津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■陽気に誘われて

2019-03-24 17:56:03 | 徒然

        

              
                                              小峰山調練高覧之図
 今日はお天気も良く出かけたくなるような陽気、昼食後自転車で図書館行と相成った。
往復3時間の内、2時間少々を図書館で過ごし種々資料のコピーと、貴重な資料の写真撮影をする。
写真は我が家の近所で行われた「小峰山調練高覧之図」、家老・有吉家の調練の模様を藩主がご覧になるというのでその場所の設えが記されている。
後は「御城御居間之図」2点と、「於御城表御礼之為受図」1点を22コマのデジタル撮影である。
それぞれ貴重な資料であるが、特に最後の「御礼之図」は本丸御殿に於ける有様が詳細に知られる。
あの素晴らしい装飾で飾られた「昭君之間」がどのように使われたのかなどが良くわかる。

                                                           於御城表御礼之為受図

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■永源師檀紀年録という本

2019-03-24 06:41:22 | 書籍・読書

 細川家家記としては刊本「綿考輯録」が発刊されて以降、研究者や好学の士にとっては、細川氏研究のみならず広く中世・近世史の研究にとって不可欠の存在となっている。また膨大な史料は東大史料編纂所の元で、「大日本近世史料・細川家史料」として刊本・24巻が刊行されている。
又、豊前国入国後の一部資料は、「福岡県史・細川小倉藩」として三巻が発行されているし、近年においては、熊本大学・永青文庫研究センターが研究の成果として「細川家文書」シリーズが随時刊行されている。
これらのボリュームは、今後ますます増加していくものと思われるが、図書館等で気楽に拝見出来、まことに嬉しい状況となっている。

一つ、熊本県立図書館に蔵本が見受けられない貴重な資料として「永源師檀紀年録」があるのだが、これは最近「日本の古本屋」を気を付けていてもなかなか見受けられず世の中に流通していない。
細川家の「青文庫」の命名のもとになった、細川家にゆかりの深い源庵(臨済宗大本山建仁寺派塔頭)に残された貴重な記録であり、永源庵の師檀と細川家の頼有以来の歴史とが詳しく書かれている。
「綿考輯録」では見受けられない記述も有り、貴重な刊本である。
私は十数年前にこの刊本の存在を知り、手に入れた。私が師匠と仰ぐT先生もお持ちではないことを知り献本した。
すぐ後を求めようとしたが、その後随分長い間手に入れることが出来なかったが、念願かなって今はわが蔵書と成り本棚に鎮座している。
発刊当時の値段の四倍ほどの値段だったことを思い出している。

中々読む機会に恵まれないこの本の内容を一部(巻四の約50ページ)をご紹介しようと思い準備をしている。
こうご期待・・・

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■四冊はさすがに?

2019-03-23 16:46:40 | 書籍・読書

           

 
 今日は少々暇を持て余して、本棚の整理をしたり、地震後まだ開いていない段ボールの中身を確認したりしている。
写真の山本博文氏の名著「江戸城の宮廷政治」は細川家初期を知るうえではバイブルのようなものである。
これがなんと都合四冊顔をそろえて、私自身が驚いている。これに文庫本も別に一冊ある。
但し一番左は除籍本である。これは書き込み専用である。
この本はこれとは別に、数冊購入しては人様にプレゼントした記憶がある。
四冊はさすがにひんしゅくもので、いずれは何方かに差し上げるかどうか、しようと思う。
同じくバイブル的著作、戸田敏夫著「細川家史料による・天草島原の乱」や「戦国細川一族・細川忠興と長岡与五郎興秋」も二冊ずつ本棚に並んである。
わが本棚は収蔵能力を失い相当数の本が段ボールに入ったまま、読みかけの本はまさしくデスク廻りに積みあがっている。
これ等の余計分の本はまた段ボール行きの運命であるが、なんでこのようになったのか自分でも不思議に思っている。
爺の健忘症も極まったか・・・歳はとりたくないものだ。

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■融姫様

2019-03-23 07:20:27 | 歴史

 細川齊茲公には四男六女のお子がある。もっとも本家相続前に立禮と名乗り宇土支藩の藩主であったころ、一男がある。
次の藩主となった立之公である。男子二人が夭折、二男茲詮は23歳で亡くなった。
女子は五人(二女~六女)五人が夭折しているが、この五女の融(アキ)姫は齊茲隠居後の子であり、濱町屋敷で誕生している。
すばらしい画才をもつ齊茲は末娘の耇姫像の模写絵を残しているが、こちらは自らの筆によるものである。
指をおしゃぶりしているのか、ほんとうに可愛らしいふくよかな赤子の姿を捉えている。
二月朔日に生まれて七月十八日に死去しているから、死の直前といってよいだろう。
その姿から暑い夏を感じさせるが、赤子にとっては厳しい暑さであったのだろうか。

ちなみに妹である耇姫は、融姫の10歳年下の妹であり齊茲公64歳の時のお子である。

                                                       

                                    「細川家の700年・永青文庫の至宝」から
 

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■標準木はまだの様ですが・・

2019-03-22 18:08:33 | 熊本

 昼食後暖かさに誘われて散歩に出る。いつものコースにある桜並木の一本/\の咲き具合を確認しながら歩を進めたが、結構開花している。
全てがこんな具合ではないが、開花宣言があって良い状態である。
(熊本の桜の標準木は、熊本地方気象台が入居している熊本駅近くの合同庁舎の敷地内にある)

           

 自衛隊南側に建設中の熊本市民病院の工事の進捗状況などを眺めながら、少し先の本屋さん迄足を延ばし、帰りには花屋さん・ホームセンター等で都合一時間ほどウロウロして帰路に就く。
最近は老人性平衡感覚異常なのか、まっすぐ歩くことが難しくなってきた。
巾30㎝ばかりの範囲で右に行ったり左に行ったりするのが自分でもよくわかる。
速足での歩行が出来ずに、我家にたどり着くのに都合2時間ほどを要した。

春の風が誠に気持ち良い。よろり/\しながら、毎日花見気分で散歩を皆勤しようと思っている。(270日皆勤と相成りました)




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■熊本藩の刑法

2019-03-22 07:40:41 | 史料

 藩法研究会編「藩法集 7 熊本藩」の全984頁を完了して、脱力感が半端ではない。
毎日小難しい文章をタイピングしなくてよいという安堵感が強いが、一方今日からは何を取り上げようかという不安感がじわじわと襲ってきている。
最後に「御刑法方定式」を9回にわたってご紹介してきたが、私の手元に「御刑律 乾上」というA3サイズの64頁に及ぶコピーがある。
その「御刑法方定式」の許になったものと思われ、刑法と量刑が詳しく記されている。
当然古文書故これをご紹介するには読み下しが必要であり、これはとても手に負えない。

