イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

レンズモデル

2006-02-13 | 2006年度(1/13まで)
 1975年に管理工学科の福川忠昭先生の指導を受け卒業論文を書いた。書き上げるまでの約半年、ミニコンに接続する実験道具の作成、論文テーマの理論である実験心理学のEgon Brunswikのレンズモデルの研究と本当に寝る間を惜しんで勉強した。

 実験道具は同級のMさんと「Window001」と命名した。これは、激しい研究生活?の中で、研究室の窓(Window)から飛び降りたくなったよ。という冗談から命名した記憶がある。その後米国某社が同名をつかって有名なOSを作成したが、これとは一切関係はない。

 レンズモデルは、私が大学時代大変興味をもった数理統計で、重回帰モデルを二つ組み合わせたようなモデルである。人間が、いくつかの現象から判断して、真の状態を推測するプロセスの研究であった。卒業してから、約30年、当時勉強したことと全く違う世界に行ったので、まったく忘れていた。先日たまたまホームページの検索エンジンで調べてみた。すると、結構論文などが検索でき、今でも役に立っているモデルのようである。

 

八王子城址に登る

2006-02-06 | 2006年度(1/13まで)
 日曜日、読書しようか、それとも、山登りでもしようかと考えたた。結局、山に登ることにした。近くの八王子城址に向かい、車で40分程度運転し側に着く。そこから冬の山を登った。山道には霜柱がところどころにあり、立春を過ぎたとはいえ、この冬もっとも寒い日であった。

 一時間ほどの登りで、山頂に到着し本丸跡まで登る。晴天のため、関東平野が一望に望むことができ、北条氏の殿様の気分に浸る。杉の大木が聳え、鄙びた神社に参拝する。自然の美を五感と共に感じ、心洗われ、帰途につく。

 帰りには、夕日の中に富士山を発見する。正月に見た御殿場の富士を思い出した。 

人の不幸に共感すること

2006-02-04 | 2006年度(1/13まで)
 某ホテルの身障者対策が問題とされ、日夜報道され続けている。この一連の報道の中で、考え続けてきたことがある。人の不幸をどこまで人は共感できるかということである。

 5-6年前にホームページで見つけ興味フランスの哲学者 シモンヌ・ヴェイユの不幸に関する考察も勉強になる。
 
 不幸ということを思う。今までの人生でのいくつかの場面を思い浮かべる。不幸は、日常性の薄皮を破り、たましいに釘をつきたてられるような感覚に近い。自分の力が無にさらされ佇む。

 不幸な状態にいるとき、人は共感されることを願うのだと思う。しかし、殆どの人は某ホテルの対応のように、不幸な状態に無関心であり、何の注意も払わない。いくらかの人は、憐れみを感じるが、不幸な状態にいる人の感情の深さまで到達できない。不幸を経験したことのある人が、あるいは深い内省によって、不幸を発見した人のみが共感してくれる可能性がある。

雨粒と同心円

2006-02-02 | 2006年度(1/13まで)
 車で通勤することが多いが、今日は電車で通勤した。勤め先に向かう道の水溜りには雨粒が落ち、いくつかの同心円が成長しては消えていた。

 地球ができてから数十億年の年月の中、私の祖先がきっと見てきた雨粒の同心円。縄文人も、弥生人も、イエスも、マリアも、お釈迦様も、祖父も、父も、母も、そして幼いころの私も見てきた。私の見ている同心円も、恐らく異なる時と人によって、それぞれの思いの中で見られていたと思うと感動する。

 寒い日の雨も、新鮮だ。