津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■これは困った・・「中院通勝の研究」

2014-02-22 07:51:17 | 歴史

 案の定と云うべきか、勅勘によって丹後に蟄居していた間(25歳~44歳)の中院通勝自身の情報は大変少ない。

 天正八年(1580)六月十八日、通勝、逐電、依勅勘也、在丹後国 で始まり 慶長四年(1599)十二月二日通勝は天皇より七絶を賜っている。
これが実質の勅免だとされている。十二月七日、通勝勅免出頭とある。その間十九年である。出典は「当家伝」とある。

「これは困った」と悲鳴を上げたのは、次の点である。 

    ○是歳(天正十三年・1585)通勝長男孝之誕生、幼名茶智丸(中院系図)考之の名は藤孝(幽齋)の一字をもらったものであろう。
     通勝はこれ以前に、幽齋養女、実は一色左京大夫義次女を娶っている。義次は丹後の旧主一色氏の一族かと思われるが、梅本政幸「丹後の史蹟」
     所収「一色氏家系」「丹後一色氏累代」には名を見ない。

孝之(幼名茶智丸)は、細川藤孝の四男とされる人物である。中院通勝の子であれば、藤孝(幽齋)が養子にしたとでもいうのであろうか。
出典な中院系図とされるが、WEBで公開されている 京都大学附属図書館所蔵 中院文庫目録 によると、この中に 中院家略系図 があるが、ここでは一切孝之のことなど出てはいない。(通勝の項  ・ 

これは間違いと解するのが妥当なのか、それとも幽齋の養子となって四男として扱われたのか・・・・・・困ってしまった。 

      

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■鬢付油の商売のこと

2014-02-22 07:45:28 | 熊本

 桑野豊助氏著「くまもと商家物語」を読んでいたら、びんつけ油製造所・松倉治助の大きな店構えの図絵が掲載されていた。古町のくくりの中に在るが上鍛冶屋町の一画である。いわゆる唐人町通りを挟む形で南北にあり、東側に上鍛冶屋町、西に鍛冶屋町がある。
「正法院の入口の右角がさくら屋松倉治助の店でびんつけ油の製造販売店であった。店頭に大火ばちを据え、油ぷんぷんとにおい、道行く人を楽しませた。いかにも古風な大店の風格であった」と桑野は記している。この本は昭和52年に発行された名著だが、このびんつけ油の店がいつのころまで商売をしていたのかは触れていない。

「番太日記」に鬢附之事という記事がある。

 享保の比新鳥屋町(現・新町四丁目)いのこ屋源右衛門殿、新三丁目にいのこ屋次助殿源右衛門殿弟なり、又新壱丁目に生島庄助殿、此三人熊本中の
 鬢附の極々宜敷して遠方よりも買に来る、扨其比ハ皆鬢附女のとハ四文・五文貝につめて売る、扨男のとハ一はん打つめ、こさきといふて※如此なる物
 にこさぎ、※たゝきはんにのせ角にして紙に包ミて遣ス、蛤貝多く俵につめて八代より来る、其時分ハ五十嵐鬢附といふあり、扨又鬢附売ハ鬢附油ばかり
 うりに出て外の品々はうらす、然処に新二丁目に京都より平塚藤左衛門殿といふ人来り鬢附の座出来る、いのこ屋・生島屋受売にて零落す、※ケ様ニたゝ
 きかため、半斤がめ・壱斤がめといふ、壱斤ハ二ツなり、此時より両いのこ屋つぶれになる、于時生島屋娵子おまんさまといふ、其時らく書ニ
      鬢附をそろそろねつていくしま屋 まんがよふしてなわる庄助
 前かとハ梅花油壱升樽に入口にちせんの銭にて下りはん昌致候処、新鳥屋町ひんつけ売新次郎といふ人梅花油をせんじ出しはんぜう致候ゆへ上方より
 下らす、木花ねり鬢附数ヶ年はんせう仕申候得共是茂後ハやみになり、龍のふねりひんツけはやる。
      (※はそれぞれ絵が描かれているが、表示不能) 

いつの時代も商売には栄枯衰勢がみうけられる。新鳥屋町から上鍛冶屋町は距離にしても1キロほどではないか。
なにかかかわりがあるのではないかと考えたが、享保と明治・大正時代ではあまりにもタイムラグが大きくて関係は無さそうである。 