 宝暦の改革に於ける優れた成果となった細川藩のこの「御刑法」は下って明治新政府に至って、新しい刑法の見本となった。
つまり新政府は刑法典を緊急に必要とし、明治元年細川護久(当時澄之助、三年後に藩主)をして「刑法事務科」の総督に任命して仮刑律の起草に当たらせたのである。

細川藩によって先んじて設けられた徒刑場や、其の後の江戸・石川島の人足寄場の創設などの形が取り始められ、新たな刑法典における自由刑の思想の土台になった。
これ等の事については、WEBサイトに「刑罰の変遷 ~近代自由刑の源流~」という、大変優れた論考が掲載されている。
お名前をあげてご紹介すべきであるが、記名が見当たらない。この中の第三節に「熊本藩徒刑場」があり、まことにくわしくまた判りやすく取り上げられている。
ここにご紹介してご一読をお勧めする。

第三節 熊本藩徒刑場

 幕府の公事方御定書制定に倣い、諸藩でも刑法典の編纂が盛んに行われた。特に熊本藩の御刑法草書では、幕府の人足寄場よりも早く徒刑制を採用している。これは明らかに犯罪者の更生と社会復帰を目指す特別予防思想がみられるものであり、江戸時代後期の刑事政策に与えた影響は極めて大きいものであった。ではその従来の刑政の常識を破った、先駆的制度はいかなるものであったのだろうか。

(1)御刑法草書の制定と徒刑の採用

 熊本藩は宝暦4(1754)年、全国に先駆けて徒刑を採用した。追放刑は犯人を追いやるだけで、犯人を改悛・更正させ、社会復帰をはかる上では何の役にも立たないと、当時、多くの儒学者達から批難されていたが、幕府や多くの藩はこの意見を採用する事が出来ずにいた中、当時としては画期的な制度であった。また、荻生徂徠が「政談(※1)」の中で、徒罪の採用を主張していることから、その影響も考えられる。
 それまで熊本藩の刑は幕府や他藩と同様に追放刑中心の刑罰体系を採っている。幕府が享保の改革の重大な柱として「公事方御定書」を編纂したのに対して、熊本藩でも細川重賢が第6代藩主に就任すると、宝暦の藩政改革を実施し、財政の立て直しをはかるとともに様々な方面の刷新を推し進めた。刑法の刷新も改革の重要な柱であり、宝暦5年(1755)4月には本文58条附録1条の「御刑法草書」を施行し、ついで同11年(1761)の末頃にはこれを大幅に増補改訂して「刑法草書」(18編95条目142条)を施行に移した。
 熊本藩はこの刑法改革により、従来から弊害と矛盾の多かった追放刑を原則として廃止し、代わって新しい刑罰思想のもとに答刑・徒刑・入墨刑を採用した。この徒刑というは、犯罪者を施設に収容して社会から隔離し、犯罪から社会を守るという社会防衛の機能がある。さらに重要なことは、熊本藩徒刑が収容期間中に徒刑囚を教化改善して社会復帰を目指す刑罰で、特別予防思想が見られるということである。
 熊本藩の徒刑制度では、囚人に対して辰刻(午前8時)から未刻(午後3時)まで強制労働を課し、晴天には城内外で堀・井戸・道などの肉体労働を作事所役人監視の下で従事し、雨天には小屋内作業場で藁細工などに従事するといった日々の労働にあたらせていた。それに対して1日当たり米1升を支給する作業有償制、その賃金の何分の一かを天引きして貯蓄させる強制積立の制、その強制積立金を釈放時にまとめて支給して生業に就くための資金に充当させる元手の制という一連の処遇法を備えている。注目すべきこととして、1日の作業以外に小屋で作った草鞋・草履などの藁細工製品を市中で売ることが許され、その代金もまた積み立てて生業資金に充足した。
 また、囚人を収容する小屋(定小屋)を建て、揃いの紺染めの衣服を着せ、さらに収容中の目印や、脱走防止のために5日毎に眉毛を剃落すので、そのため徒刑は一般にはの刑、徒刑囚は眉無、徒刑小屋は眉無小屋と呼ばれた。眉毛はやがて生揃うのであるから、この処遇法は何ら更生の妨げにならない。このように、熊本藩は徒刑囚に対して様々な配慮を払っているのである。
 以上のように熊本藩の徒刑は労働に対して小額ながらも報酬を与え、そしてその中から何割かを積み立てて、釈放時の就業資金に充てた。加えて、小屋内における自主労働による藁細工製品を売った代金も自己のものとして積み立てることができたのだ。
 刑期が満了し、釈放される徒刑囚には、積み立てた資金を与え、開墾地や農具、更には家のないものには竹や木材などを無償支給することもあったようだ。釈放者は原則として親類に引き渡すこととなっているが、親類がいないなど、引き渡し手がいない場合は出身地の者に引き渡した。その際に、教諭を加え、親類はもちろん五人組にも釈放者に対する面倒を見るように指示が出されていた。出身地の者に引き渡す場合は、庄屋・村役人を呼び出して教諭を加え、釈放者の保護を命じた。さらには「生業仕付」と称して、就業の世話を庄屋・別当などの村役人・町役人および親類・五人組に命じ、更生の実現を図っている。このように保護観察を行っていたのである。

 このような徒刑制であるが、この採用によって刑罰の執行数がどう変化したのであろうか。これに関して、享保10(1725)年から20年までの11年間と、安永元年(1772)年から文化10(1813)年までの42年間について、熊本藩での処刑実数の統計が判明しているので具体的な数字を挙げてみたい。これを享保のもの(A)、徒刑が採用された後である安永以降のものを前半(B)、後半(C)の3期に分け、死刑・追放刑(宝暦5年以降は徒に対応)の年平均推移を見ると、死刑はA8.5人、B2.7人、C9.0人であり、追放または徒刑はA42.5人、B103.1人、C173.8人となる。死刑についての宝暦以後の減少が目立っており、これは「御刑法草書」がそれ以前に比べて死刑適用を抑制した結果と考えられる。しかし、寛政以降、全国的な治安の悪化などの要因が絶対的犯罪増加が死刑数を享保レベルまで引き上げ、死・徒刑も著しく増加している。
 このように徒刑を採用した当初はそれなりの効果が見られたが、次第にその効果が疑わしくなっている。以下、この徒刑制度の中断・再開を通じて、その効果について検討してみたい。

