あんな話こんな話

会津生まれの会津育ち…三匹の猫と柴ワンコや家族に囲まれ、家庭菜園に勤しみ都会には住めそうにないローカルな私の日常。

涙橋から神指城予定地跡へと

2008-12-23 23:51:50 | プチドライブ・地域の事
市内の外れにある大きな柳の木が植わっている事から柳橋と言われる橋がある。
阿賀川から湯川へと川は分流され、市内を通り…また阿賀川へ合体するのだろうか?
川の傍には大きな碑が建てられ、その前には井戸があった。
もちろん危険防止のために防護されてはいるが
覗いてみると思ったよりも深くはない。


そんな橋を別名涙橋とも言われている。

そこには涙橋の由来の説明板があり
柳橋は会津と新潟を結ぶ越後街道の湯川にかかる橋で
付近に道しるべとして多くの柳が植えてあったので命名されたと。



会津藩が上杉時代の慶長5年に上杉景勝が石田三成と計り
徳川家康を牽制し12万人を動員、西へ半里程の如来堂に幻の神指城を築造する際
要所である橋を長さ17間、幅3間余の欄干のある堅牢な柳橋とした…とした事。

柳橋の200m程下流の薬師河原には、藩政時代の処刑場があり
特に昔キリシタン弾圧により寛永12年には会津キリシタンの中心人物である
横沢丹波と外人宣教師など60余名が捕らえられ
一度に処刑されたところで、キリシタン塚がある…などなど。



この場所には休み小屋があって、刑場にひかれる罪人は井戸の水で家族らと水盃を交わし
別れを惜しんだところから、通称涙橋と呼ばれ、昭和初めの木橋には涙橋とも記されてあった。
…そんな事などが記されている。

この場所で、井戸から水を汲み上げ家族との切り裂かれるような別れに
無念の思いがこみ上げる…そんな事を想像させる。

この橋から下流に200メートルほどに処刑場があると書いてあったので
ぬかるんだような川沿いの道をゆっくりと車を走らせてみた。
しばらく走ると、赤い鳥居のようなものが…。


ここがそうだろうか、「石上稲荷」と書いてあったが 
ここが処刑場だったのかどうかは分からずじまいだった。


その涙橋から、西へ2キロ程の所に如来堂という地区があり
そこには新撰組殉難の地と幻の会津の城神指城予定地跡がある。



新撰組殉難の地…会津新撰組がそこに陣をはり西軍に攻め込まれ敗れた場所で
母成峠の戦いに敗れた新選組は、北へ向かおうとする土方歳三らと
会津に留まろうとする斎藤一らに分かれる事となる。

斎藤一は「今、落城せんとするのを見て、志を捨て去る、誠義にあらず」
と同意した隊士とともに会津へ残った。「谷川史郎兵衛日記」より。

明治元年年9月4日、城下に進出した新政府軍は
如来堂に立てこもる新選組を攻撃し、激しい戦いを繰り広げ
全員討ち死にしたとされるが、斎藤一をはじめ数名が生き残った…とされる。


神指城予定地跡

慶長3年会津上杉景勝は、鶴ヶ城の他に新たに築城する計画を立て
同年2月家老直江兼続に命じたのだが…徳川家康に知れ
関ヶ原の前哨戦となる会津討伐のきっかけとなってしまい
完成を見ず工事は中止となり、関が原合戦の後上杉景勝は米沢に転封となる。

城の規模は本丸が東西180m、南北306m、二の丸は東西468m、南北522m で
土塁は10m、濠には大川と湯川の水を予定していたようだ。
完成していれば巨大な方形館タイプの平城となったであろうとされている。





現在は二の丸の四隅と本丸跡がわずかに残って
「高瀬の大ケヤキ」と言われる、すごく大きなケヤキの木がそびえている。
樹高 26m 目通り幹囲 11.7m 推定樹齢 500年とされ
昭和24年の台風で大枝が折れてしまったが
いまなお樹勢は良く、会津盆地一の巨木と言っても良いくらいだとか…。

神指城と直江兼続の係わり合いについては こちら

ここで会津の地へ
来年の大河ドラマ「天地人」での直江兼続の名前が出てくる事となる。


戦争にはいつも悲しい犠牲者が出る。
我が会津も、うら若き少年達が犠牲となった白虎隊の話や
城を守るために落とした、たくさんの命たち。
そんな無念の悲しみが、各地に戦争の爪あととして残されている。

一般市民にとって、誰が何処が国を治めるかなんてはどうでも良い事であり
ただ平穏に生きていける事が一縷の望みで、それは今の世代にも言える事だと思った。


という事で、涙橋の下を流れる湯川をUP!



今でもあまり整備をされた様子もなく
きっと 昔からこんな感じで流れてたであろうこの川は
何を見てきたのだろうか、黙して語らず…ただとうとうと流れ続けている。





コメント (16)
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