2009年になりました。明けましておめでとうございます。不景気、経済危機で、おめでたいという気分でない方も多いと想像します。私も将来を考えると一寸先は闇なので、いろいろ考えると「めでたい」と手放しでにこにこしているわけではありませんが、暗い過去は過ぎ去り、暗い未来はまだ来ていないというわけで、とりあえず、今、こうしていることは「めでたい」といってもハズレではないと感じています。
「門松は冥土の度の一里塚、めでたくもあり、めでたくもなし」と、一休さんは言ったらしいですが、無事に新年まで生きることができて、しかもあの世という素晴らしい世界へ近づいていくことができるのですから、私にとっては、正月はめでたいです。正月に限らず、毎日、毎日、めでたいです。「めでたくもあり、めでたくもなし」と言った一休さんの本音も、「めでたくもない」といいながらも、こうしておせちを食べながら新春を祝えるのだから、本当は「めでたい」と思っていたのだろうと思います。けれども、底抜けにめでたいのではなくて、「年取るごとに、腰も痛いし、目も見えなくなる、いろいろ嫌なことも多いが、愚痴を言えるのも生きているからこそだな」、というような感じの「めでたさ」だと思うのです。だから、一休さんが正月からしゃれこうべを杖に乗せて、近所を回って、「本当は正月はめでたくはないのだぞ」などという嫌なことを言って、屠蘇気分に水を注したというような伝聞は、私はウソだと思うのです。そういう大人の振る舞いのできない人であれば、「いつも本音で言ってるのに、どうして、みんな自分を正直な立派な人だと思わないで、空気と漢字の読めないオタンコナスだと思っているんだろう」と首をかしげている誰かさんのように、一休さんの支持率はもっと低くなっている筈だからです。
そういうめでたい正月ですが、正月と言っても、何年も正月に正月らしいことはしていません。生来、普段の生活と違うことをすることに、抵抗を覚える上に、無精ものなのです。これは生きる智恵ともいえます。人間、急激な生活の変化は肉体的、精神的に健康に悪いものです。ですので、正月の新年の挨拶とかが済んだら、普段の日曜日と同じ調子です。年をとったので、アルコールは全く飲めなくなりましたし、食べるのも食べれなくなりました。正月だからといって、特別な楽しみがあるわけではありませんしね。小学校の宿題には書初めをしましょうとかいうのがあるそうです。善いアイデアですね。筆で字を書くというのは普段、キーボードしか叩かない人にとっては、新鮮な体験ではないでしょうか。私は、書道教室で幼少時にうけた心理的トラウマのせいで、筆ペンを見ただけで嫌な気持ちになってしまうタイプですが、昔の小説などで、硯にシコシコと墨を擦り、匂いを嗅いで、「ああ、いい墨だねー」とか言っているのを読んだりすると、書かなくても墨を摩るぐらいはしてみたいなと思ったりします。また、そのあたりを散歩している人が、ふと矢立てを取り出して、さらさらと、一句したためる様子とかを思うと、俳句が読めて、筆が使えたらカッコいいだろうなと思ったりします。
さて、新年といえば、New year’s resolutionです。去年の新年の抱負は、「生活向上」でした。去年の正月に、伝説の「生活向上委員会大管弦楽団(略して、生向委)」の名曲についての思い出をブログに書いたので、覚えているのです。この不景気で、一般の人は生活レベルが落ちた人も多かったのではないかと思います。我が家では食パンのグレードが一ランク下がりましたが、一方では、テレビを買い替えました。それぐらいですかね。悪くはならなかったのでヨシです。 夢や目標というのは自然と心のうちにあって、それを明言するのが新年の抱負なのですが、今年の抱負はとくに「なし」ということで行きたいと思います。「よい研究をして、面白い論文を書き、無事、グラントを取りたい」と毎日思っていますから、これは多分、何か外部からの変化がない限り変わりないと思います。研究など、いくら頑張って努力しても、出ないときは出ないので、それは仕様がありません。去年までは、石にかじりついてでも頑張るぞという気持ちがありましたが、今年は、もうちょっと、肩の力が抜けていますし、経験上、石にかじりつかねばならぬ程に追いつめられたら、良い結果はまず絶対でないことは十分、分かっているので、なるだけストレスをためないように「平坦な」一年であることを心がけたいと思います。
皆様にとってもよい年となりますように。
追記。
先月、ネズミ年が終わる直前、ラットのES細胞がついに樹立されたとの報告が2つの研究室から出ました。FGF、MEK/ERK、Wntのシグナル系の阻害剤を使うことで成功したようです。これらのESにおけるシグナル系の重要さは最近明らかになってきて、それが、今回のラットでのES細胞樹立の鍵となったようです。これでラットでも遺伝子ノックアウトが可能になれば、生理学的な実験や、これまでのラットの変異ラインを使った遺伝的解析の幅が広がることと思われます。