※1政談 経世論を説き、古文辞学派の祖となった荻生徂徠の著書。徳川吉宗の諮問に答え、礼楽制度の樹立、貨幣経済抑制、武士帰農論などを説く。

(2)徒刑中断

 この誇るべき徒刑制であったが、文化2(1805)年から文化11年までの9年間、停止されることとなった。徒刑中断の発端は白石清兵衛の提言にある。文化元年(1804)4月10日、白石は2つの理由を挙げて徒刑の廃止されるべきことを、先輩格の島田嘉津次に宛てて提言した。理由の1つとして更正改善効果が不十分であったことが挙げられる。囚人達は収容小屋の中で仲間同士、悪事を教え合い、改悛しておらず、悪風に染まるという弊害が存し、改善の効果が認められないということである。2つの目理由として、こちらが主な理由なのだが、藩の財政悪化が挙げられる。藩は当時、財政赤字の真っ最中であり、徒刑制を維持するには莫大な手間と経費がかかるのであった。そのため1つ目の理由故に徒刑に要する経費は、余計な経費なのだということである。前述の寛政以降の絶対的犯罪者数増加が、それに拍車をかけたのかもしれない。
 白石は過去5年間の徒刑経費を費目ごとに算出して添付している。白石の調査によれば、年平均49人の徒刑囚を定小屋に収容し、その経費は18貫475匁餘であるという。白石はこの提言において、徒刑の代りに笞100の刑(鞭打ち100回)に処すこと、再犯・再々犯で死刑に相当する場合には雑戸刑を適用することを代替の刑罰として提言している。
 しかし、白石の提言に反対の者もあった。奉行本役の堀内坤次である。堀内は島田に対して、犯罪人は徒刑という刑罰をことのほか恐れているのに、これを廃して笞刑に代えたのでは安易に思ってしまうと主張する。つまり、刑罰の威嚇的効果の薄れることを懸念しているのである。堀内は、犯罪容疑の取調べと擬律案の作成とを担当する穿鑿所の頭当分・同本役を長年勤めており、この経験に基づく反対意見であろうと思われる。
 白石清兵衛の徒刑廃止提言をめぐって以上のような議論が見られ、その後、刑法方奉行所に回付され、刑法方の見解が求められたのである。刑法方は、この提一言が刑法全体にかかわる重要問題なので、さらに熟議をかさねるべきであるという態度を示し、その結果、下記のような見解に達したのである。
 すなわち、徒刑廃止問題は経費の面のみから議論すべきではなく、徒刑制度の趣旨が実現しているかどうかで議論すべきであるとした。従って、徒刑の効果を確認するため、過去5年間の釈放者について更生の効果があがっているか否かを講査した上で結論を出すべきであるというのである。島田は具体的数字を示して、社会復帰が10人に6人も実現していれば存続と決し、改心の様子の見えない者が10人中に7、8人も占めるならば廃止に決せよと提案した。島田の提案は採用となり、釈放者調査が実施され、その結果、文化2年(1805)正月、徒刑廃止の決定が下されることになったのである。なお、この時の釈放者動向調査の記録は、明らかになっていない。  

(3)徒刑再開後

 上記のように、廃止となっていた徒刑制だが、文化11年に、宝暦改革の先駆者の理念が再び重視されて復活することとなった。
 文政8年(1825)10月、熊本藩は再開後の徒刑が効果的に運用されているかを確認するため、釈放者の動向を調査した。その調査によると、徒刑を再開した文化11年から文政8年までの約11年間の間に、刑期が満了して釈放されたものは181人を数える。この当時、定小屋には東西の2部屋が存在し、西部屋には盗犯による徒刑囚を収容し、東小屋には盗犯以外の徒刑囚を収容していた。文政8年5月11日までに西部屋からは121人が釈放され、その内、生業に就いて更正している者が52人もの人数に達している。
 全ての犯罪の中で盗犯が占める割合が高いことは、古今東西変わらず、その盗犯者が再犯・三犯、ひいては累犯に及ぶ率が他の犯罪に比べて高いことも事実であり、熊本藩の徒刑囚にもこの傾向があてはまるようである。しかしながら、熊本藩の更生率の高さは非常に注目すべき点である。西小屋からの121人の釈放者中、半数の60人が更生に成功しているのである。病死の32人を除外して考えると、その更生率は60%に達し、盗犯以外の釈放者に至っては、約90%が更生している。再犯者は60人中わずかに11人である。釈放者全員の中から病死者を除くと153人となり、そのうちの121人が更生に成功した訳で、更生率は実に73%に達する。但し、全釈放者181人の中には、釈放後問もない者も含まれているので、更生が確実なものかどうか確かめられない場合もあると思われる。それ故、上記の更生率はいくらか差引いて考える必要があるが、それにしても、再開直後の徒刑は極めて良好な成績を収めていたようだ。  
 徒刑廃止の理由は、前述のように財政的問題と徒刑制度の実効性の問題とにあった。熊本藩はその実効性を確認するために過去5年間の釈放者の動向を調査したのであり、その結果を得て廃止に決したのであった。言い換えれば、廃止直前の頃の徒刑制度は、それを存続させるに足る実績が上がっていなかったということである。つまり、先に挙げた熊本藩処刑実数年平均推移の統計においても、徒刑中断前には処刑者が徒刑採用前以上に激増したことも、この徒刑の効果があまり上がってなかったことが推測される。
 しかし、再開後の徒刑は注目に値する好成績を収めているのである。これは、徒刑再開にあたって様々な改善策を施したためと推察されるが、分類拘禁の処遇法を採用したことが重要な役割を果たしたように思われる。徒刑再開後の定小屋には東小屋と西小屋とがあって、西小屋には盗犯による徒刑囚を収容し、東小屋にはそれ以外の徒刑囚を拘禁した。白石清兵衛の徒刑廃止提言でも、収容者の悪風感染の弊害について指摘しており、鳥田嘉津次もこの提言に賛意を示していることから考えると、徒刑中断以前の定小屋においては、盗犯の徒刑囚もそれ以外の犯罪による徒刑囚も同じ部屋に収容していたと推察されるのである。従って再開後、簡単ではあるが犯罪の種類による分類処遇を施し、それは重要な改善点であったと言える。  
 また、東西の小屋において庄屋制を採用して徒刑囚の中から人柄によって庄屋を選定して小屋内の統括者となし、徒刑囚の自治的統制をはかったことも、徒刑再開後の新しい試みかも知れない。さらに、徒刑囚に対して「心得条目」なるものを毎月読み渡した。つまり、収容者に対して積極的に教育を施したのである。この点も徒刑再開後の新しい処遇法であると考えられる。  
 それに対して、熊本藩では、逃走の徒刑囚については逮捕しだい刎首に処すことになっていた。その処刑は通常の死刑執行とは異なって、定小屋のある高麗門内の敷地において、徒刑囚に見せしめて執行する。熊本藩の徒刑制度は処遇がゆるやかであった反面、違反者には極めて厳格に処置したのである。
 つまり、再開後の徒刑制度は、処遇方を寛大に改善する一方で、より厳しい威嚇を加えることによって再犯防止を強化したと言える。

