加納城は元々、文安二年(1445)に土岐氏家宰斎藤利永によって築かれたのが始まりであるが、天文七年(1538)に一旦廃城となる。
その後慶長六年(1601)に岐阜城が廃城となり、岐阜城天守の廃材を加納城再建のため、加納城二の丸櫓に利用したといわれている。また、川手城跡の土砂も利用し、造成が行われた。
加納藩奥平氏十万石として始まり、寛永九年(1632)からは奥平信昌の娘婿大久保忠職が入城、寛永十六年(1639)に明石藩へ移封となったため松平氏が入城。
正徳元年(1711)からは備中松山から安藤氏、宝暦六年(1756)からは武蔵岩槻から永井氏が入城。以後明治廃藩まで続いた。
現在は公園となっているが、石垣と堀の一部が残されている。
1983年に国指定史跡となった。
(愛知県犬山市 2004年9月12日)
犬山の地へは何度となく訪れているが、犬山城へは昭和53年、平成2年に訪れている。
犬山城の前身は、文明元年(1469)に斯波義郷家臣織田広近が築いた南麓の木下城が始まりで、天文六年(1537)五代目信康が現在の地に移築した。
六代目信清のとき、従兄織田信長に攻められ落城。その後池田信輝、織田信房と続き織田信雄の属城となり、中川氏、池田氏、加藤氏、武田氏、土方氏、長尾氏、三輪氏と続く。
文禄四年(1595)豊臣秀吉臣石川光吉が天守を建造した。石川氏が関ケ原戦で西軍に属したため、東軍により攻略を受ける。そして清洲城の属城となり、小笠原吉次が城主となった。
慶長十二年(1607)には平岩親吉、元和四年(1618)からは尾張藩家老成瀬正成が入り、廃藩まで至った。
平成16年まで成瀬家個人所有の城郭であったが、同年法人移管された。
1990年4月の光景
この日は、だるま観音大龍寺、岐阜県県政資料館、須佐之男神社、高富本町を漫ろ歩いた。
高富は山県(やまがた)郡中心地であり、岐阜街道と繋がる高富街道(北美濃路)と洞戸道、伊自良道、大桑道、関道が分かれる交通の要所である。
中世は、旧高富町最高峰の古城山(407m)に大桑城が築かれ、美濃守護土岐氏が居城した。
大正2年には、長良軽便鉄道(後の名鉄高富線)が開通し、高富は鉄道でも結ばれたが昭和35年に廃止された。
そして平成15年には山県郡内町村が合併し、山県市となった。
昔から本宮山には山猿が多く生息していた。
ここ猿音川付近一帯も木の上は日当たりが良く、冬の北風も本宮山によって遮られるため暖かく、賑やかなほど猿が集まってくるので、この‘さるおと’という地名が付いたといわれている。それを川の名に当てた訳である。
現在も豊川市東上町字本宮、新城市川田字本宮にわたる付近で猿音川から本宮川辺りの山地を通称 さるおと と呼んでいる。
災害に関係した地名を調べてみると、中央構造線沿いに比較的多くみられる、サル、ザレ、サレ等の付く地名は地滑り、地崩れ等を表す場合があり、サルはザレの転訛である場合もある。
この捉え方で解釈するとサルは地滑り、音は字の如くそのものの音となる。
災害が所以となって名付けられたことも考えられるのである。
十数年前訪れたときは自然の渓谷であった猿音川も、その後行われた砂防工事によって大きく姿を変えてしまっていた。そのときは登録名共に「無名橋」でった林道に架かる橋も、「猿音橋」と名を変え、平成十二年三月と刻まれていた。
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下社春宮から下諏訪町役場方面へ向かって歩いていると、インパクトのある建物に出合った。
土壁の蔵を巨大にした建物。
養蚕が盛んであった諏訪地方の象徴ともいえる繭(まゆ)倉庫で、明治三十三年(1900)に建てられた木造5階の建築である。
石壁の建物は倉庫会社の事務所で1932年の築造。
時間の関係で見学はしなかったが、このときは既に解体計画があったようである。
文化財レベルの建築物。
指定されていないためか、維持管理、耐震面の事情により2006年中に過去のものとなるようである。
