田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

白神山地の旅 回想編⑤ 弘前市 & 青森市他の観光

2020-10-29 16:27:01 | 道外の旅

 青森まで出かけて登山やトレッキングばかりでは芸が無かろうと考え、ちょっぴり観光も楽しんだ。本編ではその印象記を綴りたい。

斜陽館(五所川原市)

   

   ※ 「斜陽館」の全貌です。周りはレンガの塀で囲まれていました。

 作家・太宰治の生家として有名な「斜陽館」は五所川原市の金木町というところにあった。「斜陽館」の印象については旅日記でも触れたが、想像以上に広壮な豪邸であったことに驚いた。明治46年に東北の片田舎に階下に11室、278坪、二階に8室、116坪、付属建物や庭園などを合わせ宅地約680坪という豪邸である。しかし、このような豪邸で生まれ育ったがゆえに太宰治は悩み苦しんだというのだから人は分からない。当時の文学界にはプロレタリア旋風が吹き荒れていたこともその要因なのだとは思われるが…。

           

           ※ 太宰治の代表的なポートレートです。

 太宰は父のこと、生家のことを著書『苦悩の年鑑』の中で次のように触れているという。「この父は、ひどく大きい家を建てた。風情も何も無い、ただ大きいのである」と…。

   

   ※ 2階への階段も豪壮なものでした。

   

   ※ 廊下から見た庭園です。

弘前公園(弘前城)(弘前市)

        

 弘前市では一日休みを取って弘前市観光に充てた。そしてまず向かったのが弘前市の中心に位置する「弘前公園」である。これも旅日記で触れたが、本州の各地では弘前市のように市の中心に広大な城跡が残っているところが多く、そこが公園化して市民の文化を育み、憩いの場となっていることに憧れを抱いていると…。北海道人にとっては無いものねだりの思いなのではあるが羨ましい。公園内には天守をはじめとして、城門や隅櫓、水濠が現存し往時を偲ばせている一方、植物園や市立博物館、市民会館としても利用されている。

   

   ※ 城跡の南端に位置する「追手門」です。

   

   ※ 白の南東を警備した「辰巳櫓」です。

   

   ※ 城内本丸に築かれた「天守」です。

   

   ※ 本丸の広場からは岩木山で遠望できました。

 私が訪れたのは比較的朝早かったのだが、公園内をウォーキングする人も目立ち、市民の健康づくりの場としても利用されていることを伺えた。天守は意外に小ぶりであったが、これは津軽藩が往時としてはけっして有力な藩ではなかったこともあり控えめな規模にしたのでは、とうがった見方をしたのだが…。

 弘前公園は桜の名所としても名高いところである。津軽藩当時、城内はけっして桜の木が多かったわけではないようだ。廃藩後の明治末期になってから市民たちが積極的に桜の苗を移植したことによる、と城内の「弘前城情報館」の映像が伝えていた。

 公園の外にも見どころはあった。弘前市は多くの歴史的建造物が残されている。「旧市立図書館」、「旧東奥義塾外人教師館」、「青森銀行記念館」等々…。

   

   ※ 「旧東奥義塾外人教師館」です。

   

   ※ 「青森銀行記念館」です。

三内丸山遺跡(青森市)

   

   ※ あまりにも有名な三内丸山遺跡の「大型掘立柱建物」(右)と「大型竪穴建物」です。

 青森市郊外に位置する「三内丸山遺跡」も私の想像を超える規模と整備の良さで広がっていた。「三内丸山遺跡」は「北海道・北東北の縄文遺跡群」として世界遺産登録を目指す中心的な遺跡である。北海道内の遺跡の状況をある程度把握している(実際に訪れたことはないが、各種の講演会などで紹介され概要を把握している)私には「それほどでもないのだろう」という予想があった。ところが実際に訪れてみて、そのエントランスから力の入れようが違っていた。

   

           ※ 三内丸山遺跡のエントランス「縄文時遊館」の建物です。

 まず「縄文時遊館」という立派な施設が迎え入れてくれた。「縄文時遊館」は、シアター、展示室、収蔵庫、整理作業室(研究室?)などが一体となった大きな建物だった。

   

   ※ この道幅は当時と同じ道幅だそうです。

 そして遺跡はその「縄文時遊館」の奥に広がっていた。遺跡は発掘跡をそのまま保存したところ、そして研究の成果から往時の建物を復元した各種の建物からなっていた。特に巨大な柱を使った「大型掘立柱建物」や「大型竪穴建物」は縄文人たちが機械などもないなかでどのような工夫をしながら巨大な構造物を建てたのか、非常に想像を掻き立ててくれる規模であった。ボランティアガイドの丁寧な説明も私に一層の興趣を与えてくれた。

   

   ※ 縄文人の住宅は、写真の茅葺から、木の皮、土製と様々だったようです。

 

   

   ※ 高床式であることから貯蔵庫として使われていたのでは、という説明でした。

   

   ※ 「大型掘立柱建物」の柱跡の穴は発掘された状態で保存されていました。

        

    ※ 三内丸山遺跡から発掘された「大型板状土偶」が展示室に展示されていました。

 

奥入瀬渓流(十和田市)

   

   ※ 「奥入瀬渓流」を象徴するような一枚です。

 予定していた観光先ではなかったが、私にとって二十数年ぶりに再訪した「奥入瀬渓流」は渓流に至るまでのエントランス部分の道路脇の紅葉も含めて印象深い観光先であった。

 私は前日青森市の郊外の浪岡というところに一泊した。そこから十和田湖を目ざしたのだが、どこをどう通って十和田湖に至ったのかはっきりと思い出せない。ナビにすっかり任せっきりだったのだ。十和田湖に至る細い道路は峠を越えて走った。かなりの標高があったためだろう、道路の両脇の木々が鮮やかに紅葉していた。車を停めて写真を撮る余裕がなったために残念ながら私の目にしかその鮮やかさは残っていない。

   

   ※ 十和田湖に向かう山道で一枚だけ紅葉の様子を写していました。

   

   ※ 十和田湖を見下ろす位置から一枚撮ることができました。

 「奥入瀬渓流」のトレッキングは楽しいものだった。次々と現われる滝や泡立つ渓流の流れは見ていて飽きることがなかった。また、これまでのトレッキングとは違いたくさんの渓流を楽しむ観光客と出会った。                                          

   

   ※ 小雨に煙る十和田湖です。

   

   ※ 奥入瀬渓流で最大の水量を誇る「銚子大滝」の様子です。

         

   ※ 奥入瀬渓流に数多く見られる滝の一つ「九段の滝」です。

   

   ※ 典型的な奥入瀬渓流の流れです。

 そして帰りの十和田湖から青森市への道路も八甲田山の麓を越え、酸ヶ湯を経由するまたまた紅葉の素晴らしい道路だった。 

   

   ※ 湯治で有名な酸ヶ湯温泉の旅館(ホテル?)です。  

 以上が、私が特に興味を抱いた観光先だった。その他には「弘前りんご公園」(弘前市)、「観光物産館アスパム」、「A-FACTORY」、「ねぶたの家 ワ・ラッセ」、「メモリアルシップ八甲田丸」、「アウガ生鮮市場」(以上青森市)などを訪れたが、八甲田丸が往時のままで係留されていて現役時には立ち入ることができなかった箇所まで覗かせてくれたのは興味深かったが、その他の施設は私に特別の興味を抱かせるものではなかった。