北海道において開拓期に女学生のために学校を拓いたのは私立の学校だったそうです。北海道の開拓期の状況を調査・研究する学芸員の方から北海道の開拓期の女学校の様子についてお話を伺った。
一昨日(12月19日)夜、札幌市豊平館において豊平館と北海道開拓の村の共催による「歴史連続講座」(全4回開催)の第1回講座が開講され、受講しました。第1回講座は「開拓期の女学生」と題して、北海道開拓の村学芸員の西田結香さんが講師を務められました。
※ 講師を務めた西田結香さんです。
開拓期における女子教育の推進に努めたのは、開拓次官だった黒田清隆だという。黒田は明治4年に「開拓の要は人材教育、その根本は母となる女子の教育にある」として、わずか8歳だった津田梅子(後の津田塾大を創設した人物)をはじめとする5人の少女をアメリカに留学させた人として知られています。
一方で黒田は、明治5年に東京芝増上寺境内に4月に男子の「開拓使仮学校」を創立したのに続いて、9月には「開拓使女学校」を創立させたそうです。それは、女学校卒業後に北海道で開拓事業に従事する者の配偶者として、開拓に協力する花嫁を養成する目的があったそうです。
明治8年、男子の「開拓使仮学校」は「札幌学校」と名を改め札幌に移転したのに続いて、「開拓使女学校」も「札幌女学校」と改称して札幌に移転しました。ところが官員と女生徒の間に醜聞が発生したことで当時の開拓大判官の松本十郎が激怒して翌明治9年に廃校となってしまったそうです。
その後の女子教育は、明治11年になって函館に三人の修道女がやってきて教育事業を興した(現在の函館白百合学園)のが本格的な女子教育の始まりとされています。
続いて明治15年、同じ函館にメソジスト派のメリマン・ハリス夫妻によって「カロライン・ライト・メモリアルスクール(現在の遺愛学院)」が創設されました。
明治20年になって札幌にも「スミス女学校(現在の北星学園)」が新渡戸稲造の支援もあって創設されました。また、函館にはさらに仏教系の「六和女学校(現在の函館大谷高校)」も創設されています。
明治20年になって札幌にも「スミス女学校(現在の北星学園)」が新渡戸稲造の支援もあって創設されました。また、函館にはさらに仏教系の「六和女学校(現在の函館大谷高校)」も創設されています。
こうして紹介してくると、北海道の女学校の始まりは全て私立の学校であることが特徴の一つです。公立の女学校はそれから遅れること15年。明治35年になってようやく北海道庁立札幌高等女学校(現在の札幌北高校)」が始まりでした。その後は、北海道各地に公立の高等女学校が次々と創設されていきました。
講師の西田さんは、直接「遺愛学院」に赴き、学校の実態調査を行ったそうです。創設当時から保管されていた明治期の資料は明治40年函館大火により大半を焼失してしまい、現存するのは大正以降の資料だったということですが、当時の入学願書、在学保証書、成績表、学校日誌、等々貴重な資料を確認することができたということで、そのうちの何点かを写真で拝見することができました。校内の様子も古き良き時代の雰囲気を残したものを写真で確認させていただきました。
「函館遺愛学院」というと、校舎の壁がピンク色に彩られていて、いかにも女子高という感じですが、私も函館を訪れた際に校舎を外側から見させていただいたことを思い出しました。
※ ピンク色の壁が印象的な函館遺愛学院の校舎です。
現在、道内の女子高校は全て私立で、函館に3校(遺愛女子高校、函館大妻高校、函館白百合高校)、札幌に2校(藤女子高校、北星女子高校)の5校だけとなってしまいました。(札幌聖心女子学院高校は、本年度で募集停止となりました)時代の流れとはいえ、女子高の卒業生や関係者にとって寂しさは隠せないものと想像される。講師の西田さん自身、女子中学、女子高校の卒業生ということでしたが、彼女がその想いについて語ることはありませんでした。しかし、彼女が女子教育の歴史を研究テーマとしていること自体が、彼女の女子教育に対する思いが伝わってくるようでした…。