの寺院を御所前に集め、軍事係争から離隔を取らせる事が目的で造成された経緯があり、何れも安土桃山時代の遷座と共に、その寺域を大きく狭めています。

 真宗佛光寺派本山佛光寺、山門を訪ね御堂を拝みますと、100万都市京都市の中心部オフィス街に隣接しているとは思えぬ伽藍が広がります。ただ、その歴史を紐解けば、開基親鸞の時代には、あの東本願寺や西本願寺を上回る壮大な伽藍をこの地に広げていたともいう。

 浄土真宗宗祖親鸞、佛光寺開基の高僧は鎌倉時代初期、専修念仏の布教が早々間もない鎌倉幕府より影響力を懸念され承元年間1205年に越後国へ配流、世に言う承元の法難が起きました。その赦免は建暦年間1212年、親鸞は山城国山科今の山科区へ一宇起こした、と寺伝には伝わります、もっともここの正統性が後々に興隆へ水を差す事になるのですが。

 親鸞の一宇は、元々この倉通仏光寺から指呼の距離にある五条西洞院にかつて在った親鸞の住房、配流と共に取り潰された軒屋を山科に再興したものですが、親鸞開祖か住房移築聖地か、ということで正統性に議論も生じました。要するに親鸞が開祖ではなく、親鸞の住処を移しただけで親鸞開祖として門徒を集めたのでは、と。しかし、この地から山科は実は遠い。

 山城国へ赦免を経て興した一宇は、一説には越後から親鸞は直接東国へ布教へ臨んでおり、京都に帰還していないとも伝わります。しかしそれでも時の順徳天皇より興隆正法の勅号を賜り、その阿弥陀堂が今日の佛光寺となった訳です。佛光寺派は東国での布教を重視しており、親鸞も山科での建立と間もなく関東布教へと旅立っていまして、門徒には武蔵国の領民も多いという。

 興隆正法寺、山科の一宇はこう勅号を賜りましたが、元応年間1320年、法主第七世了源は山科から今比叡渋谷、現在の平安神宮前へ布教の拠点を移す事としました。ただ、元々この御堂は住房であり寺院ではありません、この際に渋谷の山号は興隆正法寺と別れる事に。興隆正法寺はこの直後に廃寺となるのですが、しかし、後述の歴史と共に再興する。

 後醍醐天皇治世下の元亨年間1321年、天皇の夢枕に御仏の後光が差す吉兆があり、この際に渋谷の、しぶたに、と詠むのですがこの地の寺院は名を阿彌陀佛光寺と賜る事になり、ここに佛光寺として歴史が始まるのでした。この頃まだ西本願寺と東本願寺はありません。

 親鸞廟堂、元亨年間1321年にここが本願寺として寺院化します、すると親鸞住居移転先という正統性だけではこの佛光寺に疑問符が付き始める。浄土宗佛光寺はこうした時代に興隆を極めたのですが、問題は今比叡渋谷という山門の位置です。天台宗比叡山延暦寺のお膝元にある佛光寺は度々放火や暴行と拉致等の嫌がらせを受け、大きくなれない。

 応仁の乱と共に佛光寺は戦災に焼け落ちます。しかし、その頃本願寺は京都を棄て北国での布教を通じ急速に勢力を伸ばし、佛光寺は荒廃した京都に在って一時本願寺への帰依さえ動く事へ。御寺の一派が興隆正法寺を名乗り門徒の多くと共に本願寺へ帰依、分裂へ。

 天正年間1586年、転機となったのは豊臣秀吉の京都改造でした。龍臥城とした洛中の地を仏光寺通と改め、この地へ遷座したのですね。そして今日は元応年間1320年彫像湛幸作木造聖徳太子立像等重要文化財を湛え、往時程の広大さこそありませんがこの地にあります。

 電気街に隣接するお寺は現在寛容です、喫茶店などもありますし音楽イベント等、平成時代や令和時代の風情も受け容れる佛光寺となりました。歴史的経緯としては、豊臣秀吉が本願寺に対する牽制にてこの地に遷座を勧請した事は想像できるのですが、寺町通を少し進んだつもりが歴史を遡ればここも寺町、成程京都改造の奥行き深さと共に散策を愉しみました。

