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遠く「荒野」は見えているか

2022年09月20日 | 読書
 著者の本は2冊読んでいた。常に真剣で真っ向勝負を挑む、そんなイメージがある。TV等で観た印象も混じっているのかもしれない。この文庫も書名や表紙写真が示すように、まさしくそんな一冊だ。「はじめに」の見出しとして書かれた下の一文が全てを表しているし、人生を賭けてそれを全うしている姿が熱い。

読書とは「何が書かれている」ではなく「自分がどう感じるか」だ


『読書という荒野』(見城徹 幻冬舎文庫)




 著者は「自己検証」「自己嫌悪」「自己否定」の三つがなければ人間は進歩しないという信念を持ち、それを洗いざらい語っている。「僕は今でも、毎日のように自己嫌悪を繰り返している」と書き、他から見ると取るに足らない些末なエピソードを記している文章に感じ入った。「本物」しか相手にしない生き方である。


 「表現とは結局自己救済なのだから、自己救済の必要がない中途半端に生きている人の元には優れた表現は生まれない。」…この一節は著者が編集者として目を付けた様々な作家や芸能人らにそっくり当てはまる。曰く「圧倒的に持つ者と、圧倒的に持たざる者」。誰しも表現できる世の中だからこそ、核心に見える。


 自分の読書遍歴を振り返るに最初は愉しみから始まり、仕事上で欲した時期が結構あり、今また愉悦的な要素が強くなっている。「困難は読書でしか突破できない」と書く著者に見えている「荒野」からは、遠くかけ離れているだろう。しかし、最終的に「自己対話」が可能なメディアは本しかない、という諦念もある。


 面白いエピソードを一つ。著者が以前勤めていた某出版社で団鬼六の作品を出していた時のことで、こんな記述があった。「しかし(略)当時の▢川▢彦専務から『こんな品がないものを出すのは許さない』と団さんの作品の文庫化中止を言い渡された。」…今、五輪を巡って嫌疑がかかる話題の主の「品」はどうかな。