津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■淀川という川

2015-03-23 18:47:44 | 歴史

             

 西国大名の参勤は船団を仕立てて瀬戸内の島々を縫うようにして大阪湾に至った。安治川に到着すると此処からは川船に乗り換えて淀川を伏見まで遡る事に成る。
上の図は淀川河川事務所のhpから引用させていただいたが、このように多くの河川が流れている大阪平野であるが、淀川は大規模な河川改修により新淀川に生まれ変わっている。

上流をたどると大まかに桂川・宇治川・木津川と水源を異にする三つの川が合流して淀川となっている。かっての淀川は大阪城の北側で蛇行して西に流れ、中の島を挟んで堂島川・土佐堀川に分流し再度合流して安治川となった。

かって千利休が秀吉の怒りを買って堺に帰るとき、細川忠興は淀で利休を見送ったと伝えられる。
当時は聚楽第にすんでいたと考えられるから、桂川から出船したと思われるが、その淀の地は確かめようもない。御著「ことばを旅する」の中で細川護煕様は三本の川が合流するあたりに佇まれて往時を偲ばれている。

細川立政の参勤の道中記を史談会で取り上げるために、いろいろ調べているのだが、安治川に当時の船溜まりがあったのだろうか数十隻の船が一気に入るのだ。中の島には細川本藩・宇土支藩の蔵屋敷があるにもかかわらず一行は船泊をしている。家臣はともかく殿様だけでも上がられればよいのにと思うのだが、何故なのか道中記からはうかがい知れない。
夜中に発してお昼時に伏見の「いまと橋下」に到着すると上陸して供揃いで北国屋に御着座である。
この「いまと橋」がどこにあったのか、ぐぐってみるがこれが良くわからない。どなたかご存知であればご教示いただきたい。

今日は午後からひとしきり、大坂の河川の変遷などについて勉強したが、また少し知恵がついた・・・・ 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■肥後先哲偉蹟から  竹原勘十郎(紫海) 2

2015-03-23 07:27:25 | 先祖附

                                                                          図録 「永青文庫 細川家の歴史と名宝」より引用 
          

                一、重賢公御代、御用人に召仕はれ、器量才蓺世に名高き人にて有之候、初久我様へ御縁邊御取組遊さ
                  れ候節、京都へ罷出、御用相勤べくと申者一人も無之候處、自願出て罷上り、船中にて禮書をしら
                  べ、無難に御用を相勤候間、御納戸役に召仕はれ、其後堀老を御薦申上候勲功有之候に付、御用人仰
                  付られ、常に直言極諫を申上、第一は 治年公御代に、弓馬の大禮犬追物を始、齊茲公御代迄都合
                  御三代に御奉公申上、多年忠勤の者にて有之候に付、御留守居大頭同列に進席、御加禄三百石被下置
                  る、老衰にて御役御断、直に隠居御扶持方をも下置れ、格別の御優待にて有之候 有名内臣録 

                一、竹原玄路は常に朝寝をする男にて、若強く起すことあれば、毎も気色損し、散々に叱るゆゑ、誰も
                  起すことは憚り居たり、或朝御用にて早々罷出よと申來りし時、若黨玄路が寝間に行て、其由申け
                  れば、應じながら起もやらず、若黨共いかゞと思へども、例の呵るに恐れて、強く起しもやらず、兎
                  角する内に、御取次何某 名忘たり 走り來り、 公先より待せ玉ふ、いかにして遅りしや、疾に召すとあ
                  わたゞしく申ければ、若黨共大に驚き、寝間に走り行、かくと申けれは、大聲を出し、なに昨夜も
                  九つまで論じ玉ひ、勘十郎は寝ずに御奉公は出来ぬと云へと、足にてしたゝかに踏ならし、猶起も
                  やらず、來りし御取次も興さめ、不敬なる男哉と、甚不快に思ひ馳歸り、有つる様を申上げしか
                  ば、勘十郎は我儘なければよけれども、今に我儘が止ず、笑止なる男と聊さはる御気色もなく、
                  御書見を始め玉ひし由、公の人を使ひ玉ふは、惣てかく其小過を免し、賢なる處を用ひ玉ひしかば、
                  人々心を盡し、才を盡したりとなん、辛島翁の物語なりき 聞儘の記