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【G3X撮影速報】美保基地航空祭2019,ブルーホエールC-2輸送機飛行隊完成(2019.06.02)

2019-06-04 20:00:31 | 陸海空自衛隊関連行事詳報
■みよ堂々のC-2輸送機大編隊
 C-2輸送機、その愛称はブルーホエールという。

 鳥取県米子、美保基地航空祭2019へ日曜日に長躯行って参りました。この日は曇天でブルーインパルス飛行展示も無しでした。ですが、その分混雑しませんし、前回撮影へ美保基地へと進出しました際には視界不良で飛行展示が一切行えず、この事思い出せば万々歳です。

 美保基地航空祭2019、米子駅から0705時の臨時快速にて米子空港駅まで境港線を進み、基地へ行こうとしますと最短経路ではなく県道側を誘導されました。そしてこの開門前の行列、成程、滞留しないよう工夫という訳ですね。前回の航空祭は開門後に到着しました。

 C-2輸送機、この日山陰地方は曇天の予報が出されていたのですが、航空祭の開幕です。もっとも、T-400練習機とC-2輸送機にCH-47J輸送ヘリコプターという、非常に難易度の高い編隊飛行を行っていましたが。前回撮影へ展開した際とは、基地の陣容は大きく変った。

 美保基地、C-2輸送機に転換していました。C-1輸送機は無いのですか、と聞いてみますと自衛隊全体では保有していますが、美保基地の航空部隊としては全てC-2輸送機へ転換しました、とのこと。C-1との混成ではなかったのですね、行ってみるまで知りませんでした。

 CH-47J輸送ヘリコプター、中部方面航空隊第三飛行隊の輸送ヘリコプターで新設の美保分屯地に数機が配備されています。機体遣り繰りは大変のようで、第1ヘリコプター団から臨時の管理替えという運用、2015年頃から全国の航空部隊で顕著になった様式ですね。

 第8普通科連隊隊員の空中機動展示、米子駐屯地の普通科連隊です。オープニングフライトはこの他、華麗に実施されましたが、今回紹介するのはSDカードをPCにそのまま差し込めるG3Xの速報、オープニングフライトの活況は7D特報にて後日お伝えしましょう。

 CH-47J輸送ヘリコプターは飛行展示に加えて体験搭乗を実施、美保航空祭2019はT-4練習機エンジン問題からブルーインパルス飛行展示が中止となりましたが、その間を常にヘリコプターが飛行しているという、一種航空祭としての雰囲気は今回陸自が頑張りました。

 T-400練習機編隊飛行、大山フォーメーションという、鳥取県の名峰大山の方角から山型編隊でそのまま美保基地上空を航過する、今回の航空祭から新しい試みが行われました。このT-400は第3輸送航空隊第41教育飛行隊に所属しています、大型機要員の練習機だ。

 T-400練習機は今年度頑張っていました、T-4練習機はエンジン関連のトラブルにより4月より全国で飛行停止と緊急改修が進められており、部分的に飛行再開していますが実任務教育部隊が優先、ブルーインパルス飛行再開はまだ先、その分T-400の派手な飛行展示が。

 飛行展示を終了し着陸したT-400練習機、先ほどとは異なる撮影位置からの写真です。ブルーインパルス飛行が中止となった航空祭、その分来場者の数も少なく、撮影位置は陣地変換も容易、好きなところに撮影へ自由自在と転進し、また最前列に戻る事が出来ました。

 三菱MU-300が原型であるホーカービーチクラフト400、全国の航空祭では地上展示機の定番といえる機体ですが、飛行展示が行われる基地となりますと、この美保基地だけではないでしょうか、第41練習飛行隊へ集中配備されている、つまりここにしかないものだ。

 U-125救難機にKC-767空中給油輸送機とP-1哨戒機、そして航空祭混雑の程度を。C-2輸送機の基地ですが、P-1哨戒機は同時開発で部品を共用した姉妹機、KC-767空中給油輸送機とC-2は同じ輸送機仲間であると共にエンジンが同型といういわば旧友で同僚である。

