川添橋を渡り、田布施川の左岸堤防をどんどん下ると川尻に着きました。その川尻に小さなお地蔵様があります。文字らしいものが刻んであるのですが、今はもう判別できないほど風化が進んでいます。このお地蔵様は川尻地区の方々が交代で世話をしています。
川尻のお地蔵様 手水石が残る祠跡 灸川(左側)の河口
そのお地蔵様の向背部にはかつて祠がありました。しかし、今は手水石だけが残っています。その祠跡から10m位の場所に、灸川の河口があります。灸川と田布施川が合流するこの場所でよく魚が捕れました。私が子供の頃、お気に入りの場所でした。
平生新開のお地蔵様 熊高近くを流れる灸川 灸川傍の湧き水
江戸時代初め、田布施川はまだ無く灸川が大小の川を集める大河でした。今の倍以上の川幅だったのです。その頃の堤防跡を今でも見ることができます。当時、灸川を法寺坊まで船が上っていました。天神まで数百メートルの所まで船が来ていたのです。そして、当時の田布施波野地区の流通の一端を背負っていました。田布施川が完成後、灸川の水量が減ったため船が入れなくなりました。その時に運河である堀川が掘られ、そこを船が行き来するようになりました。船の舳先を回転させる船回しがあったそうです。
薬師川右岸の痕跡上にある道を歩く
田布施川から灸川の上流に向けて歩きました。そして、古代や中世の灸川を想像しながら歩き続けました。しばらく歩いて熊毛南高校前通りました。そして、湧き水が出る場所に出ました。この場所は田布施と平生の往還道です。平生から田布施に入る旅人は、ここで湧き水を飲んだのではないでしょうか。
薬師川の水を通す管 菅原天神をお参り 波野の旧街を通る
湧き水の場所から灸川にかかるコンクリート製の端を渡りました。ここから灸川に別れを告げて、かつての薬師川跡に入りました。川跡には水が流れていません。川が流れていた川幅20mの薬師川の痕跡だけが残っています。ちなみに、今の薬師川は堀川に流れ込んでおり、灸川には流れ込んでいません。その薬師川跡右岸の道を通りました。薬師川は波野の街に入ると単なる溝になっています。そして、その溝は蓋で覆われています。菅原天神をお参りして波野の街並みに入りました。
古代と中世の田布施の地形を知るコース
8月中旬にサツマイモのつる直しをしましたが、2ヶ月ぶりの今回、最後のつる直しをしました。2ヶ月何もしなかったため、すっかり雑草に覆われていました。特に畑南端のサツマイモ畑はイネ科雑草植物でびっしり覆われていました。足の踏み場も無いほどです。まずは、通れるようにイネ科雑草植物を踏み倒しました。
イネ科雑草植物を踏み倒す 南側に生えたイネ科雑草植物を刈り取り
そして、サツマイモ畝の南側に生えたイネ科雑草植物を刈り取りしました。最初チップソーで刈り取りしましたが、注意深く刈らないと巻き付いてしまいます。草刈機を止めるなどして巻き付いた草を外しました。あせればあせるほど草が巻き付き、なかなか刈り取りが進みません。そこで、紐式刃に交換しました。紐式刃は刈り取り速度はとても遅いものの、雑草を細かく裁断できます。
畑南端サツマイモ畝の雑草を刈り取り、すっきり
草刈りが終わった畑南端のサツマイモ畝ですが、思っていたよりサツマイモの葉が茂っていました。やはり日当たりが最高な場所なので、雑草の伸びに負けないように成長したのだと思います。収穫が楽しみです。
次に、畑中央のサツマイモ畝の草刈りをしました。こちらの畝はやや日当たりが悪いため、雑草もあまり生えていません。サツマイモもあまり成長していません。サツマイモを作りには、やはり日当たりは重要のようです。
雑草が少ない畑中央のサツマイモ畝 西側の雑草を刈り取り
