文科省の会議に着物を着て出席していた委員の人がいた、という話題だった昨日の「大隅典子の仙台通信」は、Think globally, act locallyという題で次のような事が書かれていました。
私は、逆にThink locallyな人が多くいることが、まずは必要ではないか、と思います。Globalに考えるということは、畢竟、世界と競争することになると思います。なぜなら、世界(つまりアメリカ)の方が競争原理で動いているからです。そういう世界に向かって、競争ではなく貢献したいと言うということは、「いいように利用して下さい」と言うことです。イラク戦争での無料のガソリンスタンドをやらされて、「世界平和に貢献した」と自画自賛する自民党を見れば、さすがに人の良い日本人も、ああはなりたくない、と思うでしょう。逆説的ではありますが、世界に貢献することは、真にLocalであるからこそ、そのGlobalな競争に巻き込まれずに済み、それゆえに、可能になるのではないかと思ったりします。例えば、日本のアニメや漫画です。これらは、何十年も前から純粋に日本の子供たちに向けて制作され、現在では日本特有の誇れる文化となりました。それらは、未だに日本の子供たちだけを見て制作されていると思います。そして、世界がそれを発見することになりました。もし、最初から世界のことを考えてアニメが作られていたら、ろくなものにはなっていなかっただろう、と予想するのは難しいことではありません。考え方はグローバルで、日本文化を大切にするというスタンスというのは、既に、グローバルがローカルを内包するいう「上下関係」が避け難く形成されてしまい、ローカルが常にグローバルの下位構造として位置づけられるということが避けられません。そういう考え方では、日本文化は常に、日本の外(つまりアメリカ)から見た日本文化としてしか捕えられないようになってしまうと思うのです。つまり、日本しか知らない日本人が日本文化そのものを生きるのとは違い、グローバルな考え方などというものがあると、外人観光客がそのエキゾティックさゆえに興味を覚えるのと同様の、テンプラ、フジヤマ感覚なしに、日本の文化を見れなくなってしまうのではないかと危惧するのです。
現在、生物学の論文は主に英語で書かれますが、和文の学術雑誌がないわけではありません。しかし、皆が論文を和文で書いたのでは、読んでもらえないし評価が低くなるということで、よい論文を日本語で書くのを止めてしまった結果、日本語で書かれた論文も、それを載せる雑誌も、日本人からでさえ、高い評価を得られなくなってしまいました。そんな、"Global thinking" が広がる一昔前は、水産関係とある種の電気物理の世界最先端の論文は日本語で書かれて、日本の雑誌に掲載されており、外国人はその情報を得るために、わざわざ日本語を英語翻訳して読んでいたそうです。日本が電気工学で世界をリードしてきたの理由の一つは、そういった初期の重要な論文が日本語で書かれていたために、外国人が日本の技術レベルを見落としていたという話も聞いたことがあります。
また逆に、全部の知りたいことを英語で書いてもらえるアメリカがグローバルな考え方みたいなものを持っているかと問えば、おそらく否でしょう。世界の中心だと公言して憚らないアメリカは、アメリカローカルが即ちグローバル、という考え方でやっているでしょう。
真にユニークでそれ故に価値が高いものは、Localな市場や人に向けてLocalに考えるというところでしか、生まれないのではないかとさえ、思ったりします。例えば、「着物が好きなのは、それが日本人としての自分の何かに訴えるものがあるから」という理由であるべきあって、「着物が日本文化の一部であるから」みたいなスタンスでは、創造的なものは何も生まれないと思います。グローバルな考え方(とりもなおさず、アメリカローカルな考え方)というのは、後者のような見方を捨てることができないものだと私は思います。
(付記。私はプッチーニを敬愛しておりますが、マダムバタフライで、髷のカツラをつけた超重量級のプリマドンナが土俵入りするのは、ちょっといただけないと思います。これは、むしろ、「Think locally, act globally」の例でしょうか)
