父の特性とその身辺の人たちも含め…
10月生まれ…一本筋が通り過ぎているため、いわゆる「成功者」とはなかなかいかないようである。
(中略)
1月生まれ…私の古くからの知り合い、職場関係に非常に多い。
その主な人間性は、一匹狼なのに八方美人、頑固なのに優柔不断、組織にそぐわない変人の要素が目立つ(男女問わず)等…。
よって自営や芸術系の職が適職と思われる。
何故、このような推測をするのか…
それは私が山羊座1月生まれだからに他ならない。
1971年3月10日に名鉄グループが出資設立し、1973年4月1日に竣工したSRC造、地上12階、地下2階、床面積30,600㎡のテナントビルである。
5~7階のオフィスフロア以外は、同グループのホテル、ショッピングストア(サンリバー、後にメルサ、メルセーズ)が入居していた。然しながら成績が芳しくなく、特にホテルに至っては開業以来黒字収支になることはなかった。
ショッピングストアも、市街地空洞化により次第に客足が離れ、リニューアルするも部分閉鎖が始まり、2004年3月に完全閉店された。
ホテル、ビル残務清算は同年12月で終え、2005年解体となった。
周囲のビルよりも建築年齢が若いこのビルが、先に逝ってしまった訳である。
中央に見える岡崎城の瓦屋根が、諸行無常を感じさせる。
(HP版:http://www.d1.dion.ne.jp/~tenyou/structure/nishimikawa-integrated-building.htm)
(関連記事:たつきビル)
このお地蔵さんは、丸彫りといわれる造りで大きいものが多く、表現される表情も豊かで親しみを感じる。
(名古屋市昭和区)
名古屋市東部、丘陵地にある比較的古くから開けたこの地。そして、父が生前よく口にしていたこの地。
「親父のところに研修に来ていたインターン医師が、終了後にこの場所にある聖隷病院というところへ行ったんだ」
半世紀以上も昔のことであり、もう誰もそのことを知るものはいない。
「市電が走っていて、滝川小学校があった」
その通りに歩いてみる。市電は地下鉄へと変わったが、病院と小学校はそのまま存在する。
今は、山手四谷通りというキャンパスに沿う、若者が闊歩する街。
一番高いところには、UHFタワーが建っている。
横で、父が来てみてよかった…と発したような気がした…。
(関連記事:鶴舞公園の桜)
部分入れ歯になるかと思いきや、ブリッジ式となった。
よって歯間ブラシが必要となってくる。
歯が良くなるにつれ、噛むことが容易となり、食が進む。
結果太り始めるのである。
蛙の彫刻の置物が我が家にやってきた。
背中のイボイボを、口にくわえた棒で擦ると、口からゲーロゲーロと鳴くように聞える…!?
プロペラが回る文具を思い出す。
久しい音を聴き、最近夜中にイビキをたてるらしい私であった。
ここも昨年訪れたが、今回は現役の窯業の姿を見ることとした。
外国産に押され生産力が縮小しながらも、各自ブランドを強調し、芸術性を持って営んでいることが感じとれた。
(静岡県周智郡春野町 2005年6月1日)
天竜という街からバスに乗り、天竜川の支流、気田川を遡る。車内は思いの外混んでいて、古希を下回る者はいないであろうと思われる程、高齢者が多い。次第に標高を上げるなか、まるで天国への旅立ちかと思わせる程の光景である。先ず、秋葉神社からと考えていたが、役場へと予定を変えた。終点でバスを降り、役場の窓口へと赴いた。ここでようやく同年代かと思われる人と出会った。町内の歴史的な質問をされたことがあまりないのであろうという感もあったが、親切に対応していただいた。
川を渡り、図書館、歴民館へ。ここで町の歴史、町勢、今後を修得した。先土器時代からの人々の営み、狩猟による生業、中世は細川家臣天野氏による統治。近世以降は林業による発展、そして現代は過疎化、来月には近隣市町村合併によって政令都市へ歩んで行く…。単独の町としては先僅かな訪町となった訳である。図書館でこの町の郷土史がどのくらい世に送り出されているか確認したところ、今は町外へと転出して行った出身者が、生まれ故郷の歴史を後世へ送ろうと著述した冊子が多数見受けられた。自らの将来の為に旅立った人も、故郷の事を思い出し残したものである。書物に目を通すなか、昔話、伝承が豊富であることがわかった。それを求める為再び役場へ。そこで様々な会話をする中、この地の名が「宮川」であることが分かった。「日本一きれいな川を目指しているんですよ」という会話の中に、ある種のご縁と親近感を感じた。