                一、或時濱町様 御在勤中なり 堀平太左衛門、竹原勘十郎夜分御居間に召せられ、蕎麦切を下さるべしとの御事
                  にて、御前にて御相伴仰付られ候、竹原不怪蕎麦切好物にて、必多物頂戴致され候、蕎麦切皆に相
                  成候に付、御給仕役其段申され候處、勘十郎以の外の気色にて、今晩は拙者へ蕎麦切を下置るとの御
                  事にて頂戴仕候處、蕎麦最早無之と申は、御䑓所不埒の至にて、急に拙者頂戴仕候蕎麦支度致候様
                  可有御申付と荒らかに御前にて憚處なく申されければ、御近習衆も甚だ持あぐみて居候處、平太左
                  衛門申され候は、勘十郎最早能程に頂戴致され候へと申されければ、勘十郎も夫よりひかへ居られ
                  候處、平太左衛門より御前に、勘十郎未だ若気ぬけ不申段御取合申され候由 下略○或覺書

                一、何方よりか参候躑躅を植付仰付置れ候處、其後花咲候へば、竹原勘十郎殿へ皐月咲候と御意遊ばさ
                  る、勘十郎殿さつきにては無御座と申上られ候へば、さつき/\と御意遊ばされ候、猶又勘十郎殿さ
                  つきにては無御座と申上ながら、右のつゝじを引こぎて御覧に入られ候へば、些御顔つき替せられ
                  候儀に見えさせられ候に付、小堀全順老取あえず、御茶を差上可申と申上られ候へば、勘十郎殿さや
                  うな追従らしき事を不申上とも、つゝじ植候人を出され候へと申され候へば、御機嫌能りしとなり、
                  岡村某話 遺秉集

                一、或時御出さき 熱海御途中か不覺 賤家にて躑躅の見事なるを、麁末なるかげ鉢に植てあるを御覧遊ばされ、竹
                  原勘十郎殿へ仰付られ候て召上られ、其かげ鉢のまゝ御床 江戸の御屋敷 の上に置せられ、お客様御出あれ
                  ば、竹原殿を召出され候て、お客様へ御向ひ、あの者あの鉢植を何程にて求むる、其様なる馬鹿にて
                  ござ候故、一生難儀仕候と仰られ候由、ヶ様の事度々ある故、御客様の節勘十郎を召候へば、又鉢
                  植で有うと云て、御前へ出られ候と也、右鉢植曾て高値に取計はれたるにては無之を、右之通御客
                  様へ仰せられ候は、思召有ての事にてあるべしとぞ、此事先年承り記し置候へ共、紛失仕候に付、
                  覺居候通を記す、 同上 

                一、公御生前の御影を、竹原勘十郎三通に寫し奉らる、一幅は御束帯、一幅は御平服、一幅は黄八
                  丈の御衣服にて御火鉢にあたらせ玉ひ、御敷革に御座の尊影なり、此尊影の上にしぐるゝかの御句
                  を、江戸の俳諧師谷口雞口寫し奉るとなり、 同上

                                              つづく 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                                                     しくるヽ歟 あかり障子に音はかり  花裡雨(重賢公俳号)                  



 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■肥後先哲偉蹟から  竹原勘十郎(紫海) 1

2015-03-22 09:51:27 | 先祖附

                                       

                          竹原玄路による細川重賢像、またどてら姿の重賢像も玄路の筆によるものである。

 

