すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

はじめの参冊として

2023年01月10日 | 読書
 年初め、スローリーディングだ。

 『復路の哲学』(平川克美  夜間飛行)

 2017年に買い求めた時に読み一昨年に再読し、また書棚から取り出して読むことになった。今が「復路」であるとずっと意識してきたつもりだが、やはり自覚いや諦念というべきか、希薄な気がする。後は、その責任をとるしかないのだ。

 「まだまだ、観念の世界では右肩上がりの時代を生きている」…歴史的にこの国の没落30年以上前に始まっていた。その指摘を理解しながら、利己的な世界観に囚われた経済と政治が進む中で翻弄されていた心身。これをどうにか動かす。


 
 『愚者のうた』(柴田鉄郎  イズミヤ出版)

 町で長く議員を務められ、勇退した方が書かれた詩やエッセイ。直接的なつき合いはないが、よく見知った方々も登場している。最後の長編詩「ふるさとのうた」は、書かれた当時(おそらく1960年代)の町の状況を非常によくとらえていた。

 身辺雑記が多いが、その一つ一つは個々の「人」が背負ってきた歴史や思いが確かにあり、記されることの価値を見出す。「俺の人生の夢がいっぱいつまっている袋」と、背負ったザックの中身を問われて答えた孫の話のエピソードが輝く。


 『「待つ」ということ』(鷲田清一 角川選書)

 ベッドサイドに置いて少しずつ、行きつ戻りつ読んだ。消化できない部分は多いが、暗い「復路」をぼんやり照らすいくつかの言葉に出逢う。それらが次第に明るさを放つのを「待つ」。「待つことは、まず希望に支えられる」が出発点だ。

 「愛さないと見えないというものがやっぱりあるんじゃないですか」と、ある人類学者が年下の研究者たちに平然と言いきったエピソードが紹介されている。合理的、科学的そして効率的…様々な言い方で私たちは肝心のことを忘れてしまう。

三つ目を探して暮らす

2023年01月08日 | 雑記帳
 家族揃っての書初め。今年は少し遅れ七草の日となった。1年に一度イベント的に続けて写真も撮っている。十分に思案する時間はあったが、逆に余裕があり過ぎたためか、候補が浮かばなかった。硯で墨を擦りながら思いついたのが「参」



 珍しくはないが、自分自身のキーナンバーにしているのは「3」。行動や思考のためにも役立つように感じているし、「三」の大字としての参もよくないかと思った。いわば心構えとしての一字というより、機能としての一字という考えで…。


 書いてから改めて「参」を心掛けにできないかとぼんやり考え、辞典を調べてみる。字源として象形、会意の二つの説がある。しかしどちらも「三本のかんざし」は共通している。数字の三の意味を主に「あつまる・ふぞろい」が重なる。


 新明解国語辞典に面白い記述があった。参の意味の第一義として、こうあるのだ。「すでに二つ有る所へ、第三のものが加わる(を加える)」。語例として「参考・参照」が挙げられている。これは発想や行動に関して、一つの指針になろう。


 さらに「仲間として加わる」(参加・参与)。そして「そのつもりになって、そこへ行く」(参会、参戦など)という意味が記されている。かなり前向きであり、「参詣」などの語からわかるように「敬意を表すため」という精神も含まれている。


 こう書いてくると、「参考」や「参加」という語の捉え方も具体的になるし、心を込めて積極的に場を拡げる方向性が見えてくるようだ。なかなかいい字を選んだと自画自賛。ただし、「負ける」(降参)という意味もあることを忘れずにね…

自立も依存も現実だ

2023年01月06日 | 雑記帳
 今年の正月は…と書き出せば、まずは穏やかな天候に安堵の気持ちが湧く。全国的にみると大雪のところもあったようだが、我が横手盆地の方々にとっては過ごしやすかったろう。ちなみに昨年はごく普通に降ったし、一昨年はもう雪下ろしで「ヘロヘロ」と記していた。積雪172㎝とある。このままで…それは甘いか。


 箱根駅伝、今年は見応えがあった。デッドヒートが多かったからか。それにしても1区ではこの先どうなるかと思ったが、やはり収まる所に収まる。「最初で最後の」と冠言葉をつけられた選手が名門にも少なくなかった。そこで力が発揮できなかった者は、この時をどんな糧にしていくだろう。そんなことを考えた。


 駅伝を見つつ、ノートPCのメンテをする。確か6,7年前の購入。Windows10でcore i7なのだが動きが鈍く最近あまり使っていない。やはり東芝Dだからか…。その程度の知識なのでうまく活用できないのだ。それにしても以前のデータを見入ってしまい遅々と作業が捗らない。このPCは主人(笑)に似ているのだ。