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■「中院通勝の研究」を借りる

2014-02-21 15:54:59 | 徒然

 今日はなんとなく春の気配、昨日来熊本県立図書館の蔵書検索から見つけ出した資料をコピーするべく図書館行き・・・
車の窓をあけて走ると風は爽やかである。60枚ほどのコピーをしたが汗が出るような感じである。

一応の成果を得て満足しながら新刊書コーナーをみると、表記の「中院通勝の研究」が目に飛び込んできた。
頁をめくると最初から弘治二年から慶長十五年に至る年譜稿がこの本の約半分270頁を費やして載せられている。
これはすばらしいと即貸し出しの手続きをする。勅勘を得て丹後で暮らした天正八年から慶長四年までのものも含まれており、内容が豊かである。
細川家とのかかわりが垣間見えて興味わくわくである。数日この本の読書で過ごすことに在りそうだ。

しかし今日コピーした資料も、熊本史談会で使いたいので早々の読み下しにかからなければならない。
まあ、オリンピックもそろそろ終わりだし、頑張らずばなるまい。

ちなみにこの本のデータは
           著者:龍谷大学教授 日下幸男氏
           発行:勉誠出版株式会社
           全479頁・索引41頁 
           定価 12,000円+税 

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■獨禮とは

2014-02-21 09:01:10 | 徒然

「獨禮とは式日に藩主に謁するに當つて單獨に進むものを謂ふ」

昨晩はNHKで「よみがえる江戸城」を再放送していた。いかにもNHKらしく、一方では学術的にも素晴らしいと思われるCGで江戸城を紹介しているかと思えば、くだらぬキャラクターが登場してうんざりさせる。それでも我慢をしてみる価値はあった。

「獨禮」についての解説を詳しくみせられ、将軍の権力をさまざまと思い知らされた。
また大名家における「獨禮」とはどういうものであったのかを考えさせられた。
かって熊本史談会に於いて、家老・有吉家の文書を勉強したとき、細川藩の御規式の決まりごとの細やかさに驚かされたことを思いだした。
まるで茶道における御道具の位置をたたみ目を見ながら置くように、自らのすわる位置や、刀をおく位置など誠にこまごまとした決まりごとが数十ページに亘って記されていた。「獨禮」についての詳細はまだ資料に触れたことは無いが、昨晩の番組から推察するに、100石取りの我が家などは、仮に「近う」とお声が掛っても部屋内に入る事もならず廊下でただただ頭をたれていたのであろう。
あらためて侍の宮仕えがいかに大変であったろう事を思い知る感じであった。(ご先祖様ごくろうさま)

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■松寿庵先生 第88講

2014-02-20 13:29:03 | 史料

                                          ■ 清源院様湯治の旅 

                                          ■ 寛永三年湯治の旅

                                          ■ 松井岩千代 

                                          ■ 一行の記事から・・・半井氏

 

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■長崎仁助(一見)の一件 ・2

2014-02-20 07:21:10 | 熊本

一、霜月十五日は、髪置紐解と穪し子女三歳四歳となれば、各家競て之を祝す、唐人町某家此祝日に當り、袈裟珠數を包みし風呂敷を拾ふ、不吉の品と
  て一家面色なし、仁助偶々同家に來り、此は決して不吉にあらず、下拙一首を詠むべしとて、左の狂歌を與へしとなん
            けさ(今朝・袈裟)拾ふころ(比)も霜月十五日 
                 此子(衣)の壽命珠數の子の數 
  仁助又一日川尻に遊び左の一首あり
            川尻にへ(舳・屁)さきそろへて出る船を
                 か(數・嗅)そへて見ればくそう(九艘・臭)こそあれ

一、或年の正月元旦、小笠原家の松飾に轉癇(テンカン)人倒れかゝり、口頭泡を吹て苦悶の状見るに堪ず、主公不吉として慍色あり、長崎仁助参向して曰、
  是目出度事なりと即吟して曰、
            門松にあわふく(吹・福)の神來かゝりて
                 辨財てんかん毘沙門てんから
            一云、門松に七福神がよりかゝりあはふく神辨財てんかん 

   主公之を賞して毎歳米二俵を賜ふ、後節倹と穪して一俵を減ず、仁助又一句を呈す
            大黒の片足寒し年の暮れ
  主公其頓智妙才に感じ再び二俵を賜ふと云

一、長崎仁助夜會より歸り懸に
            灯ちんを枕にしたる供の者
                 かへると云へば珍重と云ふ
  二月十五日、仁助泰勝寺へ参りて
            釈迦の別れ涙の雨のふるならば
                  目連   阿難   加葉
                 眼もくれんあなんとかせう                  

