21日の新聞記事ですが、昨年11月に行った内閣府の「臓器移植に関する世論調査」のことが載っていました。
それによると、脳死判定後に臓器提供をしたいと思っている人は4割強で過去最高になったが、提供の意思を示す意思表示カードなどを持っている人は1割にも満たない(8%)、ということです。
皆さんは意思表示カードを持っていますか?
これには、「脳死」を死とするか、「心臓死」をもって死とするかという大きな問題が潜んでいると思います。
私は脳死をもって死とすることには反対で、心臓死をもって死とするべきだと思っています。
死というものに直面したのは、幸いにも父の姉の場合と父の場合の2回しかありませんが、しかも二人とも80歳を超えてからの死でした。もちろん心臓死でした。
それと、これが肝心なのですが皆さんは臓器提供というものをどう考えますか。臓器提供ができるようになったということは、医学の進歩なのでしょうか。
人の臓器を取り出して、他の人に委嘱する。当然そこには医療技術の進歩があり、高度な手術を行うことができるという技術が蓄積されているということになるのでしょうが、私はそういう医療技術を素晴らしいものとは思いません。
理論的に説明することはできませんが、基本的には人間は臓器移植はするべきではないと考えています。人の臓器を使ってまでして治療(それが治療と言えるのかどうかも疑問ですが)し、生きようとする。それでいいのでしょうか。
確かに人間には生への本能、欲望があるでしょう。生きようとすることは当然のことですし、生きている(生かされている)限り、精一杯生きるのが人間の務めだと思います。
だから病気になれば、生きていくために支障となるので治そうとする。同じ生きるのであれば、少しでも元気で生きたい、生き続けたいと思うのは当たり前でしょうし、それで当然いいと思っています。
しかし、自分の体や薬だけでは治せないので、他の人の臓器を提供してもらって生き続ける。それでいいのでしょうか。
もちろん、人工の臓器や薬を使って生き続けることはいいと思います。そのうち科学技術、医学の進歩により、血管も血液も臓器もつくることができるようになるかとは思いますが、私はそれまで待つべきだと思います。
だから、今現在臓器提供を渇望している人は間に合わないということになるでしょう。死ぬのを待つより他はないということになります。でも、それより他はない、それでいいのではないかと思いますし、みんなもそう思うべきではないかと思っています。
別に運命論者と思っているわけではないですが、そういう運命のもとに生まれてきたのなら、それを甘受するより他はないと思うようにすべきではないでしょうか。苦しみ、悩み、そして受け入れる。苦しみ悩むときは、みんなで苦しみ悩む、それを共有する。悲しみを共有する。思う存分嘆き、悲しむ。そして乗り越えていく。その人のことは忘れないようにする。
人にはその人の人生がある。それは長い人もいるでしょうが、短い人、とっても短い人もいる。場合によっては、これでは何のために生まれてきたのだと嘆くような場合もあるかとは思います。でも、それがその人の人生なのです。与えられた人生ではないでしょうか。与えられた人生の中で、精一杯生きる、それでいいのだと思います。私としては、その中には他人の臓器移植は含まれないと思っているわけです。
当然賛否両論があるでしょうが、私のような意見はとんでもない暴論だ、家族にそういう人がいないからそんな気楽なことがいえるのだとかという意見が多数でしょう。容易に推測できます。
だけど、そうやっていくことが人間らしいことなのでしょうか、一人の人間として生まれてきて、生まれてきた条件で生きていく、途中までしか生きられない人も出てくるでしょうし、100歳を超えても元気に生きている人もいることでしょう。それでいいのです。いろんな人がいて、いろんな生き方があるということではないでしょうか。
意思表示カードから、話しは重くなってきました。私個人としては、「臓器提供意思表示カード」を持っています。妻の了解の下につくったのが、1998年11月2日です。8年と3ヶ月になりますか。傷んで来たので、新しくしたのが、2005年11月23日です。私の誕生日です。
運転免許証の裏にも、シールを貼っています。
でも、私はあくまでも心臓死の場合であって、脳死を認めていません。だから、カードの「②(2をまるで囲んで) 私は、心臓が停止した死後、移植の為に○で囲んだ臓器を提供します。」として、「腎臓」と「膵臓」をまるで囲んでいます。
写真は、昨日から交換できるようになった、南極観測記念の500円硬貨です。カラフト犬の太郎と次郎だと思います。何十頭と南極に残された犬の中で、2匹だけが生き残っていたのですよね。裏(表)側は南極大陸となっています。