(4)熊本藩の理念の波及

 文化11年に、宝暦改革の先駆者の理念が再び重視されて復活し、以後、熊本藩は幕末における法制の整った刑事先進藩として知られ、とりわけ刑法草書は、江戸時代における諸藩の刑法典中の白眉として著名であった。さらに特筆すべきことは、江戸幕府崩壊後、明治政府は法制の面に秀でた熊本藩の関係者を刑法局に多数起用し、新体制の刑政を主導させ、逸速く「仮刑律」12編210条を編纂させた。つまり、熊本藩の理念は明治新政府へと受け継がれていったということである。
 熊本藩のこのような先進的な要素を含む徒刑制度は、天明3年(1783)12月、佐賀藩の徒罪制度を生み、寛政2年(1790)3月、会津藩における徒刑の制定となり、更に寛政2年2月、老中松平定信の創設した幕府の人足寄場にも、収容者を教化改善して社会復帰を目指すという熊本藩徒刑の精神と、そのための一連の処遇法が受け継がれることになったということである。その後、熊本藩徒刑と趣旨を同じくする刑罰が、幕府人足寄場の影響と相侯って全国の諸藩へ広まっていったとされる。しかし、日本における近代自由刑の源流は、現在のところ幕府の石川島人足寄場と見るのが通説であり、人足寄場を設置した松平定信が熊本藩徒刑場についてどの程度の知識を有し、影響を受けたのかは不明であり、人足寄場と熊本藩徒刑場の関係は明らかではない。

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■御刑法方定式(9-了)

2019-03-21 06:42:20 | 史料

   四月          御物頭中
 本文之趣令承知候、足輕共之内被召捕候儀有之、不急
 之儀ハ頭々え御奉行より及沙汰、組頭より押差出候事ハ
 勿論之儀ニ候、難指延至極急成押者之節ハ、組屋敷ニ居
 候者たり共直ニ廻役指出せ召捕之、其段組頭え申届候様
 ニ令沙汰候間、此段何も可被承置候、以上
   五月
 右之書付、月番石川理兵衛持参、當番山本一学え被相達      石川理兵衛2代茂昭か?
 候付御用番え申達候處ニ、右書付ニ付札を用被相渡、御      山本一学宝暦六年十月~宝暦十年十月 奉行副役
 物頭中え相渡可申旨付て、右理兵衛呼出相渡候口達之趣           後・弓削家に入り6代弓削清左衛門1,300石 後家禄没収・蟄居
 左之通
    口達
 足輕共御吟味之儀有之被召捕候節之趣、覺書を以此間御
 達有之候付、御用番え相達置候處ニ、右覺書ニ付札を
 用、各え可申達由ニて被相達候間、則右覺書相達申候、
 御仲間中え可被有御通達候、以上
   五月
寶暦九年五月七日
 右之書付、今日、日隈杢大夫より相渡候事
  但、右之御請として、五月十一日月番服部武右衛門御      服部武右衛門➝5代 安永五年十月(三拾挺頭)~天明五年五月 鉄炮五拾挺頭
  奉行所え被罷出候事
同年五月十日
 右之書付、蒲池喜左衛門より御刑法方え相渡候事         蒲池喜左衛門5代 宝暦四年十一月~安永六年二月 奉行
 申上候物貰伊三次儀ニ付て之御書付、喜左衛門様御印形
 相濟申候ニ付、口書相添差上申候、あなた様御印形被成
 候上、被達尊聴ニて可有御座哉と奉存候
一右御書付之儀付て、御中老被仰候ハ、御用人衆を以被達
 尊聴候ても相濟可申哉、左候ハヽ口書ハあなた様方御
 封印ニて、御用人衆え御達被成置ニて可有御座由ニ御座
 候、右之趣私共より申上候様ニと、昨日喜左衛門様被仰
 付置候ニ付、如此御座候、以上
寶暦十二年也
    七月十四日    江上伊右衛門

             本田善右衛門
             致承知、御用人中を
      新助様    以達尊聴候、以上
 猶以右口書ハ、御家老中え御達被成候節之御付札之儘差

 上申候、以上
右之通ニて達尊聴相濟候、尤以來歩段以上御咎等被仰付、
跡達て被達尊聴候儀ハ、右之通之取計ニ可致段、喜左衛門
より御刑法方え申談候事

寶暦十二年六月十七日
一眉なし即決之節ハ門を閉候ニ不及候、秋斬等井手口ニて
 死刑之節ハ、終日門を閉相慎可申旨、御中老被申聞候事

明和二年三月
一士席以上育支配浪人之内、御穿鑿所呼出之節、是迄輕重
 已下之通、人を添、御奉行所え被差出候様及達來候、然
 處、士席浪人之儀ハ多クハ在中居住等ニ付不案内ニて、
 御奉行所え罷出候節、中門内なとニ、或輕重座着之席      ➝てき 意(行っては止まる)
 ニ打交居候てハ、御飛脚番なとも不案内ニて、輕輩以下
 難人同前之呼出者之様ニ取扱可申哉も難計候付、申談、
 向後ハ右浪人、御一門方・三家御家老中家司/\、寺々
 住職有官之社司/\之分ハ、直ニ御穿鑿所え罷出候様、
 左候て於彼方居所之儀ハ追てハ出來可被仰付候、先其内
 居所之儀ハ、惣躰之呼出者等差置候處之内を屏風ニて圍、
 其内え差置可然と申談、去ル廿ニ日之座ニ記置候、久野
 茂八郎久野彦之允育之浪人呼出之節より、初て直ニ御穿鑿所え被差
 出候様及達候、尤士席已上之育支配浪人呼出之儀、向後
 右之通候段御穿鑿頭え申遣候、御一門方・三家御家老中
 家司/\、寺々住職・有官之社司/\之儀ハ、前以御穿
 鑿頭え不申遣候、以來右之内呼出之儀被相渡候ヘハ、其
 時々右之趣を以、御穿鑿頭え及達筈候事
  但、寺々住職之内ニハ所化之住職も有之候得共、和尚       所化(しょけ)➝修行中、一人前ではない僧
  所化之無差別、住職と申ニ拘り同様ニ可被仰付と、新
  助より御刑法方え申聞候事

 寶暦七年御用番より月番之御物頭え御渡候書付扣之内
本行ニて、筋目之足輕と有之ハ、青龍寺・丹後・豊前以來之者之
儀ニて候
一右筋目之足輕組之相續いたし居候者、嫡家二男之無差別
 子孫共断絶不仕様可被申付候、右筋目之者之内、扶持を
 被放候ハヽ忰・弟之内跡入被申付、子弟等無之歟、或ハ
 其子幼弱候ハヽ相應之ものを養子仕せ、名跡相續歟被申
 付候、若扶持を被放候様子よつて相續難被申付類も可有
 之候、左候ハヽ、相續不申付、断絶被申付度由、御奉行
 え可被相達候、畢竟右之筋目之者ハ名跡断絶不仕様ニと
 被仰付候條、左様歟被相心得候
  但、御咎筋有之ものの跡、名跡相續被仰付、又ハ断絶
  可被仰付との事ハ、其節々御奉行より可申達候
  已上
寛政元年
 右書付ハ選擧方之記録ニて候處、御刑法方ニても見合ニ
 相成候付書抜置候様、分職より根取え申聞候事