  或大家の料理人源助と云者、額を高くぬき上て、至てそり下げなれば
            源助が前に鳥居を押立て後に髪が少しまします
  源助をかしく思ひ、腹も立返報せんと
            毎つ見ても色も変はらぬ此はをり
  と云ければ、一見直に
            貴様の袴幾代經ぬらん      狂歌集右平八・清兵衛・源助の事相似たり、誤り傳へたる者か 

一、長崎仁助古着屋にて鳶色の布子買ければ、亭主是は各別の安直なれば、酒を御買候へと興じければ、即座に
            鳶色の布子をわしにつかませて
                 慾の熊鷹又酒と云ふ
  又同人歌に
            世はすめりたゞ我獨にごり酒
                 のんで寝るにてさすらふの水

一、一見立町を通る時、知る人の妻黄昏忙しき様子にて、出つ入つするを何事やらんと問ければ、亭主の子供を連て、龍山に椎拾ひに行きて歸遅く、待兼
  て、少し腹立居る様子なれば一見
            龍田山椎の少々ありつらん
                 内にはこまちくるひこそする
  初午
            御稲荷に焼かん肴を供れば
                 初午いとてよつてくわん/\
  職人町通る時
            塗り置きし鞘のこじりの干るやらん
                 職人町は屁くさりけん
  落鮎
            身から出てさび鮎ながら河下に
                 落て懸るはあらかあゆやな
  中尾の櫻
            あの牛の尾山の櫻咲にけり
                 もふ角樽の口開かなむ 

   仁助の向に傘張あり、六郎左衛門と云者傘誂置て數日出来ず、腹立口論に及び傘やこぶしにて六郎が頭を打ち、双方立合し中に入りて、
            ろくろざがあたまをはるは傘や
                 雨の下なるをごりものかな

  妙楽寺薬師堂大破にて行基の作の薬師抔開帳し、瓦奉加の勸化を乞しかど、施主少も無りけれは、
            物取に世話をやくしの開帳し
                 瓦奉加のぎょうぎのわるさよ

  仁助京町邊に行けるに、途中より殊の外空腹にて、急ぎ歸りて飯を給はんとしけるに、冷飯もなし、頭痛して目まはす如くありければ
            ひだるさにめつたむしょうに頭痛して
                 人もはやさぬ目こそまふなり

  或方に両三輩夜咄に行けるに、太皷めしつきに菜飯を入て、田楽を添て何れも數度に及ぶ、飯つきをつき替て出る時に、仁助云
            打出す太皷飯つきなめしかば
                 扨もなりますでゞんでんがく

  或方に黒ごまを茶菓子にかけて出しかば
            黒ごまをかけて出せる菓子なれば
                 喰ふ人毎にあらむまと云ふ

  坐頭公事をして、八代の坐頭搦め捕らるれば
            熊本の黒白坐頭くじをして
                 郡さとうも迷惑ぞする

  有生非生を知らぬ世の中と云句に
            半分は鰻になりし山の芋

  或寺の住職を打、弟子共打返しせんと云を
            打つ人も打たるゝ人も諸共に
                 同じ此世の土とこそなれ

  仁助すみらほりに出浮しに、早く一首と云聲あり、見れば知る人なり、直に
            此比はすみら小女郎と戀すれば
                 ほるゝ日もありほれぬ日もあり

                   

                      (了) 

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■長崎仁助(一見)の一件 ・1

2014-02-19 19:35:02 | 熊本

 熊本に寛永から元禄に懸けて塗師として活躍した長崎仁助という人物が在り、その作品は仁助塗と称して有名である。
續肥後先哲遺蹟(巻一・p372)からその人物をご紹介すると
            長崎仁助、字道必、號一見、塗古今の名人、仁助塗と世に傳ふ、色々の細工を世に傳ふ、
            和歌を善す、一生妻を迎えす、寛永十七年庚辰年生、元禄三庚午十一月十五日没、行年
            五十一歳
             
本業と共に名を高ら〆ているのが狂歌である。「長崎一見狂歌集」というものがあるのだが、活字化されているのかどうかよく判らない。
なんとか手元に置きたいと思っているが、上妻文庫に上妻博之先生が謄写されたものがあるようなので、コピーをして手に入れたいと思っている。
全224ぺーじとあるから、一気にとは参らぬ。6~7回にわけることになるだろうから、年中に終わるかどうかも怪しい限りである。(ほかにも色々ありますから)