                         名は玄路、一名惟親、勘十郎と称し、紫海また廣陵と号す、致仕して穀齋と称せり、禄四百五
                         十石御用人となれり、堀氏を進めて改正の業を為さしめ、其名高し、寛政六年十一月九日
                         没す。年七十五、往生院に葬る、
                一、竹原氏先祖阿蘇の分流にて阿蘇家に仕ふ、阿蘇郡竹原村居住に付竹原氏に改、竹原下総守惟政侍頭
                  役 相良と合戦の時、嫡子甚五左衛門惟房と同戦死、惟房子上総守宗守島津氏に仕、其子市蔵惟成幽齋
                  公に仕、二百五十石、其子金左衛門惟英、三代荘左衛門惟尹、四代勘十郎惟秋、五代市蔵惟重、六代
                  十郎玄路なり、始惟親と云、實は小野某弟にて、元文五年七月養子に奉願、同年十一月家督御番方、寛
                  延四年二月御側御取次、寶暦六年十一月御足共に四百石高御用人、同八年十一月御足三百石増下さ
                  る、明和八年二月御足百石増下さる、中着座同列、安永四年十二月御足の内二百石地方に直下さる、
                  天明五年二月上着座同列、同六年十月老衰仕候に付御断の處、御足二百石下され御番等御免、悉
                  皆分職受持、寛政二年八月御足五百石、都合千五百石高、御留守居大頭同列、同六年七月隠居、五
                  十人扶持下さる、同年十一月病死、都合五十五年の勤なり、七代東彌實は市蔵實子なり、御雇にて
                  御取次助役、御留守居助役、御近習御次組脇等、数十年相勤、寛政六年七月家督、御用人、中着
                  座、八代雄助、比着座、九代九左衛門、實は橋本源吉三男、四百石拝領、御鐡炮頭、犬追物騎射
                  師役、御中小姓頭、御小姓頭、五十石御加増、十代東彌 初平八、惟路と改む、八左衛門 騎射犬追物師役、御物奉行
                  兼 諸家先祖附

                一、君(重賢)御家継せ玉ひし初、いかでかさるべき者を得て、家中の仕置をも任せてんやと思ひ煩ひ玉ひける比
                  竹原勘十郎玄路と云ける者ありけるが、堀平太左衛門勝名こそ、其任に叶っふべき者と覺候、疾に厚
                  禄を與て擧用玉へと進む、君も内々は今一人の方に御心を引れおはせしに、玄路強く執し申し侍る
                  は、中略 御気色損して奥に入んとし玉ふに、御袖を引へて、尚も諫奉し事三度に及ければ、終に玄路
                  が申旨に任せて、大奉行と云職になし政事を任せ玉ひしより、年月につれて其勲顕れ、誉ある國
                  となれり、是等をや管仲が鮑叔と云べき、此玄路が先祖竹原惟政迄は阿蘇の家人なり、文略 曾孫市蔵
                  惟成 幽齋公に仕へ、歌道并書禮式をも傳玉ひ、弓馬の故實を武田氏より受傳、所領二百五十石、夫よ
                  り道をも禄をも傳へ、此玄路迄六代に及べり、略文 玄路家の道は云に及ばず、才學ありて多蓺の者な
                  りければ、君の御時用人に成され玉ひ、勤しこと四十餘年、賢を進て上賞を被ると云、本文によらば
                  他に異なる加禄をもあるべきに、役料こそ千石にも満つれ、所領は僅二百石を加て、四百五十石のみ
                  にして、君の有ける世を過るは、如何なる故ならんと、いぶかる者も有しかど、始堀勝名を勧めける
                  時、玄路申つる子細有て後迄加禄は辞退申したりとぞ、其人猶今も職にあり、委くは記さず 銀䑓遺事 

                                                 つづく

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■無題

2015-03-21 20:47:46 | 徒然

                                  今日は自画像をかいてみました。73歳白髪頭、団子っ鼻、ほくろ二つ・・・・・こんな感じです。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■桂米朝師匠逝く

2015-03-21 15:54:15 | 徒然


                                             
落語家桂米朝師匠が亡くなられた。

私の書棚に「やなぎ句会」が発刊した二冊の本がある。一冊目は1999年3月刊行の「友あり駄句あり三十年」という本である。
入船亭扇橋・永六輔・大西信行・小沢昭一・桂米朝・加藤武・永井啓夫・柳家小三治・矢野誠一・江國滋・神吉拓郎・三田純一の諸氏の名がある。
この本が発刊された時には、江國・神吉・三田の三氏はすでに鬼籍の人であった。
句会の様子が面白おかしく紹介されていてこの本を読んで俳句の楽しさを知った。