畑中央のサツマイモ畝は簡単に草刈りを終えました。雑草が少ない分、サツマイモの成長もよくありません。畑中央のサツマイモ畝は収穫量が少ないことが予想されます。今回の草刈りで、サツマイモ掘りの準備は整いました。11月13日麻郷公民館祭りの一週間程度前に掘って寝かせ、祭りの前日に提出しようと思っています。果たして、良い形のサツマイモ100本を収穫できるでしょうか。
草刈りが終わり、つる直しが終わった畑中央のサツマイモ畝
いつもは大師堂や寺社などの史跡を巡るウォーキングをしています。しかし、10月は田布施町の古代や中世がどんな地形だったのか知るウォーキングにしました。今回その下見をしました。いつもは、下見をしてから案内ハガキを出すのですが、仕事などが忙しくて下見が後になりました。
古代、海だった頃の田布施(田布施川はまだ無い) 赤線は今回下見したコース
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よく古代田布施の中心部は海だったとの話を聞きます。そして、その海を干拓して今の田布施ができたとの話も聞きます。そこで、海がどの範囲にあったか、中世の田布施川跡はどこかなどを知るためのウォーキングとすることにしました。古代や中世の姿を思い浮かべる想像力が試されるウォーキングです。スタートしたのは田布施町交流館です。ここから田布施川の堤防沿いに川を下りました。
交流館に集合 流れ荒神様 火伏大権現
途中砂田でお地蔵様を見学しました。一つは流れ荒神様です。田布施川の工事中に見つかったお地蔵様とのこと。そして、もう一体は江戸時代に由来があると思われる火伏大権現です。このお地蔵様はとても立派です。おそらく江戸時代の田布施大火により安置されたのではないかと思われます。
葉がだいぶ落ちた田布施川堤防の桜
毎年8月24日に50人位の人が集まります。大恩寺のご住職様が弔いをされ、お接待もあります。砂田地区の方々が守るお地蔵様です。柳井市にもやはり江戸時代の大火を弔うため八十八体の火伏地蔵が安置されています。
南平和霊場一番のお大師像 田布施川から古代浮島を見て
お地蔵様を過ぎて、旧関戸橋に近づきました。すると、小さな農機具様納屋があります。ここには南平和霊場一番のお大師像が安置されています。道路工事のため、一時的にここに避難されているお大師像です。近々旧関戸橋左岸に建物が再建されるそうです。続いて、古代において島だった浮島を巡りました。そして、山崎原遺跡を遠望しながら古代浮島を一周しました。
お米の収穫まっさかりの田布施川沿いの田んぼ
今の田布施川は、定井手から中央橋を経由、さらに関戸橋を経由して八海にに向かって真っすぐ流れています。しかし戦国時代(1585年頃)、定井手から田布施川を掘削する工事が始まりました。そして、江戸時代(1687年頃)までに関戸橋付近まで掘られました。その頃、関戸橋から熊毛南高校方面に向かって川が流れていました。さらに江戸時代(1687年頃)の工事により八海まで田布施川が延長されたと推定されます。その川は、古川とも呼ばれていました。記録にもあります。そして、その古川は地番名として今に残っています。また、航空写真を見てもその痕跡がくっきり見えます。その古川跡を横目に見ながら、灸川河口に向かってさらに田布施川を下りました。
古代と中世の田布施の地形を知るコース
去年は9月に冬野菜の種まきをしました。しかし、今年は10月になってしまいました。小松菜はたくさん食べるため多く種を蒔きました。その他の小松菜,タアサイ,葉大根,チンゲンサイ,春菊は少な目に種を蒔きました。
今回種を蒔いた冬野菜 クワで畝を耕す レーキで畝を整形
