鮎と戯れて・・・魚族に感謝

東北地方を中心とした短い夏のあまり多くない鮎釣りの記録。家族に感謝して。近くの広瀬川の環境等にも拘るも、オフは時事問題も

何ですか、これは!

2020-01-16 16:14:39 | 思いつくまま

            

 

 きょうの天気は、冬らしくはないですが、お陰さまで過ごしやすかったです。でも朝方はよく冷えこみました。午前10時過ぎ頃から暖かくなって、目下のところの最高気温は 8.0度 のようです。

 

 きょう午前中は大学の先生の研究室に男二人で行って、先生と女子学生二人を相手に約2時間にわたっていろんなことを話し合ってきました。面白かったですね。自分でもよくしゃべったものだと自分で自分に感心しています。 

 

 いつもと環境が大きく変わったりすると、、私のような内気で話べたなニンゲンも少しは変わるのですね。ルーティンを大事にしながらも、別の要素を時々取り込む生活をすることは精神的にもいいのかもしれません。

 

 

 何かいつの間にか大相撲も始まっています。夕方前の取り組みは見ることが多いのですが、今場所は、鶴竜が負けたり、白鵬も追随したりという波乱を感じさせる場所となっていました。ある意味面白いともいえます。

 

 しかしながら、もう大相撲は“終わって”しまいました。きのうの白鵬に続き、きょうは鶴竜が休場し、2横綱がそろって姿を消し、今場所をぶちこわし、終わらせてしまいました。

 

 しかしなんでしょうか、この終わらせ方は。負けが込んでくると、都合よく体調不良で休場とするこのやり口。毎度のことですが、これでいいのでしょうか。何か白鵬の休場には、どうしても胡散臭さが漂います。

 

 負けが先行しこのまま行ったのでは今場所は優勝できない、優勝できないのならさっさと休みにして、体調温存し、翌場所の優勝狙いに的を絞ってやろう、相撲に出る目的はあくまでも優勝であり、優勝して沢山の賞金を稼ぎ、優勝記録を更新し続けるのが目的だから。そんなふうに感じることはないですか、みなさんは。

 

 私があまりに曲解し過ぎである、天邪鬼すぎると感じますか。別に私は自分は人種別主義者とか全く思っていません。でもあまりの横綱らしからぬ取組をみてそう思ってしまうのです。

 

 以下その原因?を考えてみます。どう考えても面白くないのは白鵬の仕切りです。これは今までも何回も書いていますが、依然として納得できません。正直腹が立ちます。何のための制限時間か、制限時間になって行事の軍配が返って、まったなし、両手をついてという掛け声も、何か空しいですね。

 

 お互いに立ち会いの呼吸を合わせなければならないのに、横綱のくせにさっぱり格下の力士に呼吸を合わせようという気がない。あくまでも何が何でも勝つために、自分主導の立会に固執し、待ったを繰り返し、格下を焦らせたりするわけです。これが腹だたしい。

 

 横綱なのだから、どんな時でも相手に合わせて立ちあがり、ぶつかればいいのに、それで負けたらそれなりに褒めてやるというものです、それこそが横綱というものではないかと思うのですが、そんな気は全くない。情けないし、恥ずかしい。

 

 そして横綱審議会から何を言われようと一向に改めない、張り手とかち上げ(エルボー)です。そんな手を使わなくても強いのに、なんでそんな手を使う!?と思ってしまいます。

           

 まあもちろん筋力体力は全盛期ほどではないということもあるのかもしれません。もちろん、禁じ手ではないから使って悪いものではないのですが、でも現在の相撲においては似つかわしくない技といわざるを得ません。

  

 だから以前から私が何回も言っているように、全力士は勝ち負け関係なく、白鵬と対戦するときは、すべからく張り手を食らわし、かち上げで体を浮かすという戦法をとるようにすべきである、と。そうでもしないと、白鵬の張り手とかち上げはなくならないでしょう。

 それと立ち会いの両手ですね。ちゃんと仕切り線に両手を置いて、見あいながら、行事のはっけよいの合図を待って激突する。そうすれば片方の手を着いた着かないといこともなくなるでしょうに。立ち会いの妙味がなくなるという意見もあるかもしれませんが、そこは100メートル走に代表されるように、号砲一発、行事の合図で立ち上がるというのが一番いいでしょう。


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