津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■ガラシャの菩提寺・秀林院の消滅

2022-05-08 09:56:56 | 歴史

 細川忠興にとって親族の死に一番に直面したのが、室のガラシャであった。
そんな中でもその死を悲しむ暇もなく、戦い続けた。ガラシャの死、幽齋の籠城、忠興の奮戦などがあいまって慶長五年の一連の戦いは東軍の勝利となった。
忠興は行賞として豊前30万石に封じられた。忠興はガラシャの為に盛大な葬式を営み、元和年中菩提寺・秀林院を建立した。
その場所は、小倉の馬借町にあった小笠原家の小笠原忠真室の菩提寺・嶺高寺(その後移転)であり、まさにかってのガラシャの菩提寺・秀林院があった。
現在の北九州市立医療センター辺りだとされるが、このことであろうか。

細川家の熊本移封に伴い当然秀林院も移転建立されたものと思われるが詳細が判らない。
綿考輯録をひも解くと次のようにある(巻36-出水叢書第四巻・忠利公‐上p450)

  ■竹の丸之広間秀林院ニ引而書中見候、こけらふきに可申付候事
     此御書を以上考候ヘハ、御先代より竹の丸にも少々御間取有之たるなるへし、(中略)
     元和年中に豊前ニ秀林院被建置候を、当御国に御引被成候と聞へ候へ共、其年月・寺地之所柄停廃の事もわかり不申候、
     真源院様御代寛永十九年、護国山妙解寺御建立被成候事を、正保之比に成候而ハ御後悔被遊候との語伝、乍恐深き尊慮
     被為有候かと奉存候、御代々之御菩提寺ハ泰勝院一ヶ寺にても可被為済物をとの思召ニ而、御国のため御家の爲、後年
     累とも可被筋ニ少にても御省き被遊度との御意を、奉伺たるとの申伝へも有之由、強て考候に、正保二年三斎君御逝去
     後、八代の泰勝院を熊本に御合せ被成候砌なと、秀林院をも一ッの御よせ被成候而、院地ハ御こほち被遊候かと奉存候、

忠興の父・幽齋の没年は慶長十五年八月廿日、「京都天授庵及び小倉に葬る。肥後入国の後分骨を立田山に移し、寛永十四年七月十一日寺を建立して泰勝寺と号す」と細川家記は記す。
幽齋夫人・麝香は元和四年七月廿六日江戸没、お墓は幽齋とおなじである。

ウイキペディアによる解説
     泰勝寺は、小倉藩主・細川忠興(三斎)が父・幽斎の追善のため、慶長11年(1611年)3月に小倉に泰勝院[4]を建立した
     のがその始まりで、同院は後に熊本藩主・加藤家改易され、寛永9年(1632年)に細川家が同藩へ転封されるに合わせ
     て、八代城に隠居した三斎により小倉から八代へ移された[1]。一方、熊本城主になった忠利も、寛永14年(1636年
     に立田山の山麓に祖父・幽斎と祖母・麝香の方および母・玉子を祀る寺を建立し、これも泰勝院と命名した[1]
     忠利死後、藩主の座を継いだ光尚京都妙心寺より大淵玄弘和尚を招いて泰勝院住職とし、正保3年(1646年)には、
     玉子の隣に三斎の墓を営んだ[1][5]。光尚はその後、八代の泰勝院を廃すると立田山の泰勝院に併合して「瑞雲山泰勝寺」
     と改め、さらに綱利の代に山号を「龍田山」に改称した[1]

泰勝寺跡を訪れると、「四つ御廟」と称する、幽齋・麝香、忠興・玉(ガラシャ)の四人のお墓が並び祀られているが、いずれも同じ大きさの同じつくりの御廟であり大変美しい。
光尚は父忠利のために妙解寺の御廟を作った後、「後悔した」と書き残されている。「泰勝寺」一寺で良かったのではないかという後悔の念であろうか。宇土細川家系の10代・斉茲や11代・斉樹、13代・韶邦、最後の藩主・護久などが泰勝寺に並ぶのに、少々の違和感を感じるのは私だけであろうか。

いずれにしろ、秀林院は消えた。寺地が特に存在するわけでもなく、竹の丸の一角に小さなこけら葺きの御御堂があったのだろう。それは寛永九年末の肥後入国から、寛永十四年に泰勝寺が建立されるまでの約五年間である。

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■左肩・二の腕・手の痺れ

2022-05-07 16:18:04 | 徒然

 今朝から左肩が痛くて、おまけに二の腕にも違和感があり、手までも痺れがきました。
これは天下の一大事とばかりにロキソプロフェン・テープを貼ってみましたが、一向に改善の兆しがありません。
コロナの3回目のワクチン接種以後、ずっと違和感は続いているのですが、関係ないとは思いますが気持ちの良いものではありません。
寝ていても左へは寝返りを打たないように気を付けていますが、無意識に寝返りしては痛みが来て、慌てて向きを変える有様です。
少々タイピングにも影響があり、あまり長時間は出来なくなりそうです。
いろいろ資料整理のために頑張っている中、タイピングが出来なくなるのは致命傷です。
この際と思って、ロキソプロフェン・テープを二の腕とか、手の甲にも張ってみました。
傘寿ともなれば仕方ない事なのでしょうか。明日は、けろりと治っていることを願うばかりです。

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■綿考輯録が記す「お花畑」のこと

2022-05-07 06:50:13 | 史料

 今日私たちが拝見する「御花畑の絵図」は時代を重ねる中で、建て替えや建て増しが繰り返され、またお庭等が整備されたことは、想像するに難くない。
綿考輯録が示す、肥後細川家草創期の御花畑に於いては、まだ太守と家臣の交流が温かい関係であったことが伺える。
また各御部屋の使い方などが知られて非常に興味深いものがある。

「竹の垂木の所」とある建物は、加藤時代矢部の愛藤城を破城となし、大広間を解体しここに移築したという話が残る。
その建物であることが伺える。「竹の垂木」造ということは、屋根は勾配のきつい藁ぶきであったろう。
後には銅板葺きに葺き替えられたが随分後の事である。


                                               竹の垂木
 御花畑の御館も加藤氏の時より有之候、佐野の御間より御広間・御次・御台所等ハ先代作事也、すへて竹たる木の所ハ先代のまゝにて候よし、竹の御間ハ忠利君被仰付候御居間也、鹿の御間ハ光尚君御家督之御祝儀ニ、三斎君を御饗応被成候爲ニ被仰付候、
忠利君ハ中柱の間を常の御居間に被成候て、長いろりにて御料理等被仰付候、夫故ニ中柱の北の方竹椽、前々ハ広く有之、
其御時代ハ御家老并人持・御物頭以下迄も、心次第朝昼晩共に御広間に罷出居申たる由、忠利君ハ毎朝御楊枝なと御くわへ、其まゝニ而御広間へ御出被成候而、罷出居候面々の内、何某々々今朝御相伴仕候へなと被仰付候由、或時ハ朝の内田畑へ御出、御鷹つかひ被成候ヘハ、追付戻る程に待て居候へ、鴨を料理して可振廻なと御意にて、御帰之上右之通中柱の御間にて御相伴被仰付候、日々大方右之通にて、何もゆる/\と御噺被遊候由也、惣而其御代ハ手軽キ御事にて、御花畑の表玄関板敷はなく箱段はかりにて、其下ハ竹簀を敷て有之候、忠利君・光尚君・綱利君の御代始め迄ハ右の通にて候か、其後板敷被仰付候由、右同御家老間なと申も無之、御家老ハ御弓の間に居被申、御小姓頭・御側物頭なとハ御鑓の間ニ居、御小姓頭の部屋なと云も無之、同物書とてもなく、日記等ハ銘々ニ付置、此日帳爾今残り有之候、以下略


又、加藤忠廣代には坪井川をまたぎ竹之丸への橋が架かり「廊下つづき」であったとされる。(綿考輯録・巻36-出水叢書p450)
    或語伝に、忠広之時にハ御花畑御殿坪井川のうへを廊下つゝきにて、御城より御往来つかへさる御かまへなり、
    それゆえ妙解院様御本丸御住居之内も、御花畑御広間に御馬廻衆より、常にかわる/\御番仕候由、御式台も
    さつといたしたるとりふきにて、拭いたなともなく、竹簀を敷有之たるなり(虚実ハはかりかたし)

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■寛永九年、江戸上屋敷の類焼

2022-05-06 14:41:23 | 歴史

 細川忠利がが肥後国にに入ったのは、寛永九年十二月九日の事である。(辰の上刻=午前7時過ぎ頃)
役目を負って先発で入国する者や、小倉からの道筋での宿割や、忠利に随伴するもの、またそれぞれに家族を引き連れてくるなど、入国の様態も様々である。飛ぶ鳥跡を濁さずで、小倉の城を跡に入国する小笠原氏の為に準備の者などは引継ぎの為に、小倉や中津に残り、入国はその年いっぱいであったかもしれない。

                                 

 そんな中、江戸上屋敷が貰い火で焼失した。歳も迫った廿九日の事である。
年が改まると元旦には国許ではお国入り後初の御礼の御規式があり、二日には御謡初めの式など、いつもと変わらぬように執り行われた。
正月十日大坂町奉行久貝因幡守より上屋敷類焼の急報が入った。火元は松平新太郎殿とあるから、岡山藩主・池田光政の江戸上屋敷である。和田倉門に近く細川家と同様大名小路を正面玄関とする屋敷と向屋敷があった。(松平内蔵頭・家紋岡山藩家紋)の表示あり。細川家の三軒隣にあたる。
江戸屋敷からの報はまだ入っていないことを伝えて、その日のうちに早々のお礼の使者を立てている。

 この人がそのまま江戸へ下ったのかもしれない。
急遽、屋敷周りに塀をめぐらすように指示がなされた。
細川家は三斎の時代、將軍の御成りを申し上げたらどうかと幕府要人から進められている。
秀忠の時代だと思われるが、三斎は婉曲に断っている。
忠利は、いずれは御成りを受けなければならないだろうと考えて居たらしく、そのためには辰口の上屋敷が手狭であるとして、隣に在ったとされる延寿寺とか松平大和の屋敷などの下賜を懇願している。
多くの大工が江戸へ下され材木が運ばれたりしている。
忠利は入国後すぐに加藤家の事業を引き継ぐように、白川の土木事業などに着工している。
熊本城は、加藤忠廣代は手入れなどもままならなかったらしく、幕府に対して修繕の申請をしているが、一方資金不足で5,000両という金策を依頼している。
「荒川」という女性に対しての書状案が残されているが、私は、忠利の妹・萬姫(烏丸光賢簾中)付の老女ではなかろうかと考えて居る。利息とも二年で返すとしている。
忠利は熊本城の大きさに驚き「ニ三年我慢すれば、大金持ちになる」と息・光貞(光尚)に書き送っているが、江戸屋敷の再建など予定外の惨事であり、細川家の財政事情はすでにこの時期から悪化し始めたのだろう。

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■綿考輯録が記す「熊本城の歴史」

2022-05-06 06:36:34 | 史料

 綿考輯録の編者・小野武次郎が熊本城の歴史について一項をたてて解説している。
現在においてのいろんな歴史学者の研究が見られるが、大方は武次郎が語りつくしているように思える。


熊本城は菊池四代藤原経宗の姪出田経信より十四代の孫出田秀信、始而築之居城 代々年数未考、一ニ秀信を菊池十四代とも有之、其後鹿子木三河守親員入道寂心四十年程在城といへり、又城越前守親冬・其子同親賢・其子十郎太郎久基、是等四十年ほど居城せしと也、天正十五年秀吉公征西、佐々陸奥守成政ニ賜り、成政切腹以後緑川を限、北を加藤清正ニ賜り、同十六年六月廿七日入城、此時ハ今の古ル城なりしを、後ロに在茶臼山を引ならし、新に居城を被築候、追手西の方正面也、寛永九年迄四十五年、加藤氏二代熊本居城也、

  その他「考ニ、清正新城初而御入の年月未不詳」として諸説を紹介している

   ・一説ニ、半国の時業を初め、一国拝領の後成就と云、いふかし
   ・又説、慶長六年八月中旬鍬初といふハ猶信用しかたし、半国を領するの時創業七ヶ年を経て成就、于時肥後一国
    領地とも有、是も不詳、三斎君之御咄ニも半国の時之城と有之
   ・一書、河内の海道より金峯山嶋崎村足かゝりよく候、此方を専ニ防く心持に御縄張有之と云々
   ・又或覚書ニ、敵祇園山に押上り候ハゝ其儘御仕縣可被成候、諸手の不助に可追立也、あはれ祇園山ニのほれかし
    と清正被仰候由也、奥意有て被仰候か
   ・又鈴録と云書ニ、熊本の城ハ加藤清正縄張なり、門の数殊之外多き故、細川三斎ニ至りて門を塞て少くしたり、
    是固ク防戦堅固の心なれとも、両人の了簡各別也ト可知と云々、相違勿論也
  又、
    御本丸所々御繕無之候而ハ御住居難被成候ニ付、翌十年二月十九日御花畑ニ御移被成、同年九月御参勤、十一年
    八月十三日御下国、十五日御城御移徏被成候、然処御不自由ニ御座候故、一両年いたし候而又御花畑ニ御引移被
    成候年月不分明、

 

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■屋根より高い鯉のぼり・・

2022-05-05 14:13:20 | 徒然

 TVから「屋根より高い鯉のぼり♪♪」と歌う人の声が流れている。
近くのマンションのベランダに、いかにも現代というような鯉のぼりが上がっている。
    ベランダに小さい幟親心  と言った感じ・・・
男の子が生まれての嬉しさが現れている。

 私の心に残る鯉のぼりは、熊本大地震後の倒壊したお宅の庭に立つ、大きな吹き流しと緋鯉・真鯉の三流れの本格的な鯉のぼりだ。
鯉のぼりと共に、お子さんの名前が染め抜かれた旗が翻っていた。

自転車で被害状況を見て廻っていたところで見受けた風景だ。
人気の見えない庭先の鯉のぼりは、何事なかったように泳いでいたが、
そのお子さんも小学生といった処か。
どうぞお健やかに・・・

 もう一つは、熊本と大分の県境にある「杖立温泉」を流れる杖立川。
ここには数百匹の鯉のぼりが川渡しで泳いで壮観だが、最近はあちこちでこれが真似られているが、ここも随分早かったように思う。
多けりゃ良いというものではなく、もう少し絵的ににいうと間引いてもよさそうな気がする。
しかし、お古の鯉のぼりが捨てられず、また新しい命を観光地で過ごせるというのもなかなか今日的ではある。

 すぐ近くの御宅にも、屋根より高い鯉のぼりが泳いでいた。今日はご家族そろってお祝いでしょうか。
証拠写真を撮ろうと思ったが、広い有料駐車場の奥の方に立ててあるから、望遠でなければ取れそうにない。(残念)

この様に、日本の良い伝統がまだ息づいている。
処が、軒端や床の間にかざる「菖蒲の葉+蓬」の束があまり見受けられない。
そして菖蒲の葉で向こうハチマキ姿の人がいたものだが・・・そんな姿も今は懐かしい。

せめて粽(ちまき)でも買っていただきましょうか・・・

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■豊前→肥後、お引越しの裏話

2022-05-05 13:05:23 | 史料

 綿考輯録も時には面白い記事を書いてある。編者小野武次郎氏に感謝!!

御家中の面々も妻子共ニ引越宿割之通各落着候也、熊本町屋之外近在郷ニ致宿候も有之候、
右妻子引越候事ニ付而或覚書ニ、長岡勘解由ハ御家老にて五千石也、肥後江妻子引越候時、
   (1)
嫡子沼田小兵衛三四歳ニて候を駕ニも乗せず、家来の侍ニ入拘て熊本江参候由、右小兵衛
隠居名藤梅直ニ物語なり、平野九郎右衛門ハ其比御小姓頭にて千石被下置候、五歳・三歳の
 (2)
男子二人をふごにのせ、馬ニ付たる中ニ乳母一人乗て熊本へ参候、右九郎右衛門子も九郎右
衛門と申、隠居名如元、此者直ニ申聞候を覚居申候、右之通之儀書記候儀恐多御座候へとも
其時代ハ物毎ニ手軽ク御座候儀相知候ため、直に承りたしかに覚候故書記申と云々、

 

 (1)長岡勘解由は3代目の延之、家来の懐に入って肥後入国したのは剃髪号藤梅から4代目の延将である。
    没年から逆算すると3歳(満2歳)これなら懐に入るか
    しかし、この後幼くして江戸證人となる。
 (2)この平野氏は北条時行を祖とする。隠居名如元からすると、この人は本家の2代目・長常、食禄千石、
    国政に参與し、一国出納の事を監督す。宝永四年十二月三拾日没す。年八十。当時5歳か?
    (1)の沼田延之の姉・お多阿は平野九郎右衛門に嫁いだというが、年齢からするとこの長常であろう。
    今一人は良くわからない。
    処でふごとは「畚」と書き、「 竹・わら・縄などで網状に編み、四すみにつりひもをつけ、物を入れて
    運ぶ用具。もっこ。」乗り心地は如何だったろう。乳母どのはそのふごが取り付けられた馬に乗っての
    肥後入りである。
                                                              岩国市HPより引用す・感謝

上記記録の最後にある様に「其時代ハ物毎ニ手軽ク御座候」とあるが、手軽い事、半端ない。どなたさまもご苦労さん。

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■井上章一的心

2022-05-05 07:08:26 | 書籍・読書

 笑い話のような話だが、もう随分以前バスの中で「風俗史学」の本を開いて読んでいたら、目の前に立っていたご婦人がなんとも嫌な顔をしてこちらを伺っているのに気付いた。いかがわしい風俗の世界の歴史の本か何かと思われたのだろう。
これは、大変おかたい1690年設立という古い歴史を持つ「日本風俗史学会」の会誌である。
日本の生活文化の広範な歴史を研究する研究者の団体である。会誌のバックナンバーからその内容を御覧になるとよく理解できる。
    会誌『風俗史学』バックナンバー

 私が敬愛してやまない、日本国際文化研究センター所長の井上章一先生も風俗史家という肩書をもっておられる。
まさしくその洒脱な語り口から紡がれた多くの著作は、まさに風俗史家としてのものであろう。
但しご出身の京都大学の建築学に於いても、「伊勢神宮」「伊勢神宮と日本の美」「法隆寺への精神史」「つくられた桂離宮神話」「戦時下日本の建築家」などなどがある事を強調しておかなければならない。

 桂離宮に関する著書については、これを書こうとされた発端がいかにも「京都ぎらい」を口外してはばかられない先生らしい。桂離宮は貴族文化の頂点を極めた名建築である。一方遊郭に「角屋(すみた)」なる揚屋建築があり、現在では「角屋もてなしの文化美術館」となっている。寛永初期の町人文化が頂点を究めた「遊郭」である。
これを売りにして文化美術館というのだから恐れ入る。もっとも当事者たちはそういわれることを大いに嫌うようだ。

そして桂離宮とこの角屋という対極にある二つの建築には、デザイン性に共通する所があると喝破したのが、林辰三郎という歴史家だ。
言われてみればなるほどと思う。建築家の端くれとしては、図書館に出かけ改めて確認したいと思っている。

井上先生は、〇〇社が発行する「別刷〇〇・京都を知る100章」なる本の執筆を依頼され、林氏のお説を取り上げてその類似性に触れられた。この本は写真が売りである。
処が「宮内庁・京都事務所が」が桂離宮に関する写真の使用を断ってきたというのだ。編集にも口をはさんできたのだろう。
井上先生は編集部から懇願され、心ならずも林説については触れられなかったという。

宮内庁は遊郭と一緒にされてはたまらんというお高い意識がある事に気付いた、先生は「今に見ておれ」と奮い立たれた。
のちに出版された「つくられた桂離宮神話」がそうであろう。

そして京都人(洛中の人)に聞くと、「数寄屋建築=御妾さんの家(うち)」であるそうな。中々言い得て妙である。
天下の名建築とたたえたブルーノタウトも、一度はそんな御妾さんの家もご覧になればよかったろう。
「井上章一的心」を大いに称えたい。また先生の著書を一二冊注文しようと思っている。

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■創作(一)桜守

2022-05-04 13:11:50 | 創作

 いつも散歩をしている自衛隊通りの桜並木の内のかなりの数が開花を待たずに切り倒された。
根元は洞になっているが、殆どの木がその祠の中からだったり、脇からだったり新しい芽を吹いて5・60㎝程の高さに成長している。
こういう再生の方法があるのだと改めて気付いた。
そんな状況を見ながらいろいろ妄想を膨らませ、次代小説仕立てにして一文を書いてみた。大いに推敲を重ねなければならないが、出来立てのほやほやである。
ご笑覧いただきご批判を頂戴したい。


           桜 守
                                         津々堂

 少右衛門は台所に回ると、少しひびが入って水漏れがするようになった茶碗に水を汲み、二杯ばかり続けざまにのどを潤した。
下働きのお霜が奥に声を掛けると、五歳に成った孫の小太郎が走り出てきて、膝をつくと「爺様、お帰りなさいませ」と挨拶をする。
嫁のお佐幾は掃除でもしていたのか、前掛けを外しながら出迎えた。
少右衛門は久しぶりに、かって住んだ屋敷の付近を尋ねてみたのだ。ほぼ一里ほどの所にあるその屋敷というのは、昨年亡くなった息子庄兵衛の役宅で、今は跡役の祐筆伊藤孫大夫の屋敷となっている。
代々庄兵衛を名乗るこの家で少右衛門だけ名乗りが違うのは養子だからである。
そして少右衛門から祐筆を勤め、庄兵衛は二代目である。
住み慣れたこの役宅のすぐ裏手にある追分に、一本の桜の木があって、大きく枝を張って満開になると近郷の多くの人々が眺めに来て賑わったものだ。
その桜の木が今年はその時期を待たず、思いがけぬ春先の大風に多くの枝が折れ、幹も途中で折れて、とうとう根元から切り倒されたと聞いたからだ。
村人らは「庄兵衛様の跡を追うたか」と噂しあった。

「如何でござりましたか」と嫁のお佐幾が尋ねる。
「うん、見馴れたあの追分に桜の木がないのは、なんとも不思議な景色じゃ。しかしのう、根元は洞になっておったが、脇からもう若い芽を出して、そして高さも二尺ばかりになって居った。」
「そうですか、枯れずに育てば宜しゅうございますなあ」お佐幾は膝の上で手を揉みながら応えた。
「あの桜は死んだ庄兵衛だと思えてのう、涙が出てしもうたぞ。しかし、あの若々しく生えてきた木はあれは小太郎じやと思えてな。根はしっかり致して居る。あと七八年もすれば背も高かく太うなって、又花もつけようぞ。」
一年前、風邪をひいて寝込んだ庄兵衛は床上げすることなく帰らぬ人となった。誠にあっけないことで嫁の佐幾はしばらくは寝込んだほどの憔悴ぶりであった。
「儂も小太郎の為に、まだまだ元気で頑張らねばならんと、あの木を眺めて思うた事よ」
「ほんにお義父上さまには、いつまでもお元気でこの家のご先祖様の事など、小太郎によう教えていただかなければなりませぬ」
今ではすっかり元気になって、五歳になった小太郎を生きがいに思うている。
「そうじゃ、剣術も学問もしっかり教えて、また庄兵衛の後を継いで、殿様の御為になるようお仕えしてもらわねばならぬ。あと十年で元服ぞ、小太郎一緒にがんばろうのう」
小太郎は「はい」と元気に返事をした。
「小太郎、御父上が亡くなられた時に、殿様は涙を御流しに成られたそうじゃ。そんな父上を誇りに思うてのう・・・」
そんな少左衛門の言葉にお佐幾の目も涙で潤んでいる。小太郎はそんな母を見上げて「がんばりまする」と健気に答える。
「庄兵衛が死んだあと、殿様は儂にまた祐筆役を勤めよと仰せであったが、このお役は若い者建ちにお任せに為さりませと申しあげて、殿様の書物藏の御番を仰せ付けられたが、これは年寄りには有難い御役で、いろいろ見たこともない書物を拝見できて有難い事じゃ、いろいろ小太郎にも教えてやれそうじゃ」
「佐幾にもほんに苦労を掛けるが小太郎の為に堪忍してくれい」と、佐幾を労わった。
「なにを仰せで御座りまするか。私は庄兵衛どのに小太郎を命と思うて育てますると誓いました。お義父上さまにもお力をいただき、庄兵衛どのの見事な跡取りとなりますようお助け下さいませ。」
「なにを申す、儂にとっても小太郎は大事な/\孫じゃ。あの桜の木が花をつけるころには、殿様にお目見えが出来よう。殿様も待って居ると仰せであった。」
お佐幾は小太郎を膝元に引き寄せると、「有難いことで御座います」と言いながら、そっと目頭を押さえた。
小太郎が不思議そうに見上げて小さな手でお佐幾の頬をなでた。
「そうじゃ、殿様にお願いをして、そこの小川の脇に桜の苗木を頂戴して植えてはどうかのう。
明日殿様にお願いをしてみよう。あそこなら田の仕事に通うここらの者も喜ぶであろう。うん、そうしよう」

 数日後お庭方の者が四尺ばかりに育った苗木を二本植えて呉れた。
少左衛門は非番になると、裏の竹山に登って数本の竹を携えて下りてきては、下男の音八に加勢をしてもらい、それぞれに垣を廻した。
そして毎年の手入れも怠りなかった。

 小太郎がお目見えをすませ前髪を執したころ、追分の桜は見事な花をつけた。村の人々は勝手に「追分桜」と呼んで手入れをしていたが、殿様の御耳にも達すると「其方たちにとっては庄兵衛桜じゃな」と仰せられた。
お佐幾は、そのことを聞いてて身を震わせて泣き崩れた。
「思うた通りじゃ、小太郎、そなたの父上は桜に身を替えて見事にこの世に戻ってきたぞ」と、小太郎の初々しい月代姿の肩を叩いた。
そして小川の脇の桜も、これに負けじと花をつけた。少左衛門は密かに、「この桜は小太郎桜じゃ、佐幾の桜じゃ」と心に想うていた。
少左衛門は桜を眺めながら、亡き庄兵衛に語り掛ける。
「庄兵衛、来年は小太郎に家督をゆずり儂も隠居が出来そうじゃ。そしてまた苗木を頂戴して、川沿いに十本も十五本も桜を植えてみようと思うておる。桜守じゃ。何年かかるかわからぬが、殿様が参勤で御發ちの頃には桜の花でお送り申し上げたいと思うておる」そして、
「庄兵衛、お佐幾は気が早うてのう、もう小太郎の嫁探しを始めおったぞ。小太郎はまだ十五になったばかりじゃ。里の父や弟にも頼んでおりますが、お義父上も良い人を見つけてくださいませと申して居る。それでの、心得た、お佐幾のようなおおらかで元気な美人を探そうぞ、これはなかなか見つかるまいて・・・成就するには桜と同様十年もかかろうぞと云うておいた」
「そうしたら庄兵衛、お佐幾のやつが儂の背中をどつきおったぞ。もうすっかり実の娘のように思えるぞ」

 非番の一日、少左衛門は寝起きする離れの六畳の間で書見をしていると、お佐幾が襖越しに声を掛けてきた。
「お義父上様、お霜が早起きして花見団子を作ってくれました。音八も一緒に五人そろうて庄兵衛殿の桜を見に参りましょう」
少左衛門は思わず膝を叩いて、「おう、それはよい。行こうぞ行こうぞ」と立ち上がった。
野袴を着けると、少左衛門はポンと帯をたたいて小脇差を取ると歩み出した。満開をむかえ、桜吹雪になっているかもしれないと思いながら・・・

                    (この項・了)

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■忠利公肥後入国に際し特に随行を命じられた人たち

2022-05-04 07:27:13 | 史料

 肥後54万石の太守となった細川忠利は、寛永9年12月6日に小倉を出発し翌7日に熊本城に入城した。
これに先立つ11月18日には、特にお駕籠に随伴を命ずる人たち24名が三家老から公表された。
豊前から肥後への移封にあたり、離国する者も見られる中、これを留めんとする忠利の強い意志が見て取れる。
いずれも名だたる出自の人たちであり、大国肥後に於ける外交に欠かせぬ人材である。

   津川数馬殿         從四位下・左兵衛督-斯波(津川)義近の嫡流の曾孫
   津川四郎右衛門殿      同上津川義近の二男・豊前にて召し寄せられ客分・知行千石 後数馬を養子とす
   松野右京殿         大友義統の嫡男・二千石         
   細川七左衛門殿       細川典厩家8代目の弟の子       
   楯岡孫一郎殿        豊前に配流され後死去した最上光直の嫡男
   槙島長吉殿         三斎付・槙島云庵( 昭光)の一族か、「於豊前小倉御侍帳」「肥後御入国宿割帳」三百石         
   氏家志摩殿         美濃三人衆氏家卜全の子、信長・秀吉に仕、近江国一万五千石領知、代官所五万石預
                 関ケ原役西軍に属、高野山立退、其後家康内書を賜・赦免、慶長六年忠興に召寄られ
                 無役六千石、備頭
   松野半斎老         大友左兵衛義鎮(入道宗麟)三男 義盛、田原親盛 右衛門尉 パンタリオ)  
                 慶長十一年、豊前にて召し出し千石         

   南条左衛門尉殿       元信 (藤八郎 後・大膳 以(意)心 細川興秋女鍋-婿)頭衆 三千石  
   筑紫左近殿         筑紫広門三男 左近・重門 馬廻組四番 七百石 室・細川忠興弟幸隆女・兼
   津田三十郎殿        織田上総介信包 (織田信秀四男・信長弟)の孫、織田民部少信重(伊勢林藩主-改易)の子、
                 御物奉行 三百石 後、御使番衆 千石 (真源院様御代御侍名附)

   三淵内匠殿         細川幽齋の実兄・三淵藤英の四男
   長岡左膳殿         細川幽齋の甥・三淵家初代重政の嫡子(二代)長岡右馬之助之直、室は三淵内匠女
   松野長蔵殿         出自不明、大友系松氏の一族か
   谷 主膳殿         谷下総子、丹波山家邑主衝友の女婿、御馬廻衆添頭・二千五百国(於豊前小倉御侍帳)(肥後御入国宿割帳)      
   薮 図書殿         正成、薮内匠12,000石の子、中村一氏家老近藤左近養子、同家断絶後牢人 元和三年忠興に仕、
                 牢人分にて知行千五百石 内匠歿後知行召上られ、新知二千石 本姓藪に改
   薮 市正殿         正直、図書弟、内匠歿後兄一同に知行二千石 忠利代番頭、承応二年十一月八日歿
                 妻・長岡伊賀守女
   筑紫大膳殿         筑紫一族か、馬廻組二番組・組頭 千石(於豊前小倉御侍帳)(肥後御入国宿割帳)
   西郡刑部少輔殿       西郡大炊 清忠、天正年中於丹後被召出五百石、鉄砲三十挺頭、勢州亀山城攻の戦功五百石、
                 岐阜・関ヶ原・福智山の戦功によつて千石加増、都合二千石、御小姓頭御番頭、

   長岡藤十郎殿        山名藤十郎とも、細川幽齋の弟・三淵好重の男・宗由、三淵家初代の重政の四弟、豊前に於いて500石拝領、
                 別家を興したが息・四郎兵衛の代二絶家したか?
   田中又助殿         豊臣家五奉行の一人、近江水口五万石城主長束(水口)大蔵大輔正家 の子・半左衛門
                 水口在城の折り細川藤孝の女・伊也の娘(徳雲院)を娶る。のちその故をもって忠興に召抱えられ知行五百石。
   牧 善太郎殿        不詳
   平野源太左衛門殿      平野長泰の甥、三百石(肥後御入国宿割帳)人持衆并組外衆 千石(真源院様御代御侍名附)
                 (真源院様御代御侍免撫帳)   

   中村靭負殿         金春流能楽師、伯耆米子十七万五千石の城主・従五位下でぃきぶ少輔・中村一氏の孫、政長 三百石
                (肥後御入国宿割帳)
                 寛永六年九月廿九日、三斎公より忠利君江被進候御書之内(抜粋)
                 「靱負下之関ニ居申候由候間、よひ寄度候つれ共、つてもなく候ゆへ、其方下を待かねて居申候処、
                 靱負所より福王十蔵を差越、見廻度由、申越候、満足候而、一両日先ニ迎を遣候、定而頓て可来と存候、(以下略)」
                 息伊織に至り千石、

 それぞれ小姓弐人・持鑓壱本・馬取二人・くつ持壱人・さうり取壱人のみをつれて随い、これらの人の鑓・弓・鉄炮・鋏箱などは別に従うように定められた。
処が当日の名づけを見ると、出入りが見受けられ、変更されている。

   

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■智照院(細川尚房)一族の墓地

2022-05-03 15:07:02 | 史料

 熊本史談会の友人中村君が管理するDr高田先生の膨大な写真コレクションの中から、智照院月江義心 (尚房)のお墓の写真を送ってくれた。感謝。
九州新幹線工事に伴い、妙解寺の一部が影響を受けることから、2008年1月12日から3月4日にかけて調査が行われ、「智照院細川家墓所」として調査報告書がまとめられている。せっかくだからその一族墓所の様子を引用させていただき、共に写真もご紹介する。

                           ⇩ 
           Dr高田写真コレクション(中村裕樹氏管理)から

               

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■智照院一族

2022-05-03 06:52:30 | 歴史

 過日、宝光院を取り上げたので、今回はその隣にある「智照院」を取り上げる。
智照院とは細川光尚の次弟・尚房の号である。光尚は父・忠利の正室の子だが、尚房は側室額田氏(永寿院)の子であり光尚より18歳若い。
兄光尚から、20,000石を拝領した。
宝光院の院主にして妙解寺の住持宗玄は二歳年上の兄であり、末弟・元知は四歳年下で南条家の養嗣子となった。
豊臣秀頼の女とも噂される霊樹院(竹)は五か月ばかり年上の姉に当たる。それぞれが異腹である。
ここに示した絵図は妙解寺の全体図でで示したのが、尚房一族為の塔頭・「智照院」である。(右手が宝光院)
智照院の後ろに墓地が見えるが、ここに一族のお墓があった。
裏手の崖つきに肩を寄せ合うように尚房と生母、室、長男とその室、二男、長女・二女の八名のお墓が並んでいるが、この家は長男尚方(20歳で没)
の代に絶家している。

 2006/10/6日の熊本日々新聞は、新幹線工事に伴う「細川尚房一族の墓」の発掘調査が行われた事を報じていた。
新聞の表現を借りると、「尚房のお墓は生母永壽院のそれよりお粗末」とされているが、発掘調査報告書をみるとそうでもない。
処が永寿院については綿考輯録には違う情報が記されている。草葉町の法然寺にお墓があるとしている。
側室のお墓だから当然だと思われるが、しかし発掘調査では遺骨が発見されているから、いつの事かわからないがこちらへ移されたのであろう。
そして、新幹線工事に伴い妙解寺の山手に移されたという。(未見)

 この場所は先に書いた■昨日の新聞から「不自然カーブ史跡を守る」の宝光院とは隣同士、「旅館・花岡荘」があった場所である。
宝光院は妙解寺の住持・宗玄(尚房の二歳年上)が生母を偲んで建てたものである。幼くしての死別であったのか?。
一方尚房の生母は尚房死去の前年に亡くなっている。弟の子を育てて、後細川家家臣となさしめて500石の高禄取りとした。おねだり側室である。
この絵図を見ると、よく似たプランの建物がそれぞれに建てられていることが判る。

            

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■肥後文献叢書第二巻のはしょりすぎな編集(ニ・了)

2022-05-02 16:24:38 | 書籍・読書

 続撰清正記・巻第五目録
   第一・左馬助幸明順天城守事
   第二・大明梅栢蔚山の城へおしつむる事
   第三・秀吉公御他界朝鮮在陣衆歸朝之事
   第四・朝鮮在陣衆と石田治部少輔不和之事
   第五・小西行長朝鮮陣中の悪事在陣衆中より秀頼公へ申上らるゝ事
   第六・石田治部少輔謀反之事
    續・清正内儀人質として大阪に置けるを盗出す事
    續・石田治部少輔と合戰におよふよし家康公より飛脚きたる事    
    續・家康公への使者四國にて自害いたす事
   第七・清正宇土城せめらるゝ事
    續・宇土の城責候時石の瀬の町破たる事
    續・三宅角左衛門南條伯耆と鑓合の事
    續・宇土城より出たる忍の飛脚生捕事
    續・相田權六郎小川にて働の事
    續・宇土城より出たる夜討を突歸す事
    續・田中兵助手疵あらため給ふ事
    續・宇土城近所の沼田に懼たる事
    續・宇土八代の城請取事
   第八・清正西國筋方々はたらきの事
    續・立花左近将監後飛騨守と云内小野和泉鍋島加賀守と合戰いたす事立花三太夫討死の事
    續・柳川久留目の兩城請取事
    續・立花左近将監柳川下城の時清正陣屋に火事出來の時の事

 続撰清正記・巻第六目録
   第一・清正如水兩將薩州へ働として出勢ある事
   第二・清正家康公へ御目見えの事
    續・秀吉公他界の後利家公北國へ歸城の時家康公息男を證人に取て被行事
    續・肥後國清正拝領の部の知行高の事
    續・京都本國(圀)寺において萬部の經讀誦の事
   第三・名護屋普請に清正歌舞妓興行の事
    續・尾州名護屋の普請の時大石引し事
    續・與次兵衛歌舞妓の座にて足輕喧嘩いたす事
    續・熱田大明神の西の門造營の事
    續・八幡の國と云歌舞妓の女肥後へ下り候事
    續・誦に狸の腹鼓うちたる事
   第四・秀頼公家康公御對面の事
    續・家康公と秀頼公御對面の時御進物の事
    續・秀頼公大阪へ御歸の時伏見において御膳上られたる事
    續・熊本在城の時南東の作法其外常の仕置共の事
    續・常に定めおかれたる軍法の事
    續・清正鎧並武具ともの事
    續・軍中七備の圖の事
    續・旅行の時の事
    續・上野國くつといふ所にて馬の靈になり所の庄屋をとりころす事
    續・信州松本にて(石川)玄蕃殿より胡馬被申請候事
    續・稲田(本文では留)一夢鐵炮の弟子に家來者共なる事
    續・美須彌次右衛門奉公いたす事
    續・家中への知行割の事

 続撰清正記・巻第七目録
   第一・家中へ申出さるゝ七ヶ條の事
    續・七ヶ條の法度相達の事
   第二・清正逝去の事家來中へ遺言の事
    續・清正病に付て駿河へ使者さしこしたる事
    續・清正逝去の事
    續・遺言とも相違の證據の事
    續・清正遺言に軍神になり給ふと宣ふ事相違の事
    續・追腹きりたる者共の様子の事
    續・逝去の時家來の者駿河へ伺公いたす事
    續・清正遺物ともの事
    續・家來の者共の名書立候事
    續・清正跡寅藤拝領いたし下國仕たる事家老とも定り起請文書候事
    續・清正葬禮の事廟所の事
    續・本妙寺法談の事

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■私が抱く三つの疑問と私見

2022-05-02 07:05:33 | 些事奏論

 20年ばかりどっぽりと熊本の歴史を勉強する中で、どうしても判らない三つの疑問がある。
年代順に並べると次のようになる。

   1、「茶臼山ト隈本之図」における、四木社・神田原の位置。
   2、熊本城二様の石垣(細川時代と言われる)の上に加藤時代に作られた本丸御殿がある事。
   3、森鴎外著「興津弥五右衛門の遺書」にある「一木三銘の香木」及び「横田清兵衛殺害の年次」の間違い

 それぞれいろんな本や資料を読んでの私なりの結論は次の通りである。

   1、書き込まれた場所の間違い
     ・出田氏の千葉城以前の状況を描いたと思われるこの茶臼山の状況では、白川の流れはこのようなもので
      あったらしい。清正の熊本城築城の時期までの140~150年の間に白川は大蛇行したという事になる。
      四木社があった場所は、現在の花畑公園だとされ四本の木の一本がここに現存する。
      つまり、四木社や神田原は坪井川と白川の間に位置しており、大蛇行は四木社周辺を迂回して坪井川に
      合流し、竹之丸-桜馬場-隈本城(古城)の南面・現第一高校グランド部分を河岸としていたと考える。

   2、本丸御殿の完成に合わせて加藤時代までに継ぎ足された
     ・熊本城超絶再現記の著者で、熊本城ジオラマを作成された島充氏もこの疑問に触れられており、原因と
      して四つ考えられるとされている。
      本丸御殿が加藤期に作られ、石垣が細川時代に継ぎ足されたとするならば、本丸御殿の一部は宙に浮い
      ていたことになる。そしてこの状態で石垣を積み足すことが可能であろうか?否としか言いようがない。
      本丸御殿から二様の石垣の隅部に在った三階櫓までは細川時代のものか。        

   3、「一木三銘」森鴎外が著作の為にベースとした「翁草」の間違い。
      「横田清兵衛殺害年次」事件が起きたとする寛永三年は間違い。寛永五年当時、清兵衛生存を伺わせる資料の発見

     ・一木三銘又は四銘については、種々の説が巷間流布されている。お香の団体などでも森鴎外の「興津弥五右衛
      の遺書」による記述に準じているが、これは「翁草」の引用であるから鴎外に罪はない。ただし翁草に於いて
      は松平不昧家に存在するお香については、虚説としているが、本当は存在しているようだ。
      横田清兵衛殺害事件については、寛永五年以降の生存が伺える資料を、「福岡県史・近世史料‐細川小倉藩」か
      ら発見した。
      歴史小説の大家・鴎外の小説がもたらす影響は、ここに記されていることを真実として語っていると思わせる
      が、私たちは小説は虚構のものであることを理解しておかなければならない。

 今後もこれら三件の疑問については、種々の史料を読み込んで調べていきたいと思うが、現況に於いての中間報告としておきたい。

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■またまた「二様の石垣」の疑問について

2022-05-01 06:35:45 | 先祖附

 昨日は昼食後図書館に出かけた。以前借りた本の返却の爲だが、数日遅れてしまった。
お叱りの電話が入る前にと思っての事だが、少々確信犯である。
約4㌔弱をチャリンコで出かけたが、行きはささやかな下り勾配なのだが、半分もいかないうちに腿のあたりが痛くなる始末、80を過ぎるとこういうことかと唖然とする。
帰り道は押して知るべしであった。

 図書館浴を楽しんでいると、「熊本城超絶再元記」という本が目に入った。
                                   
あの熊本城の1/150の見事なジオラマを作成された島充氏の、その制作過程を紹介するご本人の著書である。
私も建築設計を生業にしてきて、自分の作品については模型を作ったことは度々ある。
しかし、このジオラマの制度はただただ感嘆するのみである。
史料となる古地図や図面、古写真などを詳細に検証しながらの大変な作業である。
この本に登場する写真は、一見本物の熊本城ではないかと思わせる精密さである。いろいろ教えを受ける事が多い。

 さて先に私がこのブログで疑問を呈した「二様の石垣」については、島氏も同様の疑問を持たれていた。
二様の石垣の外側の石垣は、細川時代のものと言われてきた。処がその上に立つ本丸御殿や、これに続く平櫓・小広間などは加藤時代、慶長15年頃の完成だと言われている。
私も随分史料は読んだつもりで居るが、この点の解説をしたものには出会っていない。まだ資料の読み込みが不足しているのだろう。
島氏は特に「大広間と二様の石垣の謎」というコラム(3)を書いておられるほどだ(p92)
細川時代の石垣は、加藤時代の石垣から2間ほど継ぎ足されている。
大天守同様、石垣から飛び出していたというのだろうか。つまり空中に浮かんでいたということだ。
そしてこれは危ないというので石垣を積み上げたというのだろうか。これは一つの推論である。
二つ目は、細川時代の者とされる継ぎ足し部分の石垣も、加藤時代、つまり建物の完成までには積み足されていたのではないか。
島氏も同様のご意見をお持ちであった。加えて・大広間は細川時代に作られた、又清正時代に作られたものを引き家した、という四つのお考えを披露しておられる。

 まったく同じ考えで我が意を得たりと嬉しくなってしまった。

出来上がった模型は戸外にだして、青空や夕焼けなどをバックに詳細に撮影がなされているから、本物と見まごうばかりである。
しばらく借りた本を熟読し、返却したあとは新しく購入しようと思っている。

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