二冊目は2009年7月刊行の「五・七・五 句宴四十年」である。
この時のメンバーは、入船亭扇橋・永六輔・大西信行・小沢昭一・桂米朝・加藤武・柳家小三治・矢野誠一 であり、永井啓夫が鬼籍の人となり八人になっている。
この本の中ではそんな鬼籍に入られた人を偲びながらも、ダジャレを飛ばしながら悪戦苦闘 苦作にはげむ皆さんの関係がまことにうらやましく感じられた。
ゲストに迎えられた俳人某氏はのちに「あれは句会ではありません」と言いながらも、その温かい雰囲気を楽しんだらしい。

この本の刊行にあたって座談が行われそんな中で小沢昭一が「ほんとに十二人から九人になるの、ばたばたっとだったから」
大西が「もういまや深刻に何人になったらやめるかと、差しになったらやめようって (笑)」
これを小沢がうけて「二人でもやるかい、将棋みたいに(笑)」

そんな小沢昭一も亡くなり、 米朝師匠が亡くなられ会の皆さんの悲嘆や如何ばかりかという感じがする。皆様のご健勝をただただ願うばかりである。

米朝師匠の俳号は「八十八」、米の字からきている。そんな師匠の自選三十句の中から幾つかををご紹介しよう。

                 打上げを見て帰りきて庭花火
                 うちの子でない子がいてる昼寝覚め
                 春の夜の猫いずこかへゆきにけり
                 夏の世に置きたいような女なり
                 ふうわりと一ひら散し牡丹かな
                 何となくいつもの道や春の宵
                 打水に打たれたがりの裸ン坊
                 携帯にとりかこまれているあつさかな
                 停電で聞こえ出したり虫の声

句作は作者の人柄が出るように思える。ご冥福をお祈り申し上げる。 

                 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■熊川城主・沼田氏

2015-03-21 09:20:11 | 史料

 以前ヤフオクで偶然に、福井県遠敷郡上中教育委員会が発刊した「若狭街道熊川宿」という26頁ほどの冊子を手に入れた。
熊川宿と云えば細川家の宿老・沼田氏が納めた土地である。城主・沼田光兼の嫡女が細川幽齋の妻となった麝香である。
この山深い場所で麝香は生まれ育ったことに成る。
しかしながら 京都と若狭を結ぶ重要な拠点であるこの場所は、天下を目論む重要な人々が往来しており単なる山間の田舎町というとらえ方ではいけないのであろう。上図はこの冊子に所載されていたものを引用させていただいている。
熊川城の位置は記されていないが、中央下方にその方向を示す書き込みがある。
室町時代に創建された得法寺に沼田氏の供養塔が残されている。かつては五重の層塔であったとされるが現況はいささか姿を異にしている。
古いたたずまいを今に残す熊川の町である。

                                                                            

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■松寿庵先生 第135講

2015-03-20 10:57:18 | 史料

           入会は「いりあい」と読むが、随分以前地元放送局のアナウンサーが、入会権を「にゅうかいけん」と読んだのを今でも覚えている。
          ある方は御先祖様の事をいろいろ調べておられたが、罪を得た人がおられた。無断で山に入って木を切られたことによるという。
          ご子孫としては大変ショックなことであったらしく、なんとも声のかけようがなかったことを思い出している。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■綱利公の参勤

2015-03-20 07:07:47 | 史料

細川綱利公は7歳で父・光尚の遺領を相続したが、幼少であったため初のお国入りは寛文元年19歳の頃である。
この初入国の行列は行く先々で評判を呼ぶほど美々しいもので、国元の家老たちのひんしゅくを買った。
江戸家老澤村宇右衛門の指示するところであったらしいが、江戸定の奉行が割を食い知行召上げとなった。
澤村宇右衛門は松井康之の姉の孫にあたる人で命により寛永十年澤村大学の養子となった人である。 