 4日は初仕事。担当しているエントランス展示には「自立力」の語を掲げてみた。人間は一人では生きられない。その意味では実は「依存力」こそ生き抜く術のように思うが、それはあくまで自立の精神が下地にあるからこそではないか。子どもから高齢者まで意味合いは個によって異なっても、常に心しなければ…。


 同年代の元同僚が賀状に「日々『できない』ことが増えてきて、がっかりしています」と記していた。もちろん自分も着実に(笑)できないことが増すばかり。ただ、そんなにがっかりを意識しないのは、目前の物事に紛らわせているからか。現実から目を逸らしているわけではない。『復路の哲学』(平川克美)を読み直そう。

そのバランスってイツモ?

2023年01月02日 | 雑記帳
 依頼されている短い原稿を書き始めようとネタ探しをして、去年1月に書いていた読書メモを読んだ。『親子のための地震イツモノート』という防災関連本である。次の文章を引用していた。「地震が起こる可能性は、モシモではなくイツモ。イツモしていることが、モシモのときに役立つ」うん何事にも当てはまる。


 「いつも」を辞書で調べるが、意味は言うまでもない。日本語大辞典に「子見出し項目」と載っている慣用句が面白い。「いつも正月」は「年中楽しく暮らすさま。また、気楽なさまをいう」とある。「いつも月夜に米の飯」も想像できる。「年じゅう月夜と米の飯が続けば申し分ない」だ。幸福感の原型のようだ。


 イツモはモシモに通ずるという考えは非常に大切だ。漢字にすると「何時」となるが、書初めに選ぶ一字とすれば「」になるだろうか。もう少し辞書を読み進めてみる。「いつも」と「いつでも」の表現の違いも興味深い。習慣的な事柄について時間を均一化する「いつも」と、その時その時に視点を据える「いつでも」。


 そして「常に」は「恒常性に重点」と記されている。ううむ、「恒常性」か。そういえば「」は「つね」として名前にも多い。知り合いも複数いる。恒常性といえば、生物学用語なのか「ホメオスタシス」という語もあるではないか。バランスがいい、安定しているという意味にも通じる。「恒」にクローズアップ!!


 大漢和には会意文字で「月の弦のようにぴんと張りつめた心を示す」とある。ふさわしいではないか。ところが、改めて国語大辞典で「恒」をみると「易の六十四掛の一つ」つまり占いの字であり「雷風恒ともいう」を発見。「雷は風をよび、風は雷をよび、両者は互いに呼応してやまないさまから恒久の義」…えっえっ。



考えて、姿を立ち上げる

2023年01月01日 | 雑記帳
 元日のブログ更新をずっと続けていることに、我が事ながら少々驚いた。最近は「紅白」ネタが多く、しかも途中で寝て、翌朝に続きを見る老人的?な視聴をしているのに、勝手に評価めいたことを書き連ねている。結局「好き」なんだね。この手のことが…。いろいろ言われても大晦日の夜は、まだ紅白が風物詩だ。


 それにしても「初めて見た人・グループ」が三分の一ぐらい。高齢者の認知度としては平均的だろう。選考基準はあるはずだが公開されてはいないし、要は「視聴率」ということか。だから「後付け」で話題性のある者や大物(笑)などを引っ張ってきて、年齢高めの視聴者にも配慮するわけだ。とっくにわかっているよ!!


 と、「人生幸朗のボヤキ漫才」のような調子になってしまった。口が滑るままに悪態をつくと、ブラボーは出過ぎだし、往年の歌手らの選曲が今一つ良くない。大トリの福山ももっと相応しいのがあったろうに…。観て良かったのは加山雄三と桑田佳祐らのバンドだな。これは好みもあるが、時代の象徴として印象に残る



 さて、2023年。どんな心掛けで臨もうかと考えているが、まだもやっとしている。起きがけに手にしたのは『「待つ」ということ』(鷲田清一)だったが、朝風呂で小さく声を出して読んだのは幾度目かの『残酷人生論』(池田晶子)の序論の一部。読んで明るくなる一節ではないけれど、この著と向き合って12年が経つ。

 生き方がわからない、死に方がわからないと思い悩む人々よ、あなたは生きることの何を、死ぬことの何を、あらかじめ信じていたというのか。


 「あらかじめ信じていた」ことなどない。求めている何かとは、きっと自分が作り上げよう、重ねようと意図したことの中にしかない。考えを整理するばかりでは見えてこないかもしれない。偶然を装って舞い込むこともあろう。しかし考えねば、その姿は立ち上がらない。一瞬を見逃さぬように、目を凝らしていく。