「續肥後先哲遺蹟」で紹介されている作品をご紹介しておこう。

一、或老人曰、長崎仁助翁は舊藩御天守方の職工にして一奇人なり、狂歌を能し世に知らる、職務に従事するや黽勉年あり、初二人扶持下されしが、官
  其年功を賞して席を獨禮に進めらる、翁喜ばずして云、予は元貧賤の者なり、何ぞ席を望んやとて、一首を詠せり
            獨禮が喰はるゝものであるならば
                 一人扶持とかへてあげましよ
  右の歌に因てや、猶一人扶持の御足給扶持を下されしとぞ、翁は元飽田郡立田村居住の由、毎に通勤の往来に、立田口町の理髪床に寄、月代結髪
  を頼みけるに、主人いつせん名は平八と云、少しく頓才あり、翁に乞て門に入りぬ、或時翁の髪を結びしに、天窓大に禿げ、後ろ少々髪毛あるを見て、
  平八一首を詠せり
            仁助さんまえの額に鳥居立
                 後にかみが少しまします
  翁の返しに
            鳥居立後にかみがますならば
                 いつせん上げて拝め平八
  或日翁妙解寺内某院に遊びしに、夜に入りて歸りの路次、不動院に立寄んとて門戸を叩けども鎖してあけず、庫裏の方には未だ火見え煙たちけるに、
  懐紙を取出し一首を詠じ、扉に張付立歸りしとぞ
            不動院庫裏から煙たちのぼる
                 客こんからと門をせいたか
一、熊本高麗門外禪定寺は加藤侯の時、並河志摩守菩提寺なり、其砌禪定寺焼亡す、夜中より明迄に焼候由、永(ママ)崎仁助と云者の狂歌あり
            ほのぼのと今朝迄焼し禪定寺
                 志摩かくし行米をしぞ思ふ
  私に云、永崎仁助と云ふ者、専ら狂歌を詠しは、貞享元禄の年中なりし、然るに慶長の年比に仁助歌を詠しは不審なり、古の事を聞てよみしや、然れ
  ども、或説には、長崎仁助と云しは狂歌詠候者、三代續て居たる由、左もあらんか

一、阿蘇山左京橋にて、長崎仁助
            うそいはゞ口は左京の橋の上
                 まこといはふの匂こそすれ 
  此歌一見狂歌集には見えず、余母に聞けり、左京が橋と云は阿蘇谷の侍西左京と云者、掛始めたる故の名なりと云

一、職人一首鋟梓、世に流布せり、烏丸殿御覧ありけるに、殊勝なる狂歌の由御賞嘆ありて、一首の御詠を遊ばし、細川丹後殿家士に附して送り下し玉
  ふ、則仁助に見せて、短冊は其侍もらひけりとぞ、烏丸殿より一見に御褒美の御歌
            思ひきや斯るためしは不知火の
                  筑紫のはてに狂歌ありとは

一、山崎方侍衆の處に夜會あり、仁助もよばれ四五人参りしに、夜食殊外遅くいづれも待ちかね、漸々四つ時過出る、白魚の吸物、あさ飯なり
  仁助古歌直し
            あさめしのわたせるはしにおくしるの
                 白魚見れば夜ぞ更にけり
  仁助瓜食傷して赤痢を煩ふ時に
                      我腹は赤地の錦ひたたれに
                 くだらせ玉ふ瓜のさねもり
  料理人の清兵衛と云者、額を高く取あけ、髪をそり下げたる男、去方へ料理に参る、仁助も客にて参りしに、亭主仁助に云やう、清兵衛が天窓につけ
  て一首と望むとき
            清兵衛は額に鳥居立にけり
                 うしろにかみの少しまします
  八代へ参り、高田蜜柑の木のもとにて
            拾はゞやひとふたみかん四つ五つ
                 むかしながらの七つ八代
  弟の身まかりけるに
            さきだちてかれ行霜の弟草に
                 のこる老その森の下露

            瀧川の余こそさきに行水の
                 あはれはかなくのこる身ぞ憂き

                           (中略) 

 

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■お安く読む・文春新書「西郷隆盛の首を発見した男」

2014-02-19 12:52:35 | 書籍・読書
     西郷隆盛の首を発見した男 (文春新書)
 
