津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■熊本城下屋舗割之図から(そのニ)

2022-05-17 06:50:11 | 地図散歩

 先日■熊本城下屋舗割之図からを書いたあと、以前二の丸に居住した方々の四つの時代の屋敷の主の変遷を取り上げたと思い、過去のブログを調べてみたら■二の丸の屋敷群というのが出てきた。
これを眺めていたら、先の記事に間違いがあったことに気付いた。(後に訂正させていただく)
改めて当時の記事を引用して、再検討する。

                        

 

 加藤時代(上図)細川家の四つの時代(下図)の屋敷の主の変遷。 

  加藤時代(寛永初期) (1)明暦期     (2)元禄前後     (3)宝暦年後半    (4)天明年前後 

      下津棒庵・・・大木
   (へ)大木四郎・・・御目付屋敷
   (ほ)                              同上   
a (は)・・・清田儀左衛門尉ヨリ上・・・・・→御用屋敷・・・・・・・・→(     bに吸収       )
b (に)・明屋敷・・・芦村惣兵衛・・・・・・・→住江甚右衛門・・・・・・→長岡岩之助・・・・・・・・→長岡右門
c 相田内匠・他・・・・長岡監物(足屋敷二軒共)・→同左・・・・・・・・・・→同左・・・・・・・・・・・→長岡丹波
d 下川又左衛門・・・・平野茂左衛門・・・・・・→氏家甚左衛門・・・・・・→学校(時習館)・・・・・・→学校(時習館)
e 下川平吉・本庄某・・・川喜多九太夫・・・・・→川喜多治部右衛門・・・・→(    時習館敷地となる    )
f 加藤右馬允・・・・・長岡佐渡守・・・・・・・・→高見三右衛門・・・・・・→沼田勘解由・・・・・・・・→沼田熊五郎
g 蟹江主膳・・・・・・ (不明)・・・・・・・→竹内吉兵衛・・・・・・・・→沼田勘解由・・・・・・・・→沼田熊五郎
h 新美八左衛門・・・・尾藤金左衛門・・・・・・→尾藤助之丞・・・・・・・・→有吉万之進・・・・・・・・→松井土岐
i 加藤右馬允・・・・・松井帯刀・・・・・・・・・→同左・・・・・・・・・・→松井主水・・・・・・・・・→松井帯刀
J 坂井内藏允・・・・・竹内吉十郎・・・・・・・・→小坂半之丞・・・・・・・→西山多膳・・・・・・・・・→長岡丹波添屋敷
k 真田安左衛門・・・・尾藤貞右衛門・・・・・・・→田中忠介・・・・・・・・→溝口蔵人添屋敷・・・・・・→長岡助右衛門添屋敷
l 随雲・・・・・・・・牧丞太夫・・・・・・・・・→松野半右衛門・・・・・・・→  同上  ・・・・・・・・→同上
m 水野左膳・相田六左衛門・・住江求馬・・・・・→志水三右衛門・・・・・・・→溝口蔵人・・・・・・・・・→米田波門
n 庄林隼人・・・・・田中左兵衛(足屋敷共)・・→ 同左 ・・・・・・・・→田中兵庫・・・・・・・・・→田中左兵衛
o 不明・・・・・・・中村伊織・・・・・・・・・→中村庄兵衛・・・・・・・→住江甚右衛門・・・・・・・→同左
p 不明・・・・・・・志水伯耆・・・・・・・・・→柏原新左衛門・・・・・・→小笠原備前・・・・・・・・→同左
q 不明・・・・・・・下津縫殿助・・・・・・・・→下津求馬・・・・・・・・→小笠原備前添屋敷・・・・・→同左

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■熊本城下の「青桐」について

2022-05-16 09:49:51 | 熊本

 今朝ほど新町のC寺のご住職からお電話をいただいた。唐人町筋では新たな街並みづくりの話が勧められているらしい。
それは街路樹などについても話し合われるのだろう。
ご住職にお話は、御父上からお聞きになっていた「青桐」についてであったが、興味深いものであった。
お城下には至る所に「青桐」が植えられており、これは侍が馬をつなぐためのものであったというお話である。
これを裏付ける資料や写真は存在しないだろうかとのお尋ねである。
現在は、新町の正妙寺のまえに(後ろだとも聞く)青桐が今でも残り「正妙寺通り」と呼ばれ親しまれてきた。
そんな風景が城下のあちこちにあったのだろうか。
私が小さい頃は、あちこちに「青桐」があったことはおぼろげながら記憶に残っている。
江津湖公園のスタッフ・ブログでも紹介されている処を見ると、公園内のどこかに植えられているのだろう。
写真も紹介されている。
たわわに実をつけるが、何とも不思議な形を見せる。この実を集めて、炒って食べたこともあったが味は覚えていない。
今でも小学校の校庭や近所の公園でも見受けられるが、この木が熊本城下のあちこちに植えられていたかと考えると、豊かな風景が見えてくる。
緑陰をつくり、その下に馬が佇んでいる穏やかな風景である。

何か情報をお持ちの方がおられたら、ご教示賜りたい。

         Chinese parasol tree,seeds   Chinese parasol tree,fruits 庭木図鑑 植木ペディアから引用

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■久々のクラシック鑑賞

2022-05-16 06:45:22 | 徒然

 昨晩は久々にEテレで「クラシック音楽館」を2時間にわたり鑑賞した。
「指揮者なしにオーケストラ第九に挑む」という趣向である。2時間クラシックを鑑賞するというのは私にとっては相当きつい。
しかしこの趣向が面白いと思った。指揮者がいないという事はどういうことなのか。
どう進行していくのかが不思議であった。各パートの人たちは200~300回、この曲を演奏してきた達人ばかりだ。
いつもであれば指揮者の解釈による指示に依って曲が作られていくのだが、今回はどうするのか。
第一バイオリン奏者が大まかな方向性を伝える。楽譜に対する各パートの解釈がそれぞれに在って、議論が重ねられていく。
皆本当に楽しそうだ。各パートがベートーベンの想いを紡ぎあげようと喜々として語り合っている。
わずか三回の綜合練習の中で、想いが一つになっていく過程を多くのカメラが追っていく。
楽譜に書かれた音楽記号の解釈にしろ、奏者の主体性が取り入れられることに対する喜々とした顔がある。
二人のコントラバス奏者の弓の使い方の相違に一人が「そっちが良い」と、即応するなどすごく面白い。
こういう番組は本当に良い。クラシックは難しいと腰が引けてきたが、このようなドキュメンタリーは身近に感じられる。
いみじくも一人の管楽器奏者がこんなやり取りを「指揮者もみてくれたらいいね」と語るシーンが印象的であった。
もう一人の人は「今まではおざなりにやってきたなあ」と嘆息する。指揮者のいうがままに身を任せたということであろう。いずれも深い言葉だ。

当日演奏が始まると、皆が本当に想いの音を奏で始める。新しい解釈の音を背後に聞いて、第一バイオリンがわずかに後ろを向いて微笑む。
若いバイオリンの女性奏者は嬉しくてたまらないようにニコニコ顔である。
彼等はまた、新しい指揮者の許で新しい解釈の音を紡いで新たな「第九」を作り上げるわけだが、今回の演奏こそが演奏者それぞれの
最高のパフォーマンスではなかったかと思ったことである。


「第九」のすべてを聞き通したのは初めてである。合唱もすばらしく心みたされて床に就いた。感謝。

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■熊本史談会5月例会御案内

2022-05-15 11:42:29 | 熊本史談会
    熊本史談会おきましては、下記の如く5月例会を開催いたします。
一般の皆様のご参加も自由ですので、ご興味のお有りの方はどうぞご参加くださいませ。
尚今月は当会の令和4年度総会を開催いたしますので、入場は9:50頃からと致します。
 
                                                                   記
 
           期日:令和4年5月21日(土)午前10時~11時45分
       場所:熊本市民会館 第7会議室
       演題:清正公から学ぶこと
       講師:加藤神社名誉宮司・(財)熊本城顕彰会会長
                                                  湯 田 榮 広 氏             
       一般参加自由:
                  参加費 500円を(資料代を含む)申し受けます。
          資料準備のため事前にご連絡をお願いします。電話(  090‐9494‐3190 眞藤) 
          尚、開会前に当会総会を催しますため、入場は9:50頃からと致します。
          又、当日はコロナ対策の爲マスクの着用とご記名をお願いいたします。
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■細川侯爵家家政所のこと・・関口臺町?

2022-05-15 06:51:27 | 徒然

               
 ヤフオクを眺めていたら「菊池勤皇史」が出ていた。私が注目したのは書籍ではなく、出品物の写真に在った右の「ハガキ」である。
購入すべき本の中に入っているものだから、何か感想でも書いて貰おうとでもいうものだろうか。
この本は昭和16年、細川家家政所の発行であるから、私の祖父が現役で勤めていたころである。そして私はここにあった役宅で生まれた。
私は17年生まれだが、家政所は侯爵邸内にあった(現・永青文庫‐小石川區高田老松町)と理解していた。
ところがこのハガキを見ると、関口臺町26番地とある。侯爵邸があった老松町とは胸突き坂を挟んでの隣町だが、こんなところに家政所があったなんて知らなかったので驚いている。
現在のどの場所なのか、名残はあるのか大変興味深い。もっとも細川家の財政や財産管理をする部門と、記録の管理や研究・書籍発行等の部門は分れていたのかもしれないが・・・・
まさかこんな処で新発見するとは思わなかった。永青文庫にお聞きしてみようかしら・・・


追記:
随分以前、東京在住のS様から昭和21年5月発行の「小石川區明細圖」なるB4判ほどの地図を頂戴したことを思い出した。

誠に小さい地図で胸突き坂を見付てその周辺をよく観察すると、「何という事でしょうか・・・??」
細川邸の胸突き坂側は関口臺町となっている。そしてなんと26番地だった。
つまりかっての家政所(現永青文庫)は、まさに関口臺町に存在していたのだ。
椿山荘や芭蕉庵は関口町、胸突き坂の入り口左にある水神社の裏手迄関口臺町が広がっていた。

ヤフオクの品物に添付されていたハガキから、思いがけないことを知ることが出来た。
関係者の方々に感謝しなければならない。

                                         

                                   朱線が胸突き坂 左手の広い敷地が旧・細川侯爵邸

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■傘寿爺様のサイクリング計画

2022-05-14 10:58:20 | 徒然

 まだ胸郭出口症候群?が良くならない。
今朝は4時ころ痛みで目が覚めて、何度も寝返りを打ち、左手をどこに置けば痛みが止まるかと工夫したが、6時過ぎに起床するまで寝ることが出来なかった。

どうやら、昨日所用で出かけ左手に荷物を持ったのが原因の様だ。昨日は雨が止まず、右手に傘を持ったため致し方なかった。
相変わらず左手には痺れが残り、キイボードを叩いていると時折上腕部に差すような痛さが走る。
寝ているよりデスクワークより、ただ立っている状態が一番楽であることに気付いた。
歳を重ねるごとに、病気も増えていく。
手足が不自由になるような病気の予防は心掛けなければならないが、この痛みは早々には良くならないような気がしている。
キーボードだけは叩けるように神頼みをお願いしたい。
嘉島町足手荒神様が鎮座して居られる。体調が良ければ7㌔程の距離だから、サイクリングで出かけようかとも思う。
甲斐宗雲運公をお祭りして「甲斐神社」とも呼ばれている。



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■細川家と近衛家の因縁

2022-05-14 07:00:03 | 歴史

 細川護熙氏の御母は近衛温子様、言わずと知れた近衛文麿公の次女である。
文麿公の奥方は、佐伯藩主・毛利高範公の次女・千代子様、そして三女の泰子様は文麿公の弟・秀磨公夫人である。
この毛利高範公はご養子で、実は宇土細川藩藩主・細川行真の三男・侃次郎である。養父・高謙の後室・美子が行真の妹(叔母)であったことによる。
高範氏は有名な毛利式速記の考案者である。それゆえ戒名は「速記院殿開新高範大居士」と中々ユニークである。
お子様たちはその速記を習得されており、とくに秀麿夫人・泰子氏は「西園寺公望の秘書だった原田熊雄に協力して「原田日記」を口述筆記した。」とされる。
原田日記は昭和史を語る上で欠かせない記録となっている。
付け足し:(私は現在「重臣たちの昭和史」を読んでいるが、この著者勝田龍夫は原田熊雄の女婿だが、これがなかなか面白い。)


 細川家は齊茲公が宇土細川家から養子に来られて本家を相続されたが、齊樹→齊護(養子・宇土支藩藩主立政)以降宇土家の血筋といって良い。
立政の本家相続に伴い、宇土支藩は弟の行芬が相続、以降、立則→行真へと続いた。
宇土支藩系嫡流に宇土支藩系の血が加えられたことになる。

              細川治年==齊茲ーーーーー齊樹====齊護 ーーー+ーー韶邦
                          ‖   ↑         ↑     |
   
細川興文ーー+ーーー埴   |         |  +ーーーー護久ーーー+ーーーー護全
                    |     |         |                         |
        +ーーー立禮(齊茲)ーーー立之ーーー+ーー立政(齊護)      +ーーーー護立ーーーーーーー護貞
                    |                                                           ‖
                    +ーー行芬ーーー立則ーーー行真ーーー+ーー行雅     ‖    
                                |        ‖ ーーー+ーーー護熙
                                                                            +ーー侃次郎    ‖      |
                                   ↓     ‖      +ーーー護煇(忠煇)
                            毛利高謙==高範ーーー千代子 ‖       |
                                        ‖ーーー温子           ↓ 
                                    近衛文麿ーーー文隆====忠煇
                                               ‖
                                            三笠宮甯子

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■細川護前と室・鳳臺院

2022-05-13 06:51:43 | 歴史

 細川護前は細川斎護の嫡男である。父に先んじて23歳の若さで死去した。
斎護は宇土支藩の藩主(立政)であったが、従兄弟にあたる本家の斎樹が重篤になると養嗣子となった。
本家に入る前に男子が生まれているが、これが護前(雅之助)である。
雅之助は8歳であったが、宇土細川家で大夫人と称賛される祖母・栄昌院(細川立室・老中土井利厚女)の手で育てられている。
大変やんちゃな子であったらしく、お付きの小姓の口に虫よけの胡椒を塗りつけ、小姓は余りの辛さに泣き出してしまった。
これを見た栄昌院は、護前の口中に胡椒を入れてその非を体感させ、その日は食事もとらせず押籠にしたという。
                               (女性たちの書いた江戸後期の教訓書 柴 桂子著)
そんな雅之助も13歳に成り嫡子と認められて本家に入り護前と称する。
18歳で細川新田藩の細川利用女・茂と婚姻、その3年後嘉永元年(1848)に死去する。時に茂19歳であった。剃髪して鳳臺院と号す。
江戸の大崎屋敷、白銀屋敷で生活するも、文久3年(1863)に、顕光院(斎護室)と共に熊本へ帰国する。
その様子は恕齋日録に精しい。初めての土地で明治7年卒去までを過ごされた。45歳。
護前の死去に伴い、次弟・護順(韶邦)が斎護の遺蹟相続をすることになる。

 

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■3ヶ月経ってもまだ・・・

2022-05-12 11:16:38 | 徒然

 3月12日にAmazonに注文した品物がまだ届かない。安いダイアリーで近所の店で購入していたが、昨年位から店頭に置かれなくなり、それから毎年Amazonに注文している。
メーカーから送ってくるのかもしれないと思い連絡を入れたが、直接注文でないAmazonへの注文は関係ない旨の丁寧な案内があった。
一月ばかりしたら「遅延のお詫び」の連絡が入った。そして数日前再び同じ連絡が入った。
2ヶ月経過したが「どういう事・・?」と言った感じ。1回目の時には「解約返金」しようと思ったが、別のダイアリーに替えるのも嫌だし、郵送料とも1,000数百円だったが、こちらも意地で放うりっぱなしにしている。
Amazonもこういうことがある。
ダイアリーの書き込みが出来ないので、前年の物の普通罫紙に書いているが、そろそろ飽和状態になる。
経費節約でcampusノートにしようかとも思ったりしている。

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■「御大工棟梁善蔵ゟ聞覺控」より「鵜瀬堰」

2022-05-12 07:21:43 | 歴史

 御大工棟梁善蔵が大いに難儀した仕事の一つに、甲佐町の「鵜瀬堰」が上げられている。
熊本方面からすると、甲佐町役場から美里町に向かうとすぐに緑川(日和瀬橋)の流れを見ることが出来るが、その上流(左手)約1.2㌔ほどの所にある清正時代に作られた堰である。甲佐町の民話でも語り継がれているこの堰は、今でも現役である。
流れのはやいこの場所で水の流れを観察して、「鵜」が渡った流れの緩やかなところを見付て、自然石を積み上げて構築されているという。
分水した流れは甲佐の町を潤して、多くの新たな田地が開発された。
堰から500メートル下流では、有名な「甲佐の鮎簗場」がある。細川忠利の代に設けたとされるが、流れを簀の子場に落し、鮎を生け捕りにするというものである。
鮎料理を楽しみに多くの人たちが訪れて居られたが、コロナの時期の二年ほどは閉鎖を余儀なくされた。
熊本人ならずともぜひお楽しみいただきたい。

 やや下流では、この緑川に釈迦院川が合流しているが、この川の上流を目指すと石橋の里である。
その釈迦院川に小さな川が合流している地点に、江戸期のアーチ橋がそれぞれにあり、10月から2月頃にかけて毎年、太陽の粋な計らいで見事なハートマークを作り出して呉れる。紅葉の時期などには多くの若者が訪れるメッカとなった。

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■熊本城下屋舗割之図から

2022-05-11 11:31:49 | 先祖附

 細川家の有力家臣たちは概ね二の丸地域及び古城地域などに屋敷を拝領している。
下にご紹介する絵図は、加藤家末期の屋敷割図である。細川家は入国後の屋敷割をするためにこれをもらい受けたのだろうか、「上々々」とか「上々」「上」などと建物評価をして書き入れている。
先にご紹介した記事によると、「大破」している屋敷があるなど、改易され居所を亡くした加藤家の家臣の人々の戸惑いなどが伺える。
細川家に於ける二の丸地区の絵図は以下の様に存在するが、22・二ノ丸之絵図にしてからも、入国時(1632)からすると60年弱の年月が経過しているから、入国時の状況は良くわからない。

    22・二ノ丸之絵図     元禄年前後(1690~1700)
    23・ 同上        宝暦年後半ころ(1700年代後半ころ)
    24・ 同上        天明年前後(1781年前後)
    25・二ノ丸之内千葉城段山 文政年間(1718~29)
    26・東二ノ丸       不明 27と一対か
    27・西二ノ丸       不明 26と一対か

下の絵図を見ながら、細川家有力家臣がどこに配置されたかを眺めてみよう。

加藤時代には本丸に「加藤平左衛門」屋敷があり、平左衛門丸としてその名を残す。又、奉行丸にも平左衛門の中屋敷があり、加藤平左衛門の力の程が良くわかる。ここには細川家の「田中兵庫(柳川藩主・田中吉政弟)」が入居した。
現二ノ丸広場の西南詰には加藤家時代は加藤右馬允の屋敷であったことが判りこれが最高ランクの「上々々」の屋敷であり、ここには「さと」とあり筆頭家老・松井氏(興長)が入った。その北、現在の熊本県立美術館がある一画には南北に道が通っていたことが判る。細川家にも使えた庄林隼人木野左膳坂井内蔵允等の名前が見える。この辺りに門があるが、その一画には能楽師・中村庄兵衛屋敷があり、後には住之江家が入ったので、「住之江門」の名が残る。後の藩校時習館の位置にある屋敷も「上々々」ランクで「下川又左衛門」屋敷があり、その南には「魚住彦兵衛及び蟹江主膳」の屋敷があった。ここは丁度熊本城の大手口にあたるが代々沼田家の屋敷である。新美八左衛門屋敷は有吉家(分家)、本丸北側の加藤右馬允屋敷の西、空堀を挟んだ反対側には「庄林伯耆守屋敷」があり「上々」として「・伯耆」とあるが、こちらの「伯耆」は志水伯耆(清久)の事であろう。

二の丸御門の東角は相田内匠屋敷と共に五区画が見えるが、此処が二番家老米田家屋敷、その右手の五区画は後の刑部家、その右の二区画も刑部家一族の屋敷となるが、この絵図では大木四郎の名前が見える。
刑部家は初代・興孝が肥後入り後は菊池に陋居しており、ここが刑部屋敷に成った時期は判然としない。
その前が棒庵坂、坂を下った先に下津棒庵の屋敷が見える。下津家は細川家に仕えた後もずっとこの屋敷に住まい続けた稀有な家である。百閒石垣下の北側には飯田覚兵衛屋敷が見える。

(説明だけではなかなか判りにくいから番号をふろうと思っている。しばしお待ちを・・・)

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■雑損発生そのた

2022-05-11 08:38:42 | 徒然

 雑損発生です。昨晩から調子が悪かったワイヤレス・マウスが、今朝になって危篤状態になりました。
何度も電池を入れ替え、チェックしますがすぐに切れてしまいます。もう二年ほど使いましたから寿命なのでしょう。
そこで朝から処分はしていないはずの「有線マウス」を探し回りました。
資料の山をかき分けながら、這いつくばっての捜査です。ようやく見つけ出し、何とか使用できそうで一安心です。
熊本は数日雨が続きそうですから、買いに出るのも億劫で、しばらくはこれを使うことにしましょう。
もっとも、使えるならば「有線マウス」でもいいかなとも思っています。
毎日、いろんなものの値上がりのニュースを聞くと、やはり年金暮らしの身としては、我慢せざるを得ないのかなと思います。
そして、マウスを我慢すると、あの本が買えるなと思ったりもするのです。
図書館が貸し出しをしてくれない本などは、どうしても手に入れたくなってしまいます。

この有線マウスも随分長く使った代物ですから、寿命の程は判りません。
そこでやっぱりAmazonでワイヤレスマイクを注文することに致しましょう。本はその次にしましょう。

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■対馬宗氏の末裔・寺生氏と三斎の艶聞

2022-05-10 08:07:38 | 史料

 細川家家臣に「寺生家」がある。その先祖を遡ると対馬の宗氏に行き着く。
    託麻本山城主          浄勝寺開祖       二男寺生家初代
    宗宗盛・・・・・・・・・・・・・久隆ー善慶ー2代・祐閑ー就右衛門・真武(二男)                                                           

初代・就右衛門の奥方は「りん」というが、この人物は細川三斎が最晩年に、お附きの女中「糸」に手を付けられてもうけた女子「お百様」の娘である。
寺生家には、託麻本山城主の血と共に細川家の血が流れていることになる。
その三斎の艶聞は「綿考輯録」に、もう一つの艶聞と共に紹介されている。

    或記、三斎君八代江被成御座候節、御側江被召仕候糸と申御女中ニ御女子様御出生あり、御名を御百様と申候、
    早速御聴に達し、志水金右衛門を召し、在中ニ遺候而穏便に養育いたし候様ニ被仰付候、依之八代郡永田村百姓
    善兵衛と申者の妻よろしき乳房持候由吟味之上、善兵衛所江被為入候、御五歳之時御城江被為召、御目見被成
    候、三斎君御逝去後、立法院殿八代御城より小川御茶屋江御移ニ付、お百様を右金右衛門御供ニ而立法院殿御方
    江御出なされ、彼方江被成御座候、其後御さん様方江御移なされ候、御成長の上、浪人余宮娘之由ニ而、水野伊
    左衛門と申者之妻ニ被下候、寺尾(生)嘉九次曾祖母之由申伝候

或記とは「浄勝寺善慶父子武功覚書」であると思われる。
寛永九年忠利の熊本への国替えに伴い三斎は八代に入った。当時三斎は七十歳であり以降十二年余を過ごす事に成る。
そんな中、三斎の御身周りの世話をしていた女中「糸」にお手がつき女の子が生まれた。
お百さまと名付けられた。「城中での養育はまずい」と考えた三斎は家臣・志水金右衛門に赤子の将来について相談・指示をした。
百姓善兵衛の妻が「よろしき乳房」をもっているとして養育を頼んだのである。
五歳になってお百さまは三斎にお目見えする。三斎の没後は三斎側室立法院のもとで育てられ、後には立孝夫人おさん様のもとに引き取られる。
おさん様は立法院の姪であり三斎の養女として立孝の夫人となった人である。
お百さまは余宮某の娘として水野伊左衛門なる人に嫁したという。この人が寺尾嘉九次の曾祖母だと申し伝えられている。                      (参考:鈴木喬著 肥後宗氏一族の盛衰)

一方宗久隆は平知盛の末裔だという説がある。少々勉強をしなければならない。

参考「浄勝寺
熊本市本荘町の苗床にある寺。真宗大谷派。山号は勝軍山。本尊は阿弥陀如来。本堂前の大ソテツにちなんで蘇鉄寺の俗称がある。「肥後国誌」は慶長19年善慶の開基とし,享和2年の「浄勝寺善慶父子武功覚書」には善慶を対馬の領主宗氏の子孫とする。宗氏は盛実の時に託麻本山城主となり,盛実より13代目が,山本郡正院岩野山道祖城主の久隆で,久隆の次男が善慶となる。天文年間出家した善慶は,従弟の隈本城主越前守と同道して上京し,本願寺の門徒となり,善慶の号と浄勝寺の寺号を許された。一方,城越前守は行西の号と徳栄寺の寺号を許され,玉名郡中富手永の広村に徳栄寺を建立した。善慶は先祖の領地であった本山城の跡に浄勝寺を建立。その後慶長5年加藤清正により再興されたとある。寺蔵の開基系図には,久隆は享禄4年冬に肥後国を退去して長門国に向かうとあり,同年の春善慶が道祖城で生まれ,26歳で出家。慶長5年小西行長勢との合戦で加藤清正に仕えて戦功をあげ,慶長19年浄勝寺の開基となり87歳で没したと見える。「肥後国誌」の補説では,2世祐閑の代の寛文5年,法義の争論によって,それまでの西本願寺末を離れ現宗派へ転じた。宝永年間の大火で堂宇を全焼したが,ほどなく再興される。明治10年の西南戦争では薩摩軍戦死者の埋葬地とされ,481名が葬られたが,戦後数年間で遺骨の大半は鹿児島の遺族のもとに引き取られた。昭和20年8月7日暁方の爆撃で被害を受けたが,伽藍の倒壊は免れた。昭和42年,白川の改修工事に伴い本山の泰平橋際の旧寺地から現在地へ移転し近代風に改築された。                 (参考:角川日本地名辞典)  

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■胸郭出口症候群?

2022-05-09 06:59:53 | 徒然

 私のブログを見て居られる方からメールをいただき、私の肩の痛みは「胸郭出口症候群」ではないかとのご指摘をいただいた。
私のボヤキが御目に留まり誠に恥ずかしい。その方も同様の症状がお有りだったようだが、今は完治されたという。
「タイピングの遣り過ぎではないですか?」とのご指摘もあったが、自分でもそう感じている。
今日もまだ、一昨日からの症状のままである。上を向いて寝ていても痛いから、毛布を手繰り寄せて左腕を乗せる台を作るという有様である。
胸郭出口症候群」を読ませていただくと、まさにピッタリである。これは病院通いをしなければならないのかと、少々うんざりではある。
この文章も、姿勢を正してタイピングをしているが、左手の痺れがなんとも不愉快な感覚である。

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■肥後入国後の屋敷割の事情

2022-05-09 06:57:21 | 歴史

 細川家の侍帳の一つに、「肥後入国宿割帳」というものがある。先に書いたように家臣団の入国は色々な様態である。
家族は原則後からやってきたようだ。長洲あたりから舟に乗り小島へ上陸したと記すものがあり、それから坪井川を上ってきたのだろうか。
屋敷割はいつの時点で完了していたのか、史料が少なく定かではないが、有力家臣は家族ともども年内にそれぞれの屋敷に入居したものと思われる。
正月の御規式は謡初めなどは例年の如く行われているから、遅い人は「宿先」から登城したという人もあったかもしれない。
有力家臣については「綿考集録‐巻34・出水叢書p341」に記事がある。


  扨早速より御城下御廻り被成、屋敷割等も被仰付、大小身共ニ相応之屋敷を追々ニ被下候、有吉頼母拝領三ノ丸之屋
  は前代並河志摩屋敷長岡監物拝領二ノ丸の屋敷ハ相田内匠屋敷ノ由

   ・考ニ一書、松井屋敷ハ加藤右馬允、有吉屋敷ハ森本左近屋敷なりしと云ハいふかし
   ・又一書、十二月十一日相田内匠屋敷を監物ニ被為拝領と有、然ニ同十二日監物より頼母・備前・伯耆ニ遣候書状ニ、
    家割夫々被仰付候、昨今方々御廻り被成、御覧被成候、定而ニ三日中ニ相究可申と存候、端々家被遣候衆も有之候
    へとも、各我々なとのハ未被仰出と有、左候へハ十一日ニ拝領との事いふかし、
    又松井・有吉も大方同時に拝領、其外も年内ニ被為拝領か、尤春ニ至屋敷割被遊、夫々拝領之様ニしるしたるもの
    有之相当へ共、右監物より三人江之書簡(略)を以考候ヘハ、何れニ被下候と被存候

  惣而前代より有之候家々大破候ニ付、いつれも追々作事等いとなミ候、扨松井ハ勿論有吉も先例之通城下之格ニ被仰付、
  下屋敷も京町・坪井ニ而被仰下、府中ニ蔵屋敷御免、河尻大渡口ニ而舟屋敷をも被下候、
  或時忠利君京町之の要害御巡見被成、頼母佐下屋敷割等御覧之上御意被成候ハ、此口ハ薩摩より豊前街道の物口なり、
  西ニ大身の者を置へし(沢村大学?)、東方ハ其方(有吉)下屋敷なる間、人之知たる葛西惣右衛門を置候へと被仰候、
  則惣右衛門被召出、物口なる間其心得いたし候へとの御意有之、屋敷の繩御差図ニて御はらせ被成候故、今以子孫此や
  しきに居申候、右惣右衛門ハ三斎君御代より御懇意の者ニて、度々御前ニ被召出、御鷹野なとニも数度被召列、江戸御
  在府の砌ハ、惣右衛門よりも自身の使者差上御機嫌奉伺、八代ニ而も折々被召候て御時服なとをも被為拝領、毎歳献上

  物をも仕候故御書も数通頂戴、今以伝来仕候、忠利君も惣右衛門門前御通り被成候節ハ、御目見ニ罷出候を御籠脇ニ被
  召、御物語なと被遊、遠方迄被召連候事度々有之と也(以下略)


 

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