朝から空は雲に覆われていました。空気も冷たいです。
おとといきのうと岩沼市の千年希望の丘について主に写真で見ていただきました。 ここからは当然海は見えますし、山も、蔵王連峰もきれいに見えます。 そして轟音と共にこういうものもしょっちゅう見られます。
これは仙台空港です。空港は名取市と岩沼市にまたがっていると思いますが、どちらにしても仙台市内ではありません。でも名称は仙台空港となっています。 全国でで初の民間空港となったことで有名?です。
もう何年飛行機に乗っていないでしょうか。 このところどこでもいいから飛行機に乗ってどこかに行きたいと思うのですが、日程等を考えるとますます難しくなっています。そんなことをいっていたら行けませんけどね。
前にも書きましたが、6年前のあの日、3月11日ではなく、3月14日には夫婦で香港マカオに行くことにしていました。 そのために11日の午前中は夫婦で買い物へ行きました。私は茶色の皮の靴を買ってもらいました。
そしてお昼は東北電力の大きなビルの地下でちょっと贅沢な昼食を摂り、午後2時頃かな帰宅したわけです。 そして自宅の1階で二人で寛いでいるときに地震が来ました。 地震自体は9日にも、確か10日にも起きていますのでそんなに問題視はしていなかったのですが、いつまでたっても揺れは収まりません。それどころかますます揺れ幅が大きくなり、立ってさえいられなくなりました。
我妻はもうパニック状態になりましたので、幸いうちのこたつは掘りコタツでしたのでその中に入らせました。でも揺れはますます大きく強くなってくるようで、本来なら逃げ道を確保しておかなければならないのですが、座り込んで動けなくなったのでそれどころではなく、なすがまま、されるがままという状態で、さすがにこれはもう駄目かという気持ちになってしまいました。
1階の天井の梁は2本の大きな曲がっている天然の桜の木を使っていましたのでかなり重いです。これは天井が落ちてしまうのではないかと不吉な思いに駆られましたが、体が動きません。ハリが落ちてくるということは2階が落ちてくるということで、とてもじゃないけどペシャンコになってしまいます。
何が何でも生きぬくのだ、助かるのだという気力になれなかったのが不思議でもあります。そんなにも運命に従順だったのかとも思うのですが、もうどうしようもない、なるようにしかならないという気持ちに支配されたのかもしれません。 何も考えられなかったのかもしれません。
ちょっと話が逸れてきました。 3月14日には夫婦での海外旅行を予定していたということです。地震のあとは電気が止まりました。テレビを見られません。地震等の情報はラジオだけでした。当然スイッチオンにして聞いていたのですが、2日もすれば飛行機も飛ぶだろうとなぜか楽観視していたのです。
まさかM9.0の巨大地震で巨大な津波まで太平洋沿岸を襲ったなんて知りませんでした。全く知らなかったのかというとそうでもなかったようには思います。大きな津波が来て沿岸部は大変なことになっているという情報はラジオからも分かりました。
でもお恥ずかしい次第ですが、今からすればまったくもって罰当たりとしか言いようがないのですが、まあ2,3日もすれば大丈夫だろうと勝手に思っていました。飛行機も飛んで、外国にも行けるという雰囲気でした。これは我々夫婦だけではなく、職場の人たちもそんな感じだったのです。
いまから思えば全く不謹慎な思いとしか言いようがありません。あの時被害に遭われたみなさん、必死になって生きようとしていたみなさん、必死に救助活動をしていたみなさん、そしてその人たちの家族のみなさん、申し訳ありませんでした。いまここで謝らないと、勝手ではありますがすっきりしません。 何も発言できないように感じます。
とは言いながらも、いままでいろいろと言っては来ましたが。 ずーと引っかかってきました。こう書いたからと言ってすっきりしたわけではありませんが、いつかきちんと向かい合っておかないといけないように感じています。
仙台空港はこうなっていました。
こう書いてしまったら、きょうはこの先に進めないようになってきましたが、気を取り直して勧めさせていただきます。 岩沼市の千年希望の丘にいると嫌でも目に入り、耳に入ってくるもの、それは仙台空港に離発着する飛行機です。
以下の3枚の写真は海側から着陸しようとしている旅客機です。
もう一機
航空学校もあるからセスナ機の訓練もしています。
ヘリコプターも飛んでいました。