72歳で亡くなるまで都合22回参勤をしているが、帰国については、元禄17年が宝永元年と改元されて以来、毎年の如く滞府(在江戸)の願いをだして帰っていない。養嗣子・宣紀が家督する正徳2年まで九年間に及んだ。生母・清高院が宝永7年に亡くなっているが、老齢の母を思っての事かいささか異常にも思える。
この間の綱利の滞府について、朝日定右衛門の「鸚鵡籠中記」には、宝永四年五月のこととして「頃日の江戸の沙汰に云、細川越中守も在江戸の事は、在国にてはあのふ行跡にては、執権共に押込らるべきやとて在江戸のよし」と記している。帰国すれば国元の家老達に「押込め」にされるというわけだが、家督もゆずる気配もないため江戸家老・木村半兵衛が綱利の居間近くの詰間に三日詰めて決断を促したという(肥後先哲偉蹟)。

一、寛文元年(1661)九月十八日熊本御発駕 十月廿二日江府御着
一、寛文四(1664)年六月十一日熊本御発駕 七月九日江府御着
一、同六年(1666)三月四日熊本御発駕 四月十三日江府御着
一、同八年(1668)三月四日熊本御発駕 四月四日江府御着
一、同十年(1670)七月五日熊本御発駕 木曽路御旅行 八月七日江府御着
一、同十二(1672)年二月廿二日熊本御発駕 三月廿二日江府御着
 「延宝元年癸丑七月廿三日、於筑後北の関、肥後の士前川勘右衛門と藤田助之進同嫡子縫殿之進意趣有て及闘争、前川勘右衛門従兄十左衛門助力して藤田父子を討取」と云う事件が起きた。旦夕覺書には「山名十左衛門藤田助之進父子北の關にて打果し被申候 翌春御参勤の道中は大形」心かけ申候」とある。その後小倉路を経て参勤した際、綱利はその地に態々駕籠を止めたとされるが、この年表によると小倉路を通ったのは元禄十五年が初めてだとある。この話は参勤ではなく、帰国の時ではないのか検討を要する一件である。

一、延宝二年(1674)二月十一日熊本御発駕 三月七日江府御着
一、同四(1676)年二月十四日熊本御発駕 三月十三日江府御着
一、同六(1678)年九月十一日熊本御発駕 十月十一日江府御着
一、同八年(1680)七月十八日熊本御発駕 木曽路御旅行 八月十三日江戸御着
一、同二年(1682)三月六日熊本御発駕 四月七日江戸御着
一、貞享元年(1684) 天和四年改元 三月十日熊本御発駕 四月六日江戸御着
一、同三年(1686)閏三月六日熊本御発駕 四月六日江戸御着
一、元禄元年(1688) 貞享五年改元 三月四日熊本御発駕 四月七日江戸御着
一、同三年(1690) 三月四日熊本御発駕 四月四日江戸御着
一、同五年(1692)三月四日熊本御発駕 四月四日江戸御着
一、同七年(1694)三月四日熊本御発駕 四月九日江戸御着
一、同九年(1696)三月六日熊本御発駕 四月十一日江戸御着
一、同十一年(1698)三月四日熊本御発駕 四月九日江戸御着 初而小倉路御旅行
一、同十三年(1700)二月廿八日熊本御発駕 四月三日江府御着
一、同十五年(1702)二月廿五日熊本御発駕 四月三日江戸御着 小倉路中国路御旅行
一、宝永元年(1704) 元禄十七年改元 三月廿五日熊本御発駕 四月三日江戸御着



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■袋井宿にて・・田中八郎兵衛事

2015-03-19 07:42:03 | 歴史

                                                                  

 細川藩士・田中八郎兵衛の帰国の途中袋井の宿で起きたこの事件は驚くべきものであり、「細川家譜--細川綱利譜」に特に記載されている。郷土資料としても雑花錦語集(巻百八十二)に 「7 田中八郎兵衛事」、 藻塩草 (巻76) に「 54 田中八郎兵衛斬徒僕 近代正説砕玉話」と夫々紹介されている。


