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私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

北区歴史と文化の八十八選巡り №16

2022-10-20 16:39:06 | 札幌市・北区歴史と文化の八十八選巡り

 今回は百合が原地区である。この地区は元々太平地区の一部だったそうだが平成10(1998)年に地名が変更されたという。この地区を訪れた際に幸運にもこの地区の生き字引のような人に出会うことができ、さまざまなお話を伺うことが出来た。

65〉さっぽろ花と緑の博覧会モニュメント

   

 「百合が原公園」は昭和61(1986)年に「花と緑の博覧会」の会場となった公園である。毎年何度か訪れている「百合が原公園」であるが、そのモニュメントも見たことがあるような、ないようなという印象だった。モニュメントが設置してある箇所を「緑のセンター」の職員に伺い、さっそくその地へ行ったのだか、なるほど微かに見た記憶のあるモニュメントだった。その傍に説明板があり、園内には4個のモニュメントがあると記され、その位置も示されていた。それに従ってモニュメントを探して歩いだのだが、どうしても4個目を見つけることが出来なかった。帰宅して調べてみると「光る風」というモニュメントが本年6月に老朽化のために撤去されていることを知った。その説明板には次のような説明も記されていた。

 昭和61(1986)年の夏、百合が原公園を舞台にくり広げられた「花と緑の博覧会」を記念して製作されたもので、花と緑と人間のふれあいを美しく表現したモニュメントは、博覧会が終わったあとも、そのまま公園の施設として残されている。

 残った三つのモニュメントは次のとおりである。

【花の輪と和】

   

【北の森たち】

   

【開く花】 

                        

   〔住 所〕北区百合が原210番地百合が原公園内

   〔訪問日〕10月7日

66〉ハルニレの森づくり発祥の碑

   

 同じ「百合が原公園」内の一角に「ハルニレの森」と称して、ハルニレの木に囲まれた一角がある。ハルニレは北海道の野山、特に札幌で目立つ木の一種である。その理由については下記の説明を参照いただきたい。   

 ハルニレ(春楡)はニレ科の落葉高木で、単に“ニレ”と呼ばれたりもするが、英語名の“エルム”の方がよく知られている。ほぼ全国の山地などに分布するが、北海道では平地にも多く、札幌はもともと豊平川の扇状地上に位置するためハルニレが多かった。北海道大学は「エルムの学園」とも呼ばれ、キャンパス内には開校当時からの立派なハルニレの巨木が多く残されていて、芝生との組合せがとりわけ美しい。   

 そのハルニレの木を百合が原公園内に意図的に植樹することで、札幌のシンボリックな木として市民にアピールしようと植樹し、森の造成を意図したようである。「ハルニレの森」の傍には次のような説明板が立っていた。

   

 ハルニレは別名エルムともよばれ、成長すると大木となり、えだ葉をいっぱいに広げ、森の王者といわれるほど風かくがあります。平成2年(1990年)10月に、百合が原公園でハルニレの森記念植樹祭がおこなわれ、未来をつくるこどもたちのせい長にあわせるようにりっぱな森をつくり、受けつがれていくことをねがって200本のハルニレが植えられました。

   

  〔住 所〕北区百合が原210番地百合が原公園内

  〔訪問日〕10月7日  

〈67〉「篠路烈々布開基百年」碑

   

 「百合が原公園」と接するように北隣に建つのが「篠路烈々布会館」である。その会館の横に開基百年碑は建っていた。

   

 「烈々布」とは非常にインパクトのある名であるが、もともとはアイヌ語に由来すると伝えられている。そのことを説明する文書を見つけることができたので紹介したい。

 烈々布……アイヌ語で「ハンノキの多く茂るところ」、「風の強いところ」の意味を持つが、アイヌ語への音訳では無理なところもありその語源については諸説あるようです。しかし、開拓前、近くに流れる伏籠川(ふしこがわ)のほとりに先住民族であるアイヌの人たちが住んでいたことから、語源がアイヌ語であることは間違いないことでしょう。

 さて肝心の百年碑の方であるが、北区を巡っていると各地に立派な百年碑が建造されている。この篠路烈々布地区でも、立派な百年碑が建造されていた。その碑の傍らには北区が制作した次のような説明板が立っていた。

 この地は、明治14(1881)年、福岡県人が報告社を組織して、北海道に渡り開墾した時、明治16(1883)年にその一部の5、6戸が烈々布に入植したのが始まりである。「烈々布」という地名は、アイヌ語に由来したものと言われている。碑は、先人の労苦をしのび、入植以来百年を記念して、昭和57年に建立されたもので、白みかげ張りの高さ1.3メートル、奥行き90センチメートルの台座の上に、幅1.2メートル、高さ75センチメートルの黒みかげ石を建て、本碑としている。正面に「篠路烈々布開基百年」と刻字、この文字は板垣武四札幌市長の揮ごうによる。

                                                                                                                                                                                                                         

   〔住 所〕 北区百合が原11丁目烈々布会館前

   〔訪問日〕 10月7日

〈68〉篠路烈々布郷土資料館

   

 この「篠路烈々布郷土資料館」は、「太平会館資料室」と同じように専任の管理者がいないため、地域の方が委嘱されて管理している会館(資料館)である。予め管理されてい方に連絡を入れ、管理者の都合が良ければ見学が可能となる仕組みである。この日(10月7日)、私は当日になって連絡を入れさせてもらったが幸いにも見学させてもらえるとの回答をいただいた。そうして約束の時間に訪れると、そこに90歳を超えた(確か93歳とおっしゃった)中西俊一さんという矍鑠(かくしゃく)としたお年寄りが現われた。そして懇切丁寧にこの地区の歴史を私に向かって語ってくれた。そうしたこともあり、この「篠路烈々布郷土資料館」は、特別バージョンとして明日レポートすることにしたい。

〈69〉篠路歌舞伎発祥の地

   

    ※ 篠路歌舞伎発祥の地を表すのは、道路端に立っている(写真左端)説明板だけである。

 明日の中西さんのお話にも出てくるのだが、この地区は開拓当初から住民たちの芸能活動が盛んだったようだ。当時の農村青年は苦しい農作業から解放され、歌舞伎や獅子舞などに熱中したようだ。特に「篠路歌舞伎」は名声を博し、札幌圏はもとより、全道各地にまでその名声が及んだという。その発祥の地だということだが、現在は路傍にただ説明板が立っているだけだったが、その説明からも当時の篠路歌舞伎が盛んだった様子が伺える思いがする。 

                                                 

 かつてこの付近一帯が烈々布と呼ばれていたころ、この村の農村青年を中心に歌舞伎が華やかに演じられていた。最盛期には花道や回り舞台をも備えた篠路歌舞伎は、全国の農村歌舞伎のなかでも特異な存在とされている。一流の出し物、傑出した演技で旧篠路村内外にその名をとどろかせた一座は、遠く道内各地へ巡業に乗り出したという記録もある。明治35(1902)年に始まり、昭和9(1934)年に消滅したが、北海道農村芸能史の大きな遺産のひとつである。当時から西へ150メートルの地に、篠路歌舞伎座長として活躍した「花岡信之碑」(本名 大沼三四郎)がある。

  〔住 所〕 北区百合が原9丁目

  〔訪問日〕 10月7日

※ 上記の説明を読んでいて確か「花岡信之碑」を訪れたことがあるなぁ…、と思い出していた。そこで拙ブログを繰っているとありました!今から14年も前の2008年10月10日付の投稿で「花岡信之碑」の写真が掲載されている。興味のある方は覗いてみてください。(こちらをクリックください⇒)



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