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「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

中城城

2008-04-26 06:00:19 | 城郭・城下町

(なかぐすく 沖縄県中頭郡中城村泊/北中城村大城 世界文化遺産 国指定史跡 日本100名城99番)
 私に似合う、小雨の日となった。
泡瀬東線バスに乗り、東海岸を北上する。このとき気づいたのが、第一※※、第二※※のバス停名が結構あることを。本土では、近隣するバス停名は、東※※、南※※等方角で示すが、沖縄は面積が狭いことや、地名が人名に関連することもあってか、数字で示されているようだ。
 中城湾に面する「久場崎」に到着。公民館から上がって行くのが近いという情報を得ていたが、公民館が見当たらなかった。そこで住人の方にお尋ねすると、途中まで案内していただいた。
 途中の斜面には、沖縄の墓地形式である「亀甲墓や破風墓」がいたるところでみられる。そして小雨模様の続く中、付近最高所標高160mにある、中城の丘へ辿り付いた。ここでも当初のイメージとは違い、雨の中訪れる人が少なからずいた。やはり世界遺産の影響力は凄いようだ。観光地となり人も多くなったが、この日は足元のぬかるみも多かった。
    
 ここでは昨晩の首里城とは違い、雨の似合う城跡の哀愁がそこにはあった。然しながら、往時の繁栄と高い文化の名残も感じとることができたように思う。

 中城城は、14世紀に先中城(さちなかぐすく)の按司(あじ:称号)が築いたとされ、続いて座喜味城(読谷村)から護佐丸盛春が移り、三の郭と北の郭を増築した。然し、天順(明朝)二年(1458)に勝連城(うるま市)主、阿麻和利の按司が首里城尚氏の命を受け、尚氏を攻略しようとしていた護佐丸中城城を攻め、護佐丸はこの地で自害したという。
(三の郭石垣)
 (裏門)
 入口にて傘を借り入城、そこは旧裏門であり、六つの連郭式山城の東側である。
門をくぐると、「北の郭」、左側上段が「三の郭」である。三の郭は、一番最後に構築された部分であり、新城(みーぐすく)と呼ばれる。
(三の郭石段と二の郭石垣)
(三の郭と二の郭石垣)
 北の郭は、正統(明朝)五年(1440)、護佐丸盛春(唐名:毛国鼎)のときに、井戸(うふがー)の周囲に石垣を組み、増築した部分である。
(北の郭物見台)
 
(北の郭石垣)
(北の郭井戸)
 北の郭を抜けると、「西の郭」となる。往時は兵馬の訓練をしたといい、長さ約120mの細長い郭である。西の郭を上ると、「二の郭」がある。蛇行した地形に沿って築かれた石垣が特徴的である。
(二の郭から中城湾を望む)  (二の郭石垣)  (先中城按司居館の台城を望む) (二の郭、一の郭間石門)
(石門から中城高原ホテルが見える)
 二の郭から石門をくぐると、「一の郭」である。往時は正殿があり、護佐丸が宴を催したという「観月台」がある。江戸時代は間切(まぎり:村)番所となり、廃藩後は中城村役場として使われたが、沖縄戦によって焼失している。
(一の郭側から見る石門)
(南郭から一の郭を見る)
 一の郭を更に西に進むと、「南の郭」となる。そこには御嶽拝所(うたきうがんじゅ)がある。
(南の郭と一の郭石垣)
(南の郭拝所)
 南の郭を下りると、正門となる。
(正門)
(正門布積み石垣)(狭間)
 正門及び南の郭西側には、岩肌の裾に鍛冶屋(かんじゃーがま)があり、鉄器が造られた。
(「かんじゃーがま」が存在した崖)
 この場所から更に西側には、未完成に終わった「中城高原ホテル」の残骸がある。

(関連記事:琉球の古民家中村家住宅

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