(愛媛県今治市 2000年9月3日)
瀬戸内海国立公園の一角、標高244mの近見(ちかみ)山。
この山には室町時代の応永年間頃から、重見氏が居城する城があった。
享禄三年(1530)時の城主重見通種は主家河野通直の命に服さず、家老来島通康に攻撃を受けて敗れ、周防大内氏を頼って敗走したといわれる。その後も重見氏が居城していたが、天正十三年(1585)小早川勢に攻められ落城した。
近見山にはかつて、現在南麓に建つ四国八十八ヵ所巡礼五十四番札所の延命寺があったが、度重なる兵火によって荒廃し、縮小しながら移転していったという。
また、明治時代から公園計画のあった近見山は、大正初年からは医師で俳人の楠岡謙吉らが、この景勝地の宣伝をし、整備のための募金活動が行われた。
上記の楠岡氏は、私からみて曾々々祖母の出身家でもある。
そして私の父の思い出でもある近見山。
父は生前、この山によく登った話しをしてくれた。
獣道を歩いていると、猪に突進され突き飛ばされたという話しを思い出す。
私にとっても思い出の山となった。
今年宝飯郡一宮町から、豊川市へと移行された。
金沢とは、明治11年(1878)12月28日、御薗(みその)村と養父(やぶ)村が合併し、金沢村となった際、生まれた地名である。
旧養父村の大照山、小照山の谷あいを源とする「西沢」という沢がある。
この沢の付近の地質に雲母を含んでいるため、水で洗われると黄金の様に輝きを放つ。
そこから俗称を「黄金沢」と呼ぶようになったと言われ、いわゆる好字地名として「金沢」と名付けたということである。
その大照山も砕石が進み、山頂は平らとなり、日々標高が低くなりつつある。
(写真トップ:旗頭山から望む本宮山(ほの山)下左側:小照山、右側:大照山)
金沢橋の上流約100m程の川の中に、粘土層が露出していて、その中に貝層を見つけた。
触ると脆く、十分化石化していないようだったが、ある程度化石化したものもあった。
よく見ると牡蠣(カキ)で、海抜約20mのこの地が海であったことがわかる。
大正時代に、ここから北へ2kmの民家の井戸掘りの際に、蝦夷牡蠣の固まりが出土したということがあり、この牡蠣が蝦夷牡蠣であることがわかった。
地層から25000年前の更新世の牡蠣であり、その当時と現在の環境の違いを現す資料となった。
(大糸北線 2005年9月2日)
宮崎海岸から翡翠の街をアピールしている糸魚川に差し掛かる。乗り継ぎする束の間降りてみた。
付近の遺跡や古墳から翡翠の玉等が出土し、玉類の生産地であったことが伺えるが、これを観光の“売り”にしだしたのは最近であろうと感じた。
駅改札前には巨大な勾玉が置かれている。
駅構内、煉瓦造りの車庫の横から大糸線は発車する。
この煉瓦車庫は、大正11年(1922)に築造されたものである。
然し北陸新幹線の建設に伴い、構内の一部を新幹線用地とする必要が出てきたため、この煉瓦車庫を撤去することが検討されている。
発車時刻となった。
古いディーゼル車一輌、約三時間おきのローカル線は主に北ア方面の観光客を載せ満員であった。
勾配のきつい路線を自転車並の速度で上っていく。
沿う様に流れる姫川は名に似合わず豪快で、護岸や堰のコンクリートを削り、形を著しく変えていた。
以前、土石流によって線路が流出し、長い間不通の時期があったことを思い出す。
峠の南小谷駅に到着。
ここから電化路線となり特急列車も始まる。そして管轄会社も変わる。よって直通列車は無い。
大町と糸魚川を結ぶ大糸線でありながら、この場所で大きな境目を感じる。
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富山と高山を結ぶ、飛騨越中街道沿いに栄えた町。
当時の面影も残り、元禄時代から始まったという「おわら風の盆」によって、特に諏訪町、西新町、東新町の町並み維持保存がされている。
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