秋の畑作業で残っているは、サツマイモの収穫,小麦の種まき、そして枝豆の収穫です。まずは、11月の初めの麻郷公民館祭に間に合わせるため、10月末にサツマイモを収穫する予定です。そして、枝豆収穫パーティーをする予定です。そして、11月末に小麦の種まきが終われば、秋の農作業は終わりとなります。
小松菜,小松菜,タアサイ,葉大根,チンゲンサイ,春菊を種まき
6月中旬に種を蒔いた硬質トウモロコシを収穫しました。種を蒔いた後、一度だけ根元の雑草を取りましたが、あとは放置していたトウモロコシ畑でした。農薬をいっさい使わなかったためトウモロコシの害虫アワノメイガが大発生しました。そのため、あまり収穫を見込めないと思っていました。冬の前にトウモロコシ畑を整理しなければなりません。ダメ元で実を収穫することにしました。
根元が雑草で覆われたトウモロコシ畑
予想通り、アワノメイガの食害によって何本かのトウモロコシが倒れていました。しかし、倒れなかったトウモロコシには茎一つに実が一つの割合であるではありませんか。全滅かと思っていたら、焼いたりコーンスープにして食べるだけの量は収穫できそうです。トウモロコシ畑を回って実を集めました。50本以上の実を収穫することができました。あれほど激しく害虫に食われたのに、これほど収穫できるとは。
害虫被害のないトウモロコシの実 50本以上の実をいったん天日乾燥
収穫した実は、一昨日の雨で湿っていました。そのた、数日間天日乾燥することにしました。試しに1本の皮を剥いでみました。すると、黄金のような実が並んでいました。これは美味しそうです。スイートコーンではないので、そのままでは食べられません。火であぶりながら軽く焦がすと、昔のトウモロコシの味が堪能できます。私が作っているトウモロコシは、昔の品種「甲州」に近いので、今お店で買うことができません。ある意味、贅沢品です。
並んだ黄金色の実、軽く焦がすと昔のトウモロコシの味
同級生を中心としたいつもの仲間たちが集まり談笑しました。私が子供の頃、何十年もの未来にこうして集まり談笑することになるとは思いもよりませんでした。美味しい手料理にお酒が少々入り、楽しい夕べが過ぎていきました。ありがたいことです。今後ともよろしくお願い致します。
長生きする理由の一つに、ふだん楽しく交流する仲間がいることが挙げられています。これはクリアしているように思います。もう一つの長生きする理由の一つに、ストレスがあまり無いことが挙げられています。今の私は、これが少々心配の種です。この春思いもかけず、やりがいはあるのですが結構面倒な仕事がいくつか舞い込んできました。来年になれば、これらの仕事に慣れてくるのではないかと思います。そうすれば、私の癒しの元である農作業ができるようになると思います。さてどうなることやら。
夕方、いつもの仲間と楽しいひと時
8日午後、山口博物館主催,田布施町協賛の史跡探訪ウォーキングがありました。一般客17名(田布施町8名,その他7名)、そしてスタッフを合わせて24名が参加しました。郷土館に13時集合です。ウォーキングする前に、郷土館2階の学習室と埋蔵物展示室で、山口大学の先生より古墳について講義がありました。
主催者挨拶と説明 埋蔵物展示室で講義 埋蔵物一つ一つの解説
40分程度の講義が終わると、実際の古墳を巡ることになりました。最初に行ったのは古墳初期に作られた国森古墳です。山口県内で今のところ一番古い方型古墳です。観音橋袂まで車で行き、そこから歩きました。国森古墳に着くと、葺石が一番最初に目につきました。この古墳は、大和朝廷が政権を確立する前の4世紀頃に作られたそうです。
木立の中にある国森古墳頂上部で解説を受ける