「門松は冥土の度の一里塚、めでたくもあり、めでたくもなし」と、一休さんは言ったらしいですが、無事に新年まで生きることができて、しかもあの世という素晴らしい世界へ近づいていくことができるのですから、私にとっては、正月はめでたいです。正月に限らず、毎日、毎日、めでたいです。「めでたくもあり、めでたくもなし」と言った一休さんの本音も、「めでたくもない」といいながらも、こうしておせちを食べながら新春を祝えるのだから、本当は「めでたい」と思っていたのだろうと思います。けれども、底抜けにめでたいのではなくて、「年取るごとに、腰も痛いし、目も見えなくなる、いろいろ嫌なことも多いが、愚痴を言えるのも生きているからこそだな」、というような感じの「めでたさ」だと思うのです。だから、一休さんが正月からしゃれこうべを杖に乗せて、近所を回って、「本当は正月はめでたくはないのだぞ」などという嫌なことを言って、屠蘇気分に水を注したというような伝聞は、私はウソだと思うのです。そういう大人の振る舞いのできない人であれば、「いつも本音で言ってるのに、どうして、みんな自分を正直な立派な人だと思わないで、空気と漢字の読めないオタンコナスだと思っているんだろう」と首をかしげている誰かさんのように、一休さんの支持率はもっと低くなっている筈だからです。
そういうめでたい正月ですが、正月と言っても、何年も正月に正月らしいことはしていません。生来、普段の生活と違うことをすることに、抵抗を覚える上に、無精ものなのです。これは生きる智恵ともいえます。人間、急激な生活の変化は肉体的、精神的に健康に悪いものです。ですので、正月の新年の挨拶とかが済んだら、普段の日曜日と同じ調子です。年をとったので、アルコールは全く飲めなくなりましたし、食べるのも食べれなくなりました。正月だからといって、特別な楽しみがあるわけではありませんしね。小学校の宿題には書初めをしましょうとかいうのがあるそうです。善いアイデアですね。筆で字を書くというのは普段、キーボードしか叩かない人にとっては、新鮮な体験ではないでしょうか。私は、書道教室で幼少時にうけた心理的トラウマのせいで、筆ペンを見ただけで嫌な気持ちになってしまうタイプですが、昔の小説などで、硯にシコシコと墨を擦り、匂いを嗅いで、「ああ、いい墨だねー」とか言っているのを読んだりすると、書かなくても墨を摩るぐらいはしてみたいなと思ったりします。また、そのあたりを散歩している人が、ふと矢立てを取り出して、さらさらと、一句したためる様子とかを思うと、俳句が読めて、筆が使えたらカッコいいだろうなと思ったりします。
さて、新年といえば、New year’s resolutionです。去年の新年の抱負は、「生活向上」でした。去年の正月に、伝説の「生活向上委員会大管弦楽団(略して、生向委)」の名曲についての思い出をブログに書いたので、覚えているのです。この不景気で、一般の人は生活レベルが落ちた人も多かったのではないかと思います。我が家では食パンのグレードが一ランク下がりましたが、一方では、テレビを買い替えました。それぐらいですかね。悪くはならなかったのでヨシです。 夢や目標というのは自然と心のうちにあって、それを明言するのが新年の抱負なのですが、今年の抱負はとくに「なし」ということで行きたいと思います。「よい研究をして、面白い論文を書き、無事、グラントを取りたい」と毎日思っていますから、これは多分、何か外部からの変化がない限り変わりないと思います。研究など、いくら頑張って努力しても、出ないときは出ないので、それは仕様がありません。去年までは、石にかじりついてでも頑張るぞという気持ちがありましたが、今年は、もうちょっと、肩の力が抜けていますし、経験上、石にかじりつかねばならぬ程に追いつめられたら、良い結果はまず絶対でないことは十分、分かっているので、なるだけストレスをためないように「平坦な」一年であることを心がけたいと思います。
皆様にとってもよい年となりますように。
追記。
先月、ネズミ年が終わる直前、ラットのES細胞がついに樹立されたとの報告が2つの研究室から出ました。FGF、MEK/ERK、Wntのシグナル系の阻害剤を使うことで成功したようです。これらのESにおけるシグナル系の重要さは最近明らかになってきて、それが、今回のラットでのES細胞樹立の鍵となったようです。これでラットでも遺伝子ノックアウトが可能になれば、生理学的な実験や、これまでのラットの変異ラインを使った遺伝的解析の幅が広がることと思われます。