 高尾山レッドクラブ、松江市に所在する高尾山分屯基地より選抜された有志の展示でして、レッドクラブとは名物松葉ガニを示す。ちなみに松江市はお隣島根県、この美保基地は鳥取県、たまに混乱して来る。なお、高尾山レッドクラブ、高雄さんファンクラブではない。

 P-1哨戒機とC-2輸送機、午前中の飛行展示はオープニングフライトとC-2物糧展示展示、そしてT-400編隊飛行と機動飛行にCH-47J飛行展示とヘリボーン展示、本来はここでブルーインパルス予定でしたが、中止となり長い空き時間を基地内散策で地上展示機撮影へ。

 C-2輸送機展示飛行、続々滑走路へ。基地を散策して本を読んだりお茶を飲んだり、近所の方に基地の歴史を教えてもらったりしていまして、空き時間の二時間四〇分を過ごしていますと、いよいよC-2輸送機展示飛行というこの日のメインイベントの時間となりました。

 C-2輸送機離陸へ。この写真はカメラ二台を連結棒で接合し片手間で撮影したものです。一眼レフEOS-7Dに連結しレリーズで操作するG3X,コンデジが何処まで追随できるか、また24-600mmという高倍率ズーム機が駐屯地祭撮影の様に航空祭へ通用するかが、試される。

 ブルーホエールの愛称眩しいC-2輸送機、岐阜基地にて初号機初飛行を見守った大勢の中に居た当方としては感無量という印象ですが、それ以上にG3Xにレリーズを取り付けて構図も確認せずに撮影した割には、これが案外いい写真に仕上がっているのが嬉しいですね。

 アグスタAW-139救難飛行展示、C-2輸送機が次々と離陸し日本海上空で編隊を組み終えるまでの間は海上保安庁が飛行展示を行います、美保航空基地所属の機体で、救助を展示しました。なおこのAW-139は真正面から見ると意外なほどにUH-1と似ている事に気付く。

 五機編隊で美保基地上空に飛来するC-2輸送機、敢えて手前に姉妹機P-1哨戒機と級友同僚のKC-767空中給油輸送機を構図に入れられるよう撮影位置を考えてみました。C-2輸送機は過去の美保航空祭でも編隊を組んでいるとの事ですが、五機編隊は本邦初だ、という。

 C-2輸送機、最大搭載能力37t、航続距離は26t搭載時に6500kmといい、フェリー航続距離は10000kmに達する為、日本本土からイギリス本土まででも充分飛行できます。ただ、羽田からニューヨークまでは10800kmあり、この場合は例えば空中給油を行う必要がある。

 C-1輸送機の搭載能力が8tであったという為、標準搭載量と云われる26tは三倍以上となる、89式装甲戦闘車や16式機動戦闘車等も空輸できるようになりましたが、その分だけC-1とは1:1で置き換える必要はないとされ、またしても生産数は予定より縮小するという。

 C-17輸送機を取得した方が良かったのでは、という声も聞こえますが、あの機体は豪州空軍取得費用を見ますと650億円、C-2とP-1で同時開発にて取得費用を抑えた事でP-3C哨戒機の後継機も新型を取得出来た事を考えるならば、C-2開発は妥当だったと考えます。

 37tを搭載出来るC-2輸送機、しかし、この装備を最大限活かす陸海空統合装備開発の視点、というものが必要なのかな、と。例えば37tに抑えた120mm主砲装備の装軌式機動戦闘車、C-2の格納庫に3輌収容できる小銃班用装甲車両、高機動車積層搭載パレット、など。

 美保航空祭2019、令和年間最初の航空祭はC-2輸送機の編隊飛行とともにいよいよ後半に入りました。ブルーホエールというC-2輸送機の新しい愛称とともに川崎重工と防衛庁防衛省平成時代一杯を開発に費やしたC-2輸送機、新時代の飛行展示が始まった訳ですね。

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【G3X撮影速報】舞鶴グリーンフェスタ2019,来場者1万6000名の大盛況(2019-05-18)

2019-06-03 20:15:20 | 陸海空自衛隊関連行事詳報
■G3X!2400mmズームの挑戦
 G3Xで撮影しました写真を最後に紹介しましょう、光学600mmデジタルズーム2400mmの1型センサーカメラです。

 ふゆづき、あたご。舞鶴グリーンフェスタでは飛行展示が予定されているのですが、桟橋から撮影するよりも感情から撮影した方が良さそう、という事で新鋭あきづき型護衛艦から撮影する事としました。手にするPowershotG3Xは高倍率ズーム機、これで挑もう。

 SH-60K哨戒ヘリコプターが舞鶴航空基地より飛来しました、航空基地は2km程先にあります。舞鶴航空基地は、1998年はるな舞鶴移籍筆頭に、ヘリコプター運用艦の増大と共に舞鶴付近に航空基地が無い状況が1990年代より指摘され、2003年に開庁となりました。

 SB-25複合高速艇が港内体験試乗を行う。舞鶴警備隊の新装備で、七年ほど前に導入されています。奥に見えるのは掃海艇のとじま、すがしま型掃海艇で舞鶴地方隊に所属していますが、この日は定期整備で造船所に入っていました。造船所が対岸に在るのは便利です。

 SH-60K哨戒ヘリコプター、かなり遠い場所で飛行展示を行っていたのですが、このPowershotG3Xは1型センサーを備えた高倍率ズーム機、デジタルズームを併用するならば35mm換算で2400mmというもの凄い望遠が可能でして、こうした撮影が可能になる。

 SH-60K哨戒ヘリコプターが救難飛行展示を完了させ撤収します。舞鶴航空基地の一般公開へは舞鶴基地からシャトルバスが運行されていまして、様々な地上展示機が並ぶとの事でしたが、なにしろ北吸桟橋だけで撮影する場所が非常に多く、時間が足りませんでしたね。

 舞鶴航空基地には第23航空隊が展開、舞鶴基地にはヘリコプター搭載護衛艦ひゅうが筆頭に航空機運用艦が多く、併せて日本海沿岸には対岸が北朝鮮、北朝鮮武装工作事案を筆頭に哨戒ヘリコプターによる小型船対処能力や対潜哨戒能力は重要な意味を有しています。

 YT-01曳船の体験試乗、奥にミサイル護衛艦みょうこう、が並ぶ。舞鶴では土曜日日曜日祝日限定で民間の舞鶴軍港遊覧船も運航されていまして、横須賀よりは基地の規模が限られているものの、古くからの軍都としての歴史を活かした街の活性化試みが続いています。

 多用途支援艦ひうち。こちらも港内体験航海を行い戻ってきました。一昔は、ひうち型に76mm艦砲を搭載したらば護衛艦不足を補う安価な哨戒艦として転用し得ると掲載したものですが、新中期防衛力整備計画ではもう少しまともな哨戒艦が新造される、ということ。

 舞鶴基地グリーンフェスタ、そろそろ終幕の時間となってまいりました。最後の最後まで居ますと混雑に巻き込まれてしまいますので、舞鶴モヒートでも愉しむべく赤レンガ広場の方へ転進する事とします。舞鶴モヒート、東京の友人が何故か凄いとお勧めされたため。

 MCH-101掃海輸送ヘリコプターの離陸、赤レンガ倉庫群と赤レンガ広場から遠方に離陸する様子が見えました、地上展示機として参加していました機体が岩国航空基地へ帰投する様子です。かなり距離があるのですが、改めてCANONPowershotG3Xズーム機能は凄い。

 SB-25複合高速艇の体験試乗もまだまだ続いています。モヒート片手に撮影だ、この日はノンアルコールモヒートばかり売れていると店主さんが言っていましたが、それは多分なのですが、駐車場で屋台を出していたからでしょう。飲酒運転はダメ、ゼッタイ、と思う。

 ひゅうが定期整備とSB-25複合高速艇、19000tのヘリコプター搭載護衛艦がグリーンフェスタへ参加出来なかったのは残念ですが、対岸から巨大な艦容を海上へ轟かせていました。艦これ日向パネルは補給艦ましゅう艦上にありまして、来年は是非ひゅうが、と期待です。

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【日曜特集】第14旅団創設6周年-善通寺駐屯地祭【5】戦闘支援部隊行進(2012-04-29)

2019-06-02 20:05:19 | 陸上自衛隊 駐屯地祭
■旅団と混成団隷下部隊
 旅団観閲行進は第14旅団隷下の戦闘支援部隊、そして方面隊直轄の混成団普通科部隊観閲行進へと展開してゆきました。

 第14旅団の前身である第2混成団、創設当時の編制をみますと、第2混成団本部、団本部中隊、第15普通科連隊、第2混成団戦車隊、第2混成団特科大隊、第2混成団施設隊、第2混成団後方支援中隊、第2混成団音楽隊、という陣容で定員は1900名規模でした。

 第2混成団戦車隊について、しかし改編後に消滅する事となります、1992年に第2混成団戦車隊が北海道移駐により廃止されました。戦車北転事業、という冷戦時代末期に進められた北海道の戦車増強計画、考えますとこれは日本の本土防衛における最大の愚行の一つ。

 戦車北転事業は北海道防衛強化の為に本州の全ての戦車大隊から一個戦車中隊を抽出して北海道へ配置転換させる、というもの。第2混成団戦車隊は基本的に一個中隊基幹、という者ですので一個小隊さえ残らず、北海道への転地で事実上全廃となってしまいました。

 北海道の第2戦車連隊等を見ますと、つまり本州から受け入れた側ですが、前身の第2戦車大隊では最盛期の編制は第1戦車中隊、第2戦車中隊、第3戦車中隊、第4戦車中隊、第316戦車中隊、という一つだけ300番台の中隊がありましたが、これが本州の中隊です。

 第1戦車群、2014年に廃止された北部方面隊直轄戦車部隊ですが、本部管理中隊、第301戦車中隊、第302戦車中隊、第303戦車中隊、第304戦車中隊、第305戦車中隊、という。こちらは北転戦車中隊ではありませんが全部300番台の戦車中隊が集まっているのですね。

 北海道の直轄戦車部隊、これはどういう位置づけかといいますと、有事の際に北海道に配置されている四個師団だけではソ連軍の最大規模の進行を阻止する事は出来ないと考えられており、南九州や西日本と中部地方に東北地方の師団を緊急展開する構想がありました。

 戦車は、本州の師団装備の中でももとも重量があるものでして、旧式の61式戦車だけは車幅が3m未満に冴えられた関係で国鉄狭軌貨物輸送車両限界内に収められていた事から鉄道輸送にて一挙多数を緊急展開させることが可能ですが、大柄な74式戦車では無理でした。

 北転事業とは、この輸送の難しさを念頭に建前の一つに最初から北海道に戦車中隊を配置しておきまして、充分な訓練環境とともに訓練を積ませる事で、有事の際には携行できる装備だけで北海道に展開させた本土師団を戦車で武装させ戦闘団を編成させるという狙い。

 移動重視の構図は一軒説得力を持たせたように見えますが、陸上自衛隊全体の戦車縮小が決定すると最初に廃止されたのは北海道に馴染みのない後から展開した300番台の戦車部隊でした。恰も不況の時代に派遣社員が調整されるが如く、派遣先の北海道でそのまま。

 2006年に陸上自衛隊は第2混成団を第14旅団へと拡大改編を行います。旅団改編の概要は団本部中隊を解体し改編する形で分割し旅団司令部と同付隊に本部の津新機能を拡充し第14通信中隊とし、情報小隊を強化し第14偵察隊へ再編、87式偵察警戒車も配備される。

 第15普通科連隊は師団普通科連隊としての重厚な編成でしたが、旅団普通科連隊へと改編すると共に第15普通科連隊と第50普通科連隊に分割し第50普通科連隊は移設された高知駐屯地へ移駐しました。高知県では悲願の普通科連隊とあって、歓呼の声で迎えられます。