考え方はグローバルで、でも日本文化を大切にするというスタンスが好きです。
資源に乏しい日本が科学技術立国を目指す理由には、科学技術で世界をリードする、世界と戦う、という観点もあろうかと思いますが、それよりも、「科学技術で世界に貢献する」という考え方の方が好みです。
私は、逆にThink locallyな人が多くいることが、まずは必要ではないか、と思います。Globalに考えるということは、畢竟、世界と競争することになると思います。なぜなら、世界(つまりアメリカ)の方が競争原理で動いているからです。そういう世界に向かって、競争ではなく貢献したいと言うということは、「いいように利用して下さい」と言うことです。イラク戦争での無料のガソリンスタンドをやらされて、「世界平和に貢献した」と自画自賛する自民党を見れば、さすがに人の良い日本人も、ああはなりたくない、と思うでしょう。逆説的ではありますが、世界に貢献することは、真にLocalであるからこそ、そのGlobalな競争に巻き込まれずに済み、それゆえに、可能になるのではないかと思ったりします。例えば、日本のアニメや漫画です。これらは、何十年も前から純粋に日本の子供たちに向けて制作され、現在では日本特有の誇れる文化となりました。それらは、未だに日本の子供たちだけを見て制作されていると思います。そして、世界がそれを発見することになりました。もし、最初から世界のことを考えてアニメが作られていたら、ろくなものにはなっていなかっただろう、と予想するのは難しいことではありません。考え方はグローバルで、日本文化を大切にするというスタンスというのは、既に、グローバルがローカルを内包するいう「上下関係」が避け難く形成されてしまい、ローカルが常にグローバルの下位構造として位置づけられるということが避けられません。そういう考え方では、日本文化は常に、日本の外(つまりアメリカ)から見た日本文化としてしか捕えられないようになってしまうと思うのです。つまり、日本しか知らない日本人が日本文化そのものを生きるのとは違い、グローバルな考え方などというものがあると、外人観光客がそのエキゾティックさゆえに興味を覚えるのと同様の、テンプラ、フジヤマ感覚なしに、日本の文化を見れなくなってしまうのではないかと危惧するのです。
現在、生物学の論文は主に英語で書かれますが、和文の学術雑誌がないわけではありません。しかし、皆が論文を和文で書いたのでは、読んでもらえないし評価が低くなるということで、よい論文を日本語で書くのを止めてしまった結果、日本語で書かれた論文も、それを載せる雑誌も、日本人からでさえ、高い評価を得られなくなってしまいました。そんな、"Global thinking" が広がる一昔前は、水産関係とある種の電気物理の世界最先端の論文は日本語で書かれて、日本の雑誌に掲載されており、外国人はその情報を得るために、わざわざ日本語を英語翻訳して読んでいたそうです。日本が電気工学で世界をリードしてきたの理由の一つは、そういった初期の重要な論文が日本語で書かれていたために、外国人が日本の技術レベルを見落としていたという話も聞いたことがあります。
また逆に、全部の知りたいことを英語で書いてもらえるアメリカがグローバルな考え方みたいなものを持っているかと問えば、おそらく否でしょう。世界の中心だと公言して憚らないアメリカは、アメリカローカルが即ちグローバル、という考え方でやっているでしょう。
真にユニークでそれ故に価値が高いものは、Localな市場や人に向けてLocalに考えるというところでしか、生まれないのではないかとさえ、思ったりします。例えば、「着物が好きなのは、それが日本人としての自分の何かに訴えるものがあるから」という理由であるべきあって、「着物が日本文化の一部であるから」みたいなスタンスでは、創造的なものは何も生まれないと思います。グローバルな考え方(とりもなおさず、アメリカローカルな考え方)というのは、後者のような見方を捨てることができないものだと私は思います。
(付記。私はプッチーニを敬愛しておりますが、マダムバタフライで、髷のカツラをつけた超重量級のプリマドンナが土俵入りするのは、ちょっといただけないと思います。これは、むしろ、「Think locally, act globally」の例でしょうか)