一、霜月十五日は、髪置紐解と穪し子女三歳四歳となれば、各家競て之を祝す、唐人町某家此祝日に當り、袈裟珠數を包みし風呂敷を拾ふ、不吉の品と
て一家面色なし、仁助偶々同家に來り、此は決して不吉にあらず、下拙一首を詠むべしとて、左の狂歌を與へしとなん
けさ(今朝・袈裟)拾ふころ(比)も霜月十五日
此子(衣)の壽命珠數の子の數
仁助又一日川尻に遊び左の一首あり
川尻にへ(舳・屁)さきそろへて出る船を
か(數・嗅)そへて見ればくそう(九艘・臭)こそあれ
一、或年の正月元旦、小笠原家の松飾に轉癇(テンカン)人倒れかゝり、口頭泡を吹て苦悶の状見るに堪ず、主公不吉として慍色あり、長崎仁助参向して曰、
是目出度事なりと即吟して曰、
門松にあわふく(吹・福)の神來かゝりて
辨財てんかん毘沙門てんから
一云、門松に七福神がよりかゝりあはふく神辨財てんかん
主公之を賞して毎歳米二俵を賜ふ、後節倹と穪して一俵を減ず、仁助又一句を呈す
大黒の片足寒し年の暮れ
主公其頓智妙才に感じ再び二俵を賜ふと云
一、長崎仁助夜會より歸り懸に
灯ちんを枕にしたる供の者
かへると云へば珍重と云ふ
二月十五日、仁助泰勝寺へ参りて
釈迦の別れ涙の雨のふるならば
目連 阿難 加葉
眼もくれんあなんとかせう
或大家の料理人源助と云者、額を高くぬき上て、至てそり下げなれば
源助が前に鳥居を押立て後に髪が少しまします
源助をかしく思ひ、腹も立返報せんと
毎つ見ても色も変はらぬ此はをり
と云ければ、一見直に
貴様の袴幾代經ぬらん 狂歌集右平八・清兵衛・源助の事相似たり、誤り傳へたる者か
一、長崎仁助古着屋にて鳶色の布子買ければ、亭主是は各別の安直なれば、酒を御買候へと興じければ、即座に
鳶色の布子をわしにつかませて
慾の熊鷹又酒と云ふ
又同人歌に
世はすめりたゞ我獨にごり酒
のんで寝るにてさすらふの水
一、一見立町を通る時、知る人の妻黄昏忙しき様子にて、出つ入つするを何事やらんと問ければ、亭主の子供を連て、龍山に椎拾ひに行きて歸遅く、待兼
て、少し腹立居る様子なれば一見
龍田山椎の少々ありつらん
内にはこまちくるひこそする
初午
御稲荷に焼かん肴を供れば
初午いとてよつてくわん/\
職人町通る時
塗り置きし鞘のこじりの干るやらん
職人町は屁くさりけん
落鮎
身から出てさび鮎ながら河下に
落て懸るはあらかあゆやな
中尾の櫻
あの牛の尾山の櫻咲にけり
もふ角樽の口開かなむ
仁助の向に傘張あり、六郎左衛門と云者傘誂置て數日出来ず、腹立口論に及び傘やこぶしにて六郎が頭を打ち、双方立合し中に入りて、
ろくろざがあたまをはるは傘や
雨の下なるをごりものかな
妙楽寺薬師堂大破にて行基の作の薬師抔開帳し、瓦奉加の勸化を乞しかど、施主少も無りけれは、
物取に世話をやくしの開帳し
瓦奉加のぎょうぎのわるさよ
仁助京町邊に行けるに、途中より殊の外空腹にて、急ぎ歸りて飯を給はんとしけるに、冷飯もなし、頭痛して目まはす如くありければ
ひだるさにめつたむしょうに頭痛して
人もはやさぬ目こそまふなり
或方に両三輩夜咄に行けるに、太皷めしつきに菜飯を入て、田楽を添て何れも數度に及ぶ、飯つきをつき替て出る時に、仁助云
打出す太皷飯つきなめしかば
扨もなりますでゞんでんがく
或方に黒ごまを茶菓子にかけて出しかば
黒ごまをかけて出せる菓子なれば
喰ふ人毎にあらむまと云ふ
坐頭公事をして、八代の坐頭搦め捕らるれば
熊本の黒白坐頭くじをして
郡さとうも迷惑ぞする
有生非生を知らぬ世の中と云句に
半分は鰻になりし山の芋
或寺の住職を打、弟子共打返しせんと云を
打つ人も打たるゝ人も諸共に
同じ此世の土とこそなれ
仁助すみらほりに出浮しに、早く一首と云聲あり、見れば知る人なり、直に
此比はすみら小女郎と戀すれば
ほるゝ日もありほれぬ日もあり
(了)