和田氏のお話を伺うのは今年5度目である。さすがに博学の和田氏でもネタ切れの感があった感じです。それでも私は和田氏のお話を楽しくお聴きしたのでした。
昨夜(12月18日)、連続受講している「労文協リレー講座」の第3回講座が北海道自治労会館で開講されました。第3回目のテーマは「札幌おもしろ歴史散歩」と題して街歩き研究家の和田哲氏が講師を務められました。
和田氏のお話は、今年に入って「ほっかいどう学かでる講座」で1回、「札幌学院大コミュニティカレッジ」で3回、いずれも同じテーマでこれまで受講してきました。
「あるいは同じような話を聴くことになるかも?」と思っていたところもあったのですが、さすがにいくら博学の和田氏とはいえ、おもしろそうな札幌の歴史の話がそうそう多くは転がっていなかったようです。私にとっては、聴いたことのあるお話が多かったのも仕方のないことだと思えました。
昨夜お話された内容は、①札幌の条・丁目、②北海道三大名橋、③札幌市電+名古屋市電、④北海道私鉄物語、⑤アンパン道路、⑥冬季札幌オリンピック、⑦ススキノの劇場&狸小路、⑧北海道盆踊り、⑨幻の藻岩山スキー場、そして「おまけ」として藻岩山中腹に設けられたスキー神社のお話、といったラインナップでした。
いずれもが、以前にお聞きした話で、拙ブログでもその多くを触れているので、本稿では、①の札幌の条・丁目のお話を少し深堀してみたいと思います。
まず、街の中心部を「北○条・西丁目」というような企画割りしている都市は他府県には存在しないということです。北海道内には札幌に倣って20数市町で採用しているものの、他府県では街の名称を付けているということです。例えば東京都では大手町1条1丁目というように…。もちろん札幌でも、郊外へ行くと平岸2条3丁目というような表示はありますが、札幌市の中心部のほとんどは北〇条西〇丁目というように表示されていて、私たちとしてはそれが当たり前のように思っていますが、全国的に見るとそれが当たり前のことではないことが分かりました。
※ 少々図が不鮮明ですが、東京の街名が非常にたくさん付けられていることが分かる図です。
そして札幌の条・丁目がどれだけ広がっているかというと、「条」では南は南39条、北は北51条まで広がっています。「丁目」の方は東西ともに30丁目まで広がっています。
そして条・丁目の一つの区画は道路を除き一辺が109mの正方形で区角割りされています。ですから歩くときに目的のところまで凡その距離を知ることができるのです。
ところが特例はどこにもあるようで、区画が正方形でないところも存在します。その中でも南10条西2丁目は、ほんの小さな三角形の区画で一周しても僅か40mに満たない広さで、札幌市内で最小の条・丁目だそうです。もちろん住んでいる人はいないそうです。
一方、桁違いに広い条・丁目は北16条西16丁目で、ここは札幌競馬場がすっぽりと入る区画だそうです。こちらは一周約4kmだそうです。
また、札幌の街は前記したように正方形で条・丁目が区角割して街づくりをしたために、碁盤の街とも称されますが、NHKテレビの「ブラタモリ」でも話題になったように、街中で微妙に道路が屈曲しているところがあるのです。その理由は、北海道開拓使が区角割をした際に、大通に対して現在の国道230号線(通称「石山通」)を接続する際に直角ではなく95度で接続したことに原因があるそうです。(これは磁石上の南北を基準としたため)
※ 大通公園(緑色の区画です)とそれに接続する赤い縦の線(国道230号線)が微妙に歪んで接続されていることがお分かりかと思います。
札幌本府は大友堀(現在の創成川)を基準として街づくりを進めたのに対して、当時は札幌本部とは離れた山鼻地区の開拓に入った山鼻屯田兵村は国道230号線を基準に(つまり磁石の北を基本に)街づくりが進められたそうです。そのため街が発展し、札幌の中心街と山鼻地区が結ばれたときに道路に微妙な差が生じたそうです。その微妙な差が今現在もその痕跡を残しているそうです。
そのことについて、和田氏は札幌本府の街づくりを担当したのが岩村通俊だったのに対して、屯田兵制度を指揮したのが黒田清隆だったことに遠因があるのでは、推測を述べられました。つまり岩村と黒田は互いに反目し合っていた間柄だったそうで、岩村は山鼻屯田兵村の区角割をする際、札幌本府の街づくりに準ずることが当然と考えていたのだが、黒田は岩村の思いなどには一顧だにすることなく独自の街づくりを指示したために、今のように微妙な差が生じてしまったのではないか、との推測を述べられました。果たして真相は??
いや~、歴史って面白いですね。和田氏には、これからも札幌の街を隅々まで巡り歩いて新たな発見をしていただき、それを私たちの提供していただけたらと勝手な願いを持っているのですが…。