(延宝)七年己未五月江戸留守居役田中八郎兵衛政盛遠州袋井ノ驛ニテ家人九人ヲ搦メ取彼地ニ於テ誅伐ス
先是八郎兵衛江戸表詰代リ發足ノ以前ニ家司自殺セリ 何心ナク出立セシカ袋井ヨリ二三宿前ノ駅ニテ年久シク召仕タル鑓持八郎兵衛カ厠ニ往クヲ伺ヒ小紙半枚ニ書タルモノヲ窓ヨリ投入テ立去ル ■テ披キ見ルニ家来共申合セ八郎兵衛ヲ殺シテ金銀ヲ分チ取ルヘキ巧ミ既ニ久シク先二家司モ悪徒共刺殺シテ自害ノ姿ニイタシタル由其身モ一味ニ加ラスハ忽チ殺サルへシト思ヒ詐リテ同心シ一度ハ物ノ用ニ立ヘキ歟ト書キタリ 八郎兵衛奇特ニ思ヒ夫ヨリ袋井マテ晝夜油断ナク既ニ熟睡セサル事三夜ニ及ヒ猶此上ニ労レテハ如何ナル不覺ヲ取ンモ測リ難シ サラハ今夜悉ク手討ニスへシト覺悟シ宿ニ至ル 此日同藩ノ稲津次郎兵衛・永田金左衛門江戸ニ赴クトテ同驛ニ泊リケルカ稲津は兼テ別懇ナルユヘ竊ニ右ノ子細ヲ語リ永田モ共二相謀リテ事故ナク不残搦メ取ル サテ八郎兵衛ハ此駅ニ滞リ次郎兵衛等は急キ江戸ニ至り右ノ由ヲ達スルニ綱利八郎兵衛カ壮気ヲ感シ早速公邊ノ許免ヲ蒙リ袋井駅ニ於テ九人ノ悪徒共ヲ誅伐ス 八郎兵衛ハ遂ニ熊本二歸着セリ 

 ■ 田中八十郎  (南東22-22)
    ・田中勘右衛門(入道長胤)
    ・善左衛門
    ・五郎兵衛(初・岩松 八郎左衛門 平之允政重)
    1、八郎兵衛・政盛 
            (1)御詰衆 五百石 (真源院様御代御侍名附)
            (2)五百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
            (3)御使番衆 五百石 (寛文四年六月・御侍帳)
    

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■お安く読む・中公新書「明治維新と幕臣 - 『ノンキャリア』の底力 」

2015-03-18 16:25:24 | 書籍・読書
明治維新と幕臣 - 「ノンキャリア」の底力 (中公新書)
 
                     中央公論新社

内容(「BOOK」データベースより)

明治維新は、西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允ら薩長土肥の志士が中心となって成し遂げたというイメージが強い。進取の気風に富む西南雄藩が、旧態依然たる江戸幕府に取って代わったのは、歴史的必然だったとさえ捉えられている。だが本当に幕府は無為無策で、すぐれた人材を欠いていたのか。本書は、行政実務に精通し、政権交代後も継続登用された中・下級の旧幕臣たちに光を当てるものである。明治維新への新たな視座。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■「候」は句点・・・?

2015-03-18 09:00:41 | 徒然

完本 文語文」の著者山本夏彦は、その著のなかで谷崎潤一郎の言葉として「候」について次のように記している。 

       谷崎潤一郎は昭和九年現在の候文は、「候ところ」「候まま」「候あいだ」などと続けすぎる、候は句点(「。」)である、
       以前の候文は「候」と言い切ってこんなに続けなかった、これは口語文の悪影響だと言っている。

厳密にいえば基本的にはこのような活用はないとされるが、これは口語文の悪影響とも思えず実際上は多いに見受けられるものである。
例えば「旦夕覺書」や「拾集記」、その他の多くの古文書をタイピングしてみると、「候ところ」「候まま」「候あいだ」は随分多く使われている。
谷崎の主張には賛同しかねる現実がある。候が句点」であったならば、その一行の意味が明快にわかり随分楽であったろうなと実感してきた。

・・・・・候處・・・・・と続いてそれから一仕切の文章がつづき、扨てこの文章が言わんとしていることは何なのかと、振り返って読み返さなければならないほどである。句読点のない候文は目と頭で少々先を見ながら読まないと、確実に文意をとらえることが出来ない。なんともやっかいだが、これが古文書にふれる楽しみだと思えばあまり苦にもならない。もっともいまだに理解できない文章が多々あって限界を感じている。
 


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■「旦夕覺書」--月・23(了)

