図録 「永青文庫 細川家の歴史と名宝」より引用
一、重賢公御代、御用人に召仕はれ、器量才蓺世に名高き人にて有之候、初久我様へ御縁邊御取組遊さ
れ候節、京都へ罷出、御用相勤べくと申者一人も無之候處、自願出て罷上り、船中にて禮書をしら
べ、無難に御用を相勤候間、御納戸役に召仕はれ、其後堀老を御薦申上候勲功有之候に付、御用人仰
付られ、常に直言極諫を申上、第一は 治年公御代に、弓馬の大禮犬追物を始、齊茲公御代迄都合
御三代に御奉公申上、多年忠勤の者にて有之候に付、御留守居大頭同列に進席、御加禄三百石被下置
る、老衰にて御役御断、直に隠居御扶持方をも下置れ、格別の御優待にて有之候 有名内臣録
一、竹原玄路は常に朝寝をする男にて、若強く起すことあれば、毎も気色損し、散々に叱るゆゑ、誰も
起すことは憚り居たり、或朝御用にて早々罷出よと申來りし時、若黨玄路が寝間に行て、其由申け
れば、應じながら起もやらず、若黨共いかゞと思へども、例の呵るに恐れて、強く起しもやらず、兎
角する内に、御取次何某 名忘たり 走り來り、 公先より待せ玉ふ、いかにして遅りしや、疾に召すとあ
わたゞしく申ければ、若黨共大に驚き、寝間に走り行、かくと申けれは、大聲を出し、なに昨夜も
九つまで論じ玉ひ、勘十郎は寝ずに御奉公は出来ぬと云へと、足にてしたゝかに踏ならし、猶起も
やらず、來りし御取次も興さめ、不敬なる男哉と、甚不快に思ひ馳歸り、有つる様を申上げしか
ば、勘十郎は我儘なければよけれども、今に我儘が止ず、笑止なる男と聊さはる御気色もなく、
御書見を始め玉ひし由、公の人を使ひ玉ふは、惣てかく其小過を免し、賢なる處を用ひ玉ひしかば、
人々心を盡し、才を盡したりとなん、辛島翁の物語なりき 聞儘の記
一、或時濱町様 御在勤中なり 堀平太左衛門、竹原勘十郎夜分御居間に召せられ、蕎麦切を下さるべしとの御事
にて、御前にて御相伴仰付られ候、竹原不怪蕎麦切好物にて、必多物頂戴致され候、蕎麦切皆に相
成候に付、御給仕役其段申され候處、勘十郎以の外の気色にて、今晩は拙者へ蕎麦切を下置るとの御
事にて頂戴仕候處、蕎麦最早無之と申は、御䑓所不埒の至にて、急に拙者頂戴仕候蕎麦支度致候様
可有御申付と荒らかに御前にて憚處なく申されければ、御近習衆も甚だ持あぐみて居候處、平太左
衛門申され候は、勘十郎最早能程に頂戴致され候へと申されければ、勘十郎も夫よりひかへ居られ
候處、平太左衛門より御前に、勘十郎未だ若気ぬけ不申段御取合申され候由 下略○或覺書
一、何方よりか参候躑躅を植付仰付置れ候處、其後花咲候へば、竹原勘十郎殿へ皐月咲候と御意遊ばさ
る、勘十郎殿さつきにては無御座と申上られ候へば、さつき/\と御意遊ばされ候、猶又勘十郎殿さ
つきにては無御座と申上ながら、右のつゝじを引こぎて御覧に入られ候へば、些御顔つき替せられ
候儀に見えさせられ候に付、小堀全順老取あえず、御茶を差上可申と申上られ候へば、勘十郎殿さや
うな追従らしき事を不申上とも、つゝじ植候人を出され候へと申され候へば、御機嫌能りしとなり、
岡村某話 遺秉集
一、或時御出さき 熱海御途中か不覺 賤家にて躑躅の見事なるを、麁末なるかげ鉢に植てあるを御覧遊ばされ、竹
原勘十郎殿へ仰付られ候て召上られ、其かげ鉢のまゝ御床 江戸の御屋敷 の上に置せられ、お客様御出あれ
ば、竹原殿を召出され候て、お客様へ御向ひ、あの者あの鉢植を何程にて求むる、其様なる馬鹿にて
ござ候故、一生難儀仕候と仰られ候由、ヶ様の事度々ある故、御客様の節勘十郎を召候へば、又鉢
植で有うと云て、御前へ出られ候と也、右鉢植曾て高値に取計はれたるにては無之を、右之通御客
様へ仰せられ候は、思召有ての事にてあるべしとぞ、此事先年承り記し置候へ共、紛失仕候に付、
覺居候通を記す、 同上
一、公御生前の御影を、竹原勘十郎三通に寫し奉らる、一幅は御束帯、一幅は御平服、一幅は黄八
丈の御衣服にて御火鉢にあたらせ玉ひ、御敷革に御座の尊影なり、此尊影の上にしぐるゝかの御句
を、江戸の俳諧師谷口雞口寫し奉るとなり、 同上
つづく
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
しくるヽ歟 あかり障子に音はかり 花裡雨(重賢公俳号)