
昨日から、じっくりと1961年の出来事を温めている。硬い卵の殻の下で、なにか温かいものが動きつつあるように思う。
1961年、私が10歳の年。ケネディーが大統領に就任した年である。池田勇人が総理大臣で、ガガーリンが地球周回の偉業を遂げた。
テレビではシャボン玉ホリデーが流れ、七人の刑事が放映され、上を向いて歩こうがヒットし、柏鵬時代が幕をあげた。
父は、建設会社に勤め、余裕ができつつあった当時の状況を反映し、ホテル建設ラッシュの伊豆半島に仕事で出かけていた。
夏休み、家族で旅行をすることになっていたが、その年は父が特別に選んだ東伊豆の今井浜に泊まった。
今井浜の旅館に到着したのは夕方のようである。一息つきながら、父と周り将棋を始めた。当時の旅館の娯楽といえば、将棋、ピンポンぐらいであったようだ。その周り将棋で、父と喧嘩をしてしまった。
父と私の間で微妙にルールの解釈の違いがあったからだ。父も久しぶりの団欒のときに、ぶつくさ言われ、腹がたったのだと思う。母から仲裁されて謝ったが、くやしかった。
次の日、砂浜の海岸で海水浴をした。小学校の4年ではあったが、当時は殆ど泳げず、浮き輪に乗って遊んだ。その年は、第二室戸台風が到来して200名以上の人が亡くなったりしたが、その時も、遊泳禁止ではなかったが、波は高かった。
砂浜から少し海に入ったところに木製の飛び込み台があり、子供や大人が、台に上がって海に飛び込んでいた。私も台に上ったり、浮き輪で周りを浮かんで遊んでいた。
浮き輪で泳いでいたとき、急に大波が寄せてきて、浮き輪が飛び海中に投げ出された。そして、海中の飛び込み台の材木の間に挟まれてしまった。目を開けると、黄色っぽい水が漂っていた。身体を動かしても進まない。ただ、海中に投げ出される前に、息を吸い込んで吐き出さなかったのが幸いであった。
長い時間のようであったが、突然海中の材木から引っ張り出され、あっという間に海面に出た。
父が浮き輪が飛んだのに気づき、海に潜って救出してくれたのであった。
翌日、今井浜を発つころは、嵐(台風接近)が来て、その飛び込み台は海岸に打ち上げられ、無残にひっくり返っていた記憶がある。今井浜から帰りには石廊崎灯台に寄ったが、怒涛が打ち寄せる海は恐ろしかった。
命がけで父が助けてくれたのにも関わらず、記憶は硬い殻の中に閉じ込められて、感情の無いいくつかの断片として保存された。
今、状況をつぶさに考察してみると、突然の大波は予想を超えていたと思うし、父が気がつかなければ確実に溺れ死んでいたと思う。また、父のとっさの判断は凄かったと思う。
父が今から17年前になくなった時、父の同僚だった方が、今井浜のことは父がよく話をしていたと教えていただいた。父にとっても特別な出来事であったのだ。
命拾いというのは、不思議な体験である。もしあの時、と考えてみると、こうして八王子に家族と住み、同志、友人と付き合いながら生活していることが、特別なことのように思えるようになる。
私の命拾いもあったが、父の命拾いの話もいろいろ聞いた。恐らく、母も、祖父母たちにもあるだろう。そして祖先たちも。
親子で伝わる命拾いの連鎖、今生きていることが特別なのだと思えて温かくなる。
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