2015-03-17 09:03:46 | 史料

                 (家老・松井興長、初入國の綱利に鞍置の馬十二疋を献上す)
                一、初て御入國の時 二(?・三)代目筑後殿祖父 長岡佐渡殿(興長)ゟ鞍置馬十二疋被差上候 拙者馬稽古の時にて見申候 江戸
                  へ皆御引せ被成候へ共其内船に乗兼初花と申栗毛に星有之馬は鶴崎ゟ戻り申候 其後鹽山仁左衛門
                  咄申候 其時分は御家中に馬數六百餘御座候由近國は不及申四國中國にても佐渡殿馬十二疋鞍置被差
                  上候事承及昔しは不存近代不承事とて感申由尤御幼少の内御大小身の衆にも家中に色々沙汰有之候
                  に十二三年の間無何事大國治り御入國被成候儀偏に熊本御家老衆手柄成事世上に申由老父方へ参候
                  衆咄被申候事覺申候 尤成事と存候 陸奥守様綱宗御隠居の後家中はた/\に成候事覺申候 伊達安藝と
                  申御家老と原田甲斐と申者と酒井古雅楽頭様御屋敷へ両人御呼寄様子御聞可被成と御目附大井新左
                  衛門殿被致同道御座敷に通候刻安藝を甲斐後ゟ切申候 其時分色々沙汰承申事永書置不申候 是は大形
                  の衆は聞及可申御禮日の前日にて 妙應院様御城御見廻被成雅楽様に御見舞被成候刻御供に参候故
                  能く覺申候 ヶ様の事存候にも當御家老中誉申事尤に存候

                 (天領日田で騒動の気配)
                一、初て御入國の以後か豊後國日田の御代官小川藤左衛門と所の百姓共と出入候て御家ゟも御人數出可

                  申哉と近國さわき申候 其砌三盛方へ田中次太夫志羽惣右衛門と申牢人も小倉より三盛方へ参居候 幸
                  の儀に候拙者十八かと覺申候 其時は内入は御中小姓組にて御座候 拙者無足にて居申候故三人共に御
                  人數参候はゝ即刻先へ参候へと鎗の柄なとゆかみ申を直させ長き刀さし可参被申候へ共鎗持参候間
                  二尺三寸の刀可然なとゝ被申偖股引一ツこしらへ可申力もなくすり切にて古き着物なとにて股引を
                  ぬひ老母給り申候 若く候得は不及是非仕合股引さへ拵候事も不被成候 勝手にても右の通牢人と申候
                  て参候衆ははこくみ夫々有付遣被申候 其心故に如斯兄弟共に新知拝領仕候間各能く心付被申候て人
                  の為成人承不申候 子として随分と存候得共神以中々成る事にてはなく候へ共先祖の志を継候儀孝の第一
                  と承候間書置候 右の時分熊本騒ぎ申候 或夜老父所へ長谷川久兵衛なと咄に参候か彌日田の出入六ヶ
                  敷成候由御人數も出可申様に今日も承候と咄被申候 老父拙者に二の丸に参候て御家老中の屋敷心を
                  付候て見申候へと夜五つ比被申候故罷出候て筑後殿其刻は帯刀殿と申候 今日八代より被出候由申候
                  夜中に門の内にて馬一二疋責馬口なといれ申候 門のくぐり明き候故外より見申内に駕にてくゝりの内
                  に乗ながら入候故門番尋候へは長岡自雲(三渕之直)と申候 初は九郎兵衛殿と申候山名十左衛門殿御親父筑後殿
                  ために伯父にて高瀬邊に隠居にて引籠被居候 日田の様子御聞可有とて出被申たると存候 右の通に候
                  へは残る御家老の屋敷へ参候に及ひ不申候 急き歸候て久兵衛殿なと居被候内に罷歸可申と存候處
                  に監物殿屋敷に當り鼓太鼓の音聞へ申候故偖々いな事と存候て夫より参候て承申候へは能かはやし
                  か御座候 帯刀殿屋敷に馬責監物殿屋敷にては右の通偖も相違成事と思ひ申候 歸申候へは何も待兼居被申
                  何と/\と尋被申一々咄申候へは久兵衛殿御申候は三盛何と存候哉帯刀殿若く候へは従八代御出候
                  て様子承被申候事尤に候 馬なと口入れさせ被申候事尤至極に存候 又監物殿もさすか老巧にて能にて
                  もはやしにてもしつまりたる様子偖々御両所共に尤成様子感入候と被申候時拙者も心付申候 肥前唐
                  津には大久保加賀守様に同姓無發勤居候時にて日田に様子承りに参候由其外隣國方々ゟも聞に参り
                  候由無事に成申候其時分は御家中三百石ゟ上の衆皆々馬持申候 隣家に續助左衛門二百石勝手も不成
                  候て致在宅熊本へ罷出逗留の内栗毛の駒求被申候 老父見申さすか龜之助孫と誉申候 島原の働にて二
                  百石つゝ被為拝領候 諸人に勝れ申候ても郡甲太兵衛三百被下候 右之通にて股引さへ調兼申候拙者に
                  二百石被為拝領又御加増都甲同前に成申候事唯今も奉存候 老父三盛御念比に御意の事共被申聞承覺申候
                  八十に成候て如斯書置候志は各心次第にて御用に立被申候様に勤被申候へは忠と奉存候 段々老父被
                  申聞候事のみ書置候 随分心を付同名中申合被相勤候様にとの心に調置候へは孝に可成事共存候
                                                       旦 夕

