『逝きし世の面影』
渡辺京二、2005、『逝きし世の面影』、平凡社(ライブラリー)(初版は、1998年葦書房より刊行、1999年度和辻哲郎文化賞)
江戸末から明治にかけて(ほぼ19世紀と見てよいだろう)の日本における「文化」は変容しつつのこったが、当時の「文明」は残らなかったとして、消え去った文明を、訪日あるいは在日の欧米人の見聞の記録(日記、滞在記など)をもとに再構成を試みたのが本書である。
欧米人の残した記録は、「オリエンタリズム」であって、欧米の視点でとらえられており、当時の日本の様子を正確に記録したものではないとの見方が従来であったろうが、著者はそのような視点はとらない。当時の欧米にしても、18世紀からの産業革命期のもとでの労働観の変化や都市化の進行など、急速な社会文化の変容が起こった時期でもあり、そうした変革期にある欧米人の見た日本には「オリエンタリズム」ではない視点が含まれるはずであるというのである。
考えてみると、むしろ、明治期以降の日本の教育制度の中における江戸以前に関する歴史教育自体がオリエンタリズムそのものではなかったか。すなわち、近代志向の明治維新以降の殖産興業は江戸以前の歴史を、古く捨て去ったものとしてとらえ、封建遺制のもとに庶民の自由はないといった捉え方ではなかったのか。戦後教育から、愛国心教育への方針転換もまた、この文脈に乗ってはいないか。すなわち、つまりは、いわゆる近代国家としての明治国家への回帰にすぎず、やはり、江戸期以前の日本はやはり見失われていると。
失われた「文明」がもどりはしないことはたしかなことであるが、それでもなお、その日その日を生きていた江戸の(あるいは、明治初期の)人々の素朴な心情を憶い起こすことは、決して悪いことではないだろう。
そして、今もなおその心根の断片がそこここに残っていることを見いだすことができよう。たとえば、神戸震災における人々の淡々とした、従順な(ある意味、諦観に満ちたというべきか)態度は。そして、その後の各地における震災への被災者やボランティアの人々の態度を。これらこそ、「逝きし面影」の断片ではないのか。
あるいはまた、2チャンネルなどのネットに見られる節操のなさというのも、また、最近のえげつない犯罪のことなども、ポストモダンな社会問題としてとらえることもひとつの見方ではあるが、ひょっとして、本書でも触れられる「弥次喜多」の発端の物語のえげつなさにみるわれらの「逝きし面影」のひとつやも知れぬ。
このように考えてくると、近代と前近代、モダンとポストモダンといった二分法ではなくむしろ重層的に思想的な流れをとらえることもまた、新たな見いだしとなるかもしれない.そういった意味でも、本書は大変読み応えがあった。
本書は大部で一気に読み通すにはいささか苦痛ではあるが、その断片を一章一章を読み進めることでもよいと思う。
江戸末から明治にかけて(ほぼ19世紀と見てよいだろう)の日本における「文化」は変容しつつのこったが、当時の「文明」は残らなかったとして、消え去った文明を、訪日あるいは在日の欧米人の見聞の記録(日記、滞在記など)をもとに再構成を試みたのが本書である。
欧米人の残した記録は、「オリエンタリズム」であって、欧米の視点でとらえられており、当時の日本の様子を正確に記録したものではないとの見方が従来であったろうが、著者はそのような視点はとらない。当時の欧米にしても、18世紀からの産業革命期のもとでの労働観の変化や都市化の進行など、急速な社会文化の変容が起こった時期でもあり、そうした変革期にある欧米人の見た日本には「オリエンタリズム」ではない視点が含まれるはずであるというのである。
考えてみると、むしろ、明治期以降の日本の教育制度の中における江戸以前に関する歴史教育自体がオリエンタリズムそのものではなかったか。すなわち、近代志向の明治維新以降の殖産興業は江戸以前の歴史を、古く捨て去ったものとしてとらえ、封建遺制のもとに庶民の自由はないといった捉え方ではなかったのか。戦後教育から、愛国心教育への方針転換もまた、この文脈に乗ってはいないか。すなわち、つまりは、いわゆる近代国家としての明治国家への回帰にすぎず、やはり、江戸期以前の日本はやはり見失われていると。
失われた「文明」がもどりはしないことはたしかなことであるが、それでもなお、その日その日を生きていた江戸の(あるいは、明治初期の)人々の素朴な心情を憶い起こすことは、決して悪いことではないだろう。
そして、今もなおその心根の断片がそこここに残っていることを見いだすことができよう。たとえば、神戸震災における人々の淡々とした、従順な(ある意味、諦観に満ちたというべきか)態度は。そして、その後の各地における震災への被災者やボランティアの人々の態度を。これらこそ、「逝きし面影」の断片ではないのか。
あるいはまた、2チャンネルなどのネットに見られる節操のなさというのも、また、最近のえげつない犯罪のことなども、ポストモダンな社会問題としてとらえることもひとつの見方ではあるが、ひょっとして、本書でも触れられる「弥次喜多」の発端の物語のえげつなさにみるわれらの「逝きし面影」のひとつやも知れぬ。
このように考えてくると、近代と前近代、モダンとポストモダンといった二分法ではなくむしろ重層的に思想的な流れをとらえることもまた、新たな見いだしとなるかもしれない.そういった意味でも、本書は大変読み応えがあった。
本書は大部で一気に読み通すにはいささか苦痛ではあるが、その断片を一章一章を読み進めることでもよいと思う。
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