早いもので11日の東北地方太平洋沖地震から丸2週間が経ちました。それなりにライフラインも復旧しつつあり、街中もオープンする店が増えているようですが、まだまだ制限時間があったり、品物が少なかったり、まだまだ正常化とは程遠い状況です。
何といっても車が少ない。驚くほど少ない。ガソリンが手に入らないから乗らないわけです、乗れないのです。考えてみれば、「自動車」とはいいながら、自分からは動けません。動力源のガソリンがなければ動かないのです。ソーラーで自由に動けるようになれば「自動車」と名乗っても許せますが、今の状態では「自動車」という名称は返上すべきではないでしょうか。
そんなことはどうでもいいのですが、丸々2週間経ってもガソリンの供給が全く不十分だということは、製油所の立地条件や、交通網に欠陥があるということにならないでしょうか。ややもすると、全ては想像を絶する、想定外の、巨大な規模の地震と大津波のせいといわれそうですが、それで逃げていてはまたいつの日か経済が壊滅的な打撃を受けることになるでしょう。よく川の上流にダムを作る時に言われる言葉、「100年、200年先を見越した建設」ということば、これこそはこの世で一番手に負えない物質”原子力”にこそ当てはめて考えるべきでしょう。それこそ取り返しがつかないことのないように。
昨日は小規模小学校の卒業式に出席してきましたが、今日は中規模の小学校の卒業式に出席してきました。昨日は19人、今日は94人の卒業生です。会場はつい最近まで指定避難所として使われてきた体育館です。ここの道路に面した窓ガラスや壁は地震で壊れました。ステージの奥は危険なので、式典はフロアで行いました。もともとは18日の予定だったのですが、結果として1週間延びてしまいました。
≪今午後8時37分、かなり強い揺れが起こりました。今日は揺れが少ないと喜んでいたのに。同じ揺れるのなら、仲間がたくさんいる日中にして欲しい。≫
1組から順に入場してくるのですが、まあ身長のばらつきというか背の高さ、小さい子どもから160センチ以上の子どもまで、身長差はすごいものです。思えば私も卒業の時は138センチでした。よく覚えています。中学校のクラスでは前から3番目だったかな、小さかったです。その後急速に背は伸びましたが。
式に先立って、全員で地震や津波で亡くなった人々の冥福を祈って黙祷しました。
校長先生から一人一人卒業証書を受取り、来賓の前を通って、花束を受取り、保護者席の自分のお母さんやお父さんに感謝の花束を渡します。何度見てもいい光景です。目頭が熱くなります。
在校生としては5年生が出席したのですが、ステージの前の階段に6年生が並び、5年生と向かい合う形での合唱、これがなかなかいいのです。ピアノの伴奏で歌いあいます。 #ありがとう# #さようなら#
合唱については、去年からその素晴らしさに目覚め(何と遅い目覚めであることか)、すっかり好きになってしまったのですが、改めて人間の声のハーモニーの虜になりました。
94人の卒業生、来月は中学生になるわけですが、これからも幾多の試練にあうことでしょうが、今回の巨大地震を乗り切ったことを源泉として、幾多の困難も乗り切っていくことを願っています。
今回の地震と津波による死者と不明者をあわせると27,000人とか。何という巨大な数字でしょう。一瞬のうちに平穏な生活を打ち壊されてしまいました。さぞかし無念であったことでしょう。ご冥福を祈るより他はありませんが、今回の大惨事のことは生きている限り記憶し続けていきたい、生きたいと思っています。