                            君々の恵みをうけておわる身の
                                      心を残す子末こすへに            
                            見よや見よ思へ思ふそたらちねの
                                      言の葉草の露の水茎
                                                       
                                 八十にて書
                     享保九甲辰十二月二日  堀内旦夕道勝
                            堀内傳右衛門殿
                             同   傳 次殿

                                       
                                                  旦夕覺書終

                  
                   

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■御恵贈御礼「加藤清正文書目録」

2015-03-17 07:13:53 | 書籍・読書

 東京大学史料編纂所研究成果報告2014-1 「加藤清正文書目録」 を、編者のお一人である東京大学史料編纂所の金子拓先生から御恵贈たまわった。
編者は延岡市教育委員会の大浪和弥氏(編者代表)、八代市立博物館の鳥津亨二氏、熊本県立美術館の山田貴司氏、それに金子拓先生の四人である。
613点に及ぶ清正の文書が「文書表題」「年・月・日」「差出」「宛所」「典拠(所蔵先・出典・備考等)」の一覧の表となっている。

又「加藤清正文書の概要」「花押と印判について」「加藤清正の居所と行動」「加藤清正略年表」など、論考なども興味深い。
諸先生方の多大のご努力に敬意を表すると共に、市井の単なる歴史好き爺に過分の御取り計らいを給わり伏して御礼を申し上げる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■s和本 耳底記3冊揃 細川幽斎 和歌古書古文書

2015-03-16 22:02:22 | オークション

              s和本 耳底記3冊揃 細川幽斎 和歌古書古文書  s和本 耳底記3冊揃 細川幽斎 和歌古書古文書

               耳底記とは http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%B3%E5%BA%95%E8%A8%98

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■福田正秀氏「武蔵に尋ねよ」連載始る

2015-03-16 11:21:27 | 書籍・読書

                                                                         表紙04月-011-7mm-再責CS5z-4C.indd

 ご厚誼をいただいている熊本在住の近世史家・福田正秀氏が、今般雑誌「サライ」に新しく「武蔵に尋ねよ」を連載されることになった。
4月号から12回にわたるというから、又一年間ご苦労が続くわけである。 

 2003年に『宮本武蔵研究論文集』、2005年に『宮本武蔵研究第二集・武州傳来記』を上梓された。綿密な現地調査・史料調査をされ新たな武蔵像を確立された。もう10年も経過したことに驚いているが、その間の新たな発見などもあるのではないかと思われ、今回の連載を楽しみにしている。

また2007年の『加藤清正「妻子」の研究』、また2012年の『続 加藤清正「妻子」の研究』の発刊とその成果にも驚かされたが、氏のあくなき探究心は今後も我々を驚かせ楽しませてくれるものと大いに期待している。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする