flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

首里城

2008-04-20 00:00:37 | 城郭・城下町

(すいぐすく 沖縄県那覇市首里金城町 世界文化遺産 国指定史跡 旧国宝 日本100名城100番 日本の歴史公園100選247番)

-知念から首里へ-
 安座真からバスに乗る。当初は一度、那覇バスターミナルに向かい、ゆいレールに乗り換えて首里城へ向かおうとしていたが、バス内で「首里方面は乗り換えです」の放送が聞こえたため、途中の与那原で降りることにした。時刻表を見ると、目的の「城間行き」は今出たところの時間であったが、渋滞の時間帯から定刻に来ることはないと思い、待ってみることにした。
 バス停は坂の途中にあり、すぐそばに信号がある。故に発進時の排気ガスは凄く、待ち時間が長く感じた。土地柄からか、あまり自動車の外観はこだわってない様子であり、沖縄の最も身近な移動手段であることもあって、慣れによる、いわゆる紙一重の運転がみられた。
 暫くすると、目的のバスが来た。時間は前の時間と次の時間の間くらいであったと思う。乗り込むと、渋滞のせいもあるが、思いのほか長い距離に感じられた。また、「首里」というバス停はこの線では存在せず、「鳥堀」で下車し、城跡へ向かった。
 私は人曰わく「小雨男」であるため、案の定、首里城公園に差し掛かる頃には、曇天から小雨が降り出してしまった。急いで城内に向かった。

-首里城到着- 
 薄暗くなった辺りも作用して、遠目にはコンクリートの壁に見える、面の揃えられた石垣は、本土の城郭の石垣とは違い、足がかからない程の滑らかさと、大陸文化の伝達を感じるライン、そして雨の多い地域だけに、内側も隙間なく組まれている。
  

 「喜び誇る」を意味する、「ほこりうじょう=うじょう:御門」と呼ばれた「久慶門」が視界に入る。かつては通用門として使われていた門である。
(久慶門)

 そして、「あまへうじょう」と呼ばれた、歓迎を意味する「歓会門」から城内外郭に入る。
(歓会門)
 

 歓会門をくぐると、「ひかわうじょう」と呼ばれた「瑞泉門」があり、内郭に入る。そして、門手前右側には湧水「龍樋」がある。
(瑞泉門)(龍樋)

 瑞泉門から、往時は水時計があった現在修理中の漏刻門、広福門をくぐると、下之御庭(しちゃぬうなー)の広場となる。そして、身分に応じた三つの入り口のある奉神門(君誇御門)をくぐると、琉球国王が政治と儀式を執り行った正殿のある御庭(うなー)に差し掛かる。
 (奉神門)
(正殿)
 首里城は、14世紀のいわゆる三山時代(北山、中山、南山)といわれた、中山王国(ちゅうざん=後の琉球王国)の王城として築いたとされる。そして、尚 巴志王(しょう はしおう=第一尚氏)が三山を統一し、永楽(明朝)四年(1406)に琉球王国を築いた際、首里を首都としている。その後、成化(明朝)六年(1469)からは、第一尚氏に代わって、尚 円王(しょう えんおう)を始祖とする第二尚氏が琉球国王となった。
 中国文化の影響を多分に含んでおり、日本本土より早く城に瓦を用い、礎石の上に朱塗りの建物を建てている。また、戦乱等により三度焼失しており、その都度再建されている。
 沖縄県となった後は、軍施設となり荒廃したが、正殿等の保存運動が起こり、国宝化された。然し、軍施設があったため、沖縄戦の際にアメリカ軍の襲撃を受け焼失した。そして戦後になり、再建運動の機運が高まり、昭和33年(1958)に守礼門、その後自治体の参画も進み、発掘調査と並行しながら平成元年に正殿等の再建が開始され、平成4年に首里城公園として開園した。また、その後も順時、各建物の再建が進行し、現在も東側(正殿背後)の再建が進められている。
(右掖門から那覇市街を望む)
(西(いり)のアザナから望む)
(北殿)
(守礼門)


(関連記事:園比屋武御嶽石門 首里城平成二十五年 中城城 今帰仁城 勝連城 座喜味城

コメント (4)
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