国森古墳の見学が終わると、次に石走山古墳に行きました。国森古墳は竪穴式のため石室はありません。しかし、古墳中期に作られた石走山古墳は石室がきれいに残っています。続いて、県内最大の石室がある後井古墳に行きました。石室内は大部屋に相当するぐらい広い空間に特徴があります。この頃になると、雨がパラパラと降ってきました。そのため、稲荷山古墳はスキップしました。
石走山古墳の石室開口部 後井古墳石室開口部 御蔵戸古墳への細道
後井古墳からは500m位、パラパラ降る雨の中を歩きました。そして、御蔵戸古墳に行きました。この古墳は、4年ほど前に来たことがある古墳です。その時に比べて草が刈ってあり古墳まで容易に行くことができました。しかし、この古墳は天井が傷んでおり、いつ倒壊してもおかしくないとのこと。御蔵戸古墳を出ると、すぐにワゴン車に乗って、田布施町郷土館に戻りました。雨の中、主催者の方々ありがとうございました。
今回史跡ウォーキングして回った古墳
1ヶ月ぶりの少年少女発明クラブでした。9月までは、発明工夫展への出品物の工作や、チャレンジコンテストのための工作、そして夢絵画展です。それらが終わって、10月は新たな工作です。従来ならば、一度指導員が集まって10月の工作は何をするのか検討します。しかし、今年は発明工夫展がとても忙しく、検討する時間がありませんでした。そのため、去年と同じ工作をしました。
長い板をどう分ける? 45cmごとに線を引く 協力して切断線を引く
前日、工作に使う長い板を購入しました。最初から切ってある板ではなく長い板です。子供達にノコギリを使ってもらうためあえて長い板にしました。子供達は硬い板ではノコギリなどの工具を使いこなせません。そのため、少々高価でしたが桐の板にしました。ノコギリを切る感覚と釘を打つ感覚を、桐の板で養えればと思いました。
切断する線を引き終わると、ノコギリを使って自分の板を切り出す
各班に長い板を配布しました。最初に子供達がする作業は、板にノコギリで切る線を引くことです。ものさしや差し金を使って線を引きます。線を引き終わると、いよいよノコギリで自分が使う板を切り出します。ノコギリを使わないと、自分が工作に使う板を切り出せません。
絵を先に書こうか釘を打とうか どんな絵を書こうかな
大人には簡単なノコギリは、今の子供達にはなかなか難しいようです。昔は風呂焚き用などに使う木材をノコギリで切ることは子供の仕事の一つでした。私が子供の頃、五右衛門風呂の湯を毎日沸かすことが仕事でした。毎日のように山に行っては、その日燃やす枯れ木を探すのが日課でした。しかし、今の子供達にはノコギリを使う機会は無いようです。
先に釘を打ってから絵 うまく釘が打てるかな 先に絵を書いてから釘
自分が工作する板を切り出した後、いよいよ工作本番です。最初に釘を打ってから絵を書いても良いし、最初に絵を書いてから釘を打ってもかまいません。子供達に任せました。今年は先に絵を書いてから釘を打つ子が多いようです。桐の板は白いので、絵を書くには最適です。また桐は木質が柔らかいので、釘も容易に打ったり抜いたりできます。
絵を書いた後、金槌を使ってどんどん釘を打つ
長い一生、金槌やベンチなどは必ず使います。金槌を使って釘を打ち、ペンチで釘を抜く経験をたくさんして欲しいと思います。今の世の中、使い捨ての世の中になってしまいました。それでも、金槌、ノコギリ、ベンチ、ドライバーなどの工具を使えることは、エコで経済的な生活につながると思います。さらには、自分で考え工夫できる自立した生活につながると思います。
3年生には難しい釘打ち 工具をどんどん使う 絵の上にどんどん釘打ち
7月にいただいて植え付けたフジバカマの苗、今年は花は咲かなくても根付けば良いぐらいに考えていました。そして、来年花が咲けばいいなぐらいに思っていました。ところが、小さなつぼみがたくさん付いていることに気が付きました。もうすぐ咲きそうです。元々は雑草であるフジバカマ、周りの雑草に負けないで背が伸びて、しかも花まで咲くとは思っていませんでした。この調子だと、来年はもっとたくさんの花が咲いて、蝶々のアサギマダラが蜜を吸いにやって来るかも知れません。