役場を後にし、今度こそ秋葉さんと思ったが、もう少し付近を散策したいと思い、川を上る。川沿いの山村開発センター敷地内にはこの地方の伝説のメインである大天狗の面、高下駄などが有るほか、宝塚歌劇団の育ての親、白井鐵造の記念館が建っていた。「すみれの花 咲く頃…」のフレーズの地なのである。
夕刻を迎え、川を下り秋葉橋を渡る。秋葉山麓の下社は思ったより質素でこじんまりしていた。古来より秋葉街道を経て人々が多く参詣に訪れていたこの地。黄昏時は過ぎ、辺りは薄暗く静寂となっていたが、それがまた山岳神秘を現していた。
残る帰路の時間まで気田の河原で過ごし、濃緑の春野を後にした。
(関連記事:水窪 二俣)
そんな中、出先のあるお寺に行くと、猫がまとわり付いてきた。
足の間をぐるぐると周り、歩こうとすると蹴飛ばしてしまいそうになるほど、ひっつく。
食べ物を与えてみたが、見向きもせず結局、境内の中では足にしがみ付き、二倍に重い足取りとなってしまった。
そんな猫も、山門のところまでくると離れ、ニャーと一鳴きして見送ってくれた。
一般的には縁起の良い夢といわれ、喜ばしいこととされる。
然し、火事が自分に関わるところで起きた夢は、病気の前兆といわれ、蛇も自分から去っていく夢は、凶とされている。
また、蛇の夢は、統合失調症(精神分裂病)の発症段階にも関係があるとして、実は危険な夢でもある。
私の見た夢は、後者である可能性が高い。
ある建設会社の廃材置場から海に向けて延びている。
分別した土砂を海に廃棄するのに使用されたと思われるが、環境問題があるのであろう、今は使われていない。
青い海に錆色の物体、双方が存在を強調しているかのように思えた。
(愛知県西尾市 2005年6月10日)
昭和57年以来、何度か訪れている幡豆地域中心の地。
交通の不便さもあるのか、近年の人口増加率は鈍くなっている。然しながら、抹茶生産日本一、バラ生産県下一を誇る。
平成8年に西尾城丑寅櫓を再建し、城下町の落ち着きもあるのだが、観光にもう一つのところがあるというか、案内看板のようなものが殆んど無い。久し振りに足を運び、若干迷った。
西尾城は承久三年(1221)足利義氏が西条城として築いたのが始まりである。
その後義氏の長男長氏に西条城を、三男義継に吉良東条城を構えさせ、義氏は次男泰氏とともに下野足利に帰った。
以後、この地の足利氏は吉良氏と改姓し、十四代にわたってこの地を支配した。
永禄四年(1561)酒井正親が入城し、西尾と改める。
そして天正十八年(1590)酒井重忠のとき、武蔵川越に移り、岡崎城の田中吉政が入城する。
その後、慶長六年(1601)には本多康俊が入城、元和三年(1617)に近江膳所へ移封し、続いて下野板橋から松平成重が入城、元和七年(1621)伊勢亀山へ移封した。
膳所より本多氏戻り、寛永十三年(1636)に伊勢亀山移封する。そして下総山川より太田資宗入城、正保元年(1644)遠江浜松へ移封した。
翌年上野安中より井伊直好が入城し、万治二年(1659)遠江掛川へ移封した。
そして増山氏二代・土井氏四代・三浦氏二代と続き、明和元年(1764)からは山形より大給松平氏五代続き廃藩となった。
(以上3枚は昭和57年5月撮影)
市内栄町に、井桁屋という戦前の百貨店の建物が残っている。取り壊しか保存かで地元民によって討議されたが、市は道路拡幅と財政難を理由に、持ち主が寄贈するというこの建物の受取りを辞退した。市刊行物も、他市より割高であり、この街の財政力を現しているようである。
(地域関連記事:西尾城東之丸 西尾城址まつり 幡豆郡今川館 刈宿大仏 刈宿古屋敷 巨海 寺津城 幡豆郡寺津 西尾平成十九年 常楽院閻魔堂 赤地蔵 寺津駅跡 巨海城 北浜川西下矢田のコスモス 徳永城 五釜古墳 浅井)