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意味なんか知らないよと

2022年04月15日 | 読書
 この対談の結論は、題名にもあるように「人と人とはわかり合えない」ということ。考えてみれば、他人を1から100まで分かったとしたら気持ち悪くなるに違いない。だから、本質的にわかり合えないと同時に「わからないほうがうまくいく」というような心の向き方を持つことだろう。それで日常は進んでいく。


『「他人」の壁』(養老孟司×名越康文  SB新書)


 5年ほど前の対談だが、今読むとつくづくそうだと思う箇所があった。「極論すると、終わった後に飲み会がない勉強会って、無駄じゃないかとさえ思う」と語る名越氏。当然養老氏も賛成であり、わかるや気づくより「感覚を鍛えられる場に身を置いてみる」ことを強調する。流行らない「飲みニケーション」だ。


 自らの経験にも見事に当てはまっている。それは建て前と本音といった皮相的なことではなく、講座や勉強会で得られた知識や思考を取捨選択し、「身に落とす時間」だったような気がする。リモート等による場づくりでそうした面をカバーできるのか甚だ疑問だが、何かしらの工夫をと思うのは時代遅れだろうか。



 先日読んだ『子どもが消えゆく国』の内容を挙げるまでもなく、少子化の深刻さは論を俟たないが、その理由をずばりと養老氏は指摘していた。「(子どもという存在は)つまり自然です。都市化するということは、自然を排除することと同義です」。脳化社会の進行を止められなかった私たちに突きつけられた現実だ。


 この対談の後半で「『意味』で満たすことの恐ろしさ」が語られている。最近「意味を問うより、意味をつくる」といった言い方をした自分も反省させられる。意味がないことを怖いと感じる社会が進んでいて、それは自分の感覚が薄められ、抜け落ちていくことに疑問を持たないことだ。もっと、今ここに浸りきれ。