flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

うでこき山と ほの川

2005-10-15 17:31:03 | 民俗・伝承
“昔ばなし 腕扱山”
昔、昔、本当に大昔、神様たちが日本の国の山や川や湖や島などを一生懸命造っていたころのことです。
神様たちが相談されて、「日本の真中にすばらしく立派な山を造ろう」 ということになりました。
「よし、ひきうけた。わしにまかしておけ!」 といったのは、体の大きな力の強そうな神様でした。
それからその神様は、近江の国から土を運んで、相模と駿河と甲斐の三国の望まれるあたりに、立派な山を造りました。その山が名高い富士山です。
近江の国の土を取ったところは、深く掘れて水がたまって琵琶湖になりました。
その時神様は、腕についた泥をすっこいて、かためてポイと捨てました。そのかたまりが落ちてできたのが 「うでこき山」なのです。
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国獲り物語

2005-10-14 22:34:02 | 天祐語録
 今年は、大型の戦略的株取引が目立っている。
とはいえ、何ら違法という訳ではなく、上場会社の当然の事柄である。

私は株には興味がないが、企業及びグループの勢力、財務体質、社会活動に非常に興味がある。
経営に関係する訳ではなくとも、勢力に関する我が家の家系と歴史好きなところから、各種団体の動向が面白く、また目が離せない。
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豊川駅舎

2005-10-14 12:17:32 | STRUCTURE-構造物残影-
(東海旅客鉄道飯田線 愛知県豊川市豊川町仁保通)
 明治30年(1897)豊川鉄道開業に伴い、初代豊川駅舎が築造された。そして、昭和6年(1931)豊川稲荷新本殿建立に伴って、RC造三階建の豊川鉄道本社兼二代目豊川駅として築造された。階上は、映画館及び商業施設が入り、周辺地域初の駅ビル百貨店となる。
 昭和18年(1943)には国策により重要路線に認定され、豊川鉄道、鳳来寺鉄道、三信鉄道、伊那電気鉄道の路線を国鉄に移管し、飯田線となった。翌年、残された会社組織、豊川鉄道及び鳳来寺鉄道は、名古屋鉄道に合併された。その後、名鉄線は飯田線に乗り入れを行っていたが、昭和29年(1954)名鉄本線から分かれる豊川支線を敷設したことにより、国鉄線専用駅となった。その頃から商業施設の閉店が始まり、階上は閉鎖されるものの、末期にはJR豊川工務区が入ることとなった。然し、平成7年、老朽化及び駅周辺開発事業により解体される道を歩んだ。

(関連記事:牛久保駅舎
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花フェスタ2005

2005-10-14 00:00:21 | 漂い紀行
 花フェスタには多くの来園者がみられた。
幼い頃、花が好きであった私も、男気の父により遠ざかっていた。
気持ちがモノトーンである時には鮮やかな色が尚一層映える…。

私がこの公園のある地のイメージをカラーで現すと、夕方のオレンジである。
それは、古くからの芸術、陶芸からきている。
幾何学文様を産出した風土。
過ぎ去った思い出にも似た形と色。
…私のこの地に感ずる印象である。
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逢妻

2005-10-13 18:38:32 | 漂い紀行
…という駅を降りた地名は刈谷市高津波町。
海から五粁離れているが、古代はこの地が衣浦湾の入り江であったため、付近に貝塚が多く残っている。
この地名も海が近かった頃の齎した災害が所以であったのであろう。
海跡に流れる逢妻川。

「むかし在原中将に懸想せし女あり、かきつばた姫という。
業平東赴きたもう跡を慕いて八橋にて追い付けるが、業平朝廷を憚り、河をへだてて合い給う。故に後世遇妻川という。その女別れ悲しみて変死ける。その屍を八橋の辺鷹師山に葬る。今にその塚あり」
と語り継がれている。
(2005/05/29)
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閉まらずの踏切

2005-10-13 01:30:08 | 天祐語録
 この踏切は、先日の昼飯線中山道踏切。
休止中であるため、ここ15年、開きっぱなしである。
 東京の開かずの踏切で、人身事故が起きた。
複数の路線が重なる都心部では、運行本数で割ると30秒に1本程となる。
それでも実現されない立体交差。
当然のことながら、先ず予算によって却下される。
然し既存の踏切は何処もお粗末なものが目立つ。
それは道路の幅に対して比例しない路肩の狭い踏切の渡り板のことである。
踏切の拡幅は、鉄道会社の条件で、理想は立体交差。それが不可能であれば、近隣の踏切を廃止することによって拡幅に応じる…などという取り決めがあるからである。
ただ向こう側に越えることが、橋の無い川のように不便になっているわけである。

東京の踏切も、高架や地下化にするといった高予算な事業は別として、地下道を造るなり、歩道橋を造るなり、自治体と協力すれば低予算で安全と効率が確保されることができようと思うが、頭の固さと事勿れ主義の自治体と特殊法人の招いた事故である…。
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「百年公園駅」

2005-10-13 00:00:00 | 漂い紀行
(岐阜県百年公園 岐阜県関市小屋名 2005年7月17日)
 小屋名の地へは今年の桜の時節に訪れているが、そのときは百年公園へは立ち寄ることはできなかった。15年振りに百年公園に訪れ、休日とあってか、大勢の人が来園していた。園内に入ると、以前と変わらないと思われたが、「らくらく号」なるケーブルカーのような昇降機が設置されており、人が群がっていた。
   
 博物館に入ると、「岐阜鉄道のあゆみ展」が催されていて、これによって人出が多かったようである。「百年公園駅」のゲートをくぐり、県内の鉄道敷設の歴史を紹介していたが、「これからは、路面電車の時代」と説明されており、この地に訪れるために、廃止された美濃町線に代わってバスで来た私にとって矛盾感以外何物でもなかった。
(旧徳山村民家)

(関連記事:百年公園1990年 小屋名道標 鮎之瀬
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予想結果ではあったが…

2005-10-12 21:45:32 | 天祐語録
…確実に万博バブルが起きている。
いわば単に催しに過ぎなかった万国博覧会。
当然のことながら、輸送、宿泊、商業施設等にダブツキが起きている。
跡地利用、青少年公園に戻すにせよ、環境博の担ったことの今後を継承する具体的な計画がない。
リニモ、東部丘陵の地形上でのリスクと、未来を紹介する意味では意義があったものながら、互換性がなく、乗り換えの手間やコストが高い。
よって、利用減少と純利益の減少は必死である。
有効求人倍率も低下し始め、長い視野を持ったクルマだけではない愛知を、余韻のあるうちに打ち出さなければならないだろう。
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古虎渓-哀愁の景勝地-

2005-10-12 12:48:08 | 水のほとり
(2003年11月16日の日記から)
庄内川上流、土岐川、市之倉川にある名勝地、ここけい。
周囲はベッドタウンであるが、県境のこの地は緑に覆われている。
以前は観光客が多かったのであろうが、現在は殆んど無く、旅館なども廃業してしまっている。
渓谷のエリアが不明確であることと、整備が不十分であることから訪れる者も少なくなってしまったのであろう。

然し私はこの様な廃れ具合いに、ある種好感を持ち、何かしら観光満足感に浸ってしまうのは何故だろう。
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鳳来寺山

2005-10-12 00:00:20 | ご近所漫ろ歩き

(愛知県南設楽郡鳳来町門谷 2003年11月22日)
 山上に向かうのは二十五年振りであろうか。
記憶の断片が新しい思い出となって縫い合わされていく。
幼い頃、気にもとめなかった幅の狭い階段が、今の私には煩わしく感じた。

 付近で売られている‘五平餅’
当時五十円であったものが五倍の二百五十円となっていた。
当たり前であるが、時は必ず移ろっているのを実感せずにはいられない。

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御嶽宿

2005-10-11 00:01:39 | 街道・宿場町
(みたけしゅく 岐阜県可児郡御嵩町 2003年11月23日の日記から)
 中山道四十九番目の宿場であるこの町は、東国に向かう峠越えの麓の宿であったためか、往時を偲ばせる建物等が思いのほか残されている。また、地名の表記は、近隣の山岳信仰と同じであったため、後に「御嶽」から「御嵩」に改められたともいわれている。
 近年、ベッドタウン化による変化もあるようだが、新旧共存もうまく行っているように思われた町であった。
 

(関連記事:伏見宿
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「神戸の壁」

2005-10-10 01:07:06 | STRUCTURE-構造物残影-

(兵庫県津名郡津名町志筑新島 2004年10月2日)
 「神戸の壁」は昭和2年(1927)神戸市長田区の公営市場防火壁として造られたものである。高さ約10m,幅約17mであり、戦災や阪神大震災の大火にも耐え続けた。然し、災害復旧の区画整理に伴って取り壊されることとなったため、淡路島・津名町志筑に移し保存されることになった。平成11年2月11日、移設の式が行われ、壁は、14のブロックに分けて運ばれた。そして翌年1月、町立しづかホール野外ステージに震災モニュメントとして復元されたのである。

(関連記事:津名港

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西尾城址まつり

2005-10-10 00:27:08 | 城郭・城下町
(2005年10月9日)
 二十年振りの岩瀬文庫へ訪れようと、西尾の街へ出向いた。
春に訪れたとき、整備中であった駅前は、まだそのままであった。

何やら商店街が賑やかである。
秋祭りか何かかと思っていると、城址まつりなる催しであった。

武者行列や、よさこい鳴子踊りがされ、初めてみる西尾の人波である。



(関連記事:西尾

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鮎之瀬

2005-10-09 00:04:48 | 水のほとり

(岐阜県関市小瀬/池尻 2003年4月28日の日記から)
 美濃太田駅から長良川線に初めて乗り、関駅に降り立つ。
辺りに点在する刃物地場産業を見てみると、こんなご時世でも意外にもしっかりしている印象を受けた。 
 近年、関終点となった軌道線の美濃町線に乗り、小屋名駅へ。
今回は十三年前に訪れた百年公園側ではなく、長良川方面へ足を運ぶ。歩くと、結構な距離に感じられるが、途中で長良川を目にすることによって、距離感を感じさせなくなってくる。
 
 鮎之瀬という小瀬鵜飼が行なわれる長良川の淵のようなところを越え、関市池尻地区へ。ここには長良川の風光明媚な立地を利用して建てられた有名だった料理旅館関の孫六苑があったが、バブル末期に廃業してしまった。ここに残されている建物には、大正時代、織物業後藤恕作の別荘として中国、秦の始皇帝の宮殿を模してつくられたという阿房宮がある。その後も、皇族、戦後は進駐軍の宿舎として利用されたこの建物、個人所有とはいえ、文化財指定レベルの建造物といえよう。残念ながら、今は廃屋同然の有様となってしまっている。
  
 静かになってしまったこの地だが、横には雪融けにより水量の多い長良の清流だけが、生き生きと音をたてていた。


(関連記事:小屋名道標 「百年公園駅」

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高山 -Wood City-

2005-10-08 19:25:11 | 街道・宿場町
(2003年9月14日)
 Hietsu Lineの往路を、匠の郷まで向かうのは初めてである。
渋草焼と春慶塗、宮川と朝市、からくり山車と陣屋…カテゴリは多数あるが、やはり山間の小京都、飛騨越中街道の宿場町でもあり、情緒風情と伝統工芸は大事にしている。
新旧が理想的に混在できているところといえるであろう。
その魅力に因り、街の人口以上の訪問者が集まるのである…。
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