                    文藝春秋

★「西郷の最期」100年のミステリーに終止符
西南戦争に敗れ、自害した西郷隆盛。その年、火星が地球に大接近し、マイナ
ス2・5等星ほどの明るさになります。庶民は「星に西郷がいる」「西郷星」
だと騒ぎだし、星に西郷が鎮座している錦絵まで出現しました。さらには、西
郷は生きている、満州にいる、いや、ロシアだ、インドにいるという噂も飛び
交いました。西南戦争から98年たった1975年(昭和50年)にも、南日
本新聞に「西郷どんの首が発見された?」という記事が掲載されています。西
郷が生前写真を残さなかったことも「西郷の首」のミステリーが100年以上
も謎に包まれていた原因だったと思われます。
産経新聞編集委員の大野敏明さんは、この西郷の首を発見した千田登文中尉の
「履歴書」を金沢の千田家で入手、歴史にまつわる書籍も多い大野さんの情熱
と知識をもって、癖の強い墨文字で書かれた「履歴書」を読み解くことに挑み
ました。西郷の首の行方、そして、戊辰・西南・日清・日露を戦った一人の武
人の生涯に迫った労作です。
ここにはもう一つの知られざるドラマがありました。西郷と同郷の幼馴染で西
郷を深く敬愛し、最後には決裂した大久保利通。大久保は西郷に心酔する金沢
の浪士に紀尾井坂で暗殺されますが、そのときも大久保の懐には西郷からの手
紙が入っており、大久保の血で赤く染まりました。このとき、大久保を殺害し
たのが、千田の竹馬の友、島田一郎だったのです。島田は処刑され、ただ一人
千田は昭和まで生き続けます。なぜ、千田は生前西郷の首のことを周囲に公言
しなかったのか? 歴史の奔流の中で必死に生きる男たちの姿が浮かび上がっ
てきます。
『西郷隆盛の首を発見した男』大野敏明・著
http://f.msgs.jp/r/c.do?93H_4Z5_5F_mft


                       文春新書編集長  向坊 健

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■横恋慕の果て・・?

2014-02-18 16:18:15 | 史料

■寛政五年十月廿七日 宇田安左衛門 栗原傳蔵(実ハ三男・左九郎)打取 
   (上記目次の表題に於いては十月廿八日とあるが、文の内容などからすると十月七日が本当であろう  記・津々堂) 
 最近よく見受けられるストーカー事件のようなものだろうか? 家に押しかけ、話に乗らぬなら親もろともに殺すと脅かして切りかかり、却って討取られたという一件である。 

有吉萬之助組

 私妹儀昨廿七日夜山本郡味取町江居住仕候都筑次左衛門觸組栗原傳蔵三男栗原左九郎
 儀難差通筋有之候ニ付私隠居在宅におゐて打果申候此段被成御達可被下候以上
       十月八日                   宇田安左衛門
          沼田貞右衛門殿
          堀田文右衛門殿

 

          御内意之覚
 私妹儀栗原傳蔵忰栗原左九郎打果申候始末は一昨六日隠宅え客来有之妹之部屋ニ居
 申候処右左九郎儀屋敷内え忍入窓ゟ不義之節を色々申聞候ニ付甚呵申候へとも女ニ侮申候哉
 立除不申弥申懸候間打果呉可申旨申候得共退不申近所より雇置申女左九郎儀は酔躰之様子
 ニも有之候間此節は差許申候様相断立帰申候様取計申候ニ付先其侭ニいたし置隠宅えも
 不申聞一應は差許申候 然處翌七日之夜妹儀は雪隠ニ参窓ゟ見申候処人影見へ申候間萬一盗賊
 躰ニ而も有之間敷哉と座敷方え廻り何者ニ而候哉と相咎申候處我等ニ而候と申昨夕之儀不承知候ハゝ
 此節は隠居共ニ打果申候と申ニ付不届之儀難差通刀を取ニ走申候処後ゟ切懸申候間
 其刀ニ取付もき取打果申候 然は其者之刀ニ而留を刺申候も如何と存声を立テ弟良八
 え隠居差料を持参候様申候へ共右之差料見へ不申其内隠居参則留占メをも刺遣申候 尤
 右左九郎ゟ切懸申候刀は其以前ニ忍入取申候と相見隠居差料之刀ニ而御座候右之通御座候以上
       十月八日                   宇田安右(ママ・左)衛門 

