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桜と絵本と豆乳と

足を洗って踏み出す

2022年04月27日 | 読書
 早く目覚め、ベッドの中で開いた新聞に「新・地図のない旅」というタイトルで連載している記事を見つけた。この90歳を超え大作家が、四半世紀前に発刊したベストセラー『大河の一滴』を、今頃になって読む。それ以降の著書は何冊か目にしており、内容としては似通っているのだが、改めて考える点があった。




 この文章は「あとがき」に記された一節。この本で語られたように、発刊当時の90年代後半、もう既にこの国の凋落傾向が見え始め、今まさに行き詰まりの気配すら漂わせている。「あがきは、ひょっとして二十一世紀中つづくかもしれない」と著者が予見したことの真実味は、年々強くなる。では、どうすれば…。


 この著が書かれたきっかけは、敏腕編集者との会話にあったという。その折のエピソードが「古代中国の屈原の故事」である。通読して、やはり心に残ったのはその部分だ。世の中に絶望した義人屈原が、河のほとりで漁師と問答し、屈原の悩みを聞いた漁師は、こんな歌をうたいながら小舟で去っていくのである。

滄浪の水が清らかに澄んだときは
自分の冠のひもを洗えばよい
もし滄浪の水が濁ったときは
自分の足を洗えばよい


 「滄浪」とはその河の古称である。屈原の正直さ、ひたむきさは讃えられるべきだろう。しかしまた漁師の現実的な言葉にも、世を生きる真実がある。河は時に澄み、時に濁る。いや濁り続けているのかもしれない。それでも自分をよく見つめ、その時に出来ることを考え踏み出すしかない。荒れた草刈り場にあっても…。