たくさんのつぼみが付いたフジバカマ
一方、フジバカマの隣に植えてある藍は今が花盛りです。花そのものはとても小さいのですが、たくさん咲くので遠くからでも目立ちます。タデ科なので、雑草のタデも今が花盛りです。雑草のタデも藍も、同じ色に同じ花の大きさです。そのため、遠くからはほとんど区別がつきません。数週間後に採種しようと思います。
小さな花が無数に付いた藍の花
田布施町郷土館も一息ついたので、合間を見ながら我家の畑や庭の草刈りを始めました。この夏はほとんど、草刈りらしい草刈りをしていませんでした。そのため、あちこちに雑草が生え放題です。まずは、広い畑の草刈りをしました。いつも使う草刈機でなく、ハンマーモアナイフで草を細かく砕きながら草刈りしました。
ハンマーモアナイフ 草刈り前の畑 草刈り後の畑
ハンマーモアナイフは、広くて凹凸がない畑の草刈りに適しています。草は細かく砕かれるため、耕耘する時に刈った草がロータリーに巻き付かないことが長所です。ただし、狭い畑や変形した畑の草刈りには向きません。そんな時は、草刈機を使います。さらに狭い場所や石の間などは鎌で草を刈ります。いろいろな道具を状況に合わせて使います。
ハンマーモアナイフで草刈りした畑、草が細かく砕かれる
田布施町郷土館では真空管関連の歴史展示をしています。そのオーディオコーナーに展示している手回し式蓄音機は、故障しており音が出ませんでした。ハンドルを回してもターンテーブルが回転しないのです。手で押すとゆっくりと回りますが、針を落とすと回転が止まってしまいます。今回、何とか音が出るように修理することにしました。
蓋を閉じた蓄音機 回らないターンテーブル 錆びついたネジを回す
この蓄音機を郷土館に寄贈していただいたFさんによると、100年位前から家にあったそうです。近年使ったことがないとのことです。私の見立てでは、調速器の潤滑油が固着して動かないのではないかと思いました。そのため、蓄音機を分解して油をさすことにしました。ところが、ネジが強力に錆びついていて、ドライバーで回しているとネジ山が壊れてしまいました。インパクトレンチでも良かったのですが、特殊なペンチを使ってネジを外しました。
調速器のネジ溝に油を吹き付ける、しばらくするとスムーズに回転
そして、蓄音機から機械式のメカニズムを取り外し、調速器のネジ溝にスプレー式の油を吹き付けました。そして、指で押すようにしながら回していると、自力でどんどん回転するようになりました。しばらく回したままにしておきました。これで故障は治りました。機械式のメカニズムを元のように納めました。
鉄針が納めてある小箱 新しい鉄針に交換
次に、針を新しい鉄針に交換しました。そして、蓄音機が本当に治ったのかハンドルをいっぱいに回しました。ノブをスタート位置にすると、うれしいことにターンテーブルが元気よく回りはじめました。そのターンテーブルの上に昔の古い78回転SPレコード盤を置きました。そして、ゆっくり針を落とすと音が聞こえてきました。それまで何の曲のレコードか分からなかったのですが、聞いたことがある戦前の軍歌のようです。軍歌以外にも何枚か古いSPレコード盤があったように思いますので、探して聞いてみようと思います。
ハンドルを回して、蓄音機内部のゼンマイを捲く
この展示会場で、蓄音機による音楽と現代のオーディオによる音楽を聴き比べていただこうと思います。そして、オーディオ装置とレコードの発展史を知っていただこうと思います。蓄音機が治って良かった!
雑音が少しあるものの、蓄音機から流れ出る音楽を鑑賞
郷土館で開催中の真空管関連展示会を手直ししていました。単に古いものを並べるのではなく、実際に動作させるように何とか工夫しています。例えば、戦前によく使われていた三球ラジオを実際に鳴らしています。田布施町は電波がとても弱いため、30mものアンテナ線を張りました。そのため、感度がやや弱い三球ラジオが良く鳴るのです。再生をかけると音がさらに大きくなります。
ラジオ放送がよく入る三球ラジオ、そしてエジソン電球と石油ランプ
そして、真空管開発の大元になった古い電球も光らせてみました。ただの古い電球ではなく、100年以上前のエジソン電球(復刻版)です。淡く温かみのある電球です。また、この電球が普及したため、消えていった石油ランプを隣に置きました。そして、手回し式の蓄音機も置きました。今のオーディオ装置と比較するためです。この貴重な蓄音機は、展示会直前にFさんより寄贈いただきました。ありがとうございました。
今回の展示会は、100年にわたる電化の歴史展のようにも思えます。
淡い光を発するエジソン電球(復刻版) 電蓄が発明される以前の手回し式蓄音機
今年も古代米アートの季節がやってきました。2年前と一昨年は写真展に出した写真が表彰され古代米をいただきました。去年は採点メンバーに加わらせていただきました。去年から写真のレベルがぐっと上がったように思いました。例えば、「花燃ゆ列車」通過に合わせた写真やドローンを使った写真など高度な写真がありました。
瀬戸地区の熊本応援古代米アート、電車からも見える
今年も写真を出そうかと思っているのですが、気に入った良い写真がありません。良い写真を撮影できなくても、田んぼに行って色づく古代米を見ていると心が和みます。今年の瀬戸地区古代米アートのテーマは熊本応援です。この瀬戸地区の古代米アートは新聞に取り上げられました。私は東京で古代米の一種赤米を栽培していたことがあります。また、それ以前にはいろいろな古代米を栽培していました。古代米アートを見るたび、栽培していた赤米を思い出します。
西田布施真殿の古代米アート
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西田布施真殿の古代米アートは、山村の農村風景ととてもマッチしていると思います。西田布施小学校と商工会議所横の古代米アートは道すがらよく見ます。今の時期、田布施のあちこちで稲刈りが始まっています。どの古代米アートもそろそろ刈り取りです。
郷土館には、すでに3枚の応募写真が届きました。今年はどんな古代米アート写真作品が出品されるでしょうか。楽しみです。
西田布施小学校の古代米アート 商工会議所横の古代米アート
2日、田布施町城南公民館で真空管アンプによるレコードコンサートがあるとのことで、数人と待ち合わせて聞きに行きました。偶然ですが、郷土館では真空管に関わる歴史展示をしています。郷土館は真空管そのものの歴史が主体ですが、真空管アンプもいくつか展示しています。なお、このレコードコンサートの主催者の一人は、私が中学高校時代の同級生T君です。中学高校時代、彼とはそれほど親しくはなかったのですが少しばかり覚えています。本人に声をかけて聞いてみると、高校3年時のクラスはC組だったそうです。私はE組でした。
田布施町の城南公民館 ビデオとオーディオ 開催にあたり主催者挨拶
開催の挨拶後、最初に幾多郎のシンセサイザー音楽が流れました。続いて「田布施の里山と鉄道」をテーマにした映像と音楽が流れました。映像と音楽がとてもマッチして良かったです。映像に出てきた田んぼは、つい先日ウォーキングで通った場所です。映像で出てきた梨の木も見ました。続いて、ジャズ、フォーク,歌謡曲など懐かしい音楽が次々に流れてきました。
レコードコンサートに参加されたたくさんの方々
昭和50年頃、日本全体はオーディオブームだったように記憶しています。私も音楽好きが講じてジャズの演奏をしていました。楽器はトロンボーンで、あるビッグバンドジャズバンドに所属していました。当然、音楽をすこしでも極めたいと思い、楽譜を読んだり、多くのレコードを聴きました。また、真空管アンプも作りました。残念ながら、ほとんどの真空管アンプは廃棄してしまいました。大げさですが、真空管は私の青春の一つでした。
あっと言う間のレコードコンサート2時間でした。本企画をされた方々、ありがとうございました。
映像コントロールPC 映像を映すスクリーン レコードをかける
しばらくぶりに雑穀を栽培している畑に行きました。すると、シコクビエはすっかり穂が茶色に染まって今が収穫時期でした。このところの雨でほとんどの穂は倒れていました。その穂をハサミで切りながら収穫しました。シコクビエは、稲のように一度に穂が成熟しません。そのため、11月頃まで一週間位ごとに何度も収穫し続けます。
穂が茶色に染まって収穫時期を迎えたシコクビエ
ところで、このところの雨続きでシコクビエの穂の一部が穂発芽していました。発芽した粒は、残念ながらもう食べることができません。穂発芽しなかった残りの穂は、十分に乾燥させることにしました。なお、稗(ヒエ)も収穫しました。穂がスズメなどの小鳥に少し食べられていました。
穂発芽したシコクビエの穂 小鳥に少しばかり食べられた稗の穂