百醜千拙草

何とかやっています

参加者全員が最終結果に責任を

2009-01-27 | Weblog
ちょっと古くなってしまいましたが、相撲部屋でのしごきで若い力士が死亡するという事件があり、それに係った兄弟子が執行猶予つきの刑を受けることになったというニュースがありました。執行猶予つきということで、いずれも抗訴はしないとのことで、彼らが「罪を一生かけて償いたい」とも述べ、全面的に自らの非を認めているらしいことを知りました。しごきは親方の指示によって稽古場といういわば密室で行われたことを考えると、この兄弟子たちも加害者である一方、被害者でもあると私は思います。裁判長も、上下の厳しい相撲界で親方は絶対的権力を持っており、その指示に逆らうことは容易ではなかったと考えたようで、猶予つき実刑という形になったものと思います。この兄弟子たちも相撲界で頑張ろうという希望に燃えて入門したに違いありません。しかし、この部屋に入り、親方の指示に従ってしごきを加えた結果、相撲協会からは解雇され、裁判によって犯罪が確定していましました。自らの行為の結果とはいえ、若くして将来への夢を絶たれた上に罪人となってしまった彼らに、私は多少の同情を禁じ得ません。しごきのどこまでが親方の意図でどこまでが兄弟子たちの裁量であったのかわかりませんが、誰も殺そうと思ってやったのではないと思います。親方にすれば、少々、手荒なことを指示しても、兄弟子たちもまさか殺してしまうようなことはすまいという気持ちがあったでしょうし、兄弟子たちは兄弟子たちで、親方の指示に従ってしごきを加えているのだから、死ぬは死なないは自分たちが心配することではないと思っていたのではないかと想像します。兄弟子たちが裁判で全面的に罪を認めたということは、「親方の指示でやったのだから自分たちに責任はない」という言い訳が誠実なものでないということに自ら気づいたということを示しているのだと思います。人間は、他人に対して正当に力を行使する権利を与えられると、それを口実に本来、人として根本的にすべきでないようなことでも平気でするようになるものです。普段は普通の良識ある若者や父親である兵士が、一旦、戦場に置かれ、上官から「戦局を考えると、民間人の犠牲もやむを得ない」とでも言われたら、戦局がどうあれ、よろこび勇んで、民間人を殺し略奪するものです。つまり、多くの人間は、自分の行為の責任を誰かに正当に転嫁できるとなった瞬間、無責任な行動をとることに躊躇しなくなるということなのであろうと思います。イラクやスダーンやガザで犠牲になった多くの一般人は、そんな無責任な兵士たちによって殺されました。まして、血気盛んな若者が、親方から「存分にしごいてやれ」とでも言われたら、本当に手加減なしでやってしまうことになりかねないのは容易に想像できます。しかし、兄弟子たちは、自らの行為を振り返って反省し、「親方の責任になるのだから自分たちは無責任な行動をとっても許される」という理屈がただの詭弁に過ぎないことを理解したのであろうと思います。私は今回の判決はまず妥当なものであろうと思います。今回の事件では親方の責任が九割、親方が指導者として未熟過ぎたのが根本的な原因といえるでしょう。

 ところで、これと似た様な状況を実験的に作り出し、人の行動を研究したという話がしばらく前のニュースに出ていました。 Santa Clara UniversityのBurger博士の研究では、被験者は、俳優が演じる回答者がクイズに誤って答えたら、電気ショックをあたえるようにと指示されます。もちろん、被験者には、回答者が俳優で、電気ショックに苦しむのが演技であることは知らされていません。この実験は最初に1963年に行われ、その時、10人中8人は、回答者(俳優)が、強い苦しみを見せても、更に強い電気ショックを与えることに躊躇しなかったそうです。此のたびの同様の実験でも、大多数の男女が、自分が押す電気ショックのスイッチで回答者が強い苦痛を示しても、指示通りに電気ショックを押し続けたそうです。Burger博士は、被験者の人のこの反応に関して、「人はある種のプレッシャーの元におかれると、普段考えられないようなことをすることもある」と述べています。同様の実験を行ったSan博士は、「こういった具体的な指示に従って動くという条件下では、人の注意は目前の仕事に集中してしまい、その結果や意味まで考えなくなってしまう」と言っています。つまり、相撲部屋での稽古で、親方に「しごけ」と指示されたとすると、兄弟子たちは、その指示を遂行することばかりに注意を向けてしまい、その結果として重篤な問題を起こす可能性についての倫理的思考を停止してしまったのではないか、とも想像できます。上に述べたように、私はそれに加えて、他人を力で圧倒することに対する本能的快感というか、より端的には、弱いものいじめをする人間の根本的は意地悪さみたいなものが、加味されていると考えます。そうでなければ、兄弟子たちは、「親方の指示に従っただけで、自分たちは悪くはない」と思う筈で、裁判で示したような罪の意識を持たないであろうと思われるからです。

 こうした「正当な理由」のもとに、直接的に他人をいじめるという場合はやりすぎることに繋がって、しばしば重篤な結果を引き起こすことになりますが、それ以外の場合でも、上の方から具体的な指示を受けて行動する場合、人は「自分は命令に従って行動するだけなのだから、責任は自分ではなく、命令した方にある」という安心感をもって、思考停止を起こすことはよく見られます。つまり、「命令されたことだけやれば、あとはどうなろうと自分の知ったことではない」、という気楽な立場を確保した時点で、物事を深く考えることを止めて、気軽に勢いに乗って、「やっちゃえ、やっちゃえ」というノリで、重大な誤った決断を下したりするようになることが多々あります。
 昔、大学病院に救急部が出来たころ、救急部は急性期の治療だけをして後は病棟がやるという方針でした。(今は、どうか知りません)救急部ができる前は、急患を大学が受入れるときは最初から病棟にあげて、最初から主治医をつけて一貫した責任の中で医療が行われていました。急性期に自分がミスをするとそのつけは自分が払わなければなりませんから、最初から後々のことまで考えて初期治療に当たりました。救急部ができてからは、救急部は、とにかく24時間やれば、後は病棟が引き受けてくれるという無責任さで、とんでもない初期治療をされて手遅れになって病棟に上がってくる患者さんが増えました。救急部がなければもっとスムーズに治療できていた例が沢山出ました。できた当初の救急部というものは、患者さんにとっては、大学病院でもとりあえず見てもらえるということでしたが、長期的にみれば、救急部は各科からの寄りあった素人集団が短絡的な治療を行って、とりあえず24時間だけ心臓と呼吸は持たせるが、後の責任は病棟に丸投げする、という病棟からすると(たぶん患者さんにとっても)迷惑な存在でした。
相撲部屋のしごきはこの大学の救急部を思い出させます。参加する個人の各々がその行為の最終結果に責任を持たないシステムは暴走するのです。親方は「すべて自分の責任である」と裁判で述べました。当たり前のことでも、後になって振り返えってからしか、わからないことはしばしばあります。親方のこの言葉は全く正しいのですが、事件が起きた時には、おそらく親方は、振り返って考えれば当然の、この考えを自覚することができなかったのでしょう。起こるべきでない事件でしたが、親方や兄弟子の心に出来たふとした隙を、悪魔は見逃さなかったのでした。
コメント
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