           (了)

 

これを以ちまして、藩法研究会編「藩法集 7 熊本藩」の全984頁を完了いたしました。
お付き合いいただき感謝申し上げます。

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■貴重な花押

2019-03-20 19:27:36 | 徒然

                                          

 先にご紹介した、江戸初期 『 熊本藩家老 長岡監物 書状(御花畑掃除) 』 米田是季 古文書の一部である。

                   右から 嶋 又左衛門
                       矢野半十郎
                       小坂半之進
                       松岡久左衛門
                       佐分利兵大夫
                       谷 助大夫
                       長谷部文右衛門
                       山川惣右衛門
                       山内勘助
                       細川七左衛門

 寛永十年忠利公の入国の二ヶ月後の花畑邸入居前日に、夫々の人たちに組下の者たちを掃除に派遣するように申し達したことに対して承諾の旨の花押が記されている。
緊急の事であり各人の名前はあらかじめ書かれており、花押を記すばかりとなっていた。それぞれ城下に住んでいたろうが10軒廻るのは大変であったろう。

矢野半十郎と長谷部文右衛門は花押ではなくローマ字印が押されている。
又佐分利兵大夫と細川七左衛門は本人が留守であったらしく、家来の者が署名して花押を記している。

花押をいろいろ集めているが、陪臣の人たちの物も見事なものである。ローマ字印はこの後禁止されたのか、見受けられなくなっていく。
貴重な資料である。

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■御刑法方定式(8)

2019-03-20 07:36:05 | 史料

    覺
 去ル四日、長鹽又七郎組石崎喜市と申者、御吟味之儀有
 之候由ニて、廻役之者共直ニ組屋敷ニ被指越、被召捕候
 以後、御役所より又七郎方え御紙面を以右之趣被仰聞候、
 足輕共之儀は、従前々右躰之節ハ頭々え御沙汰御座候て、
 頭より押差出來申候、然處今度右之通有之候てハ、御物
 頭之格式も違申候付、方ニも難成取計之筋違申候、此      扌偏に乄=
 以後前々より之通、頭々より押差出可申旨御沙汰御座候
 様ニ被仰談可被下候、此段可然様奉頼候、以上
    十二月          御物頭中
       御奉行衆中
寶暦八年十二月
 右之書付、青木權之助長鹽又七郎大河原貞右衛門御      青木權之助➝ 何代か不明
 奉行所え罷出被相達候、依之御用番え相達候上、左之通      長鹽又七郎➝ 5代目・ニ十挺頭 五百石 宝暦八年寅七月廿八日当役
    覺                           大河原貞右衛門➝ 5代目・千石・享保五年九月(大組附)~宝暦二年九月 中小姓頭
              
 足輕共之内御吟味筋有之日召捕候節ハ、組頭え及沙汰、
 頭より押差出來候由、右ニ付去冬御内意被相達候通御家
 老中えも致内達候處、被召捕候者之儀ハ寛急輕重も有之
 儀勿論之事候、其節之程次第間延ニ相成候てハ難相成事
 も有之候付、先各申談之趣内々拙者共より承り候様ニ、
 御用番被申聞候趣左之通
一急ニ被召捕候者有之候處、其者之頭在宅ニて沙汰を請、
 在宅より罷出召捕候儀、手後ニ相成節ハ如何取計可有之
 哉
一熊本居之頭たり共急成押者之節、無據故障又ハ他出等之
 節、間延ニ相成、其者迯走儀も可有之候
一惣て如何躰急成押者ニても、直ニ被召捕候同前ニ取計之
 手賦有之候哉
 右之趣各存寄可承旨ニ候、不急押者ハ、今迄之通各方よ
 り押被指出候事勿論之事候處、至て急成押者右之通之儀
 有之候てハ、其節之程次第御用も間抜ニ相成、其頭越度
 ニも相成可申哉、旁委ク御申談、書付を以可有御達候、
 以上
    三月
 右之書付、卯ノ三月廿六日長鹽又七郎・大河原貞右衛門
 呼出候處、貞右衛門ハ病中ニて又七郎一人罷出被申候
 付、日隈杢大夫より相渡候事                  日隈杢大夫5代・杢大夫永貞 御奉行定役 百五十石外二百四十九石 宝暦八寅六月十一日当役
    覺
 足輕共御吟味有之被召捕候節の儀ニ付、去冬御内意相
 達置候處、御家老中えも被及御内達候處、被召捕候者之
 儀は寛急輕重も有之事ニ付、其節程次第間延ニ相成候て
 ハ難相濟事も有之事ニ付、私共申談候趣、御内々被成
 御聞度段御用番被仰聞候由、御書付を以被仰聞趣承知仕
 候、前々より仕來候趣左之通御座候
一急ニ被召捕候者有之候處、其者之頭在宅ニて御沙汰を
 請、在宅より罷出押候哉之儀承知仕候、兼て在宅仕居候
 者ハ、相組之同役幷副役有之者ハ副役ニも申談置、急成
 御用筋爰元ニて取計候様ニ申談置候、在宅え罷越候留守
 之内、何某え申談置候との儀、銘々頭々え相達置幷組え
 も申聞置候、尤、熊本居たり共在郷え罷越候節ハ、右之
 趣同役・副役えも申談置候、右之通ニ付、在宅幷判形仕
 遠在え罷出、又ハ近在日歸ニ罷出候節も、其頭々名前ニ
 て御沙汰御座候得ハ、歸候迄難差延急成儀ハ副役又ハ頼
 置候同役共より取計來申候
一熊本居たり共急成押者之節、無據故障又ハ他出等之節間
 延ニ相成、其節迯走之儀も可有之哉之儀、足輕共之儀ハ
 従前々頭々押差出來候、然共所々御番所詰懸、又ハ脇方
 ニて即時も難相濟至て急成筋之節ハ、其所ニて押被仰付
 其趣頭々え御沙汰有之、當時迄相濟來申候、組屋敷え引
 取居申候者は、頭押指出候儀従前々之格ニ御座候付、去
 冬も御内意御達申候事ニ御座候、迯走等之儀は、其節ニ
 至其趣ニより可申候間、前以如何様共難申上奉存候
  但、迯走之儀ハ、御沙汰御座候節組屋敷え有合不申、
  頭組屋敷え罷越候儀、若承付身ニ覺有之候者ハ、直ニ
  闕落歟仕候哉難叶御座候
一惣て急成押者ニても、直ニ被召捕候同前ニ取計候手賦有
 之候哉之儀、此儀銘々罷越押申儀ニ御座候得ハ、何そ各
 別ニ手賦等仕置候儀無御座候
  但、直ニ被召捕候節ハ、廻役當番詰懸、直ニ被指越ニ
  ても可有御座哉、頭々えハ御紙面を以御沙汰有之、夫
  を請罷越申候、又ハ其節若他出仕候得ハ、其向々え御
  沙汰之紙面持参、其上ニて組屋敷え罷越、且又、外出
  難成故障之節ハ、同役仲間え頼其者罷越押候間、其分
  ハ延引可仕候
 右之通兼て申談置候儀ニ御座候、以上

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■御刑法方定式(7)

2019-03-19 11:18:38 | 史料

享保十八年正月
一八代鹽屋町惣七と申者、宇土郡戸馳村より薪を積、鹽屋
 川口御番所ニて改を請、積荷札壹枚、鹽屋町問屋善七所
 え持参仕候處、其夜鹽屋町出火ニて善七儀類焼ニ逢、右
 之札壹枚焼失仕候、早速御番所え相達候處、其節取除候
 諸道具之内え若入込居候儀可有之候間、得斗改候様ニと
 の儀ニ付、取除候道具重疊吟味仕候得共、相見不申候ニ
 付、書付を以相達候由八代家司より相達候、致吟味候
 處、正徳五年二月飽田郡白浜村之者、三枚帆之船ニ蜜柑
 を積、為商賣高瀬え罷越、歸候節白浜沖ニて遭難、風水
 船ニ成候節、川口出入札流失仕候任例過怠銀被仰付候、
 札を落又ハ焼候も畢竟麁抹ニ仕候故ニて、過怠被仰付
 候、今度も麁抹之事ニ付、問屋え格之通過怠被仰付ニて
 可有之と御郡方衆えも申談、御家老中え達ニも不及、格
 之通過怠銀壹枚申付候様ニと八代家司え致沙汰候事

一歩御使番より諸役人段迄之内、御給扶持被指放候者ハ、
 八時分支配頭同道ニて被罷出候上、御奉行より可申渡候、
 若其者病中抔ニて難罷出節ハ、其者宅へ罷越被申渡候様
 ニと、支配頭えお御奉行所え呼出書付可相渡候事
  但、御給扶持被減候歟、或段下り、成遠慮等被仰付候
  もの之内病中抔ニて難罷出ものハ、快氣之上可有同道
  段、支配頭え可及沙汰候事
一足輕段以下右之通之節ハ、其御役所根取、或同役之内召
 連罷出候様ニ支配頭え及沙汰、罷出候上、敷居外ニて      ➝どろ。ぬかるみ。ぬかる。
 御奉行所佐貮役より申渡候、若其者病中ニて候ハヽ其御
 役所根取之内呼出、被仰付之趣御奉行より直ニ右根取え
 可申渡候事
  但、右同断
一御穿鑿所御役人定廻等堅之儀、御刑法方より沙汰之事
一御切米取御給扶持等被指放候族共、御刑法方ニてしらへ
 の事

  御刑法式
一御近習御次外様獨禮以下
右御刑法方御奉行僉議、大御奉行審之、御家老御中老覆議、
御刑法方御奉行伺之
 但、執筆ハ御刑法方根取、若故障之節ハ考績方根取
    以上
寶暦六年 八月日

寶暦七年五月二日
一諸間詰又ハ近在御役人善悪之儀ニ付、其上役より書付被
 指出候ハヽ、其所之御目付幷御横目、又ハ御目附付之御
 横目聞合之書付揃候上、寄合之席ニて可及決断候、尤右
 之通之儀、御目附付御横目より書付差出候節は、其詰所
 之御目附又ハ御横目ニ聞合可申候事
  但、鶴崎詰其外遠方之儀、夫ニ不及候事

寶暦七年六月六日
一達尊聴候書付ニ、御刑法方御奉行連名連印ニて相達候節、
 若病中之仁有之候ヘハ、連名いたし印形不相用、尤肩書
 ニ病中ニ付印形不仕段相記相達申筈候、且又忌中之節は、
 連盟を徐キ申筈候事
  但、御在府之節、忌中ニて連名を徐候書付等差登候節
  は、江戸詰同役迄其趣申遣置事

同年六月七日
一被召籠置候者牢死之節、向後ハ如何様之儀有之日召籠置
 候處、何病ニて致牢死候段、毎月晦日ニ書付を以御用番
 ニ相達申筈候事
  但、小ノ月ハ廿九日

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■御刑法方定式(6)

2019-03-19 06:52:14 | 史料

寶永二年二月
一久留米有馬中務大輔様御領寂心と申出家、不届之儀有之      筑後久留米藩の第8代藩主有馬頼貴か。(久留米藩有馬家9代)
 致缺落候ニ付て、見逢次第捕為可申、追手之者差越候、
 此方御領分ニて見逢候ハヽ召捕申ニて可有之段、彼地町
 奉行石田與右衛門・戸田八右衛門と申仁より、當御町奉
 行衆え之添状持参、足輕恰好之者両人・小者三人當御町
 え着仕候由、先年久留米より缺落人追手、歩行之もの両
 人・鐵炮之小頭一人・足軽四人・小もの両人罷越候節之
 趣、例書調御町奉行衆持参相達被申候、右例書ニ、追手
 之者逗留中、御賄被仰付候由相見候、今度ハ御賄ニ及不
 申、旅籠之儀は宿主より彼者共え承仕出之様子、望次第
 仕ニて可有御座哉と致相談、其段例書ニ致付札、毎之
 通、御町奉行衆より御家老中え伺日申候様申達候ニ付、
 則例之通沙汰可被仕旨ニ候、先年も御賄被仰付たる事候
 へハ今度も御賄被下可然由、四郎右衛門殿より此方えも       四郎右衛門→7代(有吉家9代)有吉四郎右衛門立貞か
 被仰下候付て、其沙汰可被仕由御町奉行衆へ申遣候、右             
 追手之者共御城下尋廻候節、足輕両人・十人組之者両人
 見送り参候例ニ付、小路廻之足輕之内物馴巧者成者両人
 申付、御町奉行衆へ差越候、前廉ヶ様ニ人尋之者御城下
 廻り候て見逢候歟、又は侍屋敷町家ニても内ニ入候を見
 逢捕候共、此方之者ハ構不申、彼方之者ニ捕させ、自然
 捕あまし候ハヽ其時之首尾次第可仕由、見送之足輕共ニ
 申含候ニ付、今度も右之通足輕十人組之者え被申含ニて
 可有之段、御町奉行へ申遣候事
  但、右之者共二月廿一日ニ罷越、翌廿ニ日より廿五日
  迄熊本内尋廻、廿六日に罷歸候也                逮捕ニ付いては不明

一盗物質ニ取置、又は質置候節之儀ニ付、御町方より及沙
 汰候趣左之通
   條々
一質物之儀、彌入念可申候、五百目ニ及候質物ハ五人組ニ
 沙汰し可取置之、請返候時ハ質札之通令沙汰可返之、若
 五百目ニ及候質物、五人組ニ不申届於取置之ハ、質代銀
 一倍之為過怠候事
一取置候質物之内若盗物有之、被盗主聞付候て請返可申と
 申候ハヽ、半銀ニて請返させ可申候事
一請置候質物令紛失ハ、元銀一倍ニて辨させ可申候事
一盗人有之、被盗主より何を被盗候處何品何方へ質ニ有之
 由承候段、書付差出候ハヽ、質屋手前重疊遂吟味書付等
 調出させ、於無相違は、被盗人より半銀を出し請返させ
 可申候事
一盗物を買候もの有之、被盗主聞付候て沙汰有之候ハヽ、
 双方重疊遂吟味、紛於無之ハ早速半銀を請取差返可申候、
 若及五百目候者ニ候ハヽ、半銀ニて返辨及といへとも年
 普ニ相極、膨大之員數ニ候ハヽ其員數ニ應し、年普之年
 限時宜ニ取計候事候ヘハ、五百目ニ及候取遣之儀は、町
 別當・丁頭え令沙汰可相濟候事
一質物損申候時歟、又ハ火事之節焼失といふとも、質札紙
 面之通令沙汰、互ニ申分有之間敷候事
 右之條々堅可相守之、違犯之輩於有之は可為曲事者也
  寶暦六年十二月 町御奉行所
明和四年四月
一盗物質ニ入置候を、被盗主より被渡下候様相願候ヘハ、
 半銀を以請返候様及達來候、然處町在共ニ質屋之儀及吟
 味、去冬夫々名付差出候、依之向後右之通被盗主より相
 願候ハヽ、御郡方御町方承合、右究り候質屋ニ候ハヽ半
 銀差出受取候様、若又質屋ニて無之者質ニ取置候ハヽ、
 被盗候ものより半銀差出候ニ不及、質ニ取置候者損失ニ
 て本主え相渡候様及達筈之事

[付箋]「徒刑之者共眉毛を抜候得共、向後夫ニ不及候、毎                無眉➝これまでは眉毛を抜いていたものを、五日毎に剃る事に変更
   月左之通                            
    五日・十日・十五日・廿日・廿五日・廿九日
    右之通日限を究候て、眉を剃せ可申事
     寶暦七年三月」
一徒刑之者眉毛を抜せ可申候、尤、可為惣髪之事
一眉なしの御刑法被仰付候間、眉を剃候もの見逢候ハヽ早
 速押置可相達候、若隠置後日ニ相知候ハヽ、其者ハ勿論
 五人組迄も曲事可被仰付候、此段支配/\え不洩様ニ可
 被申觸旨、熊本・八代町・川尻・高橋・高瀬御町奉行幷
 御郡代呼出書付相渡候事
  但、八代町之儀付てハ長岡帯刀え申遣候、熊本町え沙
  汰之儀ハ、御町方根取え書付相渡候事
一笞ハ藁を引揃、其上を苧縄を以巻立、長サ三尺程丸メ三
 寸ニ出來之儀、御飛脚番小頭より荒仕子ニ申付、都合十
 五本出來ニ付右小頭え渡置候事

        此劒先長一寸           同長壹寸九分            此ぬ字曲り三寸
   (額・ひたい)           (右の手首)              (手)

 右は入墨之印、右之通彫刻之及沙汰、出來ニ付御飛脚番
 小頭え相達置候、尤短キ劒さきハ額、長キハ右之手の首、
 ハ官庫にかゝつて不届者ニ相用せ候事
一右之印ニ墨を附ヶ、押候て其上をひたもの針を以突、得
 度墨を入込せ候事
  但、申渡之書付ニ入墨と有之時ハ右之手の首、ニ入       ➝ひたい=額
  墨之時ハと調申筈ニ候、の字ハ手に相用せ候事        
一笞刑之者ハ、御昇頭申渡相濟候て即座ニ裸ニ仕成し、う
 つむけニ突這せ置、横腰より臀ニ笞を中テ、濟候以後親
 類え引渡せ候事
  但、請取人等之儀ハ、前以其支配人え令沙汰置候事
一笞等之再犯ハ、御穿鑿なしニ廻役共より指で候吟味之
 口書を以片付、及讃談候事
一獨禮御賞罰之儀、總て奉伺、尤御在江戸之節ハ不及伺、
 達尊聴申筈候事
  但、不座御給扶持減方等ハ今迄之通
一歩御小姓格以上は不申伺、追て達尊聴申筈候事
一御刑法方御用向之内、御家老中聞届之分は御用番之印形
 被用、堀平太左衛門限ニて及沙汰候分ハ平太左衛門印形
 可有之候、御奉行中讃談ニて及沙汰候ハ、御刑法方三人
 之印形用可申候、右夫々之印形相達可申事
一御咎筋之者、向後奉達尊聴候節ハ、御刑法方御奉行印形
 を仕相伺申筈候、其上ニて御印被成下旨候事
  但、死刑ニ被仰付候者伺之節は、御印不被成下候事
一諸役人段以下、御尤筋之儀、御中老聞届ニて相濟申筈候
 事

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■ 熊本藩六代藩主 細川重賢 書状

2019-03-18 19:50:16 | オークション

              江戸中期 『 熊本藩六代藩主 細川重賢 書状 』 肥後の鳳凰/名君 宝暦の改革 熊本県 肉筆/古文書

             

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■役害浪人・・?

2019-03-18 11:43:23 | 徒然

 ある史料を読んでいたら「役害浪人」とある。刊本だから誤植かもしれないが、二ヶ所にこの文言がある。
熊本では高名な先生の御著であるから、正しいものと理解して辞書等でいろいろ調べてみたがよくわからない。
分らぬ時のネット頼みで、ネット検索してみるとさすがYahoo知恵袋に同様の文字「役害」についての質問があった。
その回答を眺めてみるとかなりのPDF資料に「役害り」という文字が出ているらしい。
文章の脈絡から察するに「役割り」を意味しているようだとの事である。「割り」を「害り」と表記していたことが伺える。
しかし、「役割り浪人」としたら、これまたどういう意味だろうかと頭を抱えている。
御存知の方がおられたら、ご教示願いたい。

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■御刑法方定式(5)

2019-03-18 07:24:00 | 史料

   御國拂出被仰付候者、江戸御届之定式

一御領内之者御境目被拂出候節ハ、御留守居衆を以公義え
 御届有之候ニ付、何方之者何某當年何歳、何月幾日御境
 目被拂出候との儀書付、江戸詰御奉行え差越申筈候事
  但、右之通御届有之候得ハ、其者何方ニても悪事仕被
  召捕候ても、此方へ御渡不被成由候事

   堀田相模守様より御渡被成候御書付寫
 長崎近國ニて追拂ニ成候もの、又ハ致缺落候者とも、長
 崎へ入込悪事等致し候者有之候、依之、領分ニて仕置被
 申付候節、長崎を相構追拂等可被申付候、缺落者・追拂
 者長崎へ罷在候ハヽ、長崎奉行より可相渡候間請取候様
 ニ可被致候、已上
   七月
寶暦五年八月
 右之御書付江戸より被指下候由ニて、御用番三淵志津摩
 より堀平太左衛門え被相渡候、右之通ニ付御國被拂出候
 者ハ、長崎表え罷越申間敷旨申渡せ候筈之事
寶暦六年正月
一願筋等有之、在中之者なと書付持参指出候とも、直訴之
 儀ハ御取上無之、書付差返候、右之通之節遠在之者なと
 ハ當時迄町宿歟、又ハ爰元ニて一類之者所へ遣、或、役
 割所明間ニ入置來被下も、一類等無之何そ科無之者、明
 間ニ入置科申様も無之候ニ付、向後は下臺所へ遣、下行
 同前之賄給せ可申候事
[付箋]「御取上ヶ無之書付指返候者、留置賄ニ不及候、直
   ニ指返ニて可有之哉、此簾改り可申事
寶暦六年四月
一江戸より大廻ニて科人被指下候儀、江戸詰御奉行佐野左
 大夫より船方之者手前承繕せ候處、科人大廻り被指下候
 儀ハ一切難成段、右之者共より申達候由、右之通故公邊
 支有無承合ニも不及候由、左大夫より申越候事
  但、松平薩摩守様えハ大廻ニて被指下候儀も有之由、
  彼方ニてハ御手船故、右之通之由申來候事
一寺院之住持田國え罷越候節、渡遣候往來手形を落し罷歸
 候者ハ、日數百五十日閉門仰付候儀、弟子右之通之節は、
 百日逼塞被仰付候事
[付箋]「此稜、近年寺社方ニて僉議有之、違たるニとハ無
   之哉吟味
         戌六月」
一科人廻役之者押候上、先口書申付指出候、罪輕者ハ右口
 書を以御刑法及決談候、重キ者ハ御穿鑿頭を御奉行所へ
 呼出、右之口書相渡御穿鑿相濟候上、御穿鑿所御横目同
 道ニて口書御穿鑿頭持参被相達候事
  但、廻役より吟味之口書、讃談之上、徒刑已上と相見
  候分ハ、都て御穿鑿可被仰付候事
[付箋]「當時は、御横目同道ハ無之様子ニ付吟味之事
        未八月」
延寶三年五月
一諸親類をかくまい置候者共、挨拶悪敷候得ハ追出もの數
 多有之由ニ付て、不持宿を致流浪及飢候もの多候間、自
 今以後、手前ニかくまい置候親類を追出し候ハヽ、如何
 様之譯ニて追出候通、町方在々ハ支配人え相届、其上ニ
 て御奉行所へ相断か申候、且又牢人之儀は、宗門觸等承
 候處え申届、可令沙汰由被仰出候段、御家老中より一統
 ニ御沙汰有之候事
元禄三年十二月十三日
一小崎傳右衛門養子小崎左五右衛門儀、魚屋彦右衛門所え
 岡本四郎三郎同道ニて参、彦右衛門忰兵吉を四郎三郎預
 り可申由申候、此義ニ付、左五右衛門儀澤付大九郎ニ御
 預被成候、因茲大九郎より三宅藤助を以監物殿へ相伺被
 申候書付ニ、埒明申様子監物殿御肩書被成候を、藤助方
 より大九郎方え差越申候左之通
    覺
可然候
一出火之節召連、下屋敷へ引取可申哉之事
御醫師可然
一相煩候砌御醫師之事
  但、藥給付候醫師可申遣哉、御醫師之内可被指越哉
宿元え楊枝申遣義無用、乍然無據儀も候ハヽ大九郎承届、御奉行
所へ相達可被請差圖候 
一宿も徒え楊枝有之申遣節、親方之用聞所へ直ニ可申遣哉、
 御奉行衆え可申遣哉、尤度々承届候上不苦儀ニ候ハヽ取
 次可申哉
手紙取遣無用
一手紙ニても遣候歟、又ハ宿元より書状差越候ハヽ内見可
 仕哉、但、手紙之取遣も不仕ニて可有之哉之事
品ニより取寄遣可被申候、尤不苦物ニ候とも念を入改渡可被申
候、尤親傳右衛門用聞之方へ大九郎方より可被申遣候事
一諸道具取寄度由申候ハヽ如何可申遣哉、尤、改候て渡可
 申哉之事        ママ
何とそ逢せ不申候て不叶事候候ハヽ、大九郎承届逢せ可被申候
一組脇両人ニハ逢せ申ニて、可有之哉之事
無用
一火燵・火鉢も其間ニ召置申間敷哉之事
仁を可被定事
一かみゆひ之事
無用
一たはこの事
短キやうし不苦候、扇子無用、團柄を短いたし用加申事
一やうし扇子之事
一汁二菜可然候
一料理之事
   自分
無用
一年頭其外祝儀直ニ廻り可申哉之事
無用、出不被申候て不叶用之刻ハ可被罷出候
一仲間寄合ニ罷出申間敷哉之事
無用
一御城御近所たり共、火事之節罷出申間敷哉之事
無用
一御寺詰ニも罷出申間敷哉之事
可然候
一番頭其外組内御用之砌ハ、組脇衆呼候て可申達哉之事
        已上

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■あと三四日・・?

2019-03-17 13:37:23 | 熊本

                                    

 春という季節は中々の思わせぶりである。寒い朝を迎えたら、お昼は気温が上昇して窓を開け放ったりするほどである。
散歩の道筋の並木の桜もまだまだ蕾が固い。ここ数日写真のような状態がの木がちらほら見れるようになって、開花はあと数日内であろう。

昨日は史談会の例会で市民会館迄出かけたが、羽織っていたコートは必要ないほどの暖かさであった。
熊本城の長塀の修復工事が始まるらしく、大掛かりな足場が出来上がっている。
相変わらず悲惨な状態の熊本城を見るにつけ、地震被害の物凄かったことを思い出させる。
あと一月足らずで熊本地震から三年となる。熊本駅の旧駅舎の解体が終わり、昨日は新駅舎の完成式が行われた。
來熊されるにふさわしい熊本の玄関の整備がすすむ。そんな中に桜の開花が待たれる。

桜はいい。春は心を豊かにさせてくれる。

                                          

                                                 

           

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