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私は川が大好きです。 この本は 江戸時代 水不足で、不作の時には食べ物もなかった苦しい農民のために 5人の庄屋 が 身代なげうって 命がけで 筑後川から水をひくために堰渠を作ったお話し。
著者は 帚木蓬生 さん 近隣の方です。
細かいストーリーは省きます、、、、 ぜひ読んで欲しいから・・・・ 私はどんな所か知りたく原鶴温泉に行った折に 訪ねてみました。。
生葉 という地域 現在のうきは市吉井町 のお話です。。 このあたりかな? 信号に生葉とかいてあります。 もしかして イクハ が ウキハ になったのかな?
友人とよく筑後川をドライブします。 去年の豪雨では 水に浸かったテレビや家財道具を出してある民家をみて胸が痛かったです。
土手の下に 水神様がありました。 右側方面が耳納連山 左側が筑後川の土手です。
浮羽歴史民俗資料館です。
ここに(五庄屋 のひとり この物語の主人公は 山下助左衛門) 山下家に伝わる絵巻物の写しが展示してあります。
「 大石堰
江戸初期の浮羽地方は、筑後川の沿岸にありながら土地が高く水利が極めて不便なところで水田にすることができませんでした。五庄屋(栗林次兵衛・本松平右 衛門・山下助左衛門・重富平左衛門・猪山作之丞)は、筑後川の水をこの大石から水道へ引き入れ送水して下流域を水田化しようと決心しました。
寛文三年(1663)九月にこの計画を久留米藩に提出し、同年十二月にこの計画が採用され寛文四年(1664)一月藩営事業として工事が始められて、三月 中旬に開通しました。翌年寛文五年に溝幅が拡張され、続いて六年、七年と拡張工事が実施されました。更に灌漑面積を拡大するため、延宝二年(1674)難 工事の末、大石堰が完成しました。その後、農民の永年の苦労と努力にささえられて現在のような米作りの盛んな水田地帯となりました。
(尚、江戸時代の大石堰は昭和二十八年(1953)の大洪水により甚大な被害を受け破損しましたので現在の大石堰はその後完成したものです。)
うきは市教育委員会 」
大石堰です。。 現在の堰ですが5庄屋の命がけの事業があってからこそ・・・ですね。 筑後川から 取水口までです。
大石堰には 工事が失敗した時のみせしめに 5つの磔(はりつけ)の処刑台が立ててありました。。。実際にはその磔台は長野堰にあったそうです。
工事中に 水門からの戻り水で ひとり亡くなります。 5庄屋は最初から誓約書を書いているから磔を覚悟しています。
下には水神社があり 三堰の碑があります。 小学校で習うそうです。 余分な説明は省きます。
大石堰から もう一度 浮羽歴史民俗資料館に戻ったら ゆかりの場所を案内していただくことになりました。
はりつけの処刑は・・・・・・・・・・・・つづきはまた・・・
ポイントごとにまたご紹介しますのでお楽しみに・・・・ ほら読みたくなったでしょ? 新潮文庫 上下巻 各578円です。
この続きの紹介 「水神」 (2) は 1月29日の記事 です。