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■六石

2014-02-18 09:01:36 | 歴史

 細川家に於いては、東京の妙解院のことを六石(りっせき)と呼んでおられる。沢庵宗彭を開山として三代将軍・家光によって創建された、万松山東海禅寺の広大な寺域は明治四年廃寺となったが、細川宗家・細川新田藩の墓地としてこの六石は細川家の所有するところと成り現在に至っている。現東海寺は六石のとなり、旧玄性院の在ったところにある。宇土支藩の清光院も目黒川をはさみ要津橋を渡ったところにある。細川家一族の江戸における菩提寺がここに集まっていた。ここに残る大名家のお墓の集積は、貴重な歴史的遺産でもあるとされる。

                            六石(妙解院) 寛永20(1643)年建立 開基・細川光尚
                            清光院      慶安3(1650)年建立   開基・細川行孝実母
                            少林院      元禄3(1690)年建立   開祖・細川綱利

六石は現品川消防署の真向かい、品川保健所の右隣の位置に当たる。喧騒の街中に異次元の時空間がここに存在している。 

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■本日のもろもろ

2014-02-17 16:29:04 | 徒然

・今年は免許更新の年で、1月19日生まれの私はぎりぎりの今日まで引き延ばしてきたので、午前中出かけて新しい免許証をもらってきた。
 あと何回更新が必要なのか、あまり車を使う機会が少なくなってきたので、いろいろ考えるのだが、奥方の買い物のメッセンジャーの仕事がるから、もう
 少々がんばらずばなるまい。

・今日は我が家の愛犬の三代目・ごえもんの命日。早いもので満六年(七回忌)に成る。18歳で死んだがこの写真は16歳くらいか?
 いつも手元に在る写真である。
                                      
 四代目を欲しいと思うのだが、奥方が生き物を飼うのはもういやだと言うし、飼えば散歩も大変だから納得と云うか我慢と云うか・・・・あきらめました。
 懸案のメダカを飼いたいと思っているが、歴史の勉強に忙殺されてこれも??。

・図書館に出かける。併設されている近代文学館で行われている「富永コレクションが語る・肥後の武」に、併せて猿木家文書が展示されているらしい。
 30年ほど起居を共にした母方の祖母の実家が猿木家、父親は猿木宗那で小堀流踏水流の名人と云われた人なのだが、末弟・城義核が廣吉寅雄に与
 えた相伝の書と思われる巻物が手元にあるので、これを機会に今般図書館に納めることにした。


                                      近代文学館特別展 チラシ

・図書館では「手討達之扣」の残り約47枚(94頁)と、東京都教育委員会発行の「文化財の保護・第30号」26枚、計73枚をコピーする。
 前者はこれで完了と相成った。
 後者は東京都指定史跡・熊本藩主細川家墓地(東海寺塔頭・妙解院)に関する報告書である。これもその内/\が今日と成り一件落着。

・今月9日県立図書館が不要になった本を集め、一般の人達に配布するという「本活フェア」の配本の今日は三日目の最終日である。
 初日から本好き人間が集まり賑わったらしいが、最終日ともなると残り物に福とは参らず、来場者も閑散としている。(雨のせいもあるか・・・)
 講談社の「豪華版・日本現代文学全集」の「森鴎外集」「永井荷風集」の二冊を頂戴した。どこかの御宅の応接間の本棚を飾っていたのだろう。
 読まれたような気配が見えない。私が読んで差上げようという奇特な考えによって頂戴した???
  

 

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■春木坂

2014-02-16 15:29:49 | 熊本

 熊本地方裁判所+京町拘置所の南側に豊後街道が通る観音坂がある。北側には中坂と呼ばれる坂がある。この坂は下ると直進しているが、江戸期の古地図を見ると中坂下には直進する道はなく、大きく右折して下ってきた観音坂の下で合流している。
参勤交代の行列は観音坂が急坂であるため中坂を下り、大きく迂回して観音坂下へもどり豊後街道へ至ったらしい。 

その中坂が下り始めてすぐの左手に春木坂という階段状の坂がある。上り詰めた所の右手に奉行などを勤めた春木主税の屋敷があった。
中坂下から登ってくる人たちが仏厳寺方面へ抜けるのに便利なようにと、自費でこの坂を作りその為春木坂の名前が残った。主税坂とも呼ぶ。

設計通信2 / 気になるカメラ、気まぐれカメラ を拝見していたら、ここでご紹介する写真(昭和55年ころの写真)右手の家のあたりとよく似た場所が写っていた。
全く変わっていないではないか。
国土地理院の標高が判るWEB地図によると、最高点35.5m・最下点24.4mと出るから約11mの高低差がある。
この急な坂道地元の皆さんにとっては生活の為の大事な道なのだろうし、足腰が鍛えられて運動の為には良いかもしれない。 

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■お安く読む・現代新書「城を攻める 城を守る」

2014-02-15 19:31:03 | 書籍・読書

 

城を攻める 城を守る (現代新書)
 
        講談社

内容紹介
『この時代小説がすごい! 2014年版』単行本・作家部門ランキング1位の著者が、戦国時代から幕末にかけて城郭攻防戦が展開された「戦う城」を徹底分析

本書を手に取った方々は、一過性の趣味として城めぐりをしているわけではないはずだ。おそらく城好きが高じて、その歴史的背景までも知りたいと思っているのではないだろうか。本書は、そうした方々を対象としている。「日本百名城」ブームを一過性のものとして終わらせないためにも、その城で過去にあった攻防戦に目を向けてもらい、その城の経てきた歴史に興味を持っていただく必要がある。本書は、そうしたことを念頭に置いて書いた「戦う城本」である。

【白河城】 東北戊辰戦争の行方を左右した城郭攻防戦
【会津若松城】 幕末最大の悲劇の舞台となった白亜の名城
【五稜郭】 箱館戦争の舞台となった欧州式稜堡型城郭
【新井城】 武士の時代の終わりを告げた海城
【河越城】 新旧交代の舞台となった武蔵国の要衝
【箕輪城】 孤高の奇才・長野業政の築いた城郭網
【鉢形城】 戦国時代の黎明から終焉まで、激戦の舞台となり続けた要害
【八王子城】 関東平野を睥睨する巨大山城
【水戸城】 血で血を洗う同士討ちの舞台となった名城
【川中島合戦と海津城】 信玄の高速道路を支えた一大兵站拠点
【一乗谷朝倉館】 現代によみがえる中世城郭都市
【七尾城】 北陸有数の巨大山城を攻略した謙信の軍略
【春日山城】 謙信が手塩にかけて造り上げた戦国最強の山城
【桶狭間合戦をめぐる城郭群】 伊勢湾経済圏支配をめぐる織田・今川両家の熾烈な攻防戦
【懸河城】 今川家の駿遠防衛構想の切り札となった要害
【二俣城攻防と三方ヶ原合戦】 巨匠武田信玄が最後の筆を揮った会心の一戦
【長篠城】 戦国時代の流れを変えた山間の城
【高天神城】 栄光と没落の分岐点となった東海一の堅城
【山中城】 緒戦の大切さを教えてくれた戦国山城の最終型
【韮山城】 四万四千の豊臣軍を翻弄した北条家創業の城
【小谷城】 戦国時代を代表する難攻不落の大要害
【有岡城】 戦国有数の悲劇の舞台となった怨念の城
【賤ヶ岳合戦と陣城群】 天下の帰趨を決めた陣城戦
【大坂城】 外交的駆け引きに敗れ去った難攻不落の巨城
【原城】 泰平の世を震撼させた宗教戦争
【熊本城】 国内最後の城郭攻防戦を耐え抜いた名城中の名城


目次
第一部 北海道・東北
 白河城/会津若松城/五稜郭
第二部 関東
 新井城/河越城/箕輪城/鉢形城/八王子城/水戸城
第三部 甲信越
 川中島合戦と海津城/一乗谷朝倉館/七尾城/春日山城
第四部 東海
 桶狭間合戦をめぐる城郭群/懸河城/二俣城攻防と三方ヶ原合戦/
 長篠城/高天神城/山中城/韮山城
第五部 西日本
 小谷城/有岡城/賤ヶ岳合戦と陣城群/大坂城/原城/熊本城


 
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■皆さま睡眠不足では・・

2014-02-15 17:18:52 | 徒然

 ソチオリンピックの羽生選手、金メダル良かったですね~。若い選手の活躍が素晴らしく、感動させられます。
私は昨日は12時前に就寝、3時半?頃家族の声で目が覚め優勝したことを知り、又そのまま寝込んでしまいました。皆さまは如何ですか。睡眠不足ではないですか。

 今日は史談会の2月例会、「熊本城下の坂」について会員F氏の発表を聞きました。私は昨日50に登る坂の位置を地図に落とす資料作りで過ごしました。しかし今日は自分で発表するわけではないので、随分楽をさせてもらいました。