 第2混成団後方支援中隊は大幅に増強改編され第14後方支援隊となる。第2混成団音楽隊は人員規模そのままに第14音楽隊へ。第2混成団特科大隊は増強改編の形で第14特科隊と第14高射特科中隊へ改編され、第2混成団施設隊は微減し第14施設中隊となります。

 第14旅団は、第15普通科連隊、第50普通科連隊、第14特科隊、第14戦車中隊、第14偵察隊、第14高射特科中隊、第14施設中隊、第14通信中隊、第14化学防護隊、第14後方支援隊、第14飛行隊、第14音楽隊、新たに74式戦車が戦車中隊とし戻ってきた。

 第50普通科連隊は高知駐屯地に駐屯しますが、実は混成団時代に在った高知県沿岸部の高知駐屯地は陸上自衛隊有数の手狭な駐屯地となっていまして、高台に新しい駐屯地を建設する事となりました。しかし、2006年の旅団改編時にはまだ庁舎が完成していなかった。

 連隊新編は第15普通科連隊を分割する事で実施されましたが、なにしろ装備品を増強した為、善通寺時代と比較して二つの連隊の合計はかなり大型になっていまして、高知駐屯地新駐屯地が完成するまでの期間は善通寺にプレハブ隊舎を並べて凌いでいたともいいます。

 高知県は悲願の普通科連隊駐屯地誘致成功でした。そして驚く事に駐屯地が完成する前に県内の運動公園に高知県が第50普通科連隊を招いて、高知駐屯地祭を行った程でもありました。市民公園中央に並ぶ高機動車と軽装甲機動車、行事写真が資料館に残っていますね。

 北徳島分屯地は2010年完成、多用途ヘリコプター2機と観測ヘリコプター2機が置かれるだけの第14飛行隊の分屯地ですが、新たに海上自衛隊徳島航空基地に隣接し建設されています。八尾駐屯地にて第14飛行隊準備隊を新編しまして、そのまま四国移駐させる方式で。

 東日本大震災はこの改編を完了させた翌年の2011年に発生しました。第14旅団も最大規模の災害派遣を実施し、旅団規模は2500名規模なのですが実に1500名を派遣しています。これは四国を防衛警備隊区とする、つまり留守部隊を残さなければならない状況で、です。

 東日本大震災災害派遣の際に痛感したのは、普通科連隊の現役要員は旅団普通科連隊定数の650名規模でよいから、220名規模の即応予備自衛官中隊、師団普通科連隊隷下の普通科中隊規模の予備役部隊を編成に加え、留守部隊を予備役に任せられる体制が必要だ、と。

 即応予備自衛官は方面混成団の隷下に統合されていますが、教育訓練の合理化を考えれば納得は行く編成ではあるものの、警備隊区を任されている普通科連隊にこそ、留守部隊を常設し後顧の憂いを省き機動運用させる枠組み作りが必要ではないか、と思いましたね。

 徳島駐屯地が南部の阿南市に完成したのは2012年、もともとは高知県沿岸部に所在した高知駐屯地の第14施設中隊を第14施設隊へ拡大改編した上で移駐させています。ちなみに、北徳島分屯地と徳島駐屯地は名前が似ていますが60kmほど離れているので要注意です。

 2012年の旅団改編では第14通信中隊が第14通信隊へ拡大改編されていまして、旅団機能は年々増強されていました。続いて2016年の旅団改編では第14化学防護隊が第14特殊武器防護隊へ改編され、核兵器や放射性兵器と生物兵器への四国初の対処部隊が完成します。

 即応機動旅団への改編は、この行事の翌年に明示されました。その改編計画が明示された当時は第15普通科連隊が即応機動連隊へ改編されるという情報と共に戦車中隊と特科隊の機能が機動戦闘車隊と火力支援中隊へ集約されると聞き、第50連隊の去就を考えてしまう。

 2012年当時の第14旅団編制は、即応機動連隊のような装甲部隊の編制はありませんが戦車中隊も置かれ、思えば中央即応集団に水陸機動団等に人員を抽出され5000名台となった肩肘張った師団より、旅団と方面混成団を併せて師団とした方が自然と思ったりもします。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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