浮浪児のモモはある町の郊外の円形劇場跡に住み着く。そこには友人の観光ガイドのジジや掃除人のペッポ、子どもたちがやってきては、モモのお話を聴き、彼女の作る架空の世界で遊ぶ日々。前半はそうした牧歌的な様子が描かれるが、やがて、灰色の男と呼ばれる時間泥棒たちが、時間貯蓄銀行に時間を預けるように人びとを勧誘し、人びとは忙しく働く様になる。子どもたちは決まった時間を学校に通い宿題に追われる日々を過ごすようになっていく。現代社会の忙しさの寓話としてのモモの物語だ。
灰色の男たちは、モモが彼らの仕事の障害である事に気が付き、モモを追うが、モモはカシオペイアと言うなのカメに助けられて、時間の国にやってきて、主のマイスター・ホラと出会う。モモは、マイスター・ホラから時間について学ぶ。楽しく一日を過ごし、眠るが、目覚めたところは再び円形劇場跡だった。ホコリが溜まり、荒れ果てている。友人たちがやってくるのを待つが誰もやって来ない。机の上にはほこりをかぶったジジからの手紙を見つける。お腹が減ったら居酒屋のニノのところで食べるようにと。すべてつけでジジが払うと。実はモモがいなくなって1年が経っていた(時間の国の1日)。その間、ジジやペッポはモモを探すが、灰色の男のアドバイスで二人は忙しく仕事をするようになっていた。円形劇場跡に来る時間などなかったのだ。子どもたちも同様だった。ニノの店でモモはニノに再会するが、勘定係のニノはろくろくモモと話す時間もない。
灰色の男たちはモモに時間の国に案内させることにする。マイスター・ホラと再会するが、かれは、時間を守るにはモモの力が必要だという。かれは、時間の管理人として眠ることはないが一度眠ると時間は止まるという。時間が止まるとすべての運動は停止するという。灰色の男たちは時間を葉巻にして吸っている間は動くことができるが、葉巻のストックを必要とするので、時間を蓄えている場所(時間貯蓄銀行)にあわてて戻るはずだからその後を追って、時間を蓄えている金庫を開放する「時間の花」をモモに託して、マイスター・ホラは眠りに落ちる。
モモはカシオペイアの助けを借りながら、灰色の男たちが目指す時間貯蓄銀行に向かう。工事現場の大きな穴の中に灰色の男たちが入ってゆく。灰色の男たちは、彼らを動かすことにできる葉巻(時間)を節約するために、奇数偶数に灰色の男たちを分け、半分ずつ消滅させて延命を図ろうとする。やがて、二人の灰色の男が残ったとき、モモは金庫の扉に時間の花をふれて、時間を金庫から解放する。灰色の男もこのときに消滅してしまう。そして、人びとは以前のようにゆったりとすぎる時間をすごすようになったという物語。
著者のミヒャエル・エンデは、この物語の中で寓話的な時間のあり方について描いてみせたのだが、残念ながら、現代社会はエンデの危惧のように時間に追われて日々を送っている。子どもたちは学校に、宿題に、塾に、そして、遊びもリアルな遊び場所ではなく、ゲームといった架空の世界に代わってきてしまった。たしかに、モモが友人のジジやペッポ、子どもたちと遊ぶのは物語世界なのだが、それは、想像の世界で自ら物語として紡ぎ出して来る世界で遊ぶのだ。現代のゲーム世界のように与えられた世界ではなく、創造された世界の中なのだ。大人たちも、時間に追われて働いている。コロナ禍にあって、在宅勤務を余儀なくされた人びとも、たしかに勤務の場所を変えることはできるが、勤務時間を変えることはできず、顧客とのアポイントメントや会議は時間に縛られている。
では、どうすればよいのか、エンデは答えを残してはいないが、人びとに気づきをもたらすことは可能だろう。自分たちがいかに、時間に追われているのかを気づくことを。そして、少しでも自分の時間を取り戻すことができるとよいのだが。
ちなみにエンデは、ファンタジーの世界だけでなく、経済のシステムについてもアイデアを残している。たとえば、地域通貨だ。地域通貨は様々な形に姿を変えて現代社会では大きく浸透しつつあることは事実だろう。例えば、各種のポイントやあるいはビットコインなどもその一つかもしれない。とはいえ、現行の通貨との連携なくしてはこれらは受け入れられない。エンデの言う地域通貨はひょっとして違うかもしれない。モモの物語に当てはめて言えばたとえば、語りそのものの価値、これを共有する共同体といったものだ。だから、モモの物語は、時間について語られているが、共有される価値の重要性の物語でもあるのではないだろうか。