 昨日は熊本市内でも金峰山が雪をかぶり真っ白な景色が見られるほど寒い数日を過ごしましたが、今日は一転史談会の会場では汗をかくような一日でした。明日は熊本城マラソン、あの川内選手が出場しますから、さぞかし沿道は賑わう事でしょう。明日は市内中心部への車での外出は無理のようなので、いろいろ用事を済ませて帰宅と相成りました。史談会がある時はいつもそうですが、がっくりと疲れが出てしまいました。

明日はお休みですから、今晩はTV観戦しようかと思っていますが・・・・・なんだか早々に寝てしまいそうです。 

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■「百間石垣うしろ跳び」のあの山東弥源太殿のこと

2014-02-14 12:48:19 | 歴史

 随分以前 百間石垣うしろ跳び を書いた。これは山東弥源太幼かりし頃の話だと思われるが、今回の話は文化十一年八月初めのころの話である。
山王神社近くの井芹川で川漁の最中、河に入る為に抜いた大小のうち脇差を盗まれたという事件が発生、目星をつけた人物に振り回されながら二日がかりで解決、この犯人を討捨てたという事件である。

ちょうど上熊本駅の裏手あたりになるが、後に大改修が行われ流路は大きく変わることになるが、この山王(井芹日枝)神社あたりは昔の面影が残っている。
まだ花園に住んでいたころ、ここは子供たちが釣などを楽しんだ場所である。なつかしく又この文書に遭遇して事件を知り驚いている。

                                

                                                          P1090793

 

     文化十一年大木弥助組

          口上之覚         京町壱丁目
                            文左衛門
  右は私名跡相続之二男山東弥源太江對し難差通不届之儀有之候間今日弥源太討捨申候
  此段御達仕候以上
       八月五日                山本彦右衛門


          口上之覚
  私名跡相続之二男山東弥源太儀、昨八日八ツ過頃より井芹川筋桶漬漁をして罷越申候ニ付、大木弥助足
  軽相沢又三郎三男次吉と申者を雇漁具等為持、井芹山王宮下ニ而右漁仕候ニ付、衣服は揃大小を抜河
  塘ニ差置右次吉江番申付、弥源太儀は川中江参申候處雨降出申候ニ付、桶を漬申間も無之、直ニ川塘江引
  返申候処、右次吉閣候ケ所ニ少シモ相はなれ申候釣仕居候、弥源太儀は降出申候ニ付用意仕候油紙を以大小
  衣服等を覆申候所存之處、脇差無之刀并衣服迄有之候ニ付右次助江相尋申候処一向存不申候由返答

  仕候依之相警近邊ニ別人これなく何者耶(ヤ・カ)一人川下モ五拾間計之同塘筋江参り裸ニ而釣
  致居申候、此者怪敷相見候付此者後ロ江弥源太儀暫ク立寄見申候処、右之者儀側江有之候肌着を打振
  ひ直ニ肩ニ懸申候躰益怪敷相見え申候ニ付、脇差之儀相尋申候處、裸ニ居申候事故盗申候迚も何方え隠シ可申候や
  打笑ひ返答仕候へども暫時之間ニ外ニ盗可申者も無之、此者甚怪敷相見申候ニ付先此者取迯申間敷存最
  初大小等閣候ケ所え此者を召連参り猶吟味仕候得共弥無之其時分は■漁ニはいり候、幼年之面々相集
  右之者を指さし此者兼而盗いたし候者ニ付、盗取候ニ而可有之申候ニ付弥不審ニ取迯シ不申候様心を用居先右侭
  ニ而は相済不申候ニ付前後次吉を差遣取ニ差越候ニ付、早速■を差越候間右之者を召連レ七ツ前罷帰直ニ
  精ニ詰問仕候得共言初は白状不仕候、頻ニ吟味仕候処夜五ツ時比ニ相成、定而彼ノ邊え可有之今晩夜中ニかゝり
  候へども吟味仕出上ヶ可申段申出候ニ付、直ニ右之者を弥源太儀召連、山王宮近邊え参り申候処釣仕候方角
  くね藪有之候処を指さし、此四五間之間ニ可有之申候ニ付五ツ比ゟ九ツ比迄精々吟味仕候得共一向吟味仕出
  不申候ニ付、先昨夜は連帰り申候、然處今朝ニ至り自身盗取候而くね藪ニ隠置候由白状仕候ニ付猶召連
  罷越、右脇差吟味仕出持帰申候、昨日之儀今朝ニ至り相分不届之次第ニ付不得止事討捨申候ニ付子細
  御達仕候以上
